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19のいのち

「語られなかったことば」障害者殺傷事件最後の傍聴記

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「すみません。最後に1つだけいいですか」死刑判決を受けた被告は証言台の前で手を挙げましたが発言は認められず、裁判は終わりました。

最後に何を語ろうとしたのか。

その被告に姉を殺された男性は、2年半ほど前に1度は用意しながらも、その時は出せなかった手記を判決の日に寄せてくれました。

19人の命が奪われた障害者殺傷事件の裁判、最後の傍聴記です。

判決の日 手を挙げた被告

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この2か月、横浜地方裁判所にほど近い、横浜港の公園で何度も見られた傍聴に並ぶ人々の列。判決の日となった3月16日は1603人が傍聴しようと訪れました。

ただここにも新型コロナウイルスの影響が。列に並ぶ人々がマスク姿というのはもちろん、法廷でも感染拡大防止のため席をあけて座る対応が取られました。その結果、傍聴席はこれまでの半分以下の10席に減り抽せんの倍率は160倍に上りました。

川崎市から訪れた50代の男性は「実は自分の中にも差別的な気持ちがあるのではないかと思い、その戒めの意味も込めて傍聴に来ました。極刑はしかたないと思いますが障害者を差別する考えがどのように生まれたのか、被告にはもう一度きちんと話してほしいです」と話していました。

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裁判は予定通り午後1時半に開廷。植松被告は黒のスーツに白いシャツを着て弁護士の隣の席に座りました。

冒頭で横浜地方裁判所の青沼潔裁判長は、結論にあたる主文を述べず、判決の理由を先に読み上げ始めました。

40分ほど読み上げが続く中で、被告には事件当時責任能力があったと認めた上で判決を言い渡しました。

「計画的かつ強烈な殺意に貫かれた犯行で、19人もの命を奪った結果はほかの事例と比較できないほどはなはだしく重大だ。遺族のしゅん烈な処罰感情は当然で、死刑をもって臨むほかない」

検察の求刑どおり被告に死刑を言い渡しました。

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この間、じっと証言台の前に座り、裁判長の方を見たまま動かなかった植松被告。ところが、裁判長が「閉廷します」と述べて立ち上がったとき、被告は証言台の前で席から手を挙げました。

「すみません。最後に1つだけいいですか」

被告の突然の申し出に市民から選ばれた裁判員はいったん座りかけますが、裁判長に促され法廷を出ました。発言の機会を認められないまま残された被告。裁判は午後2時15分ごろ閉廷しました。

判決受けて遺族は 被害者は

判決を受け、一部の遺族や被害者などが会見や文書で気持ちを伝えました。

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事件で犠牲となり法廷で「甲Eさん」と呼ばれた60歳の女性の弟は、遺族のなかで唯一被告人質問に立ち、「自分のことが好きですか」「コンプレックスが事件を起こしたのではないですか」と質したほか、変わらぬ被告に「切ない裁判」だと語っていました。

判決のあと取材に対し、語ったことばです。

「被告には法廷で『間違えたことをした』と言って欲しかったが、最後までかたくなに考えを変えなかったので、もう何も言う気持ちはありません。事件から時間がたちだんだんと落ち着きを取り戻してきましたが、こうして話をするたびに事件の当日に戻ってしまいます。最後に見た姉の顔は忘れられません。事件は風化していくかもしれませんが、事件をきっかけに障害のある人や社会的に弱い人が安心して暮らせるようになってもらいたいです」

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尾野一矢さんと父親の剛志さん

事件で首や腹を刺され一時、意識不明の重体となった尾野一矢さん(46)の父親の剛志さん。初公判から傍聴に通い続け、自ら被告人質問に立ち「事件を起こしていま幸せか」「意思疎通をとろうと努力したことがあったのか」などと直接ただしました。

判決のあとの記者会見では次のように話しました。

「遺族や被害者の家族が望んでいた結果となったことについては、少しほっとしています。被告の一挙手一投足から少しでも謝罪の気持ちや反省が見えればと思ってすべての裁判を傍聴しましたが、まったくそれが見られずとてもがっかりしています。彼がなぜ事件を起こしたのか、『障害者をかわいい』と言っていた青年の考えがなぜ変わったのか、理解できないまま裁判が終わってしまい、もやもやしたままです。判決はひと区切りですが、通過点にすぎません。事件を風化させず少しでも障害のある人が暮らしやすい世の中になるように取り組んでいきたいです」

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美帆さん

事件で殺害された19歳の「美帆さん」の母親と兄の代理人を務めた滝本太郎弁護士も記者会見しました。滝本弁護士は、かつてオウム真理教から信者の脱会を支援し、自らも信者から襲撃された経験があります。

「判決文はたった20枚しかなく、事件について『ヘイト犯罪』、『テロ犯罪』であることをはっきり書いていません。不十分で残念な“必要最小限の判決文”としか思えず不満です」

そう批判した上で、判決を聞いた「美帆さん」の母親の様子についてこう語りました。

「きょうで終わりだとほっとしているようでしたが、今回の裁判を責任能力と量刑だけを審議する簡単なものにしてほしくない、実のある裁判にしてほしいという思いで私に依頼していたので、判決文にそれが反映されず、『裁判とは、判決とは、こんなものでしょうか』という物足りなさを感じているようでした」

その美帆さんの母親は、判決後、手書きのコメントを寄せました。

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「当然の結果だと思う。悲しみは変わらない。けれど、1つの区切りだと思う。大きな区切りであるけれど、終わりではない。19の命を無駄にしないよう、これから自分のできることをしながら生きていこうと思います」

識者たちが見た裁判と判決「社会」は「私たち」は

私たちはこの事件と裁判をどう捉え、そこから何を考えたらいいのか、識者たちのことばです。

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重い知的障害のある娘と暮らし、植松被告と接見を重ね裁判も傍聴した和光大学名誉教授の最首悟さんです。

「『障害者は人ではない』という植松被告の主張に、裁判所は踏み込んで判断することを避けるしかなかったのではないか。残念ながら、現在の法制度では彼を正当に裁くことはできないのだと思います」

その上でこう指摘しました。

「遺族や被害者の家族の肉声を聞くことで、どれだけ人の存在が重く、かけがえのないものであるか、皆さんが触れることができたのはいいことだったと思います。植松被告は、人間の尊厳をきれいごとだと言いますが、それは本当に彼だけの考えなのか、人間の平等、人間の権利が私たちにどれだけ根づいているのか大きな問題だと感じます」

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脳性まひの障害があり障害者と社会の関わりについて研究している東京大学の熊谷晋一郎准教授です。

