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「ごめんなさい 救助のヘリじゃなくてごめんなさい」

「来ていますよ、津波。来ている、来ている! 川を上って来ていますよ! 正面」

それまで冷静だったパイロットの緊張した声で、カメラを前方へと向けると、名取川を津波が遡上してくる様子が確認できた。

午後3時54分。ヘリの映像が、テレビで生中継され始める。

白波がザーッと川を上ってくる様子の撮影を続けていると、再び前方の席に座るパイロットと整備士の叫び声がした。

「海、海、海。もっと左、左、左」

カメラマンの座席は後部右側。真ん前や左側はよく見えない。指示された側にカメラを振ると、黒い津波が陸上にも押し寄せていた。

東日本大震災の津波の恐ろしさに、世界中の人が気づいた瞬間だった。

撮影できたのは「偶然」

この映像を撮影したのは、当時入局1年目の鉾井喬だ。ヘリでの撮影は研修を含めてこの日が4回目。4回といっても、実際に放送に使われたのは、前日に撮影した海岸の不法投棄現場の映像が初めてだった。

NHKのヘリは緊急報道に備え、365日スタンバイしている。

東北地方は仙台放送局がカバーし、東北中の若手カメラマンが交代で待機。3月11日は午前中にヘリの入れ替えがあり、午後は格納庫から機体を半分出して、電波チェックを行っていた。

午後2時46分、東日本大震災が発生。

ちょうどカメラの操作練習のため、鉾井がヘリの座席に座っていた時だった。ヘリのローターが地面に接触するかと思うほどの大きな横揺れ。整備士に機体から引っ張り出されて外に出ると、慌ててカメラを持って周囲の撮影を始めた。

ヘリの格納庫のシャッターが落ちている。格納庫内に入っていたヘリは、揺れによって機体同士が接触。すぐに飛び立てるような状況ではなかった。NHKのヘリは、たまたま格納庫の外に出ていたため助かった。

すぐにフライトしなければ。

整備士がヘリの状況を点検すると、なんとか飛ぶことができそうだった。携帯電話はすでにつながらない状態になっていて、頼りは無線だけだ。

地震によって停電が発生、滑走路は閉鎖状態になっていた。

パイロット「JA62NHの離陸許可を願います」

運航情報官「ランウェイクローズです。離陸は認められません。管制官もタワーから避難しています」

なかなか飛び立てない状況が続く。そんなとき無線で、誰かが呼びかけてきているのに気づいた。避難していた管制官が、手持ちの無線機を使ってヘリと交信してくれたのだ。

パイロット「JA62NHです。離陸許可を願います」

管制官「了解。自身の判断で離陸してください」

午後3時10分、ヘリは仙台空港を離陸。地震発生から20分余り経過していた。その時、飛び立てなければ、NHKのヘリも津波に巻き込まれていたかもしれない。

イメージは阪神・淡路大震災だったが…

仙台局からの指示を受けてヘリが最初に向かったのは、仙台市の中心部だった。

鉾井にとって、巨大地震のイメージといえば、阪神・淡路大震災だった。高速道路の橋桁がなぎ倒され、至る所で火災が起きる都市型の大災害。緊張でカメラのコントローラーを握る手に、汗がにじむ。焦る気持ちに気づいたのか、「落ち着いていこう」と、局にいるデスクが無線で声をかけてきた。

