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100年前の日記から読み解く 感染症との向き合い方

2020.08.03 :

再び感染が広がり始めた新型コロナウイルス。長期化する感染症とどう向き合うのか、その教訓として注目されるのがおよそ100年前に世界的に流行したスペインかぜです。世界で数千万人、日本でも39万人が亡くなったとされています。当時、日本で何が起きていたのか、一人の男性が書き残していた日記から見えてきたこととは。

「非常なる衰弱」「脳に異状」

静岡市内の倉庫に残されていた、21冊の日記。静岡で茶の商いをしていた原崎源作(1845~1946)という男性が、大正から昭和にかけての日々の出来事を詳細に記録していました。源作は、茶を海外に輸出するために必要となる「再製」という作業の機械化を初めて実現するなど、日本茶を世界に広める礎を築いた人物です。
作業場として使われていた菊川市の倉庫は国の登録文化財として保存が図られ、今も内部を見学することができます。
この日記について、静岡の郷土史家である北野豊さんは、源作の子孫と協力して内容の解読と調査を続けてきました。読み進めていくうちに北野さんは、大正7年と8年の日記の記述がほかの年とは異なっていることに気がつきました。
「非常なる衰弱」や「脳に異状」など、病気に関する記述が数多く見られたのです。
(北野豊さん)
「突然、亡くなる人や病気の人が多くなった。今回この新型コロナの拡大ということで.もしやと思って見てみたら、スペインかぜが流行していた時期とぴったりと当てはまっていることに気がついたんです」

2日続けて2人の孫が…

およそ100年前に全世界で流行したスペインかぜは、日本でも大正7年から9年にかけて流行し、39万人が亡くなったとされています。
日記によると、大正7年や8年、源作は九州や東京に出張したあと体調が悪化。家族も次々とかぜの症状を訴え始め、「家族 皆 風邪、子ども2人も病気」「熱39度」といった記述も見られるようになります。まさにこの時期、静岡では、スペインかぜの最初の流行を迎えていました。
日記にはさらに深刻な状況が記されるようになります。大正8年の5月には、当時9歳と2歳の孫がおよそ40度の高熱に見舞われ、ほどなくして2日続けて死亡。みずからの感情をほとんど記していなかった源作が、孫を亡くした日の記述ではこのようにつづっています。「ついに死去との電話にて驚きいる」。突然の訃報に気持ちの整理がつかない様子がうかがえます。

浸透しなかった予防策

大正8年の日記を見ると、孫だけでなく20人を超える親族や知人が亡くなったことが記録されていました。しかし、北野さんはこの時期の源作の行動に違和感を覚えていました。地元の会合に参加したり、県外に仕事に出かけたりと、これまでと変わらない日常を送っていたのです。
当時、政府は予防策としてマスクの着用や密集を避けることなどを呼びかけていましたが、一方でスペインかぜはウイルスによる感染症とは知られておらず、感染が拡大するメカニズムや効果のある治療法も不明のままでした。「晩餐会を開く」「出席約35名盛会なりし」。日記をひもとく限り、感染が広がる中で源作や周りの人が対策を取っていた様子はうかがえません。
(北野豊さん)
「新聞が大騒ぎしている時に、この日記を読んでいると何事もない形で過ぎている、移動もしている会食もしているという、そういう状況であぜんとしました。移動するとか集まることが、感染症にとってあまりよくないという意識はなかったんじゃないか。危機感はなかったような感じがします」

スペインかぜから何を学ぶか

感染症の歴史に詳しい、京都大学人文科学研究所の藤原辰史准教授は、当時は感染症に関する情報や予防のための対策があまり浸透していなかったといいます。その上で、新型コロナウイルスの感染者が再び増え始めている今こそ、当時の人々がスペインかぜにどう向き合っていたのかを知ることが必要だと指摘します。
(京都大学人文科学研究所 藤原辰史准教授)
「第1次世界大戦という非常に大きな出来事に隠れてしまって、人々の忘れたい気持ちとマッチしてすっと消えていった、そういう歴史現象だと思う。感染症というのは、私たちは医学の発展によって克服したとか、あるいは私たちにとって猛威ではないという印象がありますけれども、全然そうではなかったということを、今回の新型コロナウイルスで知ったわけですよね。ちゃんと検証して、一体何をしたらどういう防御ができたのかとか、何を怠ったことで、どういうふうな被害があったのかを、ちゃんと知っておくことが必要だと思います」
情報の不足から十分な対策が取られなかったことがうかがえる、100年前の日記。こうした資料はほかにも身近なところにも残されているかもしれません。
新型コロナウイルスの感染が広がる今、正確な情報を知り、それに基づいて行動することの大切さを、当時の記録は訴えかけています。

科学文化部記者

富田良

平成25年入局。金沢局を経て平成28年から長崎局で勤務し、原爆を中心に戦争関連の課題や文化財をめぐる問題点などを取材。令和元年夏から科学文化部で文芸や学術などを担当

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記事の内容は作成当時のものです

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