「生きる価値のある命と価値のない命に線を引くというのが被告の犯行の動機だったことに対して怒りを覚えてきたが、死刑判決はその被告の命に線を引くもので私にとっては複雑で葛藤を伴う判決だ。自分の行為を振り返る時間が省かれ、一生をかけて罪を償うことができない死刑判決は被告にとっては想定内のことで被告の目的が達成されてしまったのではないかという印象も残る」

その上で社会が抱える課題を指摘しました。

「障害者のケアを家族と施設に丸投げするという社会の構造に問題がある。障害がある人が弱い立場に置かれ、その一方で家族と施設職員が重すぎる責任を負わされているのが現状だ。社会全体でその負担を分散させることが重要で、障害の有無に関わらずお互いに支え合える社会になれるかどうか、1人1人に投げかけられているように感じる」

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発生当時から障害者殺傷事件と社会のありようを見つめてきた映画監督の森達也さんです。

「19人もの人が亡くなったのに2か月という短い期間で終わってしまい、なぜこのように被告が変貌したのか掘り下げられなかった。被告が突いてきた僕らが抱える矛盾に対し、命は平等というのなら出生前診断はどうなのか、何をもって命とみなすのか、考える前に裁判が終わってしまった。死刑判決となり凶悪な人間だから生きる価値がないというのもひとつの選別で、同じ構造に社会がはまってしまっていることをもっと意識するべきだ。命の格差や自分の中の差別性など矛盾や理不尽さをひとりひとりが考え続けることが、事件を風化させないためには大事で、それにより社会は変わるのではないか」

“語られなかった”被告の言葉

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ところで、「最後に1つだけいいですか」と言った被告は、何を語ろうとしていたのでしょうか。

もし多くの人が望んだ心からの謝罪のことばがあればと、念のため判決の翌日に拘置所の被告と接見して聞きました。

しかし被告が語ったのは。

「世界平和に一歩近づけるにはマリファナが必要ですと発言しようとしていた」
「謝罪は考えていなかった」

そう語ったあと控訴をしないと考える理由についてこう言いました。

「この事件って面倒くさいじゃないですか。うん、この事件は面倒くさいなとつくづく思います」

法廷で「語られたことば」 判決の日に寄せられた手記

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結局、今回の裁判では、被告がどのような過程を経てあれほどまでの差別的な考えを募らせていったのか、どうして「殺害」という行為にまで至ったのか。背景に施設が抱える課題があるのか、被告の生育環境と関わるのか、それとも社会の風潮が土壌となったのか、見えないままに終わりました。

一方、法廷ではこれまで「語られなかったことば」が伝えられました。

初公判にあわせ娘の名前と写真を手記とともに明かした美帆さんの母親。自ら被告人質問に立った60歳の姉を奪われた男性。また遺族の心情陳述や、読み上げられた19人全員の遺族の調書では、知ることのなかったそれぞれの人柄や人生、そして「不幸ではなく幸せだった」「ことばはなくとも意思を伝えてくれていた」と被告への反論とも取れることばが続きました。(それぞれのことばはNHKの特設サイト「19のいのち」でご紹介しています)

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「甲Hさん」と呼ばれた65歳女性

こうした中、判決の日、2年半前に書かれた手記が報道各社に寄せられました。法廷で「甲Hさん」と呼ばれた65歳の姉を亡くした弟の男性が事件から1年が過ぎたころに用意したものです。その時はすべてを伝える心情にはなれず一部を抜粋して寄せていました。今回、新たに記されていたことばです。

「姉が私にとってどんな人か,と問われれば『姉は姉でしかない』と答えます。言葉を発することはできませんでしたが、両手の指を使い、ジェスチャーや表情で意思の疎通ができました。私にとって大切な姉であり大切な家族でした」

そして障害を理由にいじめられていた姉をめぐり、ひとつのエピソードがつづられていました。

「私がまだ小学生のとき、姉が何人かの子にからかわれ,いじめられているのを見つけたことがあります。私は怒って怒鳴りながら彼らに向かっていきました。そして逃げていく彼らに向かって石を拾って投げたら1人の頭に当たって怪我をさせてしまいました」

謝りにいくため、母親と一緒に怪我をさせた子の家に向かったそうです。

「母はその子のお母さんに言いました。『怪我をさせてごめんなさい。治療費は払います。だけどこの子のしたことは怒ることはできないんです』。その子のお母さんも『娘さんをからかってごめんなさい。許されることではないことをしました』と言って、怪我をした子を連れてきて頭に包帯を巻いているその子にも私たちに謝らせてくれました」

2年半の時を経て寄せられた手記。きっとまだまだ多くの語られていないことばや思いがあるのだと思います。そこに思いをめぐらせた2か月の裁判でした。

傍聴記は今回で最後になりますが、美帆さんの母親の「大きな区切りではあるけれど終わりではない」ということばを受け止め、私たちもまた事件が投げかけた問いと向き合い続けて行きたいと思います。

(3/18 障害者殺傷事件取材班)

「生きる意味」見つめて傍聴に ある親子の43日間の記録

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真冬の冷たい雨が降る中、息子が乗った車いすを押しながら初公判に訪れた男性は、こんな風につづっていました。「事件のあと『うちの子が生きていることは意味がある事なんだ』と言えない自分もいました。うーん、これは困った」“答え”を探して傍聴に通った、ある親子の43日間の記録です。

8000人が訪れた裁判6歳の息子と傍聴に…

相模原市にある知的障害者施設「津久井やまゆり園」で入所者19人が殺害されるなどした事件で、元職員の植松聖被告(30)が殺人などの罪に問われている裁判。

初公判から結審までの16回の審理を傍聴しようと、のべ8000人あまりの人たちが訪れました。

8回目となる今回の傍聴記では、事件の当事者ではない立場から裁判に通った傍聴者の結審までの43日間を見つめます。

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朝から冷たい雨となった1月8日の初公判の日、傍聴券を求めて並ぶ人々の中に、その親子の姿はありました。人工呼吸器を装着し医療用のバギーに横になった6歳の男の子、荘真くんと、父親の土屋義生さん(40)です。

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(土屋義生さん)

(土屋さん)
「うちの子も重度の障害があるので、事件は衝撃でした。日本という社会の中で息子と生きていくことって何だろうって、ずっと問いを突きつけられている気がして。そこから目をそらしてはいけないと思って、裁判を通してその“答え”を探したいと思っています」

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しかし、この日は26席の傍聴席に2000人近くが並び、傍聴は叶いませんでした。後日、自宅を訪ねさせてもらうと、土屋さんは妻と3人の子どもたちとともに温かく迎え入れてくれました。

