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「好き」を追い続けると、世紀のスクープに出くわすこともある。どこへ飛ぶのか“ちょうちょ記者”

幼少期に出会った1頭のモンシロチョウが導いた憧れの地、ブータンの秘境。NHKの報道現場で好きなことを追い続けて20年、変わり種と言われながら40半ばの今も新たな情熱と興奮が止まらない。そんな私の「ノート」をご覧ください。

鉄道少年が「チョウ」と衝撃の出会い

はじめまして斎藤基樹といいます。チョウが好きでこれまでの人生をチョウと過ごしてきました。

子どものころは駅近くの小さなアパートに暮らし、毎日母親にせがんでは線路沿いの金網にへばりついて電車を見るのが好きな鉄道少年でした。それが唐突にチョウに目覚めることになったあの時の光景は、40年以上たった今も脳裏に焼きついています。

母親と買い物に出かけようと外に出たとき、日暮れてピンクや青や黄色の混ざった複雑な色の空を見上げた私の目に、不意に緩やかに舞うものが像を結びました。「そいつ」は残照の光を浴びて銀色に鈍く輝きながら、止まろうともせずふわふわといつまでも私の頭上を舞っていました。

その1頭のモンシロチョウを、幼かった私は「美しい」と本能的に感じたのでしょう。毎日あれほど熱い視線を送っていた電車には見向きもせず、ひたすらチョウを追いかけるようになったのでした。

なぜチョウが好きなのかというと

・どんなデザイナーも敵わない鮮やかな意匠を纏った自然界の美の化身。

・卵から成虫になるメタモルフォシスが神秘的。

・慎重かつ大胆に追い続けてついに捕虫網に捕えた時の原初的な「狩り」の感覚が魅力的。

・知力、体力、精神力を総動員して野外に潜むチョウを探し出す推理の悦び。

納得させられそうな理由はいくらでも思いつきます。でも「好きだから好き」としか言いようがないのが実情で、チョウを好きになって40年以上経った今も良く分かっていないのです。

「それ記者でなくてもいいんじゃない?」

チョウに魅せられた子どもはそのまま育って大学を出て、NHKの記者となりました。なぜNHKなのか?記者なのか?と聞かれるとちょっと言いにくいのですが、なるべく一瞬で読んでください。

「就職試験を受けられたのがNHKだったから」です。

そんなにチョウが好きなら研究者になれと思われるかもしれませんが、高校生にもなると研究者の世界の厳しさも理解できるようになります。

「学者で食っていくのは大変だぞ。趣味として続けるのが賢いぞ」という父親のささやきも後押しして、大学で文系を選んだのが運の尽きでした。

20年以上前のマンモス大学の文系は牧歌的でした。講義にまったく出なくても試験である程度の点数さえとれば単位がもらえたのです。

テニスサークルやらスキーやら合コンやら・・にほぼ関心なかった私にとって、有り余る自由時間はまさに悪魔の誘惑としか言いようがなく、バイトして金を貯めてはチョウを採りに国内外に出かける暮らしが始まったのです。(写真は大学に入学して早々の5月、授業をサボって単独で行った伊豆諸島の秘境・御蔵島にて)

しかし楽しい時間も長くは続かず、私にも就職活動という冬、しかもバブルもとうにはじけた氷河期が襲ってきました。高校時代にチョウ採りをしすぎて浪人、とある大学に入ったものの1年で中退、入りなおした大学でもチョウ採りをしすぎて留年という「3周遅れ」で、就活の勝算は限りなくゼロでした。

そのころ金融業界などは3年遅れたらエントリーすらできません。しかしNHKは3年遅れでも受験ができました。受験できるというそれだけですっかり安心して業界研究もろくにしなかったのですから、どこまで楽天的だったのでしょう。

NHKの記者職の確か二次面接で志望動機を尋ねられ、「良質な自然番組を作りたいです」などと答えたら、「それなら記者じゃなくてディレクターを目指した方がいいのでは? 今ならまだ志望先を変更できるよ」と忠告されました。

「ここで『変えます』といったら軟弱さを見抜かれて落とされる」と考えてしまった私は、「いや記者として現場にこだわるのに意味があるんです」などと言ったように記憶しています。

「これは落ちた」と思ったのになぜか選考が進んでひろってもらえました。改めてこんな私を採用してくれたことに感謝するとともに、きっと私などよりはるかに記者として意欲も能力も優れた志望者がいたはずで、今さらながらスミマセン、という気持ちです。

