STORY

平野啓一郎が語る、三島由紀夫とその文学

2019.06.21 :

『仮面の告白』や『金閣寺』などの名作を残した、戦後日本文学を代表する作家・三島由紀夫。1970年に衝撃の割腹自殺を遂げ、45歳でみずから命を絶った最期を含め、その生涯は今も多くの人の関心を集めています。その三島由紀夫の文学的な“師”として、生涯にわたり親交を結んでいたのが、川端康成でした。川端もまた、日本人初のノーベル文学賞という栄誉を受けながら、突然のガス自殺でこの世を去っています。

 

三島由紀夫と川端康成。多くの謎を残す2人の文豪の実像に迫る番組が、6月23日にNHK BS1で放送されます。瀬戸内寂聴さんや岸惠子さんなど、2人を直接知る人物の証言を元に、文豪の知られざる物語をたどる内容です。

 

番組では、三島由紀夫とその文学を解説する人物として、芥川賞作家の平野啓一郎さんにインタビューを行いました。「三島との出会いがなければ小説家になっていなかった」と振り返る平野さんは、少年時代から三島文学に魅了されてきたといいます。今回は放送に先立って、インタビューの一部を紹介します。

 

(聞き手:科学文化部・河合哲朗)

“あれほど寝食を忘れて読んだ本はない”

芥川賞作家の平野啓一郎さん。長年、三島由紀夫とその文学に深い関心を持ち、これまでに「『英霊の声』論」「『金閣寺』論」「『仮面の告白』論」などを発表。独自の三島由紀夫論を展開してきています。インタビューでは、三島文学との出会いから話をうかがいました。

ーー三島由紀夫の作品との出会いはどのようなものでしたか
僕は1975年生まれなので、小学校に通っていた頃は、人によっては三島事件の記憶もまだ生々しくて(1970年、三島は自衛隊市ヶ谷駐屯地でクーデターを呼びかけた末、割腹自殺した)、担任の先生は「三島由紀夫という頭のおかしな作家がいて、自衛隊に突入して割腹して死んだんだ」と生徒に話していて、それはけっこう強烈な印象で、すごく興味を持ちました。

その頃の僕は、少しずつ日本の近代文学の名作と言われるものを読み始めていました。本屋で棚を見ると、三島の文庫本はオレンジ色の背表紙で非常に目立っていて、たまたま『金閣寺』を手に取ったんです。読み始めて、今まで読んでいた日本文学とは全く違うものだという感触を得ました。後にも先にも1つの本をあれほど寝食を忘れて読んだことはないというくらいに、のめり込んで読みました。

三島が抱えた“サバイバーズ・ギルト”

平野さんは、三島由紀夫の人物像に迫るうえで、三島の生い立ちと戦争体験が重要な意味を持つといいます。後にボディービルで肉体を鍛え上げる三島ですが、幼少期は病弱でか細く、19歳の時に受けた徴兵検査では、“肺浸潤”と誤診されて徴兵を免れます。
徴兵検査というものは、言わば、国家機関が男子を健康状態によって格付けしていくということですよね、甲乙丙丁と。子どものときから体が弱かった三島は、入隊検査に落ちたことによって、言うなれば成年男子として落第したわけです。体が弱かった自分が戦争に行かずに生き残った一方で、健康で戦争に行った同年代の人間の多くが亡くなっている。この時の、国家から“健康ではない男子”“国家の役に立たない男子”というレッテルを貼られたという体験が、彼の人生の中では非常に大きいものだったと思いますね。
ーーその体験が、後の三島に大きな影響を与えたということでしょうか?
戦後の言論空間の中では、小説家だと大岡昇平(代表作にフィリピンでの戦争体験を基にした『野火』など)のように本当に過酷な戦争の体験をしてきた人たちの証言とか、あるいはさらに下の世代が持つ戦争に対する反発とか、いろいろな意見がありました。戦争に参加しなかった三島は自分の政治的な言説をその中でどう位置づけていいか、よくわからなかったと思います。戦争について言及しようとしても、「でも戦争に行っていないではないか」と言われるし、参加していない立場で、戦争による死が意味のない死だったんだと言うこともなかなかできませんでした。
ーーそれは一種の罪悪感に近い感情を抱えていた?
「サバイバーズ・ギルト」という言葉があります。大災害に遭って命からがら九死に一生を得たような人が、自分の近しい人が死んでしまったのになぜ自分だけが生き残っているのかと思い悩むという現象ですが、三島の場合もそれに近い感情を持ったのではないかと思います。
『仮面の告白』
平野さんは、三島の初期の自伝的小説『仮面の告白』(1949年)の中でも、徴兵を免れた主人公の描写に、三島が抱えていた問題が象徴的に現れていると指摘しています。
あの主人公は何を悩んでいるかというと、戦争に行かずに済んだのであれば、その時間をそれに見合うだけの充実した使い方をしなければいけないと思い詰めて、激しい恋愛、個人的な生が、戦争と見合うくらいの非常に強い生の実感を与えてくれることを期待するわけです。ところが主人公はホモセクシュアルという設定であるために、女性との恋愛がなかなかうまくいかない。そうすると、戦争に行った人にとってはのどから手が出るほど欲しい“自由な時間”を、結局全く有効に使うことができないまま無為に過ごしているということに追い詰められていくわけですね。三島は戦後社会を生きていく中で、生き残った者として、その人生をいかに充実した形で生きるかという問題をかなり考えたと思いますね。

三島はノーベル文学賞を求めていた?