長男の荘真くん(6)は、生まれて2週間後に髄膜炎と診断され、脳に水がたまる後遺症もあり、ずっとベッドに寝たきりのままだそうです。声やことばを発することはなく、たんの吸引など医療的なケアが欠かせないため、何かの拍子で人工呼吸器が外れないか、夜中も気を抜くことができないといいます。

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荘真くん

(土屋さん)
「何かあったときに自分が気づかなかったら死んじゃうんじゃないかっていう気持ちが常にあるんですよね」

もともと共働きだった土屋さん夫婦は、互いに育休を取得して交代で荘真くんのケアにあたってきました。しかし去年の春にその期間も終わることになり、夫婦で話し合った結果、土屋さんは長年勤めた児童相談所の仕事を辞めて主夫になる決断をしました。

毎日、朝のおむつ交換に始まり、食事から入浴まで、自分がトイレにいく時などわずかな時間を除いてほとんどすべての時間を荘真くんと過ごしています。その土屋さんは、3年半前にこの事件が起きた時、自身のブログにこんな風につづっていました。

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(土屋さんのブログ)

土屋さんのブログ
「犯人は『障害者なんていなくなればいい』という趣旨のことを言っているようです。『一部の人が言っていること』とは流せませんでした。『うちの子が生きていることは意味があることなんだ』と言えない自分もいました。うーん、これは困った」

“息子が生きていることに意味があると言えない自分”とはどういうことなのか。私がそこにある思いを知るのはもう少しあとになります。

植松被告と目があって“ある行動に”

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初公判から9日後の1月17日。土屋さんは、再び荘真くんとともに裁判の傍聴に向かっていました。その車中、植松被告がことばで意思疎通ができない人を「心失者」と呼んで、「生きている意味がない」などと主張していることを受けてこう語っていました。

(土屋さん)
「息子は被告が言った『心失者』というのに、完全にあてはまっちゃう。そういう子と一緒に行くっていうことに、やっぱり意味があるのかなと思って」

この日、抽せんで初めて傍聴券を手にした土屋さん。「荘真くん、当たりましたよ。目が動揺してますね。2人で頑張ろうね」少し緊張した面持ちで裁判所の中へ入っていきました。

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法廷では、被告の元交際相手が出廷し、遮蔽板の中で証言しました。元交際相手は、言葉を話すぬいぐるみが主人公の映画を被告と一緒に見た時のことを振り返りました。

(証言した元交際相手)
「ぬいぐるみでも『あなたの名前は』と聞いて答えられ、コミュニケーションが取れたら人間として認められるという場面で、『俺が言いたかったのはこれだ』と興奮した様子で話していました。私の肩をたたいて目を輝かせていました」

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土屋さんは、このときの被告の表情を思わず手元のノートに記していました。“笑っている”。そして、被告と目が合ったような気がしたという土屋さんは、とっさにある行動をとっていました。荘真くんの医療機器のモニターの電源を切っていたのです。

(土屋さん)
「被告に荘真を見られた気がして本当に恐怖を感じました。ピーピーと音が鳴ってしまうと悪意がこっちに具体的にくるんじゃないかと」

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とっさに電源を切った自分、土屋さんはそのことを妻の真澄さん(39)に打ち明けました。

(土屋さん)
「被告がうちの子を完全に殺すって思っているかもなって。やっぱりそういう人がいる、そういう社会なんだって間接的じゃなく直接的に伝わってきた」

(真澄さん)
「そう言われると確かに怖いかも。荘真にこれだけのお金をかけて生かしている意味って何ですかって真正面から問われたら…」

(土屋さん)
「それ証言で出てたんだよね。具体的な数字ははしょられていたけど、被告が友達に障害者にこれだけのお金がかかっているんだぜって」

見失いかけたその時、荘真くんが…

「生産性」が重んじられるように感じる、社会からのまなざし。事件が起きてから、土屋さんはその視線が息子にも自分にも向けられていると感じてきました。

やりがいのあった仕事を辞め、息子のために24時間365日を捧げる生活。「世の働く人たちが定年を迎える年齢になるまで、自分にはこの生活がただただ延々と続いていくだけなのか」そんな言いようのない絶望感に襲われたこともあったといいます。

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その裏には、息子の成長を感じ取ることができない自分もいました。その頃、荘真くんは週に1度、療育センターに通っていましたが、あいさつの言葉をかけられても歌を歌っても反応してないように見えたという土屋さん。周囲が「荘真くん、いま反応しましたね」と声をかけてくれても、言葉通りに受け止めることができなかったとその心情を語ってくれました。

私はブログにあった“息子が生きていることに意味があると言えない自分”ということばの奥にある思いを知りました。

真澄さんも母親として、事件当時を振り返りこう打ち明けてくれました。

(真澄さん)
「この子に生きている意味はあるんだって、そう思い込んで一生懸命ケアをしてるんじゃないのって。楽しいと思っているのは、つらいことから逃げるために思い込んでるんじゃないのって事件でそう問われてしまった気がして…」

社会のなかで居場所を見失いかけていた土屋さんたちに、去年の秋、思いがけない出来事がありました。医師からはこの先も自分で呼吸をすることはできないと言われていた荘真くんが、ほんのわずかですが自発呼吸を始めたのです。

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そして荘真くんの誕生日、ケーキを近くに持っていくとろうそくの火を吹き消そうとするしぐさを見せたのです。

(土屋さん)
「消そうとしたなって。それが誰にも証明されなくても誰にも認められなくてもいいやって思えたんです。荘真は荘真なりに生きている。自分たちの『はかり』では決してはかることのできない世界で生きているんだと」

傍聴に臨むにあたり、土屋さんはノートの最初にこう記していました。

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土屋さんの傍聴ノート

土屋さんの傍聴ノート
「何のために行く?」→「考えたいから。この日本で障害児とともに生きるということはどういうことか?」

「何のために2人で行く?」→「当事者、当事者の家族として生きていくという覚悟」

法廷に響いた“声なき声”

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土屋さんは、その後も傍聴に通い裁判の記事を追い続けました。法廷でも変わらず自分の主張を繰り返し続ける被告、土屋さんは次第に恐怖よりもそこに幼さやかたくなさを感じるようになっていました。

2月5日。荘真くんとともに傍聴できたこの日、法廷では遺族と被害者の家族が初めて植松被告に直接問いかけました。

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(犠牲となった60歳女性の弟)
「植松聖さん、あなたの大切な人は誰ですか」

(被告)
「大切な人…」

言葉につまる被告に遺族は重ねて尋ねます。

(犠牲となった60歳女性の弟)
「私は家族とか友達、仲間とか身近な人が大切なのですが」

(被告)
「…大切な人はいい人です」

被告が具体的な名前を挙げることはありませんでした。

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(息子が重傷を負った尾野剛志さん)
「意思疎通をしようと努力したことはありましたか」