「好き」が役立つこともある

翌春に研修を終えて配属されたのが沖縄局でした。新人の配属先として沖縄は人気で他に志望者もいたのに、なぜ私が配属されたのか。まだ肌寒かった4月の研修中に私だけずっと半袖で過ごしていたので、南方が向いていると判断されたのかもしれません。

仕事を始めると学生時代のように自由な時間が無くなるのはしかたなく、何より記者は突発の事件や事故、災害などを追いかける仕事です。ありあまる時間があっても採り切れない、探り尽くせないチョウの奥深い世界とは縁遠い職業であったのは確かでした。

しかし根が怠け者な私はどうしても「仕事だけ」に没頭することができず、わずかな余暇を使ってはチョウを追いかけていました。

「のんきなことをしてないで記者の仕事に集中しろ」という声が聞こえてきますが、時にはチョウ好きの人脈が仕事に生きたこともありました。

実は世の中にチョウ好き、昆虫好きという人は意外に多く、しかも大抵が単なる道楽です。沖縄のある大病院の院長が熱心なチョウ好きで志が同じ者どうしすっかり打ち解けて、医療の取材でお世話になったことがありました。

私のような者が言うのもなんですが、これから就職する学生のみなさんにお伝えしたいのは、何か真剣に情熱を傾けられるものがあるなら、そうやすやすとあきらめないでほしいということです。

デジタル化は一層進行し、旧来の社会常識があちこちで音を立てて崩れています。そこに拍車をかけているのがウイルスの世界的な感染拡大で、これまでの成功パターンを後追いするだけでは立ち行かない時代になっています。

こうしたときこそ「多様性」が、社会のどの階層でも光を放つのではないかと私は考えています。多様性を生み出すのは1人1人の豊かな個性にほかなりません。そうした個性は、それぞれがこだわるもの、譲れないもの、情熱を傾けて悔いのないものに出会うときにいっそう輝きを増すのです。

会社や組織であたかも取り換え可能なパーツのように自分を卑下することはありません。1人の真摯な情熱さえあれば、周りを巻き込んで何かを成し遂げることはできます。そう実感したのがブータンに幻のアゲハチョウを追った、あの夏のことでした。

幸せの国、ブータンとの出会い

ちょうど10年前の2010年10月、名古屋でCOP10という生物多様性条約締結国の国際会議が開かれ、ヒマラヤの山国、ブータンの農林大臣一行が出席していました。沖縄で6年勤務したあとで東京の科学文化部に異動し、自然保護や環境問題を担当していた私も会議の取材にあたりましたが、取材とは別にある“ミッション”が与えられました。

私がチョウの師匠と仰ぐ研究者たちが所属している、東京・世田谷区の「進化生物学研究所」の当時の所長がブータン使節団の政府高官と親友で、「会議後に東京で接待したいので、キミが取材で行くなら、すまんが帰りにエスコートしてきてくれないか」と頼まれたのでした。

この研究所は梁山泊みたいな実に不思議な組織で、私が出入りしている昆虫研究室のほかにも多肉植物や魚類、古生物などの研究室もあって、それぞれに味わい深い研究者がひしめき合っている、いわば多様性の巣窟なのです。

当時の所長は造園学が専門で、ブータンの王族に頼まれて首都ティンプーに長期滞在して植物園の建設を指導したことがあって、そのときに政府のカウンターパートとして仲良くなったのがその政府高官だったのでした。

ヒマラヤの山国ブータンは、今でこそ「国民総幸福」(GNH)などの概念で日本でも知っている人が増えましたが、10年前は一部の登山家や生物研究者、文化人類学者が注目していたぐらいで、それほど知られた存在ではなかったと思います。

私の好きなチョウに関して言えばシャングリラ(桃源郷)そのもので、野生のトラやゾウが闊歩する低地熱帯雨林からグレートヒマラヤの7000m超の雪嶺まで、九州ほどの広さの国土に驚くべき多様な自然が息づいています。

特に標高2000m前後の中山帯に広がるカシやシイなどの照葉樹林帯の生態系は西南日本の照葉樹林帯と良く似ていて、いわば日本の動植物のルーツとも言える場所で興味は尽きません。大型の哺乳類ですら新種が見つかってもおかしくないような原初の自然が息づいている国なので、チョウなどはこれからも新種が続々と記録されることでしょう。

