復興状況について“進んでいる実感が持てない”と答えた人は、年々減りつつあります。しかし、“想定よりも遅れている”と答えた人とあわせると全体の8割を超えていて、遅れを感じる人が依然として多いのが現状です。

原発事故の影響が大きい福島県では半数の人が“進んでいる実感が持てない”と回答。岩手・宮城と比べ、3倍近くになっています。

項目別に見てみると、最も遅れを感じている声が多かったのは“復興住宅・災害公営住宅の整備”でした。“宅地の供給”を含め、「住まい」に関する項目が上位になっています。また、“地域経済の再生”や“原子力災害への備え”の遅れを感じる人が多くなっていました。

今の状況は自分が考えていた姿とは全然違います。いたずらに防潮堤だけが高くなり、何が起きても海が見えず、かえって危険だと思います。海を見て危険を予知できる事が大切だと思います。いたずらな金の使い方がおかしいと思います。残念でなりません。

(岩手県陸前高田市・70代・藤原直美さん)

ふるさとに帰ることが本当の復興と思い続けてきました。でも、避難生活が長くなるにつれて戻る人も減ってきているなか、まちとして成り立つのかと不安になります。自宅も劣化していき、建て替えとなると金銭的に無理でしょうし、このままの生活でもいいのかなと揺れる日々です。

(福島県浪江町・50代・寺島邦子さん)

5年経てば仮設から出る人も多く、復興していると思っていました。現状は、まだまだ仮設住宅から出られない人が多いです。まず住宅地の整備が必要な中、オリンピックは早かったのではないかと。オリンピックも大事ですが、資材や建設に関わる人材がいないのはオリンピックのせいだと思ってしまいます。

(岩手県山田町・30代・女性)

復興が遅いと怒りをあらわにしている人たちの気持ちもわかりますが、復興に携わっている人々のことを思えば、必ずしも遅いとは思いません。私は感謝の気持ちのほうが強いです。震災があったからこそ、様々な問題が解決しつつあるのも事実です。

(岩手県釜石市・70代・女性)

復興はひとつひとつ、帰った住民の手で、進めていくしかないと思います。すべて行政の計画で進めても、その後が続かない。生活できない住民が出てくると思います。自分の手足で復興はしていきたい。あせらず無理せず確実に、一歩ずつ前へ行こう。

(福島県楢葉町・50代・四家徳美さん)

震災前に戻るのではなく、それを超える形での復興を目指し、後世につなげていく。新しい取り組みが行われ、新しい技術が生まれる。さまざまな分野で日本の、世界のハブとして情報を発信していくような形で復興を成しとげたい。世界の手本になる復興を成しとげましょう。

(福島県大熊町・40代・男性)


多くの人が津波で家を流されたり、原発事故で避難を余儀なくされたりした東日本大震災。 避難や転居の回数もこれまでの災害と比べて多くなっていると指摘されています。

特に福島県では、5回以上の人が半数にのぼりました。 10回以上という人も13人いて、影響の大きさが改めて浮き彫りになっています。

そして、転居を繰り返しても、自宅に戻れないままの人も多くいるのが現実です。

転居を10回しました。いまは災害公営住宅で暮らしています。80歳になりました。この歳になって、自宅に戻って何をするのでしょうか。今の生活では年齢のことを考えると未来はありません。前の生活に戻ることはもう無理です。

(福島県富岡町・80代・金田秀一さん)

震災の時、中2、小6、小3と3人の子どもがいました。避難のため、学校を転々とし、仮設住宅に落ち着いたときは中3、中1、小4の2学期。中3の子は修学旅行の楽しさも、友人との楽しさも知らずに高校受験となり、心が折れてしまいました。下の2人も友達のつくり方が分からず、1人でいることが多くなってしまいました。

(福島県浪江町・40代・女性)

当時中学生だった長男は仮設住宅で受験勉強。高校を卒業して就職しました。狭い仮設住宅での勉強は大変だったと思います。いま中1と高2の娘も勉強に集中できずにいます。早く住宅が再建できていれば、有意義な高校生活や受験勉強ができたのではないかと親としては申し訳ない気持ちでいっぱいになります。5年はあまりにも長すぎる気がします。

(宮城県東松島市・40代・女性)

震災以降、避難先として親族や知人の家などを転々、5ヶ所目がいまの仮設住宅です。震災から1年も経てば自宅に戻れると思っていましたが、いまだに仮設住宅での暮らしが続いています。母は94歳、いまも自宅に帰りたい帰りたいと言い続けています。普通の生活がどれほど幸せなことだったのかと思います。