(被告)
「あります」

(息子が重傷を負った尾野剛志さん)
「どういうときですか」

(被告)
「どういうとき、どういうとき、どういうとき…」

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答えに窮したり同じ言葉を繰り返したりと、被告はこれまでと様子が違っていました。土屋さんが、荘真くんの医療機器のモニターの電源を切ることはありませんでした。「この社会の中で確かに生きている」

静かな法廷に「ピコーン、ピコーン…」と鼓動のように響くモニターの音は、そう訴えているかのようでした。

“生きる意味”見つめた43日間の先に

2月17日。被告に死刑が求刑されました。これに先立ち19歳で犠牲となった「美帆さん」の母親が心情を語りました。

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美帆さん

(美帆さん)
「他人が勝手に奪っていい命など1つもないということを伝えます。あなたはそんなこともわからないで生きてきたのですか。何てかわいそうな人なんでしょう。何て不幸な環境にいたのでしょう。私は娘がいてとても幸せでした。決して不幸ではなかったです。私の娘はたまたま障害を持って生まれてきただけです。何も悪くありません」

この日の夜、テレビのニュースから流れる母親の言葉に耳を傾けていた土屋さんと真澄さん。「わかるね」「うん、わかる」土屋さんは涙ぐみながら真澄さんと、そうことばを交わしていました。

(土屋さん)
「植松被告と日本社会と向き合いたいと思っていたんだけど、結果的にはずっと自分と向き合っていた裁判でした。人の役に立つとか、人に迷惑をかけないとか、社会に求められるような生き方に窮屈さと息苦しさを感じてきたんだけど、荘真は本当にあるがままに生きているので何だか子どもに頼っちゃって少し情けないけど、この子と一緒にいれば迷わないのかなって」

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土屋さんはそう言って荘真くんの横で笑っていました。息子とともに見つめた結審までの43日間。いま療育センターに通う日は週2回に増え、土屋さんは少しずつであっても、荘真くんの成長を確かに感じていると言います。裁判に通った日々の思いを自身のブログにこう綴っています。

「障がい者だけではなく健常者も含めたすべての人に『生きる意味とは何か』を問いかけた事件だったと考えています。また、生きていい人、生きてはいけない人を勝手に線引きした事件でした。そんな社会って窮屈じゃないですか?ごくごく限られた人しか安心できない。私は嫌です(笑)。あるがままを生きられる社会になって欲しいと思います。こんな事件を2度と繰り返さないために、傷つけられたり、亡くなられた方のためにも荘真とともに歩んでいこうと思います」

8回目となった裁判の傍聴記、今回は取材班の思いは語らずに終えようと思います。判決は3月16日に言い渡される予定です。

(3/5 横浜局記者 廣岡千宇)

“命をめぐる法廷”で
最後に語られたのは

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「私、普通のお母さんだから、たいしたこと言えないのだけど…」

そう話していた母親が法廷に立ち、奪われた最愛の19歳の娘への思いと深い悲しみを、泣きながら語りました。

ある弁護士は事件について「役に立たない自分を“挽回”したかった1人の若者の“歪んだ自己実現”だ」と指摘しました。そう指摘された被告は死刑を求刑されてもなお自らの主張を繰り返し、「ご清聴ありがとうございました」と発言を終えました。43日間にわたった裁判が結審しました。

彼はなぜ、命に線を引いたのか

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2月17日月曜の朝、横浜港には新型コロナウイルスの集団感染が確認されたクルーズ船が、停泊を続けています。赤レンガ倉庫にほど近い公園では、600人を超える人たちが裁判の傍聴に集まっていました。

横浜市の59歳の女性は、「極刑はやむを得ないと思いますが、それ以上に被告がなぜ障害のある人とない人の間に線を引く考えを持つようになったのかを知りたいです」と話しました。

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“普通のお母さん”が娘のために

15回目の審理となったこの日は、検察官による求刑に先立って、19歳の「美帆さん」の母親が心情を語りました。

犠牲者が匿名で審理されるなかで母親は「娘は甲でも乙でもない」と、初公判に合わせて下の名前を公表しました。

被告の変わらぬ差別的な主張に心が壊れそうになりながらも傍聴に通い続けてきた母親は、法廷で語る日を前にこう話しました。

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美帆さんの母親「私、普通のお母さんだからたいしたこと言えないのだけど…。でも美帆のことだけは誰よりもわかっているから、法廷でしっかり伝えなきゃって思うんです。諭すように話した方もいてそれも大事だと思ったけれど、私はあえて悲しみも厳しいことばもぶつけようと思っています。被告には何一つ届かなかったとしても」

「私は美帆の母親です」

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そして当日の法廷で母親は遮蔽板の向こうにいる被告に対し、はっきりした声でゆっくりと美帆さんのことを話し始めました。

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「美帆は12月の冬晴れの日に誕生しました。1つ上に兄がいて待ちに待った女の子でした。娘に障害のこと自閉症のこと、いろいろ教えてもらいました。私の娘であり先生でもあります。
待つことの大切さや、人に対しての思いやりが持てるようになりました。笑顔がとても素敵でまわりを癒やしてくれました。ひまわりのような笑顔でした。美帆は毎日を一生懸命生きていました」

これまでの法廷での被告の発言について語るうちに、母親は次第におえつしながら叫ぶような声になりました。

「『お母さんのことを思うといたたまれません』と言われてむかつきました。考えも変えず、1ミリも謝罪された気がしません。痛みのない方法で殺せばよかったということなんでしょうか。冗談じゃないです。ふざけないでください。美帆にはもうどんな方法でも会えないんです」

大切な家族を奪われた遺族は、どれほどの苦しみを抱えるのか。

「事件後、家はめちゃくちゃになりました。社交的だった祖母が家に引きこもって一歩も外に出なくなりました。兄は具合が悪くなり入院して仕事を辞めました。私は9キロやせました。外に出ると心臓の動悸がすごく全身が震えてしまうことがよくありました。
私の人生はこれで終わりだと思いました。自分の命より大切な人を失ったのだから。私たちは皆、あなたに殺されたのです。未来をすべて奪われたのです。美帆を返してください」

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そして大きくはっきりした声で伝えました。

「他人が勝手に奪っていい命など1つもないということを伝えます。あなたはそんなこともわからないで生きてきたのですか。ご両親からも周りの誰からも教えてもらえなかったのですか。何てかわいそうな人なんでしょう。何て不幸な環境にいたのでしょう。私は娘がいてとても幸せでした。決して不幸ではなかったです。私の娘はたまたま障害を持って生まれてきただけです。何も悪くありません」