これまでブータンの深い森に分け入ってチョウを研究した人は限られ、情報も少ないですが、その中で1種類だけ化け物のようなアゲハチョウが記録されています。

“伝説の聖杯"か? 「ブータンシボリアゲハ」

ブータンシボリアゲハ(Bhutanitis ludlowi)は、イギリス人の植物学者で1933年、34年にブータン最東北部を踏査したフランク・ラドロー(Frank Ludlow)と、ジョージ・シェリッフ(George Sheriff)の一行によって、3オス2メスの5頭が得られ、大英自然史博物館に保管されているだけの「幻のアゲハチョウ」です。

「属名」にブータンが入っているのは、このシボリアゲハ属は4種類だけの小さな属で、代表種のシボリアゲハもブータンで記録されたため。シボリアゲハ属はいずれも2つもしくは3つの尾を持つ奇怪な翅の形をしていて、黒地の翅に白または黄色の帯が走り、美しさとともに神秘さを感じさせるアゲハチョウです。

シボリアゲハが1873年に新種発表された時、研究者や愛好家はその魁偉な姿に興奮し、一種のフィーバーになったといいます。(画像は1873年のロンドン動物学会報に新種として発表されたシボリアゲハの論文に付された図)

著名な富豪のイギリス人コレクターは3度にわたって探検隊を組織し、標本を得たいと試みたものの、熱帯病やトラの襲撃、現地人の略奪に遭って死者まで出たと記録が残されています。

インド東北部の奥地ナガヒルで大産地を発見したアメリカ人探検家も、採集中に現地人が仕掛けたトラの落とし穴にはまって大ケガをしました。シボリアゲハを特徴づける後ろ翅の大きな紅色の斑紋は、血に塗れた鮮やかさだと語る人さえいます。

シボリアゲハはその後インド、中国、ビルマ(現ミャンマー)、タイ(1980年代に絶滅したとされる)からも相次いで発見され、ヒマラヤ山脈南面に沿って意外に広く分布することが明らかになりましたが、ブータンシボリアゲハについては謎のベールに包まれたままでした。

広大なアジア地域に生息するアゲハチョウの中で、まさに最後に残った大物、「伝説の聖杯」みたいな存在だったのです。

「再発見されたって…」「!!!」

さて名古屋での国際会議に出席したブータンの政府高官は、農林大臣も、研究所長の畏友の国家環境評議会次官もフレンドリーな人たちで、名古屋から東京までエスコートした私はいたく感謝されました。下の写真は右がペマ農林大臣(当時)、左がウゲン国家環境評議会次官(当時)です。

「ぜひブータンに来なさい。チョウの調査も何か考えてあげよう」というありがたい言葉をいただいてから一ヶ月。

神の見えざる手とでも言うのか、何かをきっかけに物事が動き出すことが人生にはたまにあります。東京の大学で蝶の学会の大会が開かれ、そこにはるばるイタリア・ミラノから旧知の研究者が参加してくれたのですが、彼がただならぬことを口にしました。

「ブータンシボリアゲハが地元の森林保護官によって再発見されたらしいよ」

この研究者は地中海から中国大陸まで世界各地に調査に入っているエキスパートで、知識や経験は私と比べようもなく、彼ほどの人物がただのシボリアゲハと見間違えた同定ミスとは考えづらいことでした。実物を入手したわけではないが何か確証を得ている様子が伺えました。

ブータンの政府高官から「遊びに来なさい」と言われたばかりで、再発見したのが森林保護官ならばまさに農林大臣や国家環境評議会次官の「部下」に違いなく、これはもう現地に行くしかないではないか!

