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証言 日本の原子力 “平成の教訓”

2019.04.26 :

「日本の原子力って、平成の始まりまでは右肩上がりだったんです。でも、今になって記憶に残るのは、たび重なる事故のことばかりになってしまいました」

 

まもなく終わりを迎える平成。原子力の関係者に取材していると、よくこんな話を聞きました。世界最悪レベルとなった福島第一原子力発電所の事故。事故をきっかけに、私たちは原子力がもつリスクの怖さを思い知らされました。平成の時代、日本の原子力のどこに問題があったのか。何を教訓として、次の時代に生かすべきなのか。当事者のことばから探ります。

「痛恨の思い」語り始めた当事者

4月中旬。福島県富岡町では、あちらこちらで美しい桜の花が見頃を迎えていました。町の一部は、今も立ち入りが厳しく制限される帰還困難区域となっています。
日本原子力発電の元幹部 北村俊郎さん
家の掃除のため、一時帰宅した男性に同行させてもらいました。北村俊郎さん(74)です。実は北村さんは、国内初の原発を運営した電力会社、日本原子力発電の元幹部です。40年以上にわたって原子力を推進してきました。温暖で過ごしやすい福島の浜通りで余生を送りたい。そう思って建てた家に、北村さんは今も戻ることができません。
「まさか自分が原発の事故に遭い、被災者になるとは」
空気を入れ換えるため、閉めきっていた窓を開けました。家を建てたときに植えたという桜が満開になっていました。北村さんは半生を振り返り、募らせてきた痛恨の思いを語り始めました。
北村俊郎さん
「私はいろいろな意味で原子力を推進してきたのですが、事故が起きた時のことを思い出すと、あんなことがあってはならないと、それはもう痛切に感じます」
なぜ、原発事故が起きたのか。事故の後、自身の被災体験も踏まえながら原子力の課題などを本にまとめ、インターネットでも発信し続けている北村さん。私は、原子力にとって平成はどんな時代だったのか、尋ねました。
「『日本の原子力が、欧米に比べて決して負けていないんだ』という、うぬぼれのようなものがあったところから、この時代は始まったのではないかなと思いますね」
平成が始まった頃、日本の原発は事故やトラブルで止まることが少なく、電力会社などの関係者は「世界最高水準の安全性」を誇っていました。
「海外で起きたような重大な事故は日本では起きない」
福井県の敦賀原発や茨城県の東海原発で勤務し、原発の安全管理や人材育成などを担当していた北村さん。当時、「国や事業者は自信に満ちていた」と言います。

安定期から、事故・トラブルの時代に

高速増殖炉「もんじゅ」の元所長 向和夫さん
北村さんの証言の背景を探るため、私は、国内最多15基の原発が立地していた福井県へと足を運びました。訪ねたのは、敦賀市に暮らす向和夫さん(71)。高速増殖炉「もんじゅ」の所長を務めました。
高速増殖炉「もんじゅ」
もんじゅは、国家プロジェクトとして、次世代の原子力開発を担う組織、動燃=動力炉・核燃料開発事業団、今の日本原子力研究開発機構が、昭和の終わりから平成のはじめにかけて建設しました。発電しながら使った以上の燃料を生み出すとして、「夢の原子炉」と呼ばれていました。
「もんじゅは、日本の原子力開発のシンボル的な存在で、私たちだけでなく、他の電力会社も一緒に官民一体で進めていました。将来のエネルギーのため、日本だけではなくて、大げさかもしれないですが、人類のために開発をしているという使命感がありました」
しかし、運転を開始した翌年の平成7年、状況が一変します。空気中の水分に触れるだけで燃える、冷却材のナトリウムが漏れ、火災が起きました。放射性物質が漏れることはありませんでしたが、このとき、事故をわい小化するため、現場を撮った映像を、意図的に短く編集していたことが発覚。社会の大きな不信を招きました。
平成は、その後も事故やトラブルが相次ぎました。

