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“私の母乳には毒がある”「ソビエト・ミルク」

2019.05.14 :

「自分の体は毒されている」。そう思い、母は娘に母乳を一切与えなかったー。知人からこの小説を紹介された時、その衝撃的な内容に強い興味をひかれました。バルト3国の1つ、ラトビアを舞台にしたこの作品、同国の小説としては初めて、日本語版も出版されることが決まりました。一体どんな小説で、なぜ今、人気なのか。現地を訪ねると、日本とも近い“あの国”との複雑な関係が浮かび上がってきました。

出産直後に失踪した母親

舞台は、ラトビアがソビエト政権下にあった1960年代から80年代。ラトビア人の母と娘を主人公に、当時の市民の日常が描かれています。

都会の病院で医師として活躍していた母親。
しかし政権に批判的だと指摘され、地方の小さな診療所に“左遷”されてしまいます。

才能を生かすことも、自由に思いを表現することも、制限されるソビエトの社会では、希望が持てないー。
精神的に不安定になっていった母親は、子どもを産むことも育てることも意味のないことだと考えるようになります。

母親は、娘を出産した直後、5日間にわたって行方をくらましました。そしてこう考えます。
「ソビエトに生きる自分の体は毒されている」
自分の体から出る母乳を、毒された「ソビエト・ミルク」と見なし、娘に一度も与えなかったのです。

物語ではその後、母親と娘が、周りの人たちに支えられながら、愛や自由とは何なのか模索していく様子が描かれています。

ソビエト社会の現実を一般市民の視点で描いたこの小説は反響を呼び、10か国語以上に翻訳されました。

“バルト海の真珠” 苦難の歴史

ヨーロッパ北東部に位置するラトビア。世界遺産に登録された首都リガの町並みは「バルト海の真珠」とも呼ばれ、旅行先として日本人にも人気が高まっています。
ソビエト時代のラトビア
しかし、その歴史は平たんなものではありませんでした。第2次世界大戦中、ソビエトに併合され、1991年の独立まで約50年間、ソビエト政権下にあったのです。

“国籍なし”の住民

今はEU加盟国として欧米寄りの政権運営が続くラトビアですが、街中では、ラトビア語に混ざってロシア語がよく聞こえてきます。
ラトビアでは、ロシア系の住民が人口の3割を占めるのです。
ソビエト時代に移住してきたロシア系やその子孫が、独立後もラトビアに暮らしています。

取材を進めていくと、こうした「ロシア系住民」と「ラトビア系住民」との間に、見えない“壁”があることがわかりました。
ロシア系住民が持つパスポートの表紙に書かれているのは、「無国籍」の文字。政府はロシア系住民に対し、たとえラトビアで生まれても、自動的に国籍を与えていません。

人口190万のラトビアで、20万人近くがこうした“無国籍”だといいます。無国籍だと選挙権がなく、就職先も制限されます。
「この国で生まれたのに、わざわざ試験を受けて国籍を取らなければならないなんて、不公平だ」(ロシア系の住民)

高まるロシアへの警戒感

一方、ラトビア系住民にも不満があるようです。
中高年のロシア系住民の多くは、ラトビア語をほとんど話しません。
これに対し、「ラトビア社会に溶け込む意思がない」と批判する声も聞かれます。
「ここはロシアではなくラトビアだ。ラトビア語を身につける気がないなら、ロシアに帰ればいい」(ラトビア系の住民)
モスクワで開かれたクリミア併合を記念する集会の様子(2016年)
こうした民族間の“分断”に拍車をかけたのが、5年前、ロシアによるウクライナ南部のクリミア併合でした。
ロシア系住民の保護を名目に、いつクリミアのようにロシアが手を伸ばしてきてもおかしくない。
警戒の声が、ラトビア人社会で上がっています。

小説に隠されたメッセージ

クリミア併合と同時期に「ソビエト・ミルク」を書き始めたという、ラトビア人作家のノラ・イクステナさん(49)。

ロシアへの警戒感が高まる今だから、ソビエト時代の恐ろしさを伝える小説を書いたんですかという、私の問いに対してノラさんは、本にはその真逆のメッセージが隠されていると教えてくれました。
ノラさん 幼少期の写真
見せてくれた写真に写っていたのは、小学生のノラさんと、近所でよく遊んでいた友人たち。皆、ロシア系だったといいます。
「当時は民族に関係なく、同じソビエト時代を生きる存在として理解しあい、尊重しあっていた。2つの民族の分断が広がる今こそ、当時を振り返るべきだ」
ノラさんは作品を書いたきっかけをこのように話していました。
そんな思いがにじみ出ているのが、精神的に不安定になったラトビア人の母親を、ロシア人の友人が励ますシーンです。
私は友人に打ち明けた。娘に母乳を与えないことで、“不快なもの”を、娘が飲まなくていいようにしたと。

不快なもの?あなたの体の中には不快なものなんてない。あなたはすばらしい、“聖人”のような人よ。
ソビエト時代の厳しい体験をロシア系の人々への憎悪へとつなげてはならないと考えています。
「もし虐げられる立場だったら、憎しみの感情を持つのは当然ですが、それを乗り越えなければならないのです」

ロシア語版は“発禁”…でも、少しずつ広がる

小説は、ロシアに批判的とみなされたのか、ラトビアにあるロシア系の書店の多くは、販売を拒否。私が訪ねた書店でも、「そんな本は注文も受け付けない」と門前払いされてしまいました。
しかし、ロシア系住民の間でも、少しずつ共感が広がっています。ロシア系のビクトリヤさん(30)。
図書館で小説を読み、ロシア人を悪者と決めつけないノラさんの表現に、ひかれたといいます。
「ノラさんはとても明るい視点で歴史を見ています。単純に白と黒で描いているわけではありません」

“かけはしの小説”に

作品を紹介する講演会を各地で開くノラさん。
「同じ時代を共に生きてきたからこそ、ラトビア人とロシア系住民が憎しみや偏見を乗り越え、わかりあえる日が来るはず」と訴えています。
「憎しみは、世の中で最も憎むべき感情です。今、世界には憎しみがあふれています。だからこそ、この本を読んでもらいたいんです」
東西冷戦終結からことしで30年。今も旧ソビエト諸国の人たちの間で複雑な感情が交錯していることを今回の取材で実感しました。世界でさまざまな民族、宗教、社会の“分断”が続く中、複雑な歴史を乗り越え、小さな“かけはし”になりたいというノラさんの思い、私たちに大切なことを教えてくれているような気がします。

国際部記者

青木緑

平成22年入局。釧路放送局、新潟放送局、国際放送局を経て、国際部。ロシア・旧ソビエト諸国を主に担当。

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