上空からだと、市中心部では家屋の倒壊や火災などは確認できない。車の流れもスムーズに見える。

「地震の規模の割には大丈夫かもしれない」

そんなことも頭をよぎった。

市役所の前に、人だかりができている様子を上空から撮影していると、局内から「栗原方面へ」という指示が出た。

県北部の栗原市では最大震度7を観測していた。被害状況をいち早く確認したいところだった。

マンション火災などを撮影しながら、ヘリは北上を続ける。そこに分厚い雪雲が現れて、行く手を阻んだ。一気に視界が悪くなった。

「北部天候悪化です。これ以上、北には行けません」

危険だというパイロットの判断で、雪雲を避けるように仙台市中心部へと引き返すことになった。

海の様子はどうなっているのか。雪雲が切れている仙台空港近くの海岸線なら出られそうだ。名取川に沿って海へと向かう。

気仙沼市や岩手県の釜石市では、港に津波が来ている様子がNHKの固定カメラで確認されたらしい。局内からは、

「津波が来るかも知れない。カメラを川に向けろ」

と指示が出ていた。

あれが津波なのか

この映像は、テレビで生中継されているに違いない。

川を遡上しているあれが、津波なのか。それを追うようにカメラで追っていると、前方のパイロットと整備士が叫んでいる。

「海、海、海。もっと左、左、左」

津波は道路や車、家を次々に飲み込んでいき、燃えたまま流されている家もあった。地面からのぼった土ぼこりは空まで届き、黒くなっている。まるで地獄のような光景で、頭の中で理解が追いつかない。

「極めて危険な状態なのですぐに避難することが必要です」

「近くに高台がなければ、コンクリートの建物のなるべく上層階に逃げてください」

映像を生中継していたテレビでは、アナウンサーや記者が、避難を呼びかけ続けていた。

撮影していた鉾井は、冷静だった。あまりにも現実離れしていて、まるで映画のように感じたからだという。津波が押し流している車や家には、多くの人がいるに違いない。人が巻き込まれる瞬間などが生中継で映り込むことがないよう、画面のアップを極力避けるよう意識した。

起きていることを正確に記録しなければ。とにかく撮ることだけで精いっぱいで、他のことを考える余裕はなかった。

その後、ヘリは沖合を遡上する津波の姿も捉えていた。幾重にも重なって押し寄せてくる津波。その様子を実際に見ると、危険性がより伝わってくる。

仙台空港の周囲は、一面が水没。滑走路はもはやラインがうっすら見える程度で、この1時間で状況は一変していた。

空港のビルの屋上には、避難している人の姿が見えた。とても着陸できる状況ではないので、ヘリは福島空港に向かうことになった。

海岸線を南下し、水没した住宅地などを撮影しながら向かう。

午後5時20分、2時間を超えるこの日のフライトを終えたとき、燃料は残りわずかになっていた。

自分だけ安全な場所にいるような

撮影で精いっぱいだったが、ヘリを降りると、今まで撮影してきた光景が現実なのだという実感が、一気に湧いてきた。

たまたまヘリの練習をしていて、機体も外に出ていたため、ヘリは飛び立つことができた。もし格納庫に入ったままだったら、空港周辺の取材に出ていたかもしれない。津波に巻き込まれていた可能性もある。ヘリが飛べたおかげで助かった。

そして自分は、惨事が起きているなかで、空の上という一番安全な場所にいた。罪悪感のような複雑な気持ちがこみ上げ、消えなくなった。1人でも多くの人に助かって欲しい。やりきれなかった。

2011年10月18日。

鉾井の姿は、優れた報道に贈られる日本新聞協会賞の授賞式の会場にあった。

受賞理由は「地震直後に飛び立ったヘリコプターから押し寄せる大津波をリアルタイムで全世界に中継し、大津波の恐ろしさや被害が拡大する様子を伝え、住民の避難や救助活動につなげた」ということ。

乗り気ではなかった。たまたまヘリ当番で居合わせただけで受賞することに、違和感があった。自分じゃない人が受賞すればいいのにとさえ思った。辞退することも頭をよぎったが、自分の功績ではなく、パイロットや局内のデスクを含め、365日体制で行うNHKヘリの緊急報道体制に対しての賞だと思うことにした。

「あの現場を撮ったことに対して、誇りを持て」と言われたこともあった。撮った映像は貴重だと感じるが、そういう風に思うことはできなかった。自分の成果ではない。逆に、ヘリのおかげで自分の命が助かっただけだというのが正直な気持ちだった。

