「エスカレーター
止まって乗りたい」の、その後

毎日の通勤・通学でエスカレーターに「訳あって止まって乗りたい」人たち。
その後、取材を続ける中で、思い切って右側に止まって乗り始めたという女性に出会いました。

毎日の通勤・通学でエスカレーターに「訳あって止まって乗りたい」人たち。その後、取材を続ける中で、思い切って右側に止まって乗り始めたという女性に出会いました。
(ネットワーク報道部記者 玉木香代子)

ある女性の決断

その女性は、都内に住む40代の会社員の、白岩さんです。
10年前に行った脊髄腫瘍の手術の後遺症で、胸から下にマヒが残りましたが、リハビリを行い、両腕で杖を使えば歩けるようになり、毎日、地下鉄を利用して通勤しています。

そこで欠かせないのがエスカレーターです。
白岩さんは右足のマヒが強く、体のバランスをとるためには右側の手すりにつかまって立ち止まりたいのですが、その右側は先を急ぐ人が、当然のように歩いたり駆け上ったりしています。

しかたなく左側につかまると、脇を歩く人の荷物がぶつかったり、支える杖を蹴られたりしてバランスを崩し、あやうく転倒や転落しかけたことが何度もありました。

こうした中で白岩さんは考えました。

「障害がある人は自分だけではなく、右側に乗りたい人は他にも多くいる。 当事者の自分が行動を起こさないと、何も変わらないのではないか」

そして去年5月に決めました。

「これからは右側に乗ろう」。

「早く歩けよ!」

とはいえ殺伐とした朝の通勤時間に、たった1人でエスカレーターの右側に乗ることは、簡単ではありません。
右側が空いていると「ほっ」として乗る自分。

ところが後ろから「カツ、カツ、カツ…」という足音が聞こえると、心がすくむと言います。

その足音が自分のすぐ後ろでぴたっと止まる瞬間。
集まる周囲からの視線。
どうしようもない罪悪感を感じるのです。

今年に入って一度だけ、後ろにいた男性から「早く歩けよ」と言われました。
その時はショックと悲しみとで、胸がしめつけられるような思いにかられたそうです。

右側乗り、頑張ってみます

白岩さんのこの決断、実はきっかけを作った人がいました。
リハビリを担当する理学療法士の、齋藤弘さんです。

白岩さんが普段、エスカレーターで不便な思いをしていることを話すと齋藤さんは驚き、「とにかく安全を優先して右側に乗ってほしい」と言ってくれたのです。

白岩さんは初めてエスカレーターの右側に乗った日の夜、齋藤さんに自分の気持ちをメールで送りました。

「今日は、エスカレーターの右側に乗ってみました。
視線を感じつつ・・振り返られたり左側に乗るように譲って下さる方等々いらっしゃいましたが、無事たどり着きました。
杖の私が右側に乗ることで、右側に止まって乗りたい人、右側にしか乗れない人がいることを1人でも多くの方に知っていただくことが大事なのかなと、改めて感じました。右側乗り、頑張ってみます」

広がる活動、そして壁

仕事柄、白岩さんたちのような人が他にもたくさんいることを知っている齋藤さんも、理学療法士の仲間たちと、海外から多くの人たちが訪れる2020年を目標に、エスカレーターの乗り方を変えようという活動を始めました。

「止まって乗りたい人がいる」というキャッチフレーズが書かれたポスターを作成し、駅や商業施設で貼り出してもらえるよう、鉄道会社などに依頼しました。しかし反応は、そっけないものでした。

「先を急ぐ人からクレームがくるからできない」
「個人的には了承したいんだけど、会社として了解ができない」

広まった習慣を変えることの難しさを感じました。

社会で受け止める大切さ

「エスカレーターを利用する人たちに直接訴えよう」。
そう考えた齋藤さんたちは、「わけあってこちら側で止まっています」というメッセージが書かれたキーホルダーも作成しました。
これをかばんなどに付けてエスカレーターに止まって乗ってもらい、理解を広めようというのです。

イベント会場や病院で配布すると、「これで立ち止まって乗る勇気が持てた」という当事者だけでなく、「この運動を支援するために付ける」という人も現れました。
齋藤さんも普段からこのキーホルダーを付けて、エスカレーターに止まって乗るようにしています。

それにしてもなぜこうした取り組みを熱心に進めるのか、あらためて齋藤さんに聞いたところ、迷わずこう答えてくれました。

「僕らは理学療法士として病院の中で、病気やけがで障害を負った患者さんが、少しでも生活が楽になるよう取り組んできました。けれど多くの患者さんは、リハビリのあとも障害と向き合いながら、社会で生活していかなくてはいけません。それを社会全体で受け止め、病院の外の環境も暮らしやすくなるよう働きかけていくことも、僕らの大切な役割だと気づかされたのです」

仲間を見つけた日

白岩さんが「右側に乗る人」になって1年ほどたったある日、ちょっとうれしい出来事がありました。

通勤でエスカレーターに乗った白岩さんの視線の先に、同じように右側に止まって乗る人の姿があったのです。
詳しい理由はわかりませんでしたが、「もしかしたら自分達の訴えに心を動かしてくれた人がいたのかもしれない」と思うと、心が弾みました。

この日以来、同じような人を見かけると手帳に小さな○を記すようになりました。

2列乗りのほうが効率的

「2列でならんでご利用ください、お急ぎの方は階段をご利用ください!」ことし9月、白岩さんが毎日利用する地下鉄大江戸線の駅のエスカレーター前で、こう呼びかける警備員が現れました。

利用客から「右側をあける乗り方のせいで、エスカレーターの乗り場付近でひどい渋滞が発生している。右側も詰めて乗るように呼びかけてほしい」という依頼があり、駅が1か月間、試験的に呼びかけを行ったのです。

実は、急ぐ人のために片側をあけて利用する乗り方は非効率で、「2列で間隔を開けずに乗ることが渋滞を緩和するために最も効率的である」ということは、渋滞学の専門家から見ると「常識」なのだそうです。
こうした実験は海外の地下鉄でも行われ、証明されています。

思いを寄せられる社会に

記者も、この取り組みが行われている駅に、朝の通勤ラッシュの時間帯に取材に行きました。そこで見たのは、残念ながら呼びかけを気にせず次々と右側を歩いて先を急ぐ人たちの姿でした。

駅の担当者も「なかなか難しいですね…」と話していました。

でも白岩さんは、違う受け止め方をしていました。

「普段は1人だけで右側に乗っているので、とても心細いんです。それがこうした呼びかけがあるだけで、乗る時の安心感がまったく違います」

「右側に乗ると決めた人たち」の小さな動き。
社会に広まった習慣をすぐに変えることは難しいかもしれませんが、それでも「困っている人」に思いをはせる人たちは確実に増えていますし、そこに思いを寄せられる社会になってほしいと強く思います。