共にノーベル文学賞の候補となっていた三島由紀夫と川端康成
戦後の文学界で『潮騒』(1954年)や『金閣寺』(1956年)などのベストセラーを次々と発表した三島。これらの代表作は、アメリカなどの海外でも翻訳出版され、徐々に世界的な作家へと成長していきます。30代後半になると、ノーベル文学賞の候補に選ばれるほどまでに評価が高まっていきました。

ーー三島自身は当時、世界の評価というものをどれくらい意識していたと思いますか?
やっぱり翻訳が出て作品への反応が出るようになると、かなり意識するようになっていたと思いますが、それは三島に限らず、当時の日本の作家の多くが気にすることだったと思います。日本の近代文学は、欧米の文学の影響を受けながら、江戸時代の文学から近代文学へと脱皮しようとして、日本なりに非常に豊かな文学の歴史を築きあげてきていましたから、それが翻訳されたとき、果たしてどのように受け止められるのか、興味があったと思います。
ーー三島はノーベル文学賞を欲していたんでしょうか?
僕は、欲しかったんだろうと思いますね。三島って実は芥川賞も取っていなくて、戦後はすぐにいろんな賞の審査員側に回ってしまっていて、国内での評価は本人もうれしくないことはないでしょうが、それよりも世界的な評価は気にしていたと思います。

もう一つ、三島の作品をずっと見ていると、30代後半はちょっとスランプだったんじゃないかという感じがするんです。何を書くべきかに関しての模索の時期というか。その時期、10歳下の大江健三郎さんとか若い世代の人たちがまさに“その世代の声”として非常に力強い作品を発表していて、文壇がものすごく反応して、若い人たちが魅了されていくんですね。そういう中で、仮にその時期に三島がノーベル賞を取っていたら、もしかしたらその後の生き方は変わっていたかもしれないですね。ただ、三島が40代になってから、川端康成が受賞したころ(1968年)にノーベル賞を取っていたとしても、最後の自決の行動はきっと変わらなかったんじゃないかと思います。つまりその前の段階から、死を意識し始めていたのではないかという気がしますね。
1968年、川端康成のノーベル文学賞受賞祝いに駆けつけた三島由紀夫

“文”から“武”へ 急進化する三島の思想

『英霊の聲』
1960年代に入ると、三島は二・二六事件や特攻隊の霊を題材にした『英霊の聲』(1966年)など、政治色の強い作品を執筆するようになります。当時の時代背景の中で、三島は自分自身の政治的な態度をはっきりと表明するようになります。
社会全体で学生運動が非常に盛んになっていく中で、文学者として政治的にどういう立場に立つかが突きつけられていったと思います。戦後すぐの時期には、戦争体験を抱える人たちがそれをどう語るかが重要で、三島はうまく自分の政治的な態度を表明することができませんでしたが、1960年代になって若い世代が政治運動を活発化させていったとき、あらためて政治にコミットする可能性が開けていったと思うんですね。
ーー三島の政治的立場はどのように形づくられたと思いますか?
「反共産主義」というものは彼の中で非常に強いものとしてあったと思いますし、10代の頃から自分が親しんできた古典文学に対する愛着と、そういうものが失われるのではないかという危機感もあったと思います。それからやっぱり彼の中には第二次大戦中の自分の経験、自分が戦争に参加しなかったという事実をなかったことにはできないという思いが相当強くあったと思います。そういうさまざまなことが40歳になる頃に彼の中で非常に色濃くなっていって、同時に、右翼の学生との関わりもその時期に始まっていますから、その中でだんだんと思想的に急進化していったんじゃないかと思います。

衝撃の自決 三島は何のために生きた?

東部方面総監部のバルコニーからクーデターを呼びかける三島
三島由紀夫は1968年に民間防衛組織「楯の会」を結成します。そして2年後の1970年11月25日。最後の長編小説『豊饒の海』を書き上げた三島は、楯の会のメンバーと共に自衛隊の市ヶ谷駐屯地に乗り込み、憲法改正を訴えてクーデターを呼びかけた末に割腹自殺します。

