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ぶっつけ本番の旅! 熊本・球磨川115km

  • 2022年10月06日

ぶっつけ本番の旅へ

熊本県の球磨川。全長115km、季節や場所ごとに多様な表情を見せる、日本三大急流の1つです。
でもおととし7月、水害が起こって、流域を中心に熊本県内で67人が亡くなる大きな被害を受けました。被災地では人口も減って報道も少なくなってきており、一部の道は地元住民や工事関係者以外の通行は規制されています。
人々の暮らしは、いま、どうなっているのか…?
その、ありのままの姿を伝えたいと思って、“ぶっつけ本番”の旅をしてみました。
河口の八代市から水源のある水上村まで。廣瀬雄大アナウンサーが、全長115キロある球磨川に沿って、出会った人に話をきいていきます。
(NHK福岡放送局ディレクター 清田翔太郎)
 

「やっぱり、地元がよか」 球磨川への思い

出発点は、八代市・坂本町。
旅をはじめてすぐ、畑仕事をしている今坂幸男さん・亀枝子さん夫妻と出会いました。

畑には落花生にサツマイモ…、幸男さんの両親から受け継いだ畑を大切に守っているそうです。
でも、おととしの水害で畑は全部、水に浸かってしまいました。

――水害に遭っても別の場所に移ったりは…。
「やっぱり、地元がよかです。浸かってもですね。やっぱり地元から離れたくない」

水害に遭っても離れたくない…。球磨川の魅力って、いったい何なんでしょうか?

それからしばらく歩き、今は使われていない段駅の近くで、農作業をしていた松嶋一実さんと出会いました。

――何を作っていたのですか?
「ブルーベリーを。2年前に畑が浸かってしまって…今年はブルーベリーを植えようかなと。まぁ、趣味です(笑)」

松嶋さんは、おととしの水害のことを丁寧に教えてくれました。

「川岸にアユを捕る船を置いとったんですよ。午前3時半ごろやったかな…みるみる水位が上がって、船は全部流されたですね。下流の方で引っかかって、バラバラになって…すごかったです」
――2年たって、川の状況は変わりましたか?
「いや、まだですね。土砂、泥がいっぱいたまってますし………でも、いいところもあるんですよ。本当、いい所ですよ、ここは」
――そうなんですか?
「うん。川も山もあるしですね。私たちみたいに、もう第一線を退いた者は本当楽しい所ですよ。いろんな遊びができますよね」

松嶋さんは、坂本町で地元の人と一緒に食処を開いているそうです。

「『食処さかもと鮎やな』っていう、地域で立ち上げて、地域の人たちを雇用して、食材は全部地域の地元産っていう場所です。本当は採算的には合わんのですけど、地元のお年寄りが働くのを楽しみにしているからですね。地域の活性化という意味でも、球磨川は大事なところですよ」

元には戻らない だから生まれ変わる

松嶋さんの勧めで、町の中心部・坂本駅周辺を歩きました。
するとバスの運転手から「道の駅に行ってみては?」と助言いただきました。

そこから5キロほど上流に進み、道の駅の物産館を訪れました。
(松嶋さん紹介の食処も道の駅にありますが、この日はお休みでした)。

駅長の道野真人さんに、物産館を案内してもらえることになりました。

――ここは地元のものは?
「少なくなりました。水害で様々な商品が流れてしまって。そして、一般車両通行止め区間ということで、観光客もなかなか来ない状態…。地元の方も皆さん、被災して自宅を公費解体されて、仮設住宅に行ってしまい戻って来られていません」

道野さんは、坂本町の現状を少しでも知ってもらおうと、できるだけ外販に行くようにしているそうです。

「おとといまでも熊本市内で外販をしていました。坂本の生産者のなりわいが続けられるようにと思って。品物を販売するだけじゃなくて、坂本の状況、道路状況も含めて、できるだけお伝えするようにはしています」

物産館の奥、被災したままの部屋を見せてもらいました。壁がはがされ柱がむき出しになっています。

「木造の建物なので、『もし濡れたままにすると建物全体がカビになって使えなくなる』とボランティアに教えてもらいました。あの時、コロナ禍で基本的には個人ボランティア・県外はNGでしたけど、支援団体が入ってくれました。本来だったら、カビだらけになって使えなくてプレハブでの再開だったと思うんですけど、ボランティアさんのおかげで元の建物を一部とはいえ仮復旧することができました」