最後にこう訴えました。

「あなたの言葉をかりれば、あなたが不幸を作る人で、生産性のない生きている価値のない人間です。どんな刑があなたに与えられても私はあなたを絶対に許さない。美帆は一方的に未来を奪われて19年の短い生涯を終えました。だからあなたに未来はいらないです。私はあなたに極刑を望みます。一生、外に出ることなく人生を終えてください」

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植松被告はこれまでと同じように感情を表に出すことはなく、時折、小さくため息をついていました。一方、法廷では母親のむせび泣く声がしばらくの間、響いていました。

「簡単に死刑にせず一生罪に
苦しんでほしい」

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この日は遺族や被害者家族の代理人の弁護士たちも、刑の重さについて意見を述べました。

法廷で「甲Sさん」と呼ばれた43歳の男性の、母親と姉の意見も読み上げられました。

「母も姉もいまだに死を受け入れることができないでいます」と語り、ずっと傍聴に通う中で抱いた思いが伝えられました。

「この1か月半にわたる裁判を通じて、被告から『自分の考え方が間違っていた』ということばは最後まで聞けませんでした。『意思疎通のできない重度障害者はいらない』という発言を繰り返し、それを聞くたびに甲Sを含め、社会の障害者全体をも殺されたような気持ちになり何度も傷ついています」

そして刑の重さについては。

「被告を簡単に死刑にしても償いにはならないとも考えています。終身刑を科し自分の犯した罪について一生苦しんでほしい。『障害者であろうと健常者であろうと、不幸な人も幸せな人もいる』という当たり前のことに気付き、この事件が絶対に許されないものであったと理解したうえで償いをしてほしい。しかし日本には終身刑がないため死刑を求めます」

「挽回」と「ゆがんだ自己実現」

19歳の「美帆さん」の母親と兄の代理人の滝本太郎弁護士は、かつてオウム真理教からの信者の脱会を支援し、自らも信者から襲撃されたことがあります。

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滝本太郎弁護士(2018年7月)

この日は滝本弁護士も法廷に立ち、今回の事件を「テロ事件」としてとらえるべきだと指摘しました。

滝本弁護士「被告は重複障害者に本人が希望もしていない『安楽死』政策をとってほしいと政府に求めた。そのためまず自分が多数を殺傷して社会と国に訴えたというのだから『テロリズム』である。裁判ではこれを直視しなければなりません」

そのうえで植松被告が事件を起こした要因として次の3つを挙げました。

  1. 知的障害者に対しもともと相応の悪意・侮蔑感を持ってきたが、やまゆり園で職に就いて増幅された。
  2. 生産・コストばかりを重視する社会情勢の中で「役に立たない自分」と考え、これを「挽回」したかった。
  3. 大人になって目立てなくなってきた中で「ゆがんだ自己実現」を図った。

2について滝本弁護士は、さらにこのように指摘しています。

「被告のように『役に立たない自分』ととらえてしまう若者が、いま少なくないと思われる。その点は当時26歳と若い被告には何ら責任がなく、政治権力や社会各所の権力者・有力者はもちろん多くの大人の責任です。問題は『挽回する方法』としてこの事件を起こしたことです。被告はあまりに粗雑な思考しかせず検討を尽くさないままだった」

そのうえで被告に死刑を求めました。

「被告の命もまた奇跡的にここにある以上、とても大切な『価値あるもの』である。だからこそ被告にはその貴重な命を刑罰として失ってもらわなければならない」

「どんな判決でも控訴しません」

今回の裁判の争点は1つだけ、「事件当時、被告に責任能力があったかどうか」です。

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検察の求刑

2月17日、検察官は刑の重さについての理由を述べたあと、最後に「求刑ですが」と一呼吸を置いてから「被告人を死刑に処すべきと考えます」と述べました。

このとき植松被告は無表情のまま、まばたきをすることもありませんでした。ただ前を向いて、どこかをじっと見ているようでした。

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弁護士の最終弁論

そして2月19日の16回目の審理では、最終弁論を行った被告の弁護士が「被告には責任能力がなかった」として、これまでどおり無罪を主張しました。

最後に発言の機会を与えられた被告は。

植松被告「私はどんな判決でも控訴いたしません。裁判はとても疲れるので負の感情が生まれます」

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植松被告「今回の裁判の本当の争点は、自分が意思疎通を取れなくなる時を考えることだと思います。長い間、皆様におつきあいいただきありがとうございました。ご清聴ありがとうございました」

被告は検察官に、続いて裁判官や裁判員、弁護士、そして傍聴席にそれぞれ一礼し、裁判は結審しました。

事件は「ヘイトクライム」
だったのか

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法廷で「甲Eさん」と呼ばれた60歳の女性の弟は「驚いた」と話しました。

60歳の女性の弟「裁判の最後にいきなり植松聖さんの演説が始まって驚きました。最後まで自己主張を通し、あまりにもひどい話だなと思いました。自分の思いを押しつけることで、自分の心の整理をしているんだと思います。聞くにたえず見るにもたえませんでした。心が少しでもあれば救われるかと思ったが、それもなかったです」

そして裁判で被告に直接質問したことなどについては、

「裁判で自分の気持ちを述べたらすっきりすると思っていましたが、思っていたほど気持ちの整理がつきませんでした。今も3年半前の7月26日のあの光景がずっと残っています」

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事件で一時意識不明の重体になった、尾野一矢さん(46)の父親の剛志さんは。

尾野剛志さん「やっと結審したということで、ほっとしたような気持ちです。弁護士は被告は心神喪失で無罪だと主張しましたが、遺族や被害者の家族などは検察の求刑どおりの判決が出ると思っています」

被告が最後に「裁判はとても疲れる」と発言したことについては、「彼の本音だと思いました。彼の本心がどこにあるのかは今も分からないままです」と述べました。

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植松被告と接見したことがある「ホームレス支援全国ネットワーク」の理事長で牧師の奥田知志さんは、被告が「野球選手や歌手になれていたら事件を起こしていなかった」と話した場面を指摘しました。

奥田知志さん「自分の人生に出番がない人間が、出番を自ら作ろうとした。自分の出番や役割がないことにもんもんとしている若者はたくさんいます。『生きる意味があるか』というのは、実は現代における自問でそれを被告は障害者に向けた。だけど根っこのところでは彼自身がおそらく『俺は生きる意味があるのか』と自問していた。障害者に対するヘイトも問題だが、あまりに薄っぺらく浅はかで許してはいけないと感じました」

