戦跡 薄れる記憶女神丸の惨劇を忘れないで(2017/08/16 放送)

72年前の8月8日、瀬戸内海の小豆島の土庄港を出港した旅客船「女神丸」は、高松市沖でアメリカ軍の機銃掃射を受け、多くの犠牲者を出しました。この女神丸を後世に伝えていこうと活動を続ける島の女性がいます。

戦闘機が旅客船を襲った

昭和20年8月8日の朝に高松に向け土庄港を出発した女神丸は、前日に小豆島に発令されていた空襲警報が解除され2日ぶりの出港でした。船は民間人や軍人など130人余りでにぎわっていたといいます。高松港まであと少しの屋島沖にさしかかったころ、アメリカ軍の戦闘機が女神丸を襲いました。次々と銃弾を浴びせ、甲板や客室にいた人たちは頭や胸などを撃たれ28人が死亡しました。

新城周子さんは、当時25歳だった叔母が女神丸に乗っていました。叔母は銃撃を受けた時、船の甲板から走って2階の客室に隠れましたが頭と胸を撃たれ、即死だったといいます。「鉄砲の弾の毒っていったらすごいもんで、ものすごく腫れて。1つは胸を貫通して血がドクドクドクドク出ていたそうです。もう1発の弾は頭に入ったままでした」(新城周子さん)

生存者との交流と証言集め

新城さんは、当時叔母と一緒に女神丸に乗っていた女性との交流をきっかけに、襲撃から30年が経った昭和50年8月、船上慰霊祭を企画しました。 「2人で慰霊のために海に行ってお花を流してこようというところから始まりましたが、皆さんがそれを知って仲間にいれてくださいと。いろんな方が慰霊祭に来て、船の中の惨事をいろいろ教えてくれるので、これは書き残しておかないと風化してしまうだろうな、誰も知らんやろうなと」(新城周子さん)

慰霊祭のあと、新城さんは女神丸に乗っていた人たちの証言を集め始めました。この日、新城さんは女神丸に乗っていて生き残った92歳の女性を訪ねました。女性は「弾があたった時はバリバリという音がしていました。急いで船の底に入ったら次々と降りてくる人がいて、その人らに突き落とされたようになったんです。もう70年も前のことですからもう今の人は知らないでしょう」と語りました。

なんとか語り継ぎたい

新城さんは「とにかく一生懸命聞きました。高松も小豆島内も大阪も東京も遠いとこまで行って、暑い時にはパラソルをさして1軒1軒聞きに行って、その時の状況を聞かせてもらいました」と振り返ります。新城さんは聞き取りで集めた証言をまとめて「女神丸事件」という本を自費出版しました。情報を更新しながら改訂を重ね、おととしまでに3冊を出版しています。

現在79歳になった今、新城さんは自分のあとに女神丸のことを語り継ぐ人が誰もいないことを心配しています。「もう70年にもなって、そろそろ記憶もなくなりかけてきています。なんとか風化しないで後世に残していただいて、こういう戦争の歴史もあったんだということを記憶していだだけたらと思います」(新城周子さん)