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「薬があった!」最新がん治療法 期待と課題

2019.07.09 :

「抗がん剤はがん患者の命の火をともすろうそくだ」
私たちが取材で知り合った、あるがん患者の言葉です。がん患者の“命の火”をともし続けるための最新の治療法「がんゲノム医療」が、本格的にスタートしました。がんの遺伝子を調べて、その患者に合った薬を探す新しい手法で、6月から遺伝子検査への公的な医療保険の適用が始まりました。使える薬が無くなってしまった患者にも、新たな薬が見つかるかもしれないと期待を集めています。

(科学文化部記者 稲垣雄也 おはよう日本ディレクター 下山章太)

「ステージ4」と診断された清水さん

扉を開けると、元気な子どもたちの声が聞こえてきました。訪ねたのは滋賀県大津市の清水佳佑さん(37)の自宅です。妻のほか、6歳と3歳になる2人の息子と暮らしています。

清水さんは3年前、会社の健康診断をきっかけに肺がんが見つかりました。清水さんが取り出したCTの画像にはこぶしの大きさほどの腫瘍が写っていました。がんは最も進行したステージ4で、診断から4か月後には呼吸が苦しくなるなど、日に日に症状は悪化しました。
検査のため、自宅のある滋賀県から東京・中央区の国立がん研究センターに出向いた時、がんの影響で、心臓の周りに水がたまり、突然、心停止を引き起こすことがある危険な状況になっていることが判明し、そのまま緊急手術を受けました。
手術では、心臓の処置とともに肺の腫瘍も取り除きましたが、がんはリンパ節にも転移していて、すべてを取り除くことはできませんでした。

清水さんはその後、抗がん剤治療を継続しましたが、転移したがんに対して効果は次第になくなっていったと言います。

清水さんは「治療の選択肢がなくなっていくことは、死につながっていくことになるので、トンネルの中で先が見えないような、つらい状況でした」と、当時を振り返りました。

「命の火」をともす「ろうそく」

過去に取材で知り合った別のがん患者は、「抗がん剤はがん患者の命の火をともすろうそくだ」と表現していました。

抗がん剤はがんの進行を一時的に抑えるものの、火をともしたろうそくが徐々に短くなるように、次第に効果がなくなることが少なくありません。効果がなくなると、別の抗がん剤を使うことを繰り返し、「ろうそく」は1本、また1本と減っていきますが、それがあるかぎり患者の命はつながることになり、「ろうそく」そのものががん患者の希望なのだと話していました。

「がんゲノム医療」受けた清水さん

清水さんは2年前、「がんゲノム医療」を受けました。近畿大学病院が行う臨床試験に参加したのです。

「がんゲノム医療」は、100種類以上の遺伝子を対象に、患者ごとにどの遺伝子が原因でがんがおきたのか調べます。原因遺伝子がわかれば、その遺伝子を狙い撃ちにする薬を使います。使う薬の選び方は、これまでと大きく変わります。
従来のがん治療では、「肺がん」には「肺がんの薬」、「胃がん」には「胃がんの薬」など、がんの種類ごとに決められた薬を患者に投与するのが基本でした。

しかし、「がんゲノム医療」では遺伝子の情報を元に、効果が期待されれば、▼国内ですでに承認されているものだけでなく、▼他の臓器のがんの薬や▼海外で承認された薬、それに、▼臨床試験が行われている開発中の薬にも選択肢を広げることができ、がん治療を大きく変える可能性を秘めているのです。
清水さんは検査で自分の肺がんの原因とみられる遺伝子を突き止めました。それは、「HER2(ハーツー)」と呼ばれる遺伝子で、乳がんを引き起こすことが多いものです。乳がんの患者向けには、すでに承認された治療薬があります。原因と見られる遺伝子が分かったことで、清水さんは、開発中の薬を投与することができました。

子どもとサッカーを

治療を始めて3か月。清水さんは近畿大学病院を受診し、主治医の田中薫医師から病状の説明を受けました。

「腫瘍が以前の半分程度小さくなっていますね」

清水さんは静かに説明を聞いていました。

田中医師は取材に対して、「がんの原因遺伝子をちゃんと見つけてあげて、治療につなげられれば、従来のがん治療以上の結果を出せるかもしれない」と「がんゲノム医療」の可能性を語りました。

取材に訪れた日、清水さんは公園で6歳の息子とサッカーをしていました。子ども用の小さなゴールにボールが蹴り込まれると、一緒にはしゃぎながら得点を喜ぶ清水さん。一時は歩くのもままならなかった状態から、大幅に回復していました。
取材の最後に清水さんは、この治療について次のように話しました。
「生きる希望として治療の選択肢があるかどうかは切実なことです。『がんゲノム医療』はありがたいもので、僕だけではなく、ほかの患者さんも効果が出るといいなと思います」。

