クローズアップ現代

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2018年8月1日(水)
#あちこちのすずさん ~庶民がつづった戦争の記録~

#あちこちのすずさん ~庶民がつづった戦争の記録~

市井の人々が経験した“等身大の戦争”を描いた大ヒット映画「この世界の片隅に」。この名作が参考にした貴重な記録の第2弾がこの夏、半世紀ぶりに刊行される。雑誌「暮しの手帖」が編んだ「戦中・戦後の暮しの記録」。戦争を語る最後の機会を逃すまいと2300以上の体験記が寄せられた。空襲の下の青春、忘れられないあの食べ物、愛しいペットとの思い出…そこには映画の主人公“すずさん”と同じように、知恵とユーモアで力強く生き抜いた庶民の、「悲惨」の一言では切り取ることはできない経験が描かれている。“#あちこちのすずさん”の募集に応えて多数集まった視聴者からの体験記も交え、従来にない“戦争体験”を受け止めていく。

出演者

  • 片渕須直さん (映画監督)
  • 千原ジュニアさん (芸人)
  • 武田真一・田中泉 (キャスター)

#あちこちのすずさん 庶民がつづった戦争の記録

ゲスト 千原ジュニアさん(芸人)
ゲスト 片渕須直さん(映画監督)

朗読:千原ジュニアさん
“持ち出し禁止のパンを、家でゆっくり味わった後、遊ぶことができる。“空襲さまさま”だった。”

太平洋戦争から70年あまり。今、悲惨さだけではない、当時の庶民の日常を生き生きとつづった手記が注目され始めています。

千原ジュニアさん
「(戦時中は)地獄が広がっているという印象しか無かったんですけど、そういう側面だけじゃない部分もあんねんなって。」

「これが私の彼氏。“伊予郡のダンディー”っていう名前がついとった。」

空襲の下の恋。いとしい動物との日々。忘れられない、あの食べ物。

「ばあちゃんの話は悲壮感が何も無いから、聞いていたら、おかしくて、おかしくてしかたがない。」

そこから見えてきたのは、映画「この世界の片隅に」の主人公・すずさんのように、当時の若者たちが、前向きに、力強く毎日を生き抜いていたこと。いわば、全国のあちこちに“すずさん”はいたのです。

映画『この世界の片隅に』監督 片渕須直さん
「青春がやっぱり、そこにあったんだな。」

一人一人のすずさんが向き合った日々を見つめます。

武田:今日から8月ですね。まもなく終戦から73年になります。

田中:戦時中の普通の人々のありのままの暮らしを描いた「この世界の片隅に」。映画は今もロングラン中で、新作も作られています。その参考資料となったのが、人々の手記を集めたこちら、「戦争中の暮しの記録」です。1968年に初めて出版され、先週、50年ぶりに続編が出版されました。

戦争を生き抜いた人たちが高齢化する中、歴史の表舞台に出ないたくさんの“すずさんの体験”に、多くの人が心を動かされています。

武田:そんなエピソードの1つを、早速お聞きください。朗読はこの方です。

朗読:千原ジュニアさん
“連日の空襲で焼け出されるか、今夜は死ぬか、夫の留守を守る私は、母と2人の子供と悪戦苦闘の毎日でした。爆弾も焼夷弾(しょういだん)も落ちてこない安全な場所がほしいと思っているところへ「山を売るよ」という人。私も一口、乗ることにしました。自転車をこぎながら、懐にある財布50円入りを確かめたその時、見てしまったんです。農家の縁側に巨大なスイカ。横にキセルを手にした番人みたいなお爺さん。「スイカ売るの?」と私。「売ってもいいぜ。でも高いよ、35円」。闇値とはいえ、山の土地70坪分は高い。人の足元見て何よ!と思いながらも、買って帰れば子供も母もきっと大喜び。盛んに迷っていると「無理ならいいんだぜ。なんぼでも売れっからよ」の声に、私ははじかれたようにスイカを両手で押さえました。何年もの積み重ねが、たった1個のスイカで見事崩壊。私の馬鹿。「本当にこれ食べていいの」と子どもたちは大騒ぎです。いつも優しい母が、いつになく冷たい口調で「気でも狂ったの。戦地のお父ちゃんに申し訳ないと思わないの」と、それはえらい剣幕で怒りました。私もさまざまな想いがこみ上げて泣きくずれ、食べたスイカの味、わかりませんでした。”
“スイカ”「戦中・戦後の暮しの記録」(記録の手帖社)より