(福島県南相馬市・60代・女性)

震災で児童数が減ってしまい小学校は今年度で廃校。来年は仮設の学校、さらに再来年は統合して新校舎へ移動。保育所も近くになくなり、10キロ離れた仮設の保育所へ。復興のためとわかってはいても、毎年の環境の変化に子どもたちが不安定になります。大人なら我慢できるけど、子どもたちには辛いことばかりです。

(宮城県東松島市・30代・女性)

仮設住宅の生活でカビやハウスダストがひどく、子どもがぜんそく気味になってしまいました。部屋がないため学習机も買ってあげることができないのが、本当に申し訳なく思っています。これから先の住居もどうすればいいか決められず、子どもたちにも不安な思いをさせていると思います。

(福島県南相馬市・30代・女性)


震災以降の家計の状況について尋ねたところ、“当初から苦しい状況が続いている”“だんだん苦しくなっている”があわせて半数以上にのぼりました。中でも“だんだん苦しくなっている”と答えた人が多く、今後も苦しい生活が続くことが懸念されます。

支出が増えた項目では、交通費が最も多くなりました。「震災で職を失い再就職したが職場まで遠い」や「避難のために離ればなれになった家族と会うため」などといった声が寄せられました。

また、自宅を再建する人が増えていることや、建設費の高騰などから住まいに関する支出が増える傾向にあるようです。

震災で自宅が流され、妻を亡くしました。いまは仮設住宅で1人暮らしをしています。5年目までに自宅を自力で再建することを目標にしてきましたが、まだ整地しかできていません。経営している会社も、顧客数の減少と設備の復旧ができないので、仕事量が減っています。再建を目指して、家計を切り詰めて貯蓄にまわしています。

(岩手県陸前高田市・60代・佐々木松男さん)

震災の前日、「早く結婚して」と言っていた祖父母は津波の被害にあい、まだ見つかっていません。私は3年前に結婚、子どもが生まれましたが歩けるようになったり成長するたびに、報告できれば・・・と思ってしまいます。子どもの面倒を見てくれる人がいない中、待機児童がいるため保育所にもなかなか入れなくて配達の仕事を子ども連れでやっています。

(福島県いわき市・20代・高村早苗さん)

震災後、136年続けてきた家業のイカせんべい工場を無理して復興させました。借金が大きくなり生活がだんだん苦しくなっています。何とかやりくりしながらやっています。

(岩手県宮古市・50代・菅田正義さん)

自分の店がオープンして1年4か月で被災。平成23年7月にコンテナで再開し、その翌年には仮設商店街でオープンしました。でもその時が売り上げのピークでした。そのあとは、年々1割ずつ売り上げが減少していっています。仮設商店街の退去期限も迫る中、新設の商店街に移る費用が捻出できません。

(岩手県陸前高田市・40代・太田明成さん)

仮設住宅から災害公営住宅に移り、家賃がかかるようになりました。手取りで月10万円のうち、家賃や奨学金の支払いを引くと、残りは6万5000円。お風呂も毎日入りたいけれど我慢していますが、月5万円以上預金を崩しています。今後、家賃が大幅に増えると生活保護になるかもしれないと、毎日そればかり考えています。

(宮城県気仙沼市・60代・女性)

新築、増築と一安心のところを震災にあい、また家を建てなければなりませんでした。孫たちもだんだん大きくなり、高校2年生もいて、大学に行くといったらどうしようと思います。家族が7人と多いので、家計の支出は増えるばかりです。

(岩手県陸前高田市・70代・女性)


心身への影響が続いていると答えた人は6割に上りました。

どのような影響があるか尋ねたところ、“気分が沈みがち”“意欲がわかない”“よく眠れない”の3つが上位でした。また、“生きているのがつらい”と回答した人が122人いました。震災や原発事故が「心」に影響を及ぼし続けている現実があります。

震災後、5年になります。生きていくのに精一杯です。行方不明の家族を探すため、半世紀居住していなかった故郷に帰ってきました。家族を探すのでいっぱいいっぱいで、ただ感情もなしに5年間を過ごしてきました。5年間と一口に言いますが、早いのか遅いのかわかりません。

(岩手県陸前高田市・70代・小岩のぶ子さん)

あの日、飼い犬と一緒に津波に襲われました。その結果、自分たちは生き残り、犬は行方不明になったままです。私たち夫婦も一緒に、あの世へ行った方が良かったと思ってしまいます。

(宮城県名取市・70代・菊地繁男さん)