平成11年、JCO臨界事故。東海村にある核燃料加工会社「ジェー・シー・オー」(JCO)で、核燃料の製造過程で違法な作業が行われ、核分裂反応が連続して起きる「臨界」が発生。作業員2人が死亡したほか、周辺住民などおよそ660人が被ばくしました。
平成16年、美浜原発の蒸気噴出事故。関西電力の美浜原発3号機で配管が破損する事故が起き、吹き出した高温の水蒸気により、作業員5人が死亡、6人が大やけどをしました。
平成19年、柏崎刈羽原発の火災。新潟県中越沖地震で、東京電力の柏崎刈羽原発の「変圧器」と呼ばれる施設が燃えました。住民や自治体に原発の状況が伝わるのに時間がかかるなど、東電の対応が問題視されました。

それでも、原発をめぐる裁判のたびに、国や事業者は、「安全性は十分だ」という主張を繰り返しました。

なぜ、国や事業者は、原子力に、事故やトラブルが起きるリスクが伴うことを十分、社会に伝えなかったのか。向さんは「原発を停止させる事態は何としても避けたい」という空気が、業界にあったと証言します。
向和夫さん
「もんじゅの事故が起きた時、パリの駐在先にいたのですが、一報を聞いて『まさかナトリウムが漏れるなんて』と、とても驚いたのを覚えていて、すぐに日本に戻って対応に当たりました。しかし、事故後の対応を振り返ると、危機管理に対する考え方が不十分だったために、『事故』が『事件』になってしまったと思います。当時の業界は、当面を取り繕って、早く次の段階にいきたい。運転が止まったら、早く再稼働させたい。そういう感じが非常に強くありました。リスクを社会と本当に共有するということが、全く足りなかったんだろうなという反省があります」
現役時代の北村さん
トラブルが相次いだ頃、元日本原電の北村さんは、原発を推進する業界団体、今の「日本原子力産業協会」に出向していました。

そこで、海外の原発を視察、進んだ安全対策を目のあたりにします。たとえば、原発で重大な事故が起きることを想定した訓練。どのような事故が起きるのか、現場にはシナリオを伏せたままで行われ、事故をどのように収束させるか、実践的に行われていたといいます。日本でも対策を取り入れるよう訴えましたが、かないませんでした。原子炉を冷やす電源の多重化など、安全対策の強化も図れなかったといいます。
「追加の安全対策をするというようなことを言うと、『何だと、前に安全だと言ってたじゃないか』とか、『なんで追加する必要があるんだ』、『じゃあ、前に言ったのはウソか』と、社会から指摘されると言われてしまいました。安全性について疑問を投げかけるようなことがなかなかできなくなっていたんです」

安全神話で、自縄自縛に

事故前の福島第一原発
「安全」と言い続け、深刻な事故の「リスク」から目を背けてきた、日本の原子力。いつのまにか築かれていった「安全神話」の中で、身動きが取れなくなっていたのです。

その状況を覆い隠したのが『原子力ルネサンス』。平成の半ばに、世界的に起きた、原子力を再評価する動きです。
アメリカ ブッシュ大統領(平成19年)
「原発を政策の中心にするべきだ」

原発は運転中に温室効果ガスを出さず、環境に優しいとされ、アメリカで推進の動きが強まり、世界各国で建設が一気に増え始めました。日本も国策として原発の海外輸出を打ち出しました。
原子力委員会の元トップ 近藤駿介さん
その方針、「原子力政策大綱」をまとめた原子力委員会の元トップ、近藤駿介さん(76)を訪ねました。

