8月8日(日)放送
シリーズ 安保とその時代 第2回 “改定”への道のり
写真・左:浜の接収に反対して座り込みをする内灘の人びと(内灘町歴史民俗資料館所蔵)
写真・右:毛沢東とニキータ・フルシチョフ(1959年)
 

写真:
日米安全保障条約(新安保条約)調印文書
(外務省所蔵)

普天間基地移設に揺さぶられる沖縄。戦後長期にわたり沖縄の苦悩を生み出してきた基地問題の原因の一端は、1950年代の日米安保改定への道のりの中にある。1951年の日米安保条約(旧安保)によって、日本本土では700を超す米軍基地が継続使用された。その一つ石川県内灘村(現内灘町)では、漁業の場である浜を接収された住民が「座り込み」を続け、返還にこぎ着ける。「本土初の基地闘争」と呼ばれた内灘の影響を受け、各地で反基地運動が展開されるが、この結果アメリカは本土の陸上兵力を全て撤収する一方、統治下にあった沖縄への基地一極集中を進めていった。さらにアメリカは、日本人の不満の原因は、旧安保条約の「不平等性」にあるとして改定交渉に動き出す。

一方、日米間で安保改定交渉が進められた当時、「仮想敵」とされた中国とソ連が決定的な離反をしていたことが、新たな研究で明らかにされた。近年公開された中国外交文書によれば、1958年に毛沢東がソ連に事前通告をせずに台湾金門島を攻撃したことにフルシチョフは激怒、翌年毛沢東の肝いりで始まった人民公社をフルシチョフが批判し、両者は敵意を募らせていった。同年秋の中国建国10周年式典の前夜には、核技術の譲渡をめぐり行き場のない論争が繰り広げられ、中ソの決裂は避けがたいものになった。アメリカは、中ソの反目自体は把握しながらも「中ソは分裂しない」と結論づけ、朝鮮停戦後から進められていた中ソの「歩み寄り」政策に乗ることはなかった。日米安保の前提とも言うべき中ソ蜜月の終えんを、中ソの元外交官の証言や、冷戦史研究者の分析から解明していく。

シリーズ第2回は、1960年の日米安保改定(新安保)の調印に至るまでの道のりを、本土の基地闘争やアメリカの対日政策、中ソ関係の変容からたどっていく。

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