道野さんにぜひ見てほしいものがあると紹介されました。
球磨川流域の巨大な地図です。

「今、われわれがいるところが、球磨川全体を見ると下流です。来館者に『これは被災地だけの問題じゃない』と伝えています。これから坂本町で行う治水対策は、流域で暮らす人たち全員で、将来を考えてもらいたいという一心からです。…無関心でいてほしくない。本当に、流域でも坂本で起きたことを知らない人が多いので、真剣に考えてもらいたいです」 
――道野さん、すごく強い思いを持っていますね。
「いろんな人たちの協力を得ながら、少しでも球磨川流域がいい環境に戻れるように…もしくは新しく生まれ変わるように、自分なりに取り組んでいきたいです」

地域の思いが詰まった「旅館再建」

道野さんに「鶴之湯旅館を訪れてほしい」と勧められ、やってきました。

昭和29年に建てられたという木造3階建ての旅館に到着しました。
4代目の土山大典さんが、館内を案内してくれました。

「水害の時、柱と大引きと根太以外、全部流されて何も残ってなかったんですよ。本当、骨組みだけです」

旅館は、1階の天井近くまで浸水したものの、ボランティアや坂本の人たちの力を借りて復活しました。その際、被災した自宅を解体する地元の人たちから、家具や建具を譲り受けたといいます。

被災した家の「門」を再生した「扉」

「1階にある建具は、被災されたとこから譲ってもらったものをこうやって利用させてもらいました。今回被災された所って、再建したくても再建できなかった人がたくさんいるんですね。旅館を再開するにあたって『坂本の物』で再建したかったので、一軒ずつお声がけさせていただいて、意味を持った再建を心がけました」

被災直後
修復後

復活まで、わずか1年4か月たらず。
土山さんの原動力は、いったい、何なのか・・・?

「自分、球磨川の恵みで生活してるので、あんまり…まあ、2年近く、大変は大変だったんですけど、うまくお付き合いをしていかないといけないなと」
――球磨川と?
「ええ。という思いがあるので。大きな雨が降って、旅館が被害に遭いましたけど、建物が残ったからいいんじゃないかなと。それに皆さんのおかげで、きれいな姿に再建することができましたので」

水害にあっても・・・ここは“桃源郷” 

「私は昔からここは桃源郷だったと思うんですよね」
球磨村・神瀬地区で出会った岩崎みづほさんの言葉がとても印象に残りました。

鶴之湯旅館の土山さんに勧められて尋ねたのは、球磨村の神瀬地区です。
災害前、およそ500人が暮らしていた神瀬地区。特に被害がひどかった中心部の住民3分の2は、いまも20キロ離れた仮設住宅などでの生活を強いられ、集落にほとんど人気はありません。

岩崎みづほさんは、地区唯一の保育園の園長。
神瀬の保育園は、水害の時、住民たちの避難所になっていました。地域が3日間孤立したものの、80人が身を寄せあいました。水道や電気が途絶えた中、「炊き出し班」や「災害復旧班」などに分かれて協力し、難を逃れたのです。

保育園での避難生活 写真提供:岩崎ちふみさん

――これ、避難所ですか? 遠足の平和な写真に見えますけど…
「電気がなかったので暗いですが、夜はろうそくですよ。だから皆さん、8時には静かに寝る……だけど、酒盛りしたい人は、こそっとこっちのお寺に来る(笑)」

大きなトラブルもなかったそうです。
理想的な避難所運営ができたのは、日ごろからの住民同士の信頼関係だったといいます。

「普段から、親が外出しても近所の人が、『子供を見といてあげるよ。行ってらっしゃい』『飲みに行ってらっしゃい』『留守だったから冷蔵庫にお刺し身入れといたからね食べてね』って。子育てするのにもいい所だと思っていました」

しかし、球磨川流域の復興方針が定まらない期間が長かったことで、村外へ移転する人が相次ぎました。水害の時、6人いた園児の家族全員が地域外に移転し、保育園は苦渋の末、廃園することになりました。

廃園が決まっている神瀬保育園

人口が激減するなか、『たとえ移転した人も心の故郷は神瀬であり続けてほしい』とみづほさんの息子・哲秀さんを中心に、住民同士の交流イベントが続けられています。

「(移転した人に)無理に『帰ってきてほしい』と言えば負担になると思うんですよね。だから、もう言わないでおこうと…今までと同じように、神瀬の良さを分かってくれるだけでいいと思うんですよね。被災して地区の風景は変わっても、昔、培ったものはなくならないですから。今後も元気で、皆さんが、どこに住んでも元気で明るく生活していただければなって願うばかりです」