この女性の家族を訪ねました。
栃木県に住む、金井瞳さん。

金井さん一家にとって、スイカは特別な食べ物です。手記を書いたのは、亡くなった母・乙女さん。

子どもたちに、スイカはこう食べるようにと、口癖のように言っていました。

金井瞳さん
「もうかまわずにズルズルとすすりこんで、種もなにも食べちゃう。種は出しちゃいけないって。」
「(この食べ方は)邪道です。」

嫁 里沙さん
「いいんです、私は嫁だから。何回かはそうやって食べてたんですけれど、おいしくないです。」

ことあるごとにスイカを買ってきた乙女さん。しかし、本人はほとんど口にしなかったと言います。

息子 正彦さん
「本人は恐らく、スイカはあんまり好きじゃなかったと思います。」

武田:千原さん、お読みになって、いかがですか?

千原さん:なんていうんでしょう、もちろんね、皆さんがひもじい生活をしているという、苦しい生活をしているばっかりのお話をたくさん聞きますけれど、その中でちゃんと、こうやって膨大な金額でスイカを売っている悪いやつがいるというね。そこはあんまり聞かされてない話ですもんね。

武田:千原さんは、東日本大震災の被災者の方々から、厳しい日々の中にあっても笑えたというエピソードを取材された経験もありますけれど、こういった戦争中の話というのは、読んでみていかがでしたか?

千原さん:僕は本当に初めてでした。ただただ、本当に地獄しかないというふうに聞いていたので、もちろんそこには、そういう部分もあるんだろうなって、よくよく考えれば、そうなんでしょうね。

田中:VTRに出てきた乙女さん、実は戦時中に、父親と2人の息子を栄養状態が悪い中、亡くしていたんだそうです。このスイカの事件が起きたのは終戦の年の夏で、連日の空襲で家族の空腹もピークに達していた状況だったということなんです。

武田:映画制作のために、この時代の生活や風俗を徹底的に調べたという監督の片渕さん。
今のお話、どうお聞きになりました?

片渕さん:戦争中は、スイカは作付け禁止作物だったんですね。スイカを作るぐらいだったら、その畑でかぼちゃを作った方が主食の代わりになるから、それこそひもじい思いをするならば、スイカを作るよりもかぼちゃ作るべきだっていうことが、いろんな政府の方針になってたわけです。でもね、今のお話聞いて、ほとんど山1個分ぐらいのお金払ってでもスイカを食べたくなってしまうというのは、それより前の、普通だったころの日々のことをきっと思い出されたんだろうなと思うんですよね。

武田:私たちは、ツイッターで#あちこちのすずさんというのを設定しました。1週間ほどで1,000近くの投稿があったんですね。やっぱり食べ物についてのエピソードが多かったですね。

田中:ご紹介しましょう。
「母が子どものころの話。空襲で焼けた実家に戻ったら、お釜に水を張って入れていたお米が炊けていた」「ナタデココを食べた祖母が『懐かしい』と言った。『私は戦争のときに南の島に行っていたのよ』。詳しく聞いたら、戦時中に1年滞在していたらしい」。

千原さん:そのころに実際あったっていうことですか?

武田:当時、ナタデココがあったんですか?

片渕さん:フィリピンの食べ物ですよね。今のはトラック島の話ですね。

武田:最近の食べ物かと思っていましたけれど、やっぱり近いんですね。近く感じますね。
続いてのエピソードにいきたいと思います。次は、ペットの思い出です。

投稿したのは、金沢市に暮らす、毎田至子さん。

犬好きの毎田さん。きっかけは、戦時中に飼っていた1匹の犬です。

毎田至子さん
「うちにもいたんでね、軍用犬。これです。」

犬の名前は、アドヴィン。

今も、片時もその存在を忘れることはないといいます。

“戦争が始まってすぐ父は「わが家は女児ばかりで出征兵士を送ることはできぬから軍用犬を育てご奉公しよう」と言った。アドヴィンが我が家へきた。体高30センチの子犬だった。家族となったアドヴィンは、私達と同じ食べ物を喜んで食べてくれた。じゃがいも、さつまいも、かぼちゃなどの代用食が主だった。いつもおなかがすいていたので、何でもおいしかった。犬も同じだったと思う。
シェパードはドイツが原産。ドイツは同盟国だった。何といってもかっこよく、父はよくアドを連れて歩いた。私も時々お供した。アドヴィンはよく働いてくれた。主に稲運びの力になってもらった。粗食にも堪え、りりしい美しい姿となったアド。とうとうその時が来た。召集令状だ。兵隊さんがアドを見にこられ、合格したらしい。その日、母はどこで工面してきたのか、牛乳や牛肉を料理し、食べさせた。赤飯も少し炊いた。なぜかアドは残した。
別れの日、護国神社へ召集された犬たちが集まり、壮行会があるので行った。アドヴィンは兵隊さんと一緒にいた。おなかに日の丸の旗がまかれていた。犬たちが並び、記念撮影をした。ひいきめか、アドが一番立派に見えた。「この犬くんたちも内地で訓練し、その後、各戦場で働くことになります」。
「アドヴィンや、身体に気をつけてがんばれや」。父はほほずりし、なぜまくった。父のほほが光った。と、アドの目に光った水玉を見た。”
“愛犬アドヴィン号”「戦中・戦後の暮しの記録」(記録の手帖社)より