あの津波で大切な人を7人も一度に失いました。何を支えに生きていくのか、考える事も思い浮かべる事もできませんでした。今は霊前にお食事ときれいな花をいっぱいあげて手を合わせています。

(岩手県陸前高田市・70代・菅原眞佐子さん)

幼稚園児の孫が避難生活を送っていた時、孫の髪が抜けてしまいました。そして絵を描くときは、黒色ばかり使っていました。とても心配しました。原発事故のあと家族がバラバラになったせいだと思っています。

(福島県南相馬市・60代・男性)

息子が津波でいまも行方不明です。震災当時、息子には幼い2人の子どもがいました。まだ上は1歳、下は2カ月でした。息子の顔は覚えていないと思いますが、写真を見て「パパ、パパ」と無邪気に指をさすのをみるとなんともいえない気持ちになります。

(福島県双葉町・70代・佐藤一夫さん)

ふる里を離れる人が多いのがつらいです。10歳若ければ、あきらめて前だけ見られるでしょうが、自分は家を立て直しこの地で暮らすつもりでしたので、切り替えが大変で、心の復興はまだまだです。生後1カ月の時に避難中に車ごと流された孫の成長が、支えになっています。

(宮城県仙台市・70代・我妻勝さん)


震災当時、よく使われた“絆”という言葉。今回改めて、“絆”について尋ねたところ、家族や地域、それに被災地以外との絆で、差を感じる人が多く見られました。

弱まったと感じる人が多かったのが“被災地以外との絆”で、4割に上っています。また、自由記述には「絆という言葉が嫌いになった」とか「絆っていったい何なのでしょう」といった、絆という言葉に対して否定的な意見も40人以上から寄せられました。被災地と被災地以外との結びつきをどう深めていくのか、震災5年の大きな課題のひとつです。

子どもたちの笑顔や家族の笑顔が心の支えになっています。震災後、のど自慢に出場したメンバーとの交流はいまも続いています。被災したことで絆が強まったり、たくましくなったり。悲しんでいる人ばかりではないことを伝えたいです。

(宮城県岩沼市・40代・新坂英子さん)

いままでは家族、妻と一緒に生活しているのが当たり前でした。そばにいて当たり前でした。けんかしたり、怒ったり。震災当時も同じような生活をしていました。しかし、いまは妻のありがたさ、家族のありがたさ、身にしみて感じています。

(宮城県仙台市・60代・阿部英記さん)

避難所にいる時、応援で来ていたおまわりさんが6歳の息子と遊んでいただき、今でも地震があったりするとメールをくれます。とてもありがたく、心の支えとなっています。息子は兄ちゃんを津波で亡くしているので、兄ちゃんみたいに感じているのだと思います。

(岩手県山田町・50代・菊池範枝さん)

震災直後、絆という言葉であふれかえりましたが、がれき受け入れの反対運動や行政の対応を見て、絆という言葉のうそ臭さを感じるようになりました。私の周囲には絆という言葉にアレルギーを持つ人が少なからずいます。

(岩手県大船渡市・60代・男性)

正直、絆ってなんですか?テレビでは頭にくるくらい、この言葉がしょっちゅう流れていました。震災当時は人間の汚い部分もたくさん見てきたので、この言葉の意味がわかりませんでした。テレビはきれいごとばかりで本当の姿を放送してないのではないでしょうか?

(岩手県宮古市・40代・男性)

福島市に花見山という観光名所があります。そこには避難している方が集える場所もあります。部屋に一人でいるのが嫌だなと思う時には、いつも行っています。花見山で余り布を買い、手芸をするのがとても楽しみですし、避難している者どうし、話ができるので楽しみです。

(福島県浪江町・50代・女性)


福島の被災者に震災前に住んでいた地域に戻りたいかどうか尋ねたところ、 “戻らない・戻れない”と答えた人が半数に上りました。戻れない故郷にいつか戻れる日を想いながら亡くなった人や、戻ることをあきらめ別の場所に自宅を再建する人もいました。

原発の再稼働についても尋ねました。7割が“受け入れられない”と回答。一方で、“やむを得ない”“必要だ”との回答もあわせて3割近くありました。

東京電力からの補償のことがあるので、どうしても私たちはズルイ目で見られ、5年たった今でも、ずっと圧力や偏見から逃れられません。子どもたちも傷つくことを言われたり、大人も同僚からからかわれたり。このことが新天地でも邪魔になります。いただいておいて申し訳ないのですが、人はお金が絡むと、怖い生き物です。

(福島県楢葉町・40代・女性)