近藤さんは、平成の始まりから事故やトラブルが続き、信頼が地に落ちていた、日本の原子力の信頼を立て直そうと、平成16年に委員長を引き受けました。「国民から信頼できる姿にならないと、原子力の将来はない」と考えていました。各地で一般の人から意見を聞く集まりを開催し、信頼回復を図ったといいます。しかし、世界に原発を売り込もうというときに、リスクもあることを伝えて、水を差すようなことはできない雰囲気だったと証言します。
「原子力を推進する側は、『原子力に伴うリスクをそこまで言わなくていい』と考えていました。リスクをどこまで社会と共有しなければならないのかを言いだすと、本当に大論争になってしまいます。しかし、『潜在的にこんな危険性があるのでこんな対策を取っています。だから、われわれとしては安全だと考えています』という説明を丁寧にする責任と義務は、当然、推進側にあったと思うんですよね。それが十分であったかというと、結果として十分じゃなかったのではないかと反省しています」
また、リスクに関する情報を独占していた電力会社が、あえてそれを社会に伝えようとはしなかったと言います。
「国民に、原子力に関する情報をほしいと思っていただかないかぎり、なかなか取りにも来てくれないし、聞いてもくれなかったのです。正しい情報が伝わるかどうかという観点で、一生懸命、発信に努めましたが、人々の関心を持ってないものに関心持たせることができなかったのです」
原発に反対する市民団体や専門家の中には、事故のリスクを指摘していた人もいましたが、結果として対策の強化にはつながりませんでした。
福島第一原発に押し寄せる津波(平成23年3月11日)
そして、原子力に潜むリスクが現実のものとなりました。
今、富岡町には、除染で取り除いた土が、大量に保管されたままになっています。

原子力を推進しながら、原発事故の被災者になった北村さん。平成の原子力の歩みを振り返り、原発の安全性を高める提言ができなかったことに、強い後悔の気持ちを抱いています。
北村俊郎さん
「今になって思えば、周りの流れとか雰囲気とか、そういうものに飲み込まれていたんだなと思います。異論を言う人を除外しようとする力がどうしても組織の中で働いてね。自分もやっぱり組織の一員です。組織の中で除外されてしまったり、潰されたりしてしまうことを恐れて、何も言えなくなってしまう。ブレーキがどうしてもかかったのです。勇気をもって言うことができなかったんです」

新たな時代に向けて

原発事故が起きるまで、原子力のもつリスクに真摯(しんし)に向き合ってこなかったという当事者たちの証言。改めて平成は、国や電力事業者が社会との対話に失敗を繰り返してきた時代だったと思います。
一見、情報公開を進めてきたようで、肝心な情報を伝えるのに後ろ向きでした。福島第一原発がいわゆるメルトダウンしていたことについて、東京電力は2か月間認めず、それが当時の社長の指示だったことも事故から5年にわたり、公表しませんでした。事故のあとも、不都合な情報はできるだけ出さないという電力会社の姿勢は厳しく指摘せざるをえません。

そんな原子力も含め、私たちの暮らしに欠かせないエネルギーをどう確保するか。原発を続けるにせよ、やめるにせよ、どちらを選択するにしても、大きな課題があります。

原発を続ける場合、安全対策を強化し、国の審査に合格しなければなりませんが、潜在的なリスクは減少してもゼロにはなりません。また、処分場が見つからない、使い終わった核燃料から生まれる、いわゆる「核のごみ」を出し続けることにもなります。

一方、やめる場合には、太陽光や風力といった再生可能エネルギーを中心に電力の安定供給を図らなければなりませんが、導入を増やすには送電網の整備が必要で、当面は大きなコストがかかります。また、火力発電に頼れば、温室効果ガスの排出が減らず、課題はいろいろとあります。

では、どのようなエネルギーを選択するのか。エネルギーをめぐる国民的な議論は、原発事故の直後には盛り上がりましたが、その後はすっかり下火になりました。私たちの子どもや孫の世代、その後も持続可能なエネルギーをどう選択していくのか。新たな時代に向け、国は限られた関係者だけで議論するのではなく、より多くの人たちが参加できる場を設け、私たちも、積極的に参加することが必要だと思います。

科学文化部記者

藤岡信介

平成20年入局。青森局・福井局を経て、平成29年から科学文化部で原子力分野を取材。前任の福井局では、原発の再稼働や廃炉、高速増殖炉「もんじゅ」などを取材し、現在は、原子力規制委員会を担当。

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