戦跡 薄れる記憶“小さな空襲”忘れないために(2017/08/15 放送)

戦時中、栃木県で犠牲者が数人から数十人の空襲がありました。当時を知る人が少なくなるなか、記録が少ないこうした比較的規模の小さい空襲を語り継ごうという動きが始まっています。

33人が亡くなった空襲

栃木県足利市にある百頭空襲の慰霊碑です。昭和20年2月10日、70戸あまりの農村に83発の爆弾が落とされ、33人が亡くなりました。しかし地区に当時を思い起こさせるものはこの慰霊碑しかありません。

地区の人たちに呼びかけて慰霊碑を建てた三田剛さんは16歳のとき、学校からの帰りに空襲に遭いました。「燃えさかっているのと黒い煙と。爆弾の爆風で泥が舞い上がり、人家が見えなかったんだ」と回想します。

三田さんは30年にわたって語り部としての活動も続けてきました。「無念の思いでなくなった33名、そういう人の思いをこめて、後世にこれを伝えていかなければ」と考え、活動してきましたが、体調を崩して外を出歩くこともほとんどなくなり、おととしの慰霊祭を最後に語り部を引退しました。当時を知る人は少なくなっています。

「小さな」空襲を記録に残す

一方で「小さな」空襲の体験を記録に残そうと活動を始めた人もいます。東京在住で政治や社会を風刺するパロディ作家、マッド・アマノさん。6歳のころ、疎開先の栃木県小山市にある親戚の家で空襲に遭いました。「機銃掃射のあの音と、それから飛行機の戦闘機の爆音、もうこれは72年経ってもいまだに耳に残っているんですよね」(アマノさん)

アマノさんは幼いころの戦争体験を本にまとめたいと考えていたなかで、市民団体が栃木県内の空襲についてまとめたサイトを見つけました。アマノさんはこのサイトで終戦間近の昭和20年の夏、アメリカ軍による機銃掃射で小山駅のホームにいた3人が犠牲になったことを確かめました。「東京大空襲だとか、あるいは広島長崎のね、原爆の記録などと違って、小さな事件は歴史に残らない」アマノさんはドキュメンタリー映画として、映像にも記録を残すことにしました。

戦争の理不尽さを伝えたい

ことし6月、サイトを開設した市民団体の代表とともにゆかりの地を訪ねたところ、72年前、疎開していた家が今も残されていました。現場で話すうちに当時の状況が鮮明によみがえりました。「機銃掃射受けたときに母親がふすまって言うか押し入れ開けてね。頭だけ突っ込んで。グラマンっていう戦闘機がね、ブーンっつてバリバリバリって飛んでったんですね」(アマノさん)

アマノさんは、記録を残すことで市民が突然命を奪われる戦争の理不尽さを伝えたいと思いを強くしています。「たった3人じゃなくて。非常に貴重な3人の命を、死ななくていいのに殺されているんですよね。それが戦争なんですよ。戦争とはなんぞや。あるいは機銃掃射の体験から何を考えてんのかということをね。若い人たちに伝えていきたいと思っています」(アマノさん)
戦後72年がたち消えようとする「小さな」空襲の記憶を語り継ごうという努力が始まっています。規模は小さくても空襲や戦争が一人ひとりのかけがえのない命を奪うことに変わりはないと改めて感じさせられます。