無理矢理休暇を確保して旅行の手はずを整え、ブータンに飛んだのは10日あまり後のことでした。

大臣 「ほんとうに来たのかあいつは!」

タイのバンコクを経由してブータン唯一の国際空港のパロへ。褐色のインド平野からヒマラヤ山脈の前衛山塊に向けて一気に山岳地帯となるダイナミックな地形と、紺碧の空の向こうには威容を競うグレートヒマラヤの聖なる雪嶺。興奮は高まります。

気流が不安定な急峻な山岳地帯を縫うように進入し、航空機はほんの僅かな平野に整備されたパロ国際空港に着陸しました。

車で1時間の首都ティンプーに向かう車中で若くハンサムなガイドに「観光より農林大臣や国家環境評議会の次官に会いたい」と告げたところ「この日本人は何を言っているのだろう?」と怪訝な表情でしたが、名刺を頼りに名古屋のCOP10で会った森林局野生生物保護部門の職員にアポを取り付けました。

乾期は天気も良く北にはヒマラヤの峰々が望めます。周囲は赤茶けた冬枯れの色。中央に見える赤い屋根と白壁の建物が「ゾン」と呼ばれる役所です。

ティンプーの霞ヶ関みたいな官庁街の、つつましい木造平屋建ての官庁が立ち並ぶ中に農林省森林局野生生物保護部門はありました。再会を喜んでくれた職員に来訪の目的を伝えたところ、ブータンシボリアゲハを再発見した森林保護官にも連絡をとってくれるということで、光明が見えた気がしました。

ひととおり話が済んだところで職員が大臣に電話したところ、

職員「先日の日本のCOP10で会ったNHKの記者が来ています」

大臣「何だ、電話でも来たのか?」

職員「いや、いま私の目の前に立っています」

大臣「何!? 本当に来たのか、あいつは!」

「ぜひブータンに来なさい」という社交辞令を額面通りに受けてヒマラヤの山国までやって来た人はほとんどいなかったに違いありません。私の目的と本気度を理解してもらえたのか、大臣だけでなく国家環境評議会の次官も大歓迎してくれました。

ただ肝心のブータンシボリアゲハを再発見したという森林保護官は、西部の山岳地帯に出張中でした。万事のんびりのブータンのこと、「まぁ待っていれば戻ってくるよ」みたいな感じでどうにもらちがあきません。

ハンサムなガイドも手を尽くしてくれましたが深い山岳地帯にいるのか携帯で連絡もうまく取れず、ティンプー観光をしていても気もそぞろでしたが、1週間ほどの短い滞在も残りわずかとなった日、ついに森林保護官に会えることになりました。

帰国に備えて首都から再び国際空港のあるパロまで移動した日の午後、ガイドとともに指定された町の茶店で待ちました。凍結した3000mを超す峠を越えてこちらに向かっているとのことですが、約束の時間をとうに過ぎても全く着く気配がありません。

窓から店内に差し込む光も黄昏の色を帯びてきて茶の飲み過ぎで腹も膨れたころ、不意に2人の中肉中背の男たちが店内に入ってきました。待ちわびていた森林保護官とその同僚です。

挨拶もそこそこに彼はノートパソコンをカバンから出して立ち上げました。パソコンの起動からファイルが開かれるまでの時間をこれほど待ち焦がれたことがあったでしょうか。「これだ」と彼が開けた画像を見た私は、雷に打たれたような衝撃を受けました。座っていた椅子からほとんど転げ落ちそうになったと言っても誇張ではありません。

黒地のレインギアに止まっている三つ尾の怪蝶。見慣れたシボリアゲハよりも遙かに黒っぽく、正方形に近い翅型。何より後ろ翅の赤紋とクリーム色の紋が特異で、まさしくブータンシボリアゲハであると瞬時に分かりました。約80年ぶりに見つかった幻のアゲハチョウ、その生きた姿でした。

「こここれは正真正銘ブータンシボリアゲハだ。どこで撮影したのか?」

興奮で言葉がうまく出てきません。聞くことはいくらでもあり、森林保護官は誠実な男で知り得たことを包み隠さず仔細に語ってくれました。そしてこの貴重な画像すら提供してくれたのでした。

「それ、番組にしようよ」といってくれた仲間たち

慌ただしく充実したブータン旅行から帰国した私は、日常に戻ってもさめやらない興奮の中にいました。来年夏には何としてもブータン最北東部の谷に行かなければならない。ブータンシボリアゲハの生きている姿をどうしても見たい。幸い勤続10年を迎え、いつもより長い休暇が取れる算段がついている。片道どのくらいかかるのかは分からないが、とにかくチャレンジはしてみよう。

2010年暮れのある日、久しぶりに忘年会で会った初任地・沖縄時代の同期のディレクターとカメラマンにブータンのことを話しました。「来年に休暇を取って探しに行ってくるよ」と言ったところディレクターが「それ、番組になるんじゃないの?とにかく提案を書いてみようぜ」と持ちかけてくれました。