ヘリを降りた後、福島放送局に戻ったが、原発事故が発生し、当初、なかなか現場で取材できなかったことに対するジレンマも感じていた。

爆発して以降は、外の取材が制限される機会が増え、東電の会見対応などに追われた。原発周辺の状況が気になっても、警戒区域が設置されている20キロ圏内の取材ができない。映像を撮って伝えるのが仕事なのに、足を運べない無力を感じた。

少しでも不安になっている人たちと同じ目線、近い目線でいたい。津波を撮影していた時に、自分は上空の一番安全な場所から津波を見ていたということ、頭では必要なことと理解しても、心では負い目に感じてしまっていた。現場で撮影できないフラストレーションはたまっていった。

そしてNHKをやめた

入社から3年余りたった2013年、NHKを退職する道を選んだ。転勤を打診されたが、福島を離れたくないという思いが強かったためだ。福島の自然、そこで暮らす人たちの魅力を強く感じていた。

退職後は、美術作家として活動を始めた。震災が風化していく、と感じながらもなかなか正面から向き合えなかったが、たまたま知り合った浪江町の男性との出会いが背中を後押してくれた。浪江の男性は、いつか住民が帰還できる日に向け、桜の手入れを続けていた。「帰ろうと思ったときに、ずっと咲いていた桜が今も咲いていると、気持ちは全然違うはず」そう笑顔で語る男性の前向きな姿に感動した。

そして福島県内の桜を追う映像作品「福島桜紀行」の撮影に乗り出した。被災した場所も、そうじゃない場所も同じように桜が咲いている。

普通の暮らしも、いまだ戻れないところもある福島県。それぞれの場所で違う魅力があることを伝えたい。震災発生から5年が経った2016年に「福島桜紀行」は公開され、規模は小さいながらも全国各地の劇場で上映された。

2016年からは、母校の東京藝術大学の非常勤講師も務める。職業は変わっても伝えたいという気持ちは同じ。10年が経った今年は、エネルギーをテーマにした造形作品を作った。

2019年「存在と痕跡」

「自分が今やっていることは直接的な支援や、人の心を変えるという行動ではない。効率がいいとは思わないが、自分が信じる方法でやっている。あれから10年というが、福島がいまだこういう状況なのは事実。これからも客観的に福島を見続けていきたい」

「見てしまったこと」の重み

同じヘリに乗りながら、残ってニュースを伝え続ける選択をしたのが、小嶋陽輔だ。当時は入局8年目で、仙台局のカメラマンだった。

震災が起きた翌日の12日、鉾井に代わってヘリに搭乗。そこで見た光景について、「見てしまった十字架を背負った」と彼は語る。

彼の乗ったヘリは、午前6時ごろ福島空港を飛び立った。

東京出張中だった小嶋が、空港に到着したのは12日の午前4時。局内からの指示を受け、気仙沼市を目指していた。前夜、自衛隊が撮影した気仙沼市内が炎上する様子が衝撃的で、その状況を確認するためだった。

海岸線沿いに北上する。仙台港のコンビナートは炎上し、航空自衛隊の松島基地や、石巻市内は一面が水没していた。ヘリから見える光景すべてが、平常時だったら現場を離れず中継を続けるような事態だった。

撮影を続けながら、南三陸町の上空に差しかかった。実はちょうど2週間前、取材でこの町を訪れたばかりだった。前年の2010年に起きたチリ地震で、養殖施設が被害を受けていた。津波対策として、町の養殖業者たちがいかだを流されないように、ロープを太く、重りをさらに重くする対策を取ったことをニュースで伝えた。