被告が「重度障害者と共生する社会はやっぱり無理だとなればいい」と法廷で述べた点ことについては。

「この社会がすべての人の命を大事にしてきたと本当に言えるか、障害のある人たちと一緒にどう生きていくのか、そう問われたのがこの裁判だと思います。大変であっても共に生きることこそが本当の豊かさを導くのだと覚悟を決めるかどうか。彼が持ち出した価値観や彼が言っている主張を私たちは本当に根絶できるのか。本当の勝負は裁判が終わってからになると思います」

43日間で何が見えたのか

裁判で傍聴者を含めて多くの人が知りたかったのは次の点です。

  • なぜ被告が極端に差別的な考えをもったのか。
  • なぜその差別的な考えが「殺害」という行為にまでつながったのか。
  • そもそも差別的な考えが本当の動機なのか。

そして遺族や被害者家族の多くが望んだのは、被告が自身の過ちと奪った命の重さに気付くことだったと思います。

法廷では「命とは何か」「人間とは何か」「意思疎通とは何か」といった、命をめぐるやり取りが繰り広げられていたことが、記者には強く印象に残りました。

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しかし「なぜ事件を起こしたのか」という点については、被告は従来の説明を繰り返すばかりで、解明につながる新たな事実は見えてこなかったと思います。

一方で被告に迫ろうと遺族や被害者の家族、その弁護士たちが問い続ける中では、ほころびのようなものも見えました。
差別的な主張の根拠について、一枚二枚と皮をめくるように質問を重ねられると動揺し、言いよどむ様子を見せ、被告の論理の浅さを見た思いがしました。

初公判から43日間。被告に遺族の叫びのようなことばは届いたのでしょうか。
多くの人に極刑を求められ、いま自分の命についてどう思いをめぐらせているのでしょうか。

判決は3月16日に言い渡される予定です。

(2/20 障害者殺傷事件取材班)

「不幸を作った」のは被告だ

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遺族のことばが法廷に響くとき、被告は決まって表情を崩すまいとしているように見えます。それをより顕著に感じたのが、14回目の傍聴でした。

「あなたのご両親に謝りたい。大事な1人息子に死刑を望むことを」

5人の犠牲者の遺族はみずから法廷に立ち、あるいはそのことばを弁護士に託して、この3年半抱えてきた思いを伝えました。

「大麻の影響」分かれた医師の意見

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初公判から約1か月、2月7日と10日の裁判では2人の精神科医が法廷に立ちました。

1人は裁判所が行った精神鑑定を担当し、「病的な精神状態ではなかった」と指摘した大澤達哉医師。
もう1人は無罪を主張する被告の弁護士が分析を依頼した、工藤行夫医師です。

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まず被告の人格についての指摘です。

裁判所の精神鑑定を担当した大澤医師
・被告は明るく社交的である一方で、頑固で自己主張が強い傾向がある。
・大学入学後に次第に生活態度が変化し、特定の人の影響を受けやすくなり、快楽的で反社会的な傾向もみられる。

被告の弁護士の依頼で分析した工藤医師
・明るく社交的で目立ちたがりな一方、周囲の影響を受けやすく、真剣に悩まず場当たり的な行動をとる。
・問題行動はあっても明らかな反社会的逸脱行動はなく「若気の至り」の範囲。やんちゃなお調子者。

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争点となっている責任能力に関わる部分では。

裁判所の精神鑑定を担当した大澤医師
・「意思疎通ができない障害者を殺す」という考えは、被告個人の強い考えによるもので、病気によって生じたものではない。
・計画どおりの犯行で合理的な判断ができている。
・事件後は出頭していて違法性を認識している。
・逮捕後の供述では容疑を認めていて一貫している。

こうした点をあげて「大麻中毒などはあったが、犯行に与えた影響はなかったか、あっても小さかったと考えられる」と指摘しました。

一方の弁護士は。

被告の弁護士の依頼で分析した工藤医師
・大麻の使用頻度も週4~5回と増加し、粗暴な行動を取ったり、SNSを介して過激な主張を精力的に発信するようになる。
・それまでの人格と事件を起こすまでの1年ほどの間の人格に連続性はなく、「人の変わった状態」になっていて、自然に生じた変化とは考えられない。
こうしたことから「被告は大麻精神病だと考えるべきで、大麻が犯行に与えた影響を低く評価すべきではない」と説明しました。

一方の医師は「大学時代から徐々に反社会的な傾向が出始めた」と指摘し、もう一方は「大麻の影響で事件の1年前から人が変わった」と指摘しました。

今回の裁判では責任能力が唯一の争点となっており、その有無は判決の内容に直接結びつきます。

法廷では、市民から選ばれた裁判員には耳慣れないと思われる難解な用語も交わされました。

判断は裁判員も含めて裁判所が下すことになります。

不幸を作るのは障害者ではない、被告だ

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14回目の審理が行われた2月12日、犠牲となった5人の遺族が心情を伝えました。

法廷で「甲Sさん」と呼ばれた43歳の男性の母親は、思いを記した文書を代理人の弁護士に託しました。

弁護士が読み上げた母親の言葉です。

43歳男性「甲Sさん」の母親
「私の時間は、息子が亡くなってから止まったままです。息子が亡くなってから、私は年賀状が書けません。『明けましておめでとうございます』が書けないのです。
息子はお正月には毎年自宅に戻ってきていて、息子と一緒に笑いながら過ごす時間はとても幸せでした。私は被告に息子を奪われ同時に幸せも奪われたのです」

母親はこれまでの13回の裁判のやり取りを、遮蔽された傍聴席からすべて聞いてきたといいます。

43歳男性「甲Sさん」の母親
「なんで息子がいらないと思われてしまったのか、この事件は分からないことばかりでした。それを知りたいと毎回裁判所に足を運びました。
けれど分かったのは被告が、息子が誰なのか、どんな子なのかも分からないのに刺してしまったということだけでした」

43歳男性「甲Sさん」の母親
「障害者だって1人の人間なのに、自分が理解できないと勝手に思い込んだだけで、命を取るなんてただただ悔しいです。
被告は『障害者は不幸をつくる』と言っていますが、不幸をつくったのは被告です。息子はいつも幸せをつくっていました。大変なときもありましたが、苦労と不幸は違うのです。私は息子を返してほしい。息子にもう1度会いたいです」

「娘は人生で欠かせない存在でした」

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愛らしい瞳で周囲を癒やしていたという「甲Cさん」と呼ばれる26歳の女性。母親はこれまで命日にあわせて毎年手記を寄せてくれていました。

初公判を控えた去年12月ごろになると、「裁判のことを考えると具合が悪くなり、ことばが出なくなってしまう」とつらい心情を語っていました。それだけにこの日、母親がみずから法廷に立って「私はどうしても娘の思いを伝えたいのです」と語り始めたとき、記者は胸を締めつけられる思いがしました。

