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112歳のグランドピアノと98歳のピアニスト

2020.01.09 :

御年98歳。国内最高齢、もしかすると世界最高齢かも知れない現役プロピアニスト室井摩耶子さんが、昨年11月、3年ぶりにコンサートを開きました。

会場となったのは人口5000人足らずの農業の村、長野県川上村です。

世界的ピアニストの室井さんと川上村を結びつけたのは、村の人たちの思いが込められた1台のピアノでした。

98歳のプロピアニスト

室井摩耶子さん、大正10年生まれの98歳。“生涯現役”を貫くプロピアニストです。6歳でピアノを始め、戦時中にNHK交響楽団の前身にあたる「日本交響楽団」のソリストとしてデビューしました。
ドイツの著名な音楽家に腕を見込まれ、ヨーロッパ各地で単独コンサートを開くなど、長年にわたって世界を舞台に活躍してきました。

音楽の深さを表現する活動に終わりはない。いまも多くの音楽ファンを魅了しています。
「音楽というのは私にとっては命なんです。何百回、何千回と弾いても、ああ、この曲こんなことを言っているんだなんて、しょっちゅう発見があるもんですから。そういうのがやっぱりピアノ、音楽の醍醐味なんだろうと思いますね」(室井摩耶子さん)
しかし、体調を崩し、療養のため、この3年間はリサイタルなどを開いていませんでした。
一方、国内一のレタスの産地として知られる長野県川上村です。人口およそ5000人ののどかな村ですが、この村にはある特別なピアノがあります。

世界最高峰と言われるアメリカ・スタインウェイ社のグランドピアノです。
ピアニストのあこがれとも言えるこのグランドピアノですが、このピアノが特別な理由はそれだけではありません。実は1世紀以上前の1907年につくられたアンティークなのです。

赤茶色のボディーに彫刻がほどこされ、ピアノになじみのない人をもひきつけるたたずまい。
知る人ぞ知る「とんでもない一品」です。

それは26年前までさかのぼります。

当時、村の経済はレタスの栽培が好調で潤っていました。
しかし、それだけでは「心の豊かさ」は満たされないのではないか。

そう考えていたのが30年以上前から村長を務めてきた藤原忠彦さんです。
「経済を追求していくと精神文化が衰えるところが出てきます。それを防ぐには芸術文化しかない。
 芸術文化に向き合わないと村が滅びてしまうのではないかと言う思いがあった」(藤原忠彦さん)
そのとき、偶然売りに出ていたこのピアノが目にとまりました。

価格は1億円。
交渉の末、半値以下となりましたがそれでも高額です。反対する声も多い中、村の予算を投じて購入しました。

「川上村の文化の起爆剤みたいなものです」(藤原忠彦さん)
100年前のスタインウェイは村の人たちの世界を広げました。

ピアノはクリスマスコンサートや子どもたちの発表会などで使われ、村の人たちに親しまれていきました。

子どもや農家の女性たちが積極的に活動するようになり、音楽は徐々に身近なものとなっていきました。
レタス農家の渡辺静江さんは、ピアノをきっかけに立ち上がった村の合唱団のメンバーです。
20年以上、毎週練習を続けてきました。
ほかのメンバーもほとんどがレタス農家。
ピアノが来るまで合唱とは無縁でした。
ところが、このピアノに魅せられてプロの作曲家や指揮者などが村を訪れるようになり、合唱団と共演することもありました。
次第に音楽への熱は高まっていきます。
そして、10年ほど前には音楽の都・ウィーンで公演まで行いました。
「野菜の村なので農繁期はもうほとんど何も楽しみが無くて、仕事ばかりなんですけど、心が豊かになるような気がします。」(渡辺静江さん)
ピアノは村に音楽の心をもたらしました。

スタインウェイの存在を知った98歳のプロピアニスト、室井摩耶子さん。
自身の3年ぶりとなるコンサートの会場として、川上村を選びました。

「村長さんがね、村民のための芸術や文化の発展に、それだけの気持ちを動かしたって言うのは、もう音楽家にとっては何よりの言葉だと」(室井摩耶子さん)

音楽で人生を豊かにしたいという村の思いに共感しました。
「ねえ。このあたりもうちょっと音がさえないかしら?」

昨年11月、川上村のホールに室井さんの声が響きました。
村の人たちの情熱が込められたグランドピアノを、最高の音色を奏でようと、室井さんは東京都内から専属の調律師を呼び寄せ、入念に音の調整を行ったのです。

そして、コンサート当日。観客は地元の人たちを中心に主催者の予想を上回る120人余りです。
観客に室井さんは静かに語りかけました。
「今回の台風でひどいことになったと聞いていたので大丈夫かしらと心配していました。
 きょう楽しみにしていますから、よろしくお願いします。」

室井さんは音楽の美しさを感じてもらおうと、あえて誰もが知るベートーヴェンの『月光 第一楽章』や『エリーゼのために』など4曲を選びました。

室井さんが奏でるベートーヴェンは世界的にも高く評価されています。

室井さんは90年にわたってベートーヴェンを演奏し続けてきました。
中でも「月光 第一楽章」は、だれも到達できないほど長い時間をかけて、深め続けてきた曲です。
1音1音の音色に集中し、神経を研ぎ澄ましながら、鍵盤に触れます。
そして、室井さんよりもさらに長い時間、音楽を生み出してきたスタインウェイがそれに応えました。

「音がきれいでとてもすごかったです。98歳なのにきれいにひけてすごいなと思いました」(村の子ども)

「弾き始めるときとガラッと雰囲気が変わって、ピアニストだなという印象を受けました。
 すごい感動しました」(観客の女性)


ピアノに込めた村の思いが結んだコンサート。
室井さんも音楽の素晴らしさを観客と共有できた喜びを感じています。
「心の底からすごいな、わあすごかった、いい気持ち、と感じる心が、やっぱり芸術みを感じる人間の気持ちなんじゃないかと思っています。あのピアノは本当に素晴らしいピアノでした」(室井摩耶子さん)
レタスの村に、ひっそりと置かれた110年前のスタインウェイ。
98歳のピアニストと共に、村の人たちの心の中に音楽の光をともしました。

その光はこれからもの多くの人たちを照らしていくはずです。

長野放送局記者

田中顕一

平成15年入局 山形放送局、報道局国際部、インド、アメリカ駐在の特派員を経て、平成30年から長野放送局記者。遊軍キャップとして文化の話題から災害報道など幅広く取材。“子どもが最近ピアノを習い始めました。”とのこと。(令和2年1月現在)

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