アドヴィンが戦地から帰ってくることはありませんでした。毎田さんは、あの日を昨日のことのように思い出すといいます。

毎田至子さん
「ここに並んだんです、犬。一匹の犬はね、逃げてってん。うちのアドは、ちゃんといたけどね。短い間やったのにね、本当に家族でした。時には弟、時にはお兄さん。そんな感じでした。本当に消息がもう70何年たってるから、もう無理だとは思うけれど、本当に知りたいです。」

武田:実は、こうして軍用犬が供出されたのは、こちらだけではないんですね。これは福岡県で撮影された写真なんですけれども、右側に「ロング号」という文字が見えますが、このロング号くんが出征するのを、町総出で見送った時の様子だそうです。

武田:千原さん、ペットも大変だったんですね。

千原さん:なんで赤飯残すねんというね。食べて行けよ、もう最後、ほんまに。でもなんか、例えばロングとかアドヴィンとか、そういう名前が付けられていたんですね。

武田:横文字だったんですね。

千原さん:太郎とか次郎とか、そんな感じなのかなと思いきや。

武田:戦時下のペットについては、こんな話もあります。

朗読:田中泉
“母が拾った猫を飼うことを許してくれた。私のごはんを分けてやることが約束。ミーコは大きくなったが時々、手足に切り傷をつけて帰ってくるようになった。ある日、手紙が首にくくりつけてあった。この時代に猫を飼うとはぜいたくです。もう少し太ったら、猫鍋にして食べようと楽しみにしていますと、書かれていた。”

武田:やっぱりペットを飼うのも厳しい時代だったんですね。

片渕さん:厳しいんですけれどね、でも、犬の話も猫の話も、飼っていらっしゃる気持ちはすごく優しいですよね。これは僕たちが映画を作る時に参考にさせていただいた14歳の、当時少女の女学生だった方が、その日に書いていた日記なんですね。

戦争中に描いていたものなんですけれど、これが絵日記で、中には、自分の家でも猫を飼っていたりとか、そういう絵がいっぱいあったりとか、あるいは猫の模様をかばんに刺しゅうかなんかしているんですよね。かわいいんですよ。そういうおしゃれしていったりとか、おしゃれする気持ちとか、猫とかかわいがりたいという気持ちっていうのをね、全然この当時と今と、これは、お花の柄ですよね。

なんかね、戦争中ってこんなことをしたら怒られるんだろうなって思いながら、でもやっぱりおしゃれしてしまいたいっていう気持ちとかね、猫かわいがってしまいたいという気持ちがあったんですね。

田中:当時の手記や今回寄せられたツイートには、空襲の体験談が目立ちました。実は、73年前の今日も空襲はありました。新潟県の長岡、そして富山、東京・八王子、水戸などが空襲を受け、多くの人が命を落としました。
次は、松山市のある家族で語り継がれている空襲のエピソードです。

朗読:千原ジュニアさん
“松山が燃えたのは、終戦の20日前です。夜中に空襲警報のサイレン。火を付けた蝋燭(ろうそく)の束のような焼夷弾が5つも6つも落ちてきて、一気に家が燃えていきました。私は、離れに寝かしたお祖父さんを助けようと庭に出ました。駆け寄ると、部屋の中は煙がまいて、お祖父さんの姿がおぼろげにしか見えません。お祖父さんは、自分で体を動かすことがままならないからどうすればいいのか。その時、お祖父さんが煙りの中から手を振るのが見えました。「みっちゃん、みっちゃん逃げておくれ」そう言いました。諦めきれない私がもう一度「一緒に逃げましょう」と言うと、お祖父さんは「みっちゃん、早う逃げておくれ」と、さらに手を振りました。「お祖父さん、すいません」と叫んで、涙を流しながら逃げました。
通りへ出ようとしたけれど、火が屏風を立て込んだように燃え盛っている。ここを抜けなければ死ぬ。空を見上げると、米兵が機銃掃射をしてくるのがはっきり見える。松山城のお堀の水に飛び込んで息を詰めました。機銃の弾が水に入って、ビシビシいう音が聞こえる。いつの間にか、飛行機が来るのが止んで、燃えている街が見えました。火の粉がキラキラキラキラ飛んで、火が街の形のままに燃え盛る。堀端に腰かけ、呆然と「ああ、美しい」って思いました。不謹慎だと思うけれど、あの風景は私が今まで見た中で一番きれいな風景です。”
“みちゃん、早よう”「戦中・戦後の暮しの記録」(記録の手帖社)より