沖縄戦や国際問題でいくつも優れた番組に関わってきた彼が書いた提案書は、年明けに選考を通過して本当に番組として動き出しました。もう後戻りはできません。

近縁種のシボリアゲハの生態から推定するに、ブータンシボリアゲハが発生するのは恐らく年1回、8月。あと半年ほどしかなく、日常のニュース取材業務のかたわら、現地に連絡を取り夏の取材に向けた準備に追われました。

そして2011年3月11日

その日、私は霞ヶ関の農林水産省の記者クラブにいました。午後2時46分、緊急地震速報の音に続いて、これまで経験したことのない揺れが始まりました。荒海の船の中に居るようで、農林水産省の老朽化した古い庁舎が倒壊するのではないかと恐怖を感じました。記者の性で、揺れが少し収まったときにビデオカメラで撮影を始め、テレビ画面に釘付けになるクラブの記者たちを撮影しました。東北地方に大津波警報。日本はどうなってしまうのか。

階段を飛ぶように下りて庁舎の外に出ると、多くの職員が避難していました。上階で水道管がズレて水浸しになっているらしいのです。もう一度階段を駆け上がって現場に行くと、本当に床が水浸しになっていました。

長期戦になりそうだという想定のもと、まずは食料を確保しようと近隣のコンビニエンスストアに向かいました。買い物中にも大きな余震で、レジを中断して外に飛び出し再びビデオで撮影。建物の避雷針が大きく左右に揺れていたのを覚えています。

局内からの指示で、この日私は内幸町の東京電力本店の会見室に詰めて夜を明かすことになりました。この時、福島第一原発では危機的な状況がまさに進行していたのでした。

東日本大震災とそれに続く原発事故で、連日、東京電力の会見対応に組み込まれる勤務が続き、刻々と変わる事態を追っていくのに精一杯でした。そんな中で私のブータンシボリアゲハのプロジェクトは雲散霧消したと覚悟を決めていました。

国家的危機を前に「ブータンに幻のアゲハチョウを探しに行きます」などというのは不要不急の権化みたいではないか。この時期に企画されていた多くの番組が取材取りやめ、見送りになっていたので私もほとんどあきらめかけていましたが、結果的に番組は続行となりました。テーマが突飛すぎて、中止にする理由が見つからなかったのではないかという気もします。

“遺志を継ぐ”調査隊の結成をはじめる

話は前後しますが番組の提案が正式に採択されたあと、私は調査隊に加わってくれそうな人たちのリクルートを自ら始めました。約80年も記録が途絶えている“難敵”に挑むには、日本の蝶研究界でも最強クラスのつわものに協力してもらわなければなりません。

そもそも私自身がブータンまで自費でリサーチに行ってきたのだから「調査隊員」みたいなもの。リサーチャー兼コーディネーター兼調査隊員、兼記者でしょうか。少なくとも一人で何役もこなしたので、安上がりな番組になったことだけは確かです。

さて調査隊を組織するにあたって縦糸となったのは、ある不世出の日本人研究者でした。その人はアジアのチョウの幼生期(卵から幼虫、さなぎなどチョウになる前のステージ)の研究で不朽の業績を残した、故・五十嵐邁博士です。

大手建設会社の重役まで勤めた企業人でありながら、趣味として親しんだチョウ研究で世界のアゲハチョウに関する大著を書き上げ、京都大学から博士号も授与されたスーパーマンでした。

五十嵐博士は幼生期が未解明のチョウの探索に生涯を費やし、退職金をつぎ込んで私設調査隊を組織してヒマラヤに向かいました。そこに生息するもう1つの奇怪なアゲハ、テングアゲハの幼生期を解明して世界を驚かせたのが1980年代半ばのことで、当時私は小学校の高学年。大手新聞社から出されたムック本で五十嵐博士の偉業を知って、この上もなく興奮したことを覚えています。学校まで本を持って行って休み時間に飽かず眺めたものでした。

そして同じころ、五十嵐博士はブータンでシボリアゲハの幼生期を解明しました。数多のアジアに生息するアゲハチョウの中でもスター級の種の幼生期を次々に解明した五十嵐博士に、欧米の研究者たちも惜しみなく称賛を送りました。

五十嵐博士は晩年、プロもアマチュアも関係無く純粋にチョウ好きが集まる場として日本蝶類学会を立ち上げ、初代会長に就任しました。私がちょうど大学生になったころ、幸い五十嵐博士に直接お目にかかる機会もありました。

