寄せられたご意見
病院や施設だけでなく、地域のどこにでも、生きる場所がある、そんな世の中に来てほしい。
◎亡くなった方たちへのメッセージ
私は、生まれつき、脊髄性筋萎縮症という進行性の筋肉の難病があり、日頃は、電動車いすに乗り、「重度訪問介護」という介助制度に支えられ、24時間、介助さんたちのサポートを受けて 市内に自立生活をしています。私は、学生時代養護学校に在籍しており、重度心身障害をもつクラスメイトとともに過ごしましたために事件を知った時、子供の頃の自分や仲間たち、養護学校の旧友たちのことが思い出され、私自身の存在も、友人たちの存在も、存在そのものを全否定された怒り悲しみで、胸がいっぱいになりました。これだけはあってはならないことだ、という、人生でいまだかつて経験をしたことのない怒りと悲しみで、「私自身が殺されたような気持ちだ」と思いました。私はこれまで、車いすのシンガーソングライターとして全国の学校などで歌を歌ったり、エッセイの本を出版したりと、実家を出て、介助さんたちとの一人暮らしに踏み切ってからずっと、音楽や表現活動をしてきました。その中には「障害を売りに世の中に出てこようとしやがって」というような中傷のような言葉もたまにはありますが、それでもなお、特に重度の障害をもつ当事者が、世の中に、身を晒し、姿を見せて、公にことばを発して、生きる姿を見せ続けることは、やはり意味のあること、止めてはいけないことだ、と決意をあらたにする(せざるを得ない)一番大きなできごとが、やまゆり園殺傷事件でもありました。
ご遺族の方のお心は想像を絶します。お悔やみの言葉では足りません。けれど、このサイトやマスメディアを通じても、思いを残し続けようと動かれているすべての皆様 遠く近く、全国、全世界のどこに住んでいても、事件のことを、わたしたちは、一生忘れないと、心に刻んでいる人たちはいて、事件の直後には、外へ出るのがなんだかこわいような気持がしたり言い知れぬ恐怖にかられたりするようなことも、ご遺族でなくとも、多くの障害当事者にもありましたが それでも生きる。社会から隠されない存在であるために。という、この思いを、未来へ、未来へとつないでゆきたいと願うばかりです。
◎今回の事件についてのご意見
言葉で意思を伝えられなくても、心がない人はない。そのことに気が付けなかった植松被告は、ご自身こそ、心が何か欠けているのではないかと思います。なにかができる/できない、で人の価値を判断してよいような時代は、この令和4年もう終わっています。 植松被告は身勝手で、したことは差別の極みです。でもどうして、人生に何があって、障害者は殺しても良いという考えに至ったのか 考えを改めることはあるのか、そのことは知りたいです。
◎私の"あすへの一歩"
この事件ののち、しばらくのあいだ、このサイトや関連する文献を見るのも辛く、音楽活動の範囲で歌の歌詞などにしようにも、事件への怒りの言葉しかなんにも出てこない日々を過ごしました。けれども、障害者 対 健常者 ということとも全くこれは違うし、植松被告への怒り、事件への怒り悲しみ、そこを越えて(怒り悲しみが消えることはないけれど)今、ここから、未来に向けて、一歩を歩み出すとき、 「わたしたちは、どんな未来を見たいのか」「どのように、地域社会に、人と手をつなぎ、生きていきたいのか」多様性の社会を肯定する言葉「どんな未来に行きたいか」が解る言葉で詩や歌を、そして、特に重い障害をもつ仲間たちと作ろう!と思いました。そして2020年から昨年、事件とは理由が違えども、コロナ禍で、これまでにも「施設内の障害当事者の暮らしの様子は地域社会から見えにくい」ということは何十年も言われてきましたが、今度は在宅の障害当事者の仲間たちも、コロナ感染防止のための強い自粛で、おのおの、自宅の部屋の中だけに、仕事仲間や友達ともつながりを絶たれて、孤立して居続けるような毎日に突入し 「ああ、また、障害者の存在、暮らしが、隠されてしまう」という強い危機感の中「今、わたしたちが、飛び出さなくては!」というひらめきから、コロナ禍ゆえに一同に集まれませんでしたが、オンライン(ZOOMなど)を主に使って、2曲の歌を作りました。