74年間一度も浪江から出て生活したことがないので、浪江が一番です。浪江に戻って浪江で色々終わって、浪江で死にたかったです。無理でしょう。良いほうに思って元気で毎日を暮らしています。早く浪江に戻って生活したいです。家族みんなで暮らしたいです。

(福島県浪江町・70代・女性)

原発事故直後から「福島の人はもっと思いを表現したほうがいい」と言われることが多かったです。でも当時は事故のことを思うだけで涙があふれ、考えることなんてできませんでした。ようやく気持ちが落ち着き、語れる時期が来たと思います。でも被災地外の人にとっては遠い昔でしょうとも感じます。注目される機会はなくなっていきますが、頑張っていきたいです。

(福島県大熊町・40代・馬場由佳子さん)

原発再稼動は今後必要になると思います。かつて私の住んでいた町にはメガソーラーができましたが、それでは雇用は生み出しません。原発のような雇用産業でなければ長くは続かず、市町村単位でのまちの再生は大変だと思います。

(福島県富岡町・60代・男性)

除染や復興などが各地で進んでいます。ハード面では震災前、もしくはそれ以上に整備されていくかもしれません。しかし、心の復興は難しいと思います。周りからは「いくらもらえば満足か」などと言われ、引け目も感じます。被災されたみんなが震災前のように、とはいかないと思いますが、日々を穏やかに送れたらと思います。

(福島県浪江町・30代・高住奈緒子さん)

避難指示は解除されましたが、学校の再開がまだのため避難を続けています。コミュニティーが崩れましたが、子どもたちなりにマックスで頑張っています。親にとっては、フレコンバックの隣で子どもが遊ぶ姿がイメージできず、まだ戻るかどうか判断がつきません。子どもの気持ちを第一に考えたいと思います。

(福島県楢葉町・50代・横田峰男さん)

今回の東日本大震災の津波の被害が100年先も語り継がれるように、取り組みを始めました。津波の到達地点に桜の木を植える活動をしています。今回の津波では多くの人の命が失われてしまいました。災害で失われる命を可能な限り減らしていきたい、そんな思いから活動を続けています。

(岩手県陸前高田市・30代・岡本翔馬さん)

とにかくこれまでのご支援には感謝したい。恩返しは一生かかってもできないが、復興に向かって一歩ずつでも歩み続ける姿を見ていただきたい。それが最大の恩返しだと思っています。そのプロセスが犠牲者に対する真の鎮魂だと思います。震災は忘れた頃にやってくる。いつ来るかもしれない災害に備えをしておくこと、そして何よりも、避難が大切です。

(宮城県南三陸町・60代・及川善祐さん)

新しい街づくりにはスピード感が必要だが、みんなが横一線で進む必要はなく、それぞれのペースに合わせていけばいいと思う。行政も法律や規制に縛られず、大きな構想、心躍るような発想で計画を進めてほしい。ゆっくりと進んで、新しい街づくりに悔いを残したくない。急がず慌てずゆっくりと心豊かに生活できるように進んでいきたいです。

(岩手県陸前高田市・60代・男性)

国道6号線沿いに植えた桜の木、着実に成長しています。小さいながら、花が咲いていた木もあります。信じましょう!必ず明るい未来が来ることを!桜の苗木のように少しずつでも成長していける!いつの日か満開の桜の花が見られる!被災地だったことを忘れるような明るい笑顔があふれる地域になることを願っています。

(福島県南相馬市・30代・女性)

心身ともに疲れていたり、寂しかったり、不安だったり、頑張りたいけれど頑張れない、色々な思いがあります。でも誰かはあなたを思っているよ。だから、ちょっとは頑張って、明るい自分の未来を想像して生きてみようって。がんばろう。

(福島県双葉町・50代・小畑一彦さん)

原発事故による避難でふるさとから離れて生活をしている中で、いまでも後悔していることがあります。もっともっとふるさとの写真を残しておけばよかったということです。思い出が少しずつ薄れていくのを感じている時、写真を見るとその時の事が鮮明に思い出されます。ふるさとが変わってしまう事はとてもつらいです。ふるさとを大切にしてください。

(福島県大熊町・40代・森山真澄さん)

アンケートはNHKが岩手・宮城・福島の3県の被災者や原発事故の避難者あわせて4000人を対象に、平成27年12月~平成28年2月にかけて、郵送や対面で実施し1209人からの回答を得た(回答率30%)

※無回答を除いた回答者に対する割合

1.復興
※1年目は「進んでいる」「やや進んでいる」「あまり進んでいない」「進んでいない」の4段階評価
※2年目~4年目は「それなりに進んでいる」という選択肢

2.転居
※避難・転居の中には避難所も含む

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