ーー晩年の三島は自決という結末に向かって突き進んでいる印象がありますが、自分自身の生き方に迷いはなかったのでしょうか?
「楯の会」という政治活動の組織を作って若い人たちと活動しだしてからは、回り出した車輪を止めようがないような感じで進んでいますけど、どこかで彼も“異なる生”を夢見続けているような部分が最後まであったような気もしますね。死にたくないということと、死ぬべきだということとの、ある種の緊張関係みたいなものが見てとれる気がします。
三島は「楯の会」のメンバーと共に自衛隊の体験入隊を繰り返した
ーー“異なる生”とは、文豪として生きるという道のことでしょうか?
文豪として生きる道はあったでしょうね。彼が尊敬していた谷崎潤一郎のように、長生きして、徐々に芸術を完成させていくという道もあったはずだと思います。ただ、なかなか彼自身の生き方としては、そうなり得なかったところがあるんじゃないかなと思います。彼は長生きするということのイメージをなかなか持てなかったんだと思うんですね。それは、あの世代特有の問題ですが、戦争で死んだのは自分たちの世代で、上の世代はみんな生き残っているではないかと。そういう世代を手本に生きようというイメージが持てないんです。だから三島が理想化している人は、レイモン・ラディゲ(フランスの小説家・詩人、20歳で死去した)とか、幕末の志士や二・二六事件の将校とか、若くして死んだ人たちばかりなんですね。どう生きていくべきかという手本が世代的になかったことも、非常に苦しかったんじゃないでしょうか。
45歳で亡くなった三島由紀夫 葬儀にはおよそ8000人が参列した
ーー三島由紀夫は、あのような割腹自殺で最期を迎えました。三島は英雄として行動を起こして死ぬことを選んだのか、それとも最後まで文豪として生きたのか、どのように感じますか?
本人はいろんな人に、自分は武人として死ぬと話していたという証言は残っていますよね。ただ、そんなにすっきりとは割り切れていない問題だと思います。彼は文武両道ということを死ぬまでずっと言っていて、最後のインタビューでも、“文”を諦めたなんていうことは決して言っていませんでした。自決の日も『豊饒の海』をきちんと完成させてから最後の行動に移っているところから見ても、小説家であることに関してはこだわりを捨てていなかったと思います。
ーー三島はその短い生涯を、何のために生きていたと思いますか?
それはもちろん、小説家として生きたんだと思います。僕は、三島の『金閣寺』と出会わなかったら小説家になっていませんし、三島文学との出会いで文学に目覚めた人はたくさんいると思います。彼の作品はそれだけ豊かで強い力を持ったものですし、その価値は今も変わらないと思います。やっぱりあんなに天才的な才能を持った作家は、なかなか戦後文学の歴史を見てもいないんですよね。

僕がなぜ三島作品に魅了されたかというと、三島作品を読むとトーマス・マンのことが気になり、森鴎外が、オスカー・ワイルドが、ボードレールが気になり、ドストエフスキーが読みたくなる。文学というものは、一つの作品が真空状態の中でぽつんと孤立しているのではなくて、非常に広大な森のように有機的に結びつけられたもので、一作の小説を読むとその背後に豊かな文学の森が広がっている。そういうことを感じさせてくれるのが三島作品だったんですね。僕はそういう三島に今でも魅了されているし、彼であれば、自分自身がうまく生きられるような思想を考えることや、別の生き方を見つけることもできたんじゃないかと思うんです。
ーー平野さんにとって、三島由紀夫という人物はどのような存在でしょうか?
非常に思想的な作家でしたし、最終的な政治的な立場は彼とは反対になってしまいましたが、彼が積み重ねていった“自分とは何か”とか“日本とは何か”という思索は、同意するにせよ、批評的に乗り越えていくにせよ、非常に多くのことを後の世代に残したと思いますし、僕は自分の思想を形づくっていくうえで、作品だけではなくて、彼の思索そのものから非常に強い影響を受けました。

もう一方で、メディアを通じての彼の非常に華やかな活動は、映像も残っていますが、やっぱり僕は魅力があると思います。僕の場合は、彼と直接交流のあった人たちから話をうかがう機会が多かったんです。横尾忠則さんとか、美輪明宏さん、瀬戸内寂聴さん、高橋睦郎さん、そういう人たちを通じて知る三島由紀夫は、非常に魅力のある人物なんですね。だから僕からすると“会ってみたかった人”の一人ですね。聞いてみたいこともたくさんあります。今も生きていたら94歳くらいだと思いますが、自分が書いた「『金閣寺』論」とか「『仮面の告白』論」とかも読んでもらいたかったですよね。「こういうことだったんじゃないですか?」って。彼は生前、孤独だったと思います。理解者もそんなに多くなかったと思いますから、会ってみたかったですね。
【放送予定】
BS1スペシャル「三島由紀夫×川端康成 運命の物語」
2019年6月23日(日)午後10時から

(再放送予定)
6月24日(月)午後1時から
6月29日(土)午前10時から いずれもBS1

※番組の予告編、詳しい情報はこちらから(公式ページ)
https://www4.nhk.or.jp/bs1sp/x/2019-06-23/11/30223/3115650/

※番組スタッフからのメッセージはこちら
https://www.nhk.or.jp/docudocu/program/2443/3115650/index.html?c=message

科学文化部記者

河合哲朗

平成22年入局。前橋局・千葉局を経て、平成27年から科学文化部で文化取材を担当。文芸・文学史をはじめ、音楽や映画などのポップカルチャー、囲碁・将棋まで幅広く取材。

河合哲朗記者の記事一覧へ

記事の内容は作成当時のものです

STORY一覧に戻る