しかし、今回の津波はそれをはるかに上回る規模で押し寄せた。町の姿は一変。木造家屋は根こそぎ流されていて、上空から見えるのは、コンクリートの建物だけだ。

上空から撮影していると、町の基幹病院「志津川病院」と、結婚式場の「高野会館」の屋上に、たくさんの人がいるのが見えた。

ヘリに向かって手を振る人たち。みんな救助を求めている。高台の上にある「志津川高校」のグラウンドには、大きなSOSの文字も見えた。

上空から初めて見る、救助を求める人の姿。胸が締め付けられるような思いだった。しかし自分たちのヘリでは助けることができない。

「ごめんなさい。救助のヘリじゃなくて、ごめんなさい」

心の中で唱えながら、撮影を続けた。一刻も早くこの状況を伝えなければ。SOSの文字を目にした時、今一番伝えなければならないのは、被害ではなく助けを求める人の居場所だと感じた。地上から「助けてください」の声が聞こえるような気がした。

当時の映像を見ると、今でも動悸がとまらなくなるという。

ごめんなさい

気仙沼に到着すると、まだ火の手があがっていた。

陸上には船が打ち上げられていて、海の上には養殖用のいかだが燃えている。魚市場の一階部分も完全に浸水している。

ここも、何度も番組撮影で訪れた思い入れがある場所だったが、燃料に限りがあり、一とおり撮影した後で、福島空港方面へ引き返すことになった。

海岸線を戻りながら撮影を続けていると、岩沼市の病院の屋上でも、白い旗や傘を振って助けを求める人の姿が見えた。屋上にはHELPの文字も。

「ごめんなさい。ごめんなさい」

助けることが出来ない代わりに、病院の周囲の状況の撮影を始める。病院の周りは水没し、完全に孤立状態なのがよく分かる。ヘリが撮った映像には、状況を伝えるための小嶋の肉声も残されていた。

「岩沼市の南浜中央病院です。周りは完全に水に覆われています。完全に孤立しています。屋上にはHELPの文字と、旗を振る人の姿が見えます」

この状況をなんとか伝えたい。ただその一心だった。

その5分後、気持ちが救われるシーンにも遭遇した。山元町の住宅の屋根から住民が自衛隊のヘリで救助されていたのだ。自分たちが救助できない無力感を感じていたので、余計に頼もしく思った。

「湯気、出ていませんか」

午前9時ごろ福島空港に着陸した。

すぐに給油して再び取材に出たいところだが、そうはいかない。燃料補給の順番待ちだった。仙台空港が津波で使用できないため、様々な機関のヘリが続々と福島空港に集まってきたためだ。当然のことだが、給油は人命救助のヘリが最優先だった。

NHKのヘリが再び飛べるようになったのは、午後になってからだった。より飛行時間が長い東京のヘリが東北の被災地をカバーすることになり、仙台のヘリは海岸線を撮影しながら東京を目指した。

途中、海側から福島第一原子力発電所を撮影した。午後2時すぎだ。原発の排気筒からは、なにか白いものが出ているのが見える。

「湯気が出ていませんか?」

パイロットと話しながら撮影してた。今考えると、この時は原発事故が発生する直前で、現場ではベント(原子炉の格納容器の破損を防ぐために、内部の水蒸気や放射性物質を外に放出する操作)の作業が行われていたわけだが、当時はそんな知識はない。映像を見ていた局内のデスクから無線が入る。

「もういいから、その場からすぐに離れろ!」

ヘリが東京に到着すると、すぐに自分たちとヘリの機体の放射線量を測るよう指示された。数値は0だった。いったいどういうことだろう。

ヘリが着陸したあと、まもなく原発が爆発したと、後に聞かされた。撮影した原発の映像は、NHKの中で爆発前を捉えた最後の映像となった。一歩間違えていたら大変なことだったと、今でも恐ろしさを感じる。

戻らせてください

東京では引き続き、ヘリ担当を命じられた。もちろん、東日本大震災は東京でも深刻な影響が出ていた。しかしなぜこれまで取材を続けてきた地域に取材に入れないのかと、じくじたる思いがあった。東北に行かせて欲しい、戻らせて欲しいと上司に懇願した。