武田:このエピソードを投稿した方を訪ねました。

宮内道子さん
「これが私の彼氏。この人“伊予郡のダンディー”っていう名前がついておった。」

松山市に暮らす、宮内道子さん、93歳。

空襲が美しかったというエピソードを道子さんが口にするようになったのは、終戦から50年たってのことでした。

宮内道子さん
「こう見ててね、家の形にず〜っと真っ赤に燃える。美しいなと思った。」

「『怖い』とか『悲しい』とかじゃなかったんですか?」

宮内道子さん
「怖いも、悲しいも追いつかんのですよ。もうそれが間に合わんのですよ。間に合わんで、みんな燃えてしもうて、もう、みんな燃えてしまって。」

都内の植物園に勤める、孫の元子さん。

祖母が語る「美しい」という言葉を、理解できなかったといいます。

孫 元子さん
「『私が人生で見た中で一番きれいなのは、空襲の日の夜の風景』って言うんですよ、真剣な顔をして。聞くたんびに『あぁ、そう、そう』としか言いようがなくて、『そりゃあ、見てみたいね』とも言えないし。どれだけ彼女の心の中にその風景が焼きついて離れないのか。」

一方で道子さんは、元子さんにあることを今も繰り返し言い続けています。

孫 元子さん
「祖母は私に対して、『きれいな物、いっぱい見なさい』『たくさん触りなさい』って言うんですね。私はそういうような美しい物を見たり、体験したりすることがやれる時代にいるのであれば、そういう選択をしていきたいなと毎回思います。」

武田:道子さんの「美しい」という思いの裏には何があるんでしょうね。

千原さん:先ほど言っていただいた被災地に行った時に、ある女性の方が、本当に真っ黒、真っ黒な町並みに雪が降っている姿を見て、全く同じ「本当に水墨画のようで、今まで見た景色の中で一番きれいだと感じた」と、話を聞いたことがあって。なんか本当に、本当に地獄にいると、スイッチを切り替えないとやっていけない、自分が保てないのかなって、ちょっと思いますよね。

田中:ツイッターでは、ほかにもこんな声が寄せられています。
「塾の先生の話。空襲に襲われて逃げていたところ、肥だめにはまってその中でやり過ごした。臭いけど、助かってよかったと家族で笑いあった」。

武田:片渕さんも、空襲のエピソードをたくさんお聞きになったと思いますけれど、どんなことをお感じになられました?

片渕さん:さっきの松山の空襲は、ちょうど海を挟んだところが、僕らの映画の舞台である広島県の呉市なんですね。そこで同じ空襲を見ていた方が、燃える火を見ながら「あぁ、本当だったら今ごろは遊園地で花火大会やってる、そういう時期なのにな」っておっしゃっていたのが、なんかすごく記憶に残っていて、すごく普通の日常の日々と全く違う、だからこそ美しいって感じてしまう非日常みたいなものが、そこで並べられてしまったんだろうなと思うんですよね。

武田:当時の人たちのこうした素顔や日常を語り継ぐことの意味を、千原さんはどういうふうにお感じになられますか?

千原さん:勝手に戦前、戦中、戦後みたいなふうに分けがちですけれど、ただただ普通にそこに生活があって、そこに戦争というものが落ちてきたのかなという気がしますね。

武田:そのことを、やっぱり私たちが今、かみ締めないといけないということですかね。
片渕さんは?

片渕さん:戦時中っていう時間の長さがあるんですけれど、その中にある空襲の日とかね、例えば原爆の日とかってあるんですけれど、でも、それ以外の日もあったんだな、そこに生きていた人たちの気持ちをやっぱりもっと知らないといけないなって思うんですよね。その中には、楽しいこととか、幸せなことも、苦しいことも、全部あったはずだなって思うんですよね。

武田:映画の中で、すずさんに対して「普通でお前はええの」っていうせりふがありますよね。

片渕さん:それはだから、その前の日々から全部、長い時間をその中で生きているってことなんじゃないかなって思いますね。

武田:全国のすずさんのエピソード、一日一日を普通に生き抜いていくことの尊さを、今の私たちに教えてくれる気がします。