五十嵐博士は生涯をアジアのチョウの幼生期解明に捧げましたが、最後の最後まで残った数少ない大物のひとつが、今回のブータンシボリアゲハでした。生きた姿を拝むことなく五十嵐博士は2008年に83歳で亡くなり、博士の没後、奥様のご好意で遺された資料を拝見したとき、1冊の古びたアルバムが目に留まりました。

五十嵐博士がかつてロンドンの大英自然史博物館を訪問した際、当時日本に標本が全く無かったので気になった種を片っ端から撮影してきたアルバムのようでした。そこにはもちろん、あのブータンシボリアゲハも含まれていました。五十嵐博士は自宅の書斎でこのアルバムの写真を見るたびに、幼生期解明への闘志を燃やしていたに違いありません。

古びた写真が時代を感じさせます。五十嵐博士は標本に付されたデータを丁寧に筆写していました。

ブータンシボリアゲハを“攻略”するにあたって組織されたメンバーは、みな五十嵐博士の遺志を継ぐ人たちでした。

隊長は五十嵐博士に半世紀にわたって師事し、ともにアジア各地を旅してきた幼生期解明の巨匠。

副隊長はチョウの分類や生態の研究で活躍する気鋭の若手研究者。

ブータンとの縁を結んでくれた世田谷の研究所の2人の主任研究員は、世界各国で長年調査を重ねてきた採集の達人。

さらに酷暑のジャングルから5000メートルを超す高山帯まで、海外の過酷な環境でチョウと自然を撮影してきたプロの写真家も。

そして五十嵐博士の調査に何度も同行するうちに自らも幼生期解明の実力者となってしまった五十嵐夫人。これほどの実力者揃いであれば、幻のブータンシボリアゲハもきっと発見できるに違いないと、私は確信していました。

再訪のブータンで迎えてくれたのは

番組の実現に向けて再び鍋を温め直すような感じで夏のブータンに向けた準備を再開し、さまざまなタスクを一つ一つ片付け、ついに羽田を飛び立ったのが震災から4か月後の7月29日。関係各所との調整のために調査隊や撮影クルーよりも一足先に現地入りすることになり、私単独での出発でした。

幸先の良いことに出国した日は天気が良く、南へ向けて飛行する航空機の窓からは、かつて勤務した沖縄、宮古諸島の明るいコーラルブルーの海が見下ろせました。

果たしてそもそもブータン最北東部の谷に入れるのか。行けたとしてブータンシボリアゲハは迎えてくれるのだろうか。不安もありましたが、それを上回る高揚感を覚えていました。

きっとうまくいく。

私はそう確信することにしました。

雨期を迎えたブータンはモンスーンの厚い雲に覆われていました。相変わらずスリル満点のフライトで、飛行機は分厚い雲に突っ込んで大きく揺れながら高度を下げ、やがて雲を抜けた瞬間、赤茶けた冬枯れの色とは一変した緑に覆われた山々が目に飛び込んできました。

生き物が溢れる季節の色です。無事にパロ国際空港に着陸し、早速首都ティンプーに向かう道中、忘れられないシーンに出くわしました。パロとティンプーを結ぶ幹線道路は急峻な山々を縫うように走る道で、乾燥して土地が痩せていることから植生は貧弱で、崖や岩場ばかりの景観となります。車窓をぼんやり眺めていたところ、ガイドが不意に叫びました。

「ホワイト・ラングールが居るぞ!」

指さす方向に目を凝らし、姿を捉えるまで少し時間がかかりましたが、白と黒の、気品も感じる猿の群れが岩場を歩いて遠ざかっていくのが見えました。「ブータンでは白い猿は吉兆なんだよ、良かったね」とガイドが教えてくれて、思わず笑みがこぼれました。

これからの旅路、どうなるのかはさっぱり分からないけれども、とにかく情熱だけでここまで来ました。首都ティンプーに向けて走る車の中で、私は熱いものがこみ上げてくるのを感じていました。

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ここまで読んでいただきありがとうございました。だいぶ長くなってしまったので続きは後編で。ご意見、ご感想をお待ちしています。

写真はティンプーで開催された自然保護イベントに参加していた女の子。顔にチョウのペイントをしていて思わず撮影しました。

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