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語り部クロス

クロストーク3

私の未来を歩む大先輩

【宮城】永沼 悠斗さん(28)
 × 
【長崎】築城 昭平さん(95)

対話:2022年11月5日

東日本大震災の語り部として活動する宮城県石巻市出身の永沼悠斗さん(28)。
「亡くなった方々の生きていた証しを残せるのは、私たちだけ。その生きた証しを世の中に残し続けるのが使命」
そう語る永沼さんはこれからも語り部を続けていく覚悟だ。その一方で将来、語り続けていくためにはどんなことが必要なのか、どんな課題があるのか知りたいと考えていました。
そんな永沼さんが対話を希望したのは、長崎市に住む被爆者の築城昭平さん(95)です。
長崎での被爆体験の語り部として長年活動してきた築城さんとの対話で得たものとは…。
語る内容は違っても、伝えたいという思いは同じ。
戦争や災害を各地で伝える語り部同士の対話の記録です。
(福島放送局 アナウンサー 武田健太/ディレクター 佐野風真)

PROFILE

永沼 悠斗さん(28)

永沼 悠斗さん(28)

宮城県石巻市在住。震災当時は高校1年生。大川小に通っていた小学2年生の弟、祖母、曾祖母を津波で亡くした。自分が生かされた意味を考えたときに、語り部として活動することを決意。2016年から本格的に活動している。現在も仕事をしながら活動を続け、これからも伝え続ける覚悟だ。

築城 昭平さん(95)

築城 昭平さん(95)

長崎県長崎市在住。1945年8月9日11時02分長崎に原子爆弾が投下され、当時18歳だった築城さんは爆心地から1.8キロで被爆した。命を落としてもおかしくない距離だったが、九死に一生を得た。1950年代から徐々に被爆の記憶を語り始め、今でも現役の語り部として県内外で語り部活動をしている。死ぬまで語り続けるという強い思いを持っている。

INDEX

  • 語り部の大先輩、“語り続ける”その思いとは?
  • はじめは語ることを許されなかった被爆の体験
  • 「伝えたい」という思いが原動力
  • 大先輩の言葉に見た自分の未来

1.語り部の大先輩、“語り続ける”その思いとは?

永沼永沼

こんにちは。はじめまして。
宮城県から来ました永沼と申します。
よろしくお願いします。

築城築城

よろしくお願いします。

出会い1

長年語り続けてきた大先輩である築城さんと対話の席につきました。築城さんは優しい表情と柔らかい語り口で、いつものように地図を用いながら永沼さんに被爆の記憶を語り始めました。

出会い2

築城築城

長崎師範学校という学校があったのですが、その横に寮があって、私は当時その寮で生活しておりました。戦争の終わりごろになると空襲やら何やらで、もう勉強なんかできない状態で工場に行っとったんです。昼勤と夜勤の2班に分かれて1週間交代で12時間労働をやっとったんですけれども。もうご飯なんてなかったんです。かぼちゃがチビっと。それだけで、あともう少し長く戦争が続いたら飢え死にしとったでしょうね。それでも「頑張らないかん」って歯を食いしばって苦しい中で働いておったんです。

永沼永沼

なるほど…

なるほど…

築城築城

原爆投下の前日、8月8日は夜勤やったんですね。夜勤で工場に夕方から行って。9日の朝を迎えて、そのまま帰ってきて寝とったんです。ところが、急にガガーッっていう音で叩き起こされて、体が飛ばされて、壁にぶつけられて。「しまったー!すぐ隣の部屋に爆弾が落ちた」と思ったの。立ち上がったら真っ暗でどこがどこやらわからん、そこからぼんやりどうしようどうしようとウロウロしとったら、隣に寝とった友達と目が合ったんです。1メートルぐらいのところに見えたもんだから「おー!」って言ったら、真っ赤になってるの。びっくりして「お前、やられとっぞー」って言うたら、友達も僕に「お前もやられとっぞー」って言うの。僕も真っ赤になっとったそうなんです。そう言われてみると、もう血が流れていることが分かりました。

永沼永沼

へぇ…

築城築城

それから、近所の人とも別れたっきりですけど、おそらくみんな一週間以内には死んでしまったと思います。もう本当に幽霊のようになっとったんです。人間の格好をしとるだけ。顔も何もめちゃめちゃ、僕はたまたま頭から布団を被ってて、それで助かったの。もし布団を被って寝ていなかったら、もう顔も何もめちゃめちゃになっとるだろうと思います。

被爆者である知人が亡くなっていく中でも、平和のために語り続ける覚悟の築城さん被爆者である知人が亡くなっていく中でも、平和のために語り続ける覚悟の築城さん

築城築城

今、僕ひとりなんですね。95歳で。できるだけみんなに話をすることで世界の人が原爆の悲惨さを知ったら、「核兵器を使う」「核兵器を持つ」ということが誤りであるということは世界的にわかってくると思うので。飛行機とかテレビとかを発明して楽しい生活、文化的な生活を送るようになっておるんだけれども、人間が人間を殺す道具までどんどん発達してしまったんですね。それをやっぱり人間の知恵で止めていけば、止めることができると思うんです。だから、僕は何とかして生きている間に世界中に話をして、原爆の本当の怖さっていうのをみんなが知ることによって、必ず地球から核兵器を無くすことができるということを信じております。

2.はじめは語ることを許されなかった被爆の体験

永沼永沼

ありがとうございました。
実際に、このお話をし始めたのはいつからなんですか?