母親は周囲から見えないように遮蔽された証言台の前で、亡くなった娘に語りかけるように話しました。

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26歳女性「甲Cさん」の母親
「私は娘をいとおしく大切に思っていました。かわいくてかわいくて大好きでした。プールや川が大好きで、気持ちよさそうにほほえんでいたわね。ひなあられを私に食べさせてくれてうれしかった。
毎朝、笑っている娘の遺影を見つめると、ずっと話しかけていたいけどもう会えない思いに涙が込み上げてしまいます」

26歳女性「甲Cさん」の母親
「娘はいろんな表情で自分を表していました。娘の笑顔はたくさんの人を幸せにしてくれました。大事な心もありました。私の人生で欠かせない存在でした。障害があっても大切な命です」

「障害者は不幸をつくる」と裁判でも言い続けた被告は、「息子は幸せをつくっていた」「娘の笑顔はたくさんの人を幸せにした」という母親たちの言葉をどう受け止めたのでしょうか。

「あなたのご両親に謝りたい。死刑を望むことを」

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「甲Eさん」と呼ばれる60歳の女性の弟は法廷に遮蔽を設けずに立ち、被告に向かって深く頭を下げたあと冒頭、「私は被告に死刑を求めます」と述べました。

60歳女性「甲Eさん」の弟
「人が亡くなり、刃物で重傷を負い、職員が、家族が、世の中の人が心に大きな忘れられない傷を背負って生きていくのです。現実は残酷です。そろそろ人のことはいいから、自分の人生、そして起こした事件に真剣に向き合うときです。植松聖さん、あなたは若く、あまりにも幼い。いずれ判決が下った時、受け入れるのか控訴するのか、人生は1度です。しっかり考え決めてください」

男性はときおり声を詰まらせながら、はっきり大きな声で話しました。

60歳女性「甲Eさん」の弟
「一つお願いがあります。ご両親に私の連絡先を教えてください。たぶん、私と同世代でしょう。大事なひとり息子に私は死刑をお願いしました。ひと言おわびを言いたいのです」

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男性はこのように話した心情について、インタビューで次のように語りました。

60歳女性「甲Eさん」の弟
「両親にしたら大事な一人息子であり、その人に死刑を求めるのでおわびはしたい。裁判で被告は現実の話をしておらず、何を語りかけてももうむだだと切なくなりました。何か一つでも正直に話してくれれば死刑を求める気持ちも変わったかもしれません」

死刑を求めずに済むならそうしたかったと、無念そうに語っていた姿が強く記者の心に残りました。

「心があるんだよ」と叫んで止めた職員も

被告と同じ「津久井やまゆり園」で働いていた女性職員も、法廷に立ちました。

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事件当日は夜勤をしていて被告に拘束され、けがを負いましたが、入所者を襲う被告に「心があるんだよ」と叫んで止めようとしました。

女性は法廷では「丙Bさん」と呼ばれ、遮蔽板の向こうから、犠牲となった人たちとの思い出を時折声を震わせながら語りました。

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負傷した女性職員「丙Bさん」
「いつも明るく話しかけてくれた甲Gさん(46歳女性)。寝付けない夜は、一緒に過ごしたこともあった甲Jさん(55歳女性)。被害にあった利用者の方々は、就寝中に突然刃物で刺されどれほど痛かったでしょうか。どれほどの苦しみだったでしょうか。ご遺族はどれだけつらく悲しいでしょうか。
その気持ちを一生抱えて生きていかれると思うと、私も苦しく悔しい気持ちがおさまりません」

「意思疎通ができない人は生きている価値がない」と主張し続ける被告を前に、施設で働く職員としての思いも語りました。

負傷した女性職員「丙Bさん」
「言葉での意思疎通ができない方がいますが、表情やジェスチャーなど言葉ではない方法で伝えてくれることもあります。
バイタルチェック、食事、排せつの様子が何かのサインであることもあります。
私たち職員はそういったサインを見逃さないよう意識して支援をしていました」

なぜ事件が起きたのかを知りたいと、裁判で被告の発言を聞いてきたといいます。

負傷した女性職員「丙Bさん」
「裁判ではいろいろな方から命の尊さや、利用者の方々の存在に喜びを感じていた遺族の思いについて問いかけがなされましたが、被告は一貫して『自分の考えは間違っていない』というばかりで、悲しく、切なくなりました。せめて被告には、自分の命を失う最後の瞬間まで人の命の尊さ大切さと向き合ってほしいと思います」

遺族や被害者のことばは届くのか

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この日の植松被告は黒いスーツ姿にマスクをつけ、遺族などから頭を下げられると、同じように頭を下げました。しかし表情を変えることはありませんでした。

これまでの14回の裁判で、被告は遺族や被害者や家族のことばが法廷に響くとき、決まって表情を崩すまいとしているように見えました。

奪った命の重さを知ったとしても自分の過ちを認めるわけにはいかない、そう思っているのではないかと感じました。

法廷でどんな表情だったとしても、拘置所に戻って1人になったとき、それぞれのことばを思い出してほしい。例え今すぐでなかったとしても、何度でも何度でも思い返してほしい、そう感じました。

(2/14 障害者殺傷事件取材班)

動揺も見え言いよどむ被告「あなたの大切な人は誰ですか」

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もしあなたの目の前に命の基準を勝手に作り、それに外れるからと他人の命を奪うことを正当化する人物がいたら、どんな問いを、どんなことばをかけるでしょうか。

「植松聖さん、あなたの大切な人は誰ですか?」

その男性は自分の大切な人を殺害した被告に、静かにそう語りかけました。
今回の傍聴記では1月24日から4回にわたって行われた「被告人質問」を通じて、差別的な主張を続ける被告とそれに対峙しようとする遺族や被害者家族、代理人の弁護士、裁判員とのやりとりを追っていきます。

自分の弁護士にも反論する被告

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初日、最初に質問に立ったのは被告の弁護士です。裁判で唯一の争点となっている「責任能力」について尋ねました。

(被告の弁護士)
「我々弁護士が、どのような主張をしているか知っていますか」。

(植松被告)
「はい知っています。心神喪失、こう弱を理由に、減刑もしくは無罪を主張しています」
「自分は責任能力について争うのは間違っていると思います。責任能力があると考えています」
「責任能力がなければ即死刑にするべきだと思っています」

責任能力が「あれば」ではなく「なければ」死刑だという被告。無罪を主張する弁護士に真っ向から反対意見を述べました。

この日の法廷で被告は、自身が否定する「意思疎通できない人」の例として「心神喪失者」を挙げました。そして自分はそうではないと示すために、「責任能力がある」という主張にこだわっているように見えました。

「殺すといったとき笑いがとれました」

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一方で事件を起こすまでの経緯について、こう発言しました。