「きかせてよ きみのこと すきなこと すきなひと すきなたべもの すきなうたを きみのなまえを かぞくのことを」という部分の歌詞は、やまゆり園殺傷事件の折、被害者の皆さんのお名前が出ない方も多く、あまりにも凄惨な事件に対しての、ご遺族の方々への配慮であると感じる一方で「ああ、死んでなお、名前まで隠されなければいけないのかな…」と、障害当事者として複雑な思いがした経験が元になっており、このうたのように、そしてイラストの絵のように、障害のある子もない子も、同じ景色の中にいてあたりまえ、すきなことも、すきなうたも、ひとりにひとつの個人の名前も、聞きあえて、一緒に遊び、学び、病院や施設だけでなく、地域のどこにでも、生きる場所がある、そんな世の中に来てほしい。
「人と違ったら排除」ではなく、多様性を是とする社会に来てほしい…と、強く願いをこめて作りました。今も、私たちは、コロナ禍における極端な(今までの人生で経験したことのない)極端な介助者不足や、感染対策としての外出無しなど、おのおのの日常の中で、生きる闘いをしています。
そして、そのあいだにも「去年できたことが今年はできなくなっている」というレベルで、私たちの障害は進行をしていきます。辛く悲しい事件の後にも、私たちは姿を見せ続けて、隠れず、隠されず、支えてくださる介助さんたちや看護師さんたち、友人たち、たくさんの方々と、手をつなぎ、生きていきます。
障がい者を否定する人は、人を否定することであり、人を否定するのであれば、自分をも否定すること
◎亡くなった方たちへのメッセージ
もっともっと長く生きて、楽しく過ごしたかったね。穏やかに、ゆったりと、笑顔で周りのみんなを幸せにしてくれる。その存在がどれほど大きかったか、大事だったか。どんな障害があっても、頑張って一生懸命生きてきたのに。皆さんの魂の安らかなることを心より祈ります。
◎今回の事件についてのご意見
障がい者を否定する人は、人を否定することであり、人を否定するのであれば、自分をも否定することに等しい。自分を否定する手段として、障がい者を利用し、死刑という人生の完結を選んだ。愚かだ。障がい者と暮らしていると、つくづく思うのは、大した違いなんてない、むしろ彼らに教わることが多い。心のやさしさ、清らかさ、その中で共に生きることがどんなに幸せなことか。感謝しかない。 植松死刑囚も家族に重度障がい者がいて、父や母が明るく楽しく頑張っていたら、違っていたと思う。
生きている限り絶対に障害者にはならない、という保障は誰にもない
◎亡くなった方たちへのメッセージ
どんなにか痛くて怖かったことでしょう。想像するだけで、私も痛く悲しくなります。犯人のことは許せません。死刑なんて軽すぎです。理不尽な形で人生を終わらされてしまったけれど、せめてやすらかに眠ってください。
◎今回の事件についてのご意見
まず、犯人の障害者に対する考え方と、刃物で刺し殺す、という残虐の極みの行為とを分けて考えなければならないと思います。本音のところでどういう考え方を持っていようと他者にはどうにもできない事。でもそれを言動にうつす、となると話は別。殺人に正義も使命感もありません。抵抗できない人を刃物で刺し殺すなんて、残虐、卑劣の極み。絶対に許されない事です。この事に対するメディアの切り込みも甘いと思います。そして、犯人を賛美する人も少なからずいる、というのも不気味です。遺族の方々の怒りも弱いように感じます。これも、日本の風潮のせいもあるかもしれません。それから、地球上に生きている限り絶対に障害者にはならない、という保障は誰にもない、ということも認識しなければならないと思います。
これまで「利用者さんたちと出会えてよかった」と何度も感じてきました
謹んでご冥福をお祈りいたします。生活支援員として働いている者です。生活を共にしていると、もちろん大変なこともあります。しかしそれ以上に、職員の側が救われている部分も本当にたくさんあると感じています。これまで「利用者さんたちと出会えてよかった」と何度も感じてきました。もしも一緒にいるのがしんどいと感じるのであれば距離を取るべきで、人の人生を壊すようなことはあってはならないと強く思います。また、犯人の考えに少しでも同調する人を減らすことも私達の使命なのかなと思いました。
偏見が大きな問題であり、この事件を起こした死刑囚だけの問題ではないと思います
◎亡くなった方たちへのメッセージ