築城築城

原爆で幽霊のようになった人たちを見た瞬間から「これはもう続けなきゃならん」「話をみんなにしなきゃならん」と思ったんですよ。ところが、戦争に負けて進駐軍が入って来たら、いわゆるプレスコード、“原爆のことは話しちゃならん”と言われて、「あ、そうか」と思って原爆の話はずっとしなかったの。

永沼永沼

しなかった?

築城築城

だから本当に「原爆の話をしなければいけない」と思いだしたのは、日本が独立してからですね。1952年ぐらいです。「僕らも実際に見たことを話さなきゃいけない」そう思ったんです。ただ、話す機会は最初からたくさんあるわけじゃない。だんだん修学旅行生から「話をしてくれんか」って言われてホテルとかで話をしとったんです。1980年代に「平和推進協会」ができてからは今のように組織的に語るようになった。

1980年代に「平和推進協会」ができてからは今のように組織的に語るようになった。

永沼永沼

被爆された当初から思いを持たれていたと思うんですけど、実際に来る方にお話しして、どう感じられてますか?

築城築城

子どもたちが主ですけれども、よく理解してくれます。「初めて聞きました」、「授業でも、こんな具体的な話は聞いていなかった」と積極的に理解してくれる。

3.「伝えたい」という思いが原動力

永沼永沼

私の話をすると、東日本大震災で被災したのが高校生のときなんです。私も普段、語り部をしています。震災から5年ぐらいしてから初めて話すようになって。私は曾祖母と祖母と、当時小学校2年生の弟を津波で亡くしたので“生きた証し”ではないですけど、伝えなければいけないっていうことを強く思って話し始めたんです。やっぱりこれから先の子どもたちに伝えていくというのは、私たちもすごく大事だと思ってるんですね。

築城築城

そうなんですよね。
やっぱり、語り部はしないと忘れられていくと思いますね、世間的に。

永沼永沼

それをもうすでにお話をずっとされてきたので、そこにどんな思いがあったのかっていうのをすごく今日は聞きたくて。実際この活動っていうのは核兵器が無くなるまでは終わらない?

築城築城

そうですね。

永沼永沼

続けるために大事なこととか、ずっと活動をされてきた中で大変なこととか、続けるのにつらいなと思ったことはありますか?

築城築城

ときどき、何回も話をしなきゃいけないときが出て、そのときはちょっとキツいなと思ったりしたんですけども、あんまりつらいという思いをしたことはなかった。

永沼永沼

やっぱり“伝えたい”という思いが?

築城築城

そうなんですね。

永沼永沼

なるほど。その思いの一心で、ずっとお話をされてこられたってことなんですね。すごいなぁ。今までどのぐらい話してこられたんですか?

築城築城

1,200回ぐらい。

永沼永沼

1,200回も!?へえ!
うわぁ…私も頑張ります。本当に。

1,200回も!?へえ!

4.大先輩の言葉に見た自分の未来

永沼永沼

私たちも、同じ宮城県で生まれ育った子どもたちの中で今、小学6年生の子どもたちは震災後に生まれた子たちなので、もう全然知らないんですね、地震だったり津波のことを。体験していない子どもたちに伝えるのはすごく難しく感じて。

築城築城

やっぱり、本当の気持ちになるまでが大変だと思います。そういう意味では難しいですね。

永沼永沼

本当に被爆をしていない、今、例えば、小学生だったり中学生の子どもたちが、話しをしたいと思ったときに話していいものなんですかね?

築城築城

やっぱり、やらなければ話が消えてしまうと思いますね。
もう永遠に、話してもらいたいと思います。

永沼永沼

今日、そのお話聞けて、私の未来を歩いておられるような感じがして、すごく勇気をもらいました。

永沼永沼

あと、英語でも講話をされてるって…。

築城築城

〔笑〕世界に話をしようと思うもんだから。

築城さんは少しでも多くの人たちに自分の言葉で伝えたいと90歳を過ぎてから英語の勉強を始め、発信するようになった。(留学生に被爆の記憶を伝える築城さん)築城さんは少しでも多くの人たちに自分の言葉で伝えたいと90歳を過ぎてから英語の勉強を始め、
発信するようになった。(留学生に被爆の記憶を伝える築城さん)

永沼永沼

いやぁ、すごいな。

築城築城

〔笑〕英語では少ないです、まだ。20回程度。

永沼永沼

でも20回。

築城築城

今朝も、英語で話してきました。

永沼永沼

えー、すごい。全て自分で英語に翻訳して伝えると?

築城築城

ええ。

永沼永沼

ほんと元気なうちというか、生きている限り伝え続けていこうと思ってるので、築城さんを目指して頑張ります。

築城築城

やっぱり、この話をしなくなったときに忘れられていくんだから、長生きされて永遠に話を続けていただきたいと思います。

永沼永沼

ありがとうございます。

写真6

クロストーク イラスト

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