九州・沖縄クロスポイント

2019年02月28日 (木)vol.6 土呂久と歩む ~宮崎 記録作家・川原一之さん~


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九州・沖縄ゆかりの人々のその後を「決定づけた」場所と時間を探り、その人の人生をたどるミニ人間ドキュメント「九州・沖縄クロスポイント」。今回は、宮崎県在住の記録作家・川原一之さん(71)に迫った。
九州有数の観光名所、高千穂の隣にある土呂久(とろく)集落。豊かな自然に恵まれ、酪農が盛んな場所だが、かつて住民たちは鉱山が原因で起きる公害病に悩まされてきた。皮膚や呼吸器に異常をもたらし、発がん性を高める「慢性ヒ素中毒」。土呂久ヒ素公害は、1973年、イタイイタイ病や水俣病などに続く4番目の公害病に認定された。
当時、朝日新聞の記者として取材に当たったのが川原さん。被害者の力になりたいと、被害の実情を記事にして伝えたが、やがて“転勤族”という障壁により、土呂久を離れることになる。被害者に寄り添えないもどかしさを抱いていた川原さん。数年後、再び土呂久を訪れる。そのとき再会した被害者の女性から温かい声をかけられたことが、人生を大きく変えることになった。「覚えていてくれたうれしさ。同時に、やっぱり土呂久の人たちのために、できることがあれば、やらなきゃいかん」。川原さんは、28歳で新聞記者のキャリアを捨て、記録作家として土呂久に留まることを決めた。
その後、鉱山会社を相手取った住民裁判の支援などを続けてきた川原さん。半世紀たったいまも、被害の実情を伝える本を出版するなど、土呂久に向き合い続けている。また、バングラデシュなどアジア地域で、慢性ヒ素中毒に苦しむ人々の支援も行ってきた。
川原さんの活動の原点と、人生をかけるに至った強い思いを伝えた。

■問い合わせ
▽特定非営利活動法人 アジアヒ素ネットワーク
電話:0985-20-2201

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【取材者のひとこと】
「命が続く限り、土呂久に関わっていきたい」。取材の終わりに川原さんが言った言葉がいまでも深く印象に残っています。
温和な空気の流れる宮崎県に公害があったという衝撃が私を取材に突き動かしました。そして出会ったのが川原さん。たったひと言が人生を変えるきっかけになったと聞いたときは少し驚きました。しかし、そのことばから、公害に立ち向かいたいという強い気持ちや、被害に苦しみながらも優しい気持ちを忘れない土呂久の人々の人間性にひかれたということを感じ取り、土呂久を「公害のあった地域」としか見ていなかった自分に恥ずかしさを覚えました。
川原さんは今後も、土呂久の人々の姿を伝えていきたいと言います。「やりたいことをやり遂げる」その強さに感銘を受ける取材でした。

投稿者:ロクいちスタッフ | 投稿時間:18時30分 | 固定リンク


2018年10月04日 (木)vol.5 ゴミへの挑戦~世界に広がる「福岡方式」~


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九州・沖縄ゆかりの人々のその後を「決定づけた」場所と時間を探り、その人の人生をたどるミニ人間ドキュメント「九州クロスポイント」。5回目は、福岡大学の名誉教授、松藤康司さん(70)に迫る。51年前、福岡大学薬学部に入学した松藤さん。卒業にあたり、長崎県五島列島の福江島にある総合病院で現場実習を行った。そこで出会ったのが、今からちょうど50年前に問題となった「カネミ油症」の患者たちだった。福江島では、原因となる食用油が多く流通し、被害が集中していたのだ。油症患者との出会いをきっかけに、公害に関心を持つようになった松藤さん。このまま薬の勉強を続けていくのか疑問を持っていたとき、教授から、当時確立されていなかったゴミの処分技術の開発プロジェクトに参加しないか誘われた。ひとり海辺で自分と向き合い、悩んだ松藤さんは、ゴミ問題に取り組むことを決意した。
それから半世紀。松藤さんが開発に携わったゴミの処分技術「福岡方式」は、自然の力を生かし、ゴミから出る水をきれいにするだけでなく、メタンガスの発生も抑制することから、世界中から評価されるようになった。松藤さんは、今では世界中を駆け回り、ゴミ処分場の開発の支援を行っている。リポートでは、松藤さんの半世紀を振り返り、その原点と公害、公衆衛生への思いを伝える。

■問い合わせ
▽福岡大学工学部 社会デザイン工学科 水理衛生工学実験室
電話:092-863-8238
▽NPO SWAN-Fukuoka 松藤康司
電話:092-862-3166

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 【取材者のひとこと】
「たまたまそこに生まれただけで」。松藤さんがインタビューで口にしていた言葉です。カネミ油症も、水俣病などの公害もたまたま食べてしまった、そこに住んでいただけで、何の罪もない人たちが被害にあっていた。松藤さんは、もし、自分がそこにいたら、自分もそうなっていたかも知れないと、他人事ではなく、自分事として考えていたのです。そして、それが、今、世界中を駆け回りながら出会うゴミ山で暮らす人々とも重なっているのではないかと思いました。ゴミの処分場の開発は、ただ、環境をよくするためではなく、そこに暮らす人々を苦しませる貧困問題にもつながり、まさにその地域に住む人々の生活を改善するための糸口ともなっているのです。だから、松藤さんは、70歳になり、福岡大学を退職した後も、止まることなく、世界各地に足を延ばしています。松藤さんの取材を通じて、私自身、自分にできることを改めて考えさせられました。このリポートが皆さんにとっても、別の地域、国で起きていることを自分事として考える一つのきっかけになれればと願っています。

投稿者:ロクいちスタッフ | 投稿時間:18時30分 | 固定リンク


2018年09月06日 (木)vol.4 ボタ山のかげで ~画家の見た筑豊~


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日本を代表する洋画家・野見山暁治さん、97歳。目に見える現象ではなく、物の背後に横たわる力をキャンバスに収めようとしてきました。今もなお、創作に対するエネルギーは衰えることを知りません。
そんな野見山さんが画家としての原点と語るのが、故郷の炭鉱町・筑豊の風景です。野見山さんは、福岡県嘉穂郡穂波村(現飯塚市)に炭鉱主の長男として生まれました。17歳の時、東京美術学校に進学。しかし、戦争が青春時代に大きく影を落とします。中国東北部旧満州で従軍した後、病に倒れ、生死の境をさまよいます。九死に一生を得て、福岡市内に送還され終戦を迎えます。焼け跡の中で描くべきものを見失っていた野見山さんの脳裏に浮かび上がったのは、故郷のボタ山の姿でした。野見山さんはその後、表面的な美しさではなく、景色や物の裏に潜む力強さに興味を抱いていくようになります。
この夏、巨匠画伯は、自身の原点・故郷筑豊へと向かいました。終戦直後、炭鉱と出会ったことが、画家の世界をどのように決定づけたのか。番組では、野見山さんに密着、インタビューを通して明らかにします。

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■番組で紹介した絵画

「ある証言」(1992年)「岳」(1966年)
「自画像」(1947年)「廃坑(A)」(1951年)

■県内で野見山さんの絵が見れる場所
▽JR博多駅 新幹線コンコース 福岡空港 国際線ターミナル

■今月行われる野見山さん関連展示会
▽久留米市立美術館 9日(日)まで
▽佐賀市天神 画廊憩ひ 18日から30日まで

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投稿者:ロクいちスタッフ | 投稿時間:18時30分 | 固定リンク


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