12月21日(日)放送
水俣と向きあう〜記録映画作家 土本典昭の43年〜

写真:左から
・不知火海に土本監督の遺骨の散骨に向かう船上にて
(写真を持ってるのは水俣病の支援者)
・不知火海での散骨(手前:妻 基子さん、奥:娘 亜理子さん)
・水俣での「土本監督を偲ぶ会」
(挨拶する元市長 吉井正澄さん、右:患者 緒方正人さん、奥:妻 基子さん)
・1992年「現代ジャーナル」出演時の土本監督

 

2008年6月24日午前2時47分、「水俣病」を生涯にわたって記録し続けてきたドキュメンタリー映画作家・ 土本典昭監督が亡くなった。享年79。

1965年、初めて取材した「水俣の子は生きている」以来40年間、“水俣病のある現場”に関り続けた稀有(けう)なドキュメンタリー作家である。隠され、過去のものとして忘れさられようとしてきた水俣病事件の真相と実態を、常に患者の側に立って記録し続け、19本の記録映画・テレビ作品を発表してきた。

「記録なければ事実なし」が土本監督の口ぐせだった。 世界が初めて水俣病を知ったのは、1972年にストックホルムで開催された国連環境会議だった。そこで上映された土本監督の『水俣〜患者さんとその世界』によってである。参加者は、土本さんの映画を見て、一緒に来た浜元二徳さんたち水俣病患者に会いショックを受けた。世界が初めて公式に有機水銀中毒による環境汚染を「ミ・ナ・マ・タ・ディジーズ」として認識したのだ。1977年8月から4か月間にわたって行われた天草諸島などの不知火海沿岸集落全域をめぐる「不知火海巡海上映活動」は特筆すべき出来事となった。「ここの魚に水銀汚染はない」とする地元の反発を乗り越え、実に76か所で上映を行なった。これによって、水俣病について全く知識がなかった人々が自らの症状を訴え始め、不知火海全体に広がる被害の実相が明らかになっていった。「ドキュメンタリーとは何か」にひとつの答えを導きだしたものだった。

1995年の政治決着から13年。しかし現在でも救済を求める申請者相次いでいる。水俣病は終わっていない。土本典昭監督のドキュメンタリーも未完のままである。土本監督は、40年もの歳月をかけて水俣・不知火海沿岸・島に暮らす人々の中に何を見ようとしたか。人々の心に何を遺(のこ)したか。本企画は1977年「不知火海巡海上映活動」にスタッフとして参加した西山正啓(映画監督)、一之瀬正史(カメラマン)の二人が、土本監督が水俣・不知火海に残した足跡を30年ぶりに辿る。そして土本監督が「ドキュメンタリーによって不知火海に生きる人々の人間としての尊厳の回復を見届ける」と生涯願い続け、行動したことの意味を伝えていく。

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