(被告)
「計画を50人くらいの友人らに話しました。半分以上の人に同意や理解をもらったと思っています」

(被告の弁護士)
「同意とはどんなことばで?」

(被告)
「『重度障害者を殺す』と言ったときが一番笑いがとれました」

(被告の弁護士)
「それを賛成と受け止めたのですか」

(被告)
「それが真実だから笑いが起きたのだと思います」

あまりに現実離れしていて、笑うしかなかった人がいたのかも知れません。
「笑い」を「殺人への同意」と解釈したという被告は、さらに安楽死と大麻とカジノを合法化すべきだと話し、大麻については自ら発言の機会を求めてひときわ大きな声で持論を展開しました。

無罪を主張するために質問していた弁護士は、当初の予定を大幅に短縮して被告人質問を終えました。

「その程度では“人の心”とはいえない」

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検察官は5人が殺害されたホームで、拘束された女性職員が泣き叫びながら被告を止めようとしたことを問いました。

(検察官)
「職員にやめるように言われましたか」

(被告)
「(職員は)泣いていて『心があるんだよ』と言われました」

(検察官)
「どう思いましたか」

(被告)
「その程度では人の心とはいえないと思いました」

検察官は1人の犠牲者を例に挙げて、会話が出来たのではと質問しました。

(被告)
「私は意思疎通できると思っておりません」
「そのレベルは人間の意思疎通とは思っていません」

「その程度」「そのレベル」と、被告は心や意思疎通のありようを一方的に決める発言を繰り返しました。

遺族の「大切な人は誰?」に言いよどむ

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3日目と4日目の被告人質問では、12年前に始まった被害者参加制度を使って遺族と被害者家族、その代理人の弁護士たちが法廷に立ちました。

遺族のなかでただひとり被告人質問に臨んだ男性は、事件で命を奪われ、法廷で「甲Eさん」と呼ばれる60歳の女性の弟です。

男性は初公判から連日法廷に足を運び、審理で凄惨な事件の詳細が読み上げられ、被告の差別的な主張が繰り返される様子を見つめてきました。

黒いスーツにネクタイ姿で法廷に立った男性は質問を始めました。

(遺族の男性)
「私は切ない裁判だなと思っているのですが、植松聖さんはいかがですか」

(被告)
「そう思います」

(遺族の男性)
「私は匿名のお願いをしましたがどう思いますか」

(被告)
「仕方ないと思います」

男性は被告を「植松聖さん」と呼びながら、終始、抑制的で丁寧な口調で聞いていきました。

(遺族の男性)
「私は放心状態で、殺害された姉の安らかな寝顔に安心して涙が止まりませんでした」

男性は涙をこらえながら続けました。

(遺族の男性)
「裁判は残酷だなと思います。詳しい状況、姉の死にざまを教えてください」

植松被告は淡々と答えました。

(被告)
「申し訳ありませんが、細かく死にざまなどは見ていません。たぶん3回以上は刺したと思います」

(遺族の男性)
「私はお年寄りや子どもは助けないといけないと思いながら生活をしています。今回の事件は、ただの弱いものいじめではないかと思うのですがどうですか」

(被告)
「申し訳ありませんが、そうは思いません」

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男性は質問を重ねていきます。

(遺族の男性)
「植松聖さん、大切な人は誰ですか」

(被告)
「大切な人…」

思わず言いよどむ被告に男性は続けます。

(遺族の男性)
「私は家族とか友達、仲間、身近な人が大切なのですが」

すると被告はこう答えました。

(被告)
「…大切な人はいい人です」

(遺族の男性)
「ほかには?」

(被告)
「ありません」

具体的な「誰か」をあげることのなかった被告。その後も言いよどむ場面がありました。

(遺族の男性)
「植松聖さん、自分を好きですか」
「コンプレックスが事件を起こしたのではないですか」

(被告)
「確かに…こんなことをしないで…社会…」

ことばが出てこない植松被告に男性が「ゆっくりでいいですよ」と声をかけました。

(被告)
「歌手とか野球選手とかになれるなら、事件を起こさずになっています」

(遺族の男性)
「野球選手と事件を起こしたことはかけ離れています」

(被告)
「なれるならそっちを選びます」

野球選手になることと45人を殺傷したことを並べる被告に、記者は遺族の男性がどう感じているのか気になって目を向けましたが、男性はその後も冷静に質問を続けていきました。

(遺族の男性)
「最後に植松聖さん、姉を殺してどう責任を取ってくれるんですか」

(被告)
「長年育ててこられたお母さんのことを思うといたたまれなく思います」
「それでも重度障害者を育てるのは間違っていると思います」

男性は「切なくなってきたのでこれで終わります」と述べて質問を終えました。

激情や怒りをぶつけることなく子どもに諭すように語りかけた姿勢からは、この3年半、どうすれば被告に言葉が届くのか悩み苦しんできた男性の、せめてもの願いが込められていたように感じました。

「今、幸せですか?」「幸せではありません」

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続いて事件で大けがをした尾野一矢さんの父親の、尾野剛志さんが法廷に立ちました。

尾野さんは被害者が匿名となる中で、事件直後からずっと一矢さんの名前をだして、その生きる姿を伝えようとしてきました。

被告人質問で尾野さんは次のように問いかけました。

(尾野さん)
「あなたは重度障害者と接していて意思疎通しようと努力したことはありましたか」

被告は「あります」と即答しましたが、「どういうときですか」とさらに問われると、「どういうとき…」と5回ほど繰り返し自問したのち、

(被告)
「普段から意思疎通がとれるように接していたので『ここ』ということはありません」

と述べるにとどまり、具体的には答えませんでした。

尾野さんが「意思疎通できるとは何か」と尋ねたのに対し被告は「名前、年齢、住所を言えること」と説明しました。

尾野さんは被告にこうも尋ねました。

(尾野さん)
「あなたは今、幸せですか」

(被告)
「幸せではありません」

(尾野さん)
「なぜですか」

(被告)
「面倒だからです…いまのは失礼だな。不自由だからです」

尾野さんは諭すように「障害者の家族は悩みながら子育てをし、その中で小さな喜びを感じていました」と語りかけましたが被告は「長年育てられた親のことを思うといたたまれません」とだけ答えました。

意思疎通を巡るやりとり

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その後は裁判員や裁判官も加わりながら遺族や被害者の代理人の弁護士たちが、「意思疎通」などをめぐるやりとりを続けます。

青沼潔裁判長は、施設で働き障害者と接する中で心が通じたことがなかったか尋ねました。
被告は当時を思い出したように、少し笑いながらこう述べました。

(被告)
「ズボンの上にパンツを履いてしまった人がいて