亡くなった19名の方々のことを考えると、どんなことばを言って良いのか分かりません。植松死刑囚に襲われた時、怖かったんじゃないかな、痛かったんじゃないかな、怖くてお父さん・お母さんに会いたかったんじゃないかなと思いました。
◎今回の事件についてのご意見
この事件は、本当に死刑囚だけの問題なのでしょうか。この日本の社会、家族などの小さな社会から、学校社会、地域社会、企業などの社会、国・都道府県などの行政などの社会、病院や施設での社会などさまざまな社会の、障がいのある人たちへの見方、目線、接し方などが生んだ偏見が大きな問題であり、この事件を起こした死刑囚だけの問題ではないと思います。何の障がいもない健常な人は、心の何処かで障がいのある人を「害のある人」と大なり小なり思うと思いました。私自身も自分自身が障がいをもつまでは、障がい者の気持ち、行動、言動など、理解するのが難しかったことは否定できません。 また、障がいを持って初めてわかることも沢山ありました。身体障がい・知的障がい・内部障がいをもつ人を理解することは、何の障がいもない健常な人には難しいかも知れません。しかし、障がいをもつ人が存在することを認めること、どのような背景をもつ人でも生きる意味があるということ、この2つはどのような社会であっても認めてもらいたい、そんな思いが起こりました。
◎私の"あすへの一歩"
この事件だけではないのですが、障がいをもち地域で暮らす人とご家族の支援をするケアについて、開発して行きたいと思います。
障碍者だから?他人に迷惑を掛けなきゃ生きていけないのは、全員共通だ
◎亡くなった方たちへのメッセージ
亡くなった19名の方全員が、生まれ変わって幸せな人生を歩めますように。 また、どんな形であれまたご家族の側で生きられますように。
◎今回の事件についてのご意見
毎年、この時期になるとこの事件を思い出します。私の彼は重度障碍者支援の施設で働いており、この事件について「俺も仕事でイライラすることがある。だけど、それは相手が障碍者だからじゃないよ。人間だから、他人だから解りあえないことがあってイライラするだけ。あの子ら(自身の施設の方や亡くなった方)が殺されていい存在だと言うなら、俺たちもあいつ(犯人)も、この世の中全員が殺されていい存在になるに決まっているだろう?障碍者だから?他人に迷惑を掛けなきゃ生きていけないのは、全員共通だ」と、言っていました。彼は担当している入居者の方から殴られたり、引っ掻かれたりよく傷をつくって帰ってきます。それでも、事件以降は特に入居者の方も職員の方もかけがえのない存在だと口にすることが多いです。無口で感情の起伏が少ない彼が、心から施設の方々を大切に思っていることが伝わってきました。命に優先順位などない。失われていい命は、自分勝手に他人の人生を奪ってその家族や友人に一生拭えない悲しみを植えつけた奴だけです。 元々、障碍者の方に偏見が一切ない(重度の知的障がい者の友人と普段から普通に接しているので違いがわからない)私ですが、彼の言葉を聞いて改めてそう思いました。
◎私の"あすへの一歩"
理不尽な事件や未解決事件に積極的に署名をするようになりました。
それでも前を向いて進むしかない。この思いのどこか、ご遺族の皆さんとつながりながら
◎亡くなった方たちへのメッセージ
夏は忘れずに巡ってきました。皆さんも見た同じ夏空。皆さんも聞いていた元気なセミの声。そう、同じこの世の中で。悲しい。
◎今回の事件についてのご意見
若くして精神障害を負い、数年前には難病にもかかった私に「あなたの人生にいいことはなにもないじゃない」と言った人がいました。ごくふつうの、たぶん常識的にしか見えない人です。この事件を、植松一個人の特異性のせいにしてはならないと思います。私たちのような存在をかわいそうとするまなざしは、案外、ふつうにあるということ。そこに、もっと多くの人たちに気づいて欲しいと思います。
◎私の"あすへの一歩"
ごく最近、サポート役と信じていた方から信じられない仕打ちを受けました。私の気持ちとしては治まらない。ただ、システム上、訴えるのはほぼ不可能でした。心に深い傷を負い、それでも前を向いて進むしかない。この思いのどこか、ご遺族の皆さんとつながりながら。
ご意見をお寄せください
相模原障害者殺傷事件についてのご意見や、
亡くなられた方へのメッセージを募集しています