戻ることが認められて、真っ先に向かったのは、ヘリの目的地だった気仙沼市。陸路でたどり着いたのは3月15日で、ヘリで撮影してから3日が経っていた。

幹線道路は通れるようになっていたが、道路の両脇にがれきが山積みだ。道路沿いの店の中にはまだ海水が残っている。海沿いの地区では、道路をがれきがふさぎ、連絡がつかない家族を探す人たちの行く手を阻んでいた。

「水も電気もまだきていない。でも一番知りたいのは、安否です。電話もつながらないし、どうすればいいのか」

多くの被災者が、そう語っていた。

その夜、向かったのは市の防災センターだった。災害用の電話が復旧したことを取材し、伝えるためだ。被災した人たちに少しでも役に立つ情報を。その思いからだった。

その後、南三陸町でビルの上に避難した人たちのもとを訪ね、あの時どういう思いでヘリを見ていたか、直接尋ねたこともあった。

「なかなか降りてこないな、救助のヘリじゃないのかなと思っていた」

「すみません」

顔を合わせて、直接、謝った。

あれから10年。東京に転勤した今も、毎年欠かさず被災地の取材を続けている小嶋。彼にその理由を尋ねると、こんな答えが返ってきた。

「うまく言えないが、『見てしまった十字架を背負った』という気持ちになった。この瞬間に立ち合ったのだからという思い。人を救助するヘリではないので、その分映像で貢献しなければならないが、そこが及第点だったかどうかという負い目を感じている」

「上司や先輩からはそんなことを考えなくてもいいと言われたが、当時は言われたものを撮らなければと夢中だったし、助けを求める人の姿を見ると冷静ではいられなかった。自分の知っている土地だったのだから、『今伝えるべきはこれだ』という明確なメッセージ性をもった撮り方がもっとできればよかったと思っている」

「ヘリで上空から撮影してそれで終わりでなく、そこに映っていた人たちのこの先もちゃんと取材していかなければダメだと」

2人が語ったのは

災害の際、被災地の実態をいち早く伝え、救助や支援にもつながる情報を広く届ける役割があるヘリ取材。もちろん、人命救助の妨げにならないよう、万全を期してはいるが、批判されることもある。今回、2人が共通して語ったのは、「もっとできたことがあったはず」という後悔の言葉だった。

関連死も含め2万2000人以上が犠牲になった東日本大震災。津波が来る危険性がもっとリアルに、もっと早く、もっと自分ごととして伝わっていれば、助かった命もあったはず。後悔しているのはカメラマンだけでない。記者だってそうだ。

2人はこれまであまり積極的に当時の体験を話してこなかった。私も小嶋とは同期で、仙台局でも3年間一緒に働いてきたが、ヘリの体験を聞いたのは初めてだ。局内でもあまり知られていないこの話を聞いて、彼が自らの熱を注ぎ込んで震災を伝え続けている理由が、初めて分かったような気がする。

鉾井はNHKを離れたが、あれから10年たったいま、改めて取材を受けてくれた。歩む道は変わっても、2人の伝え続ける決意を感じると、震災10年というのはただの通過点に過ぎない。あの震災を自分ごととして捉えてもらえるよう、私も引き続き取材を続けていかねばと、思わずにはいられない。

鉾井 喬

・福島放送局 2010~2013

・美術作家・東京藝術大学非常勤講師

https://www.hokoitakashi.com/

小嶋 陽輔

・仙台放送局 2009~2012 2015~2019 

・今年は3月3日「クローズアップ現代+」原発7キロの喫茶店を担当

・写真は気仙沼で被災された方と。左が小嶋。

成田 大輔(聞き手)

・仙台放送局 2016~2019

・小嶋とともにNHKスペシャル「黒い津波」を制作

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