「球磨川を悪者にしないで 恵みの川だから」

岩崎さんに球磨村の観光地として知られる鍾乳洞「球泉洞」に行くことを勧められました。その物産館で目に留まったのは、「球磨焼酎」…。
どこか蔵元に行けないかと尋ねると、人吉市の「大和一酒造元」を勧められました。

さっそく訪問して、代表の下田さんに案内してもらいました。

水害の時、蔵は3メートルの高さまで浸水し、タンクは横倒しになりました。
一升瓶・4万本分の原酒が流されてしまったといいます。

「大体うちの蔵にあった焼酎の原酒の8割は、流れてしまいました。ちょっと、つらかったですね。…でも、たくさんの人が応援に来てくれたので、何とか前に進むことができました。でも人が来てなかったら廃業しています。本当に」

窮地に陥ったものの、水害を逆手にとった、新たな焼酎造りを思いつきました。
焼酎造りには自然界に存在する酵母が使われています。水害で、蔵にあった酵母が流された代わりに、川から新しい酵母が運ばれてきたのではと考えたそうです。

「球磨川の氾濫で私たちは、中には命を奪われた方、うちみたいに財産を奪われた人間、いっぱい出て。球磨川がある意味、その瞬間、悪者になってしまったんですけど、僕らにとってはかけがえのない川で、本当は価値ある川なんですよね。その球磨川を悪者にはしないで、どうにかプラスの方向に持って行くことはできないかなと思って。水害の時に新たな酵母が川から運ばれてきたと考えて…、「球磨川」という名前の焼酎ができないかなと」

飲ませていただくと、その深い味に驚きました。
――本当にとろっとして、お米の甘みがすごい…後味がすごい香ばしい!おいしい!

被災した蔵は全面改装中。次の水害への備えも工夫しながら、生まれ変わろうとしていました。

「球磨川というのは、今回はたまたま大きな試練を僕らに与えましたけども、本来、人吉球磨地方というのは球磨川なしには成り立たない恵みの川ですので。球磨川の恵みを表現していきたいです」

築100年 母の思いが詰まった民宿

上流への移動はちょっと気分を変えて、「くま川鉄道」に乗ることにしました。

水害で被災したものの、去年11月、一部区間のみ復活したんです。
利用者の大半は高校生で、流域の人たちの欠かせない交通手段になっています。

終点の湯前駅に着き、水源のある水上村を尋ねます。
近くに『昔ながらの暮らしが体験できる民宿』があると知り、電話で場所を聞いて、その場所を目指しました。

球磨川の支流沿いで、民宿のオーナー・椎葉和子さんと出会いました。

――よかった、たどり着けて
「すごいところでしょう?」
――民宿は?
「これから山道を進みます。けっこう荒れていますけれど・・」

椎葉さんの車に乗せてもらい、10分ほどかけて、民宿へ向かいました。

ゴーヤなどを栽培する畑に囲まれ、見えてきたのは趣ある平屋の木造家屋。なんと、築100年だといいます。

山で農作業をするために建てられた家で、椎葉さんも、幼少期をここで過ごしたそうです。
どうしてここで民宿をはじめようと思ったのか…?

「なんせ民宿始めたのが、ここを無くしたくないっていうだけのことで始めたわけですから…」

母・ツカさんから、何度もこの土地を苦労して開拓してきた先祖の話を聞かされ続けた椎葉さん。そのツカさんも、今年8月に病気で亡くなりました。

母・ツカさん(享年95) 写真提供:椎葉和子さん

「母は最初、『民宿なんてとんでもない!』って言いましたね。ですけど、始めたら本当に一生懸命手伝ってくれたんですよ。うれしそうな顔して、お客さまとも、ようおしゃべりして、本当に楽しそうにしてくれていたんですね。亡くなったばっかりですけど、その姿は忘れませんね。…だから、本当に母のために・・できるだけ残しておきたいなと思います」

最後に椎葉さんにとって、ここがどんな場所なのか、改めて聞いてみました。

「もう本当に何もないところなんですけどね。だけど、私にとって、ここが一番ほっとする場所というかな。そういうところなんです」

何もないけど、ほっとする…いい言葉ですね!

球磨川の脅威と恵み、両方と向き合う、みなさんの覚悟を感じた旅でした。









 

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