戦跡 薄れる記憶「丸石」が伝える特攻の記憶(2017/08/11 放送)

太平洋戦争の末期、多くの若者が特攻隊員として出撃し、命を落としました。その歴史の記憶を今によみがえらせるものが、ことし、宮崎空港の地面の下から発見されました。見つかったのは、大量の「丸い石」です。誰が、何のために石を敷き詰めたのか。取材を進めると、空港と戦争を結ぶ知られざる歴史が浮かび上がってきました。

空港敷地から見つかった丸石

年間300万人が利用する宮崎空港は、かつては多くの若者が命を落とした旧日本軍の特攻基地でした。ことし2月、空港の敷地から、戦争とのつながりを示すものが見つかりました。

地中30センチほどの所に、びっしりと敷き詰められていた丸い石です。メロンほどの大きさの石は、埋もれていた特攻の記憶を訴えかけています。

建設に駆り出された少年たち

子供のころから空港のそばで暮らす川崎好さん(87)は、丸石を敷き詰めたひとりです。川崎さんは昭和17年の夏、友人らとともに滑走路の建設に駆り出されました。

「7月でした、始めたのは。真夏の暑いのにはだしでしたから、はだしで作業した。しかし、学校から『やれ』と言われ黙々とやった」(川崎好さん)
滑走路が造られたのは、海沿いの田んぼだった場所でした。地盤を安定させるために石を並べたと考えられています。アメリカとの戦争が激しくなるなか、宮崎市内のほとんどの学校に動員がかけられ、急ピッチで作業は進められました。「あの頃は国のためには文句言わずにやれというのが教育方針、先生によっては国のために死ねという人もおったからね。この石を一つ一つ、まじめに並べた」(川崎さん)

作っていたのは「特攻」の基地だった

今回、丸石が見つかったのは赤い丸印の部分です。現在の滑走路に交わるように、もう1本の滑走路が造られていたことがわかります。突貫工事の結果、次の年には基地は完成し、パイロット養成の練習隊が置かれましたが、戦況はすぐに悪化していったといいます。「完成したときは練習基地だと我々は習ったわけです。パイロット養成をするところかと思っていた。表札も赤江航空隊練習部となっていた。ところが2か月ぐらいは練習していたが実戦、戦地に出て行く軍用機がどんどん入り込んできて、軍用機の離着陸の訓練がはじまった」(川崎さん)

終戦間際には特攻基地とされ、沖縄周辺のアメリカ艦隊に向けて次々に特攻機が出撃。130人を超える若者が命を落としました。川崎さんは、出撃前の特攻隊員たちが、お菓子を食べながら笑顔で話している姿を覚えています。「僕とあまり年がかわらない連中だからね。同級生か1つか2つしか変わらない連中だった。しかも特攻隊の連中はほんと優秀だったからね。その日の夕方か翌朝には特攻隊で出て行って2度と帰ってこなかったんだろうなと思うとね、なんというか、さみしいというか、悲しみもわくね、あの人たちを思い出すもんだからね。我々は特攻隊を出すために飛行場を造ったんじゃないんだけどね」(川崎さん)。

悲劇を忘れないために

72年の時を経て見つかった丸石。川崎さんは戦争の悲劇を忘れないためにいかしてほしいと考えています。「戦争は絶対にしちゃいかんのだよ。やっぱり平和が一番大事なんだよ。造った飛行場から若き特攻隊の連中が飛び立っていったっていうね。そういう時世の中でできたんだということをね。今の中学生なんかには知ってもらいたい」。 川崎さんは自らの戦争体験を地域の子どもたちに話す活動を続けていて、丸石が物語る特攻の歴史についても語り継いでいきたいと話しています。