「がんゲノム医療」受けられる患者は…

この「がんゲノム医療」は、ことし6月から遺伝子検査に公的な医療保険の適用が始まり、本格的にスタートしました。

ただ、がん患者であれば誰でも受けられるわけではありません。今回、保険の対象となったのは、がんが進行したり再発したりして標準的な治療の効果が期待できなくなった患者などで、最大で年間2万5000人余りとみられています。

受けられる医療機関は「がんゲノム医療中核拠点病院」または「がんゲノム医療連携病院」に指定された病院です。ことし4月の時点で全国に合わせて167か所あります。
そして、遺伝子の検査結果をもとにどの薬を選択するか、治療方針が検討されますが、その判断には高い専門性が求められるため、医師の中でもがん治療薬の専門家などが参加して検討されます。

2つの大きな進歩が背景に

この「がんゲノム医療」が本格的に始まった背景には、2つの進歩があります。

ひとつは、がんの原因となる遺伝子をターゲットにした薬の開発が進んだことです。こうした薬は「分子標的薬」と呼ばれ、ここ10年余りの間に開発が相次ぎました。

もうひとつは、遺伝子を調べる検査技術が劇的に向上したことが理由です。およそ2万あると言われるヒトの遺伝子を含むすべての配列を解析するコストはこの10年余りで10万分の1以下にまで下がりました。その結果、遺伝子検査の費用を日常の診療に使える水準におさえられるようになったのです。
「がんゲノム医療」の遺伝子検査の費用は56万円。今回、保険適用され、患者の自己負担はこの3割以下におさえられます。

「がんゲノム医療」は国が定めるがん対策の基本計画の柱の1つとして進められ、関係機関は実施態勢の整備を進めてきました。
全国のがんの拠点病院などに設けられた「がん相談支援センター」では看護師らが相談に応じ遺伝子検査やその後の治療などについて詳しい説明を受けたり相談したりできます。

課題も多い「がんゲノム医療」

しかし、課題も多くあります。遺伝子検査を受けても治療につながらないケースが多いのです。
「がんゲノム医療」の研究拠点、国立がん研究センターで去年、遺伝子検査を受けた60代の男性が取材に応じてくれました。男性は、4年前から「尿膜管がん」という希少がんを患っています。肺と肝臓に転移していて効果的な治療法を模索する過程で「がんゲノム医療」の遺伝子検査を受けました。
その結果、4種類の遺伝子の変異が分かりました。しかし、それらの遺伝子に対応する薬で、投与できるものは見つからなかったといいます。「がんゲノム医療」は諦め、今は月に数回、病院に通い、ほかの治療を受けています。
男性は、「検査ができるようになり、自分のがんの原因を調べられるようになるのはいいことだと思う。ただ、必ず治療に結び付くわけではない。今の段階で、過剰な期待を持って遺伝子検査を受けるのは少し危険だと思う」と話しています。
国立がん研究センターなどが行った過去の調査では、薬を選び投与を開始できたケースは検査を受けた人の1割余り。つまり、9割近くの人は治療につながらなかったのです。その背景には、▼薬の開発が追いつかず、がんの原因遺伝子がわかっても対応する薬がないケースが多いことや、▼仮に使える薬が見つかっても、国内の承認を受けていなければ薬には公的な医療保険が適用されず、治療費が高額になるため払うことができずに断念することなどがあります。
国立がん研究センター先端医療科の小山隆文医師は、「まだ課題も多く限界があるので、その点を十分理解したうえで自分が本当に受けるべきものなのか、主治医とよく相談して慎重に検討してほしい」と話しています。
さらに、医療現場ではこの新しい治療法を実施するための準備がまだ十分整っていないのではないかという懸念の声も上がっています。がんゲノム医療では、患者個人の遺伝子のデータを詳しく調べるため、家族のがんのリスクなども同時に分かってしまうことがあります。そのため、検査を受ける前や検査結果の説明を受ける際には、専門家によるカウンセリングが大切だとされていますが、態勢が十分ではない医療機関があるのではないかと指摘されています。また、患者の薬を選択するがん治療薬の専門の医師や相談窓口で対応できる看護師など人材の育成と配置も十分ではないと懸念されています。

課題は山積みですが、標準的な治療で効果が期待できなくなった患者の1割に新しい治療の選択肢が見つかるとすればとても大きなことで、検査と治療のデータが今後、さらに蓄積すれば新しい薬の開発にもつながって、治療につながる患者が徐々に増えていくと期待されています。世界のがん治療の潮流も「がんゲノム医療」を推し進める方向に向かっています。この治療法の課題や限界について十分理解し、患者に1本でも多くの「命の火をともすろうそく」が届けられるようになることを期待したいと思います。

科学文化部記者

稲垣雄也

平成16年入局。奈良局を経て、平成22年から科学文化部で、主に医療分野を担当。医療事故や感染症のほか、薬や科学論文のデータ改ざんなどの研究不正の問題を継続的に取材。

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記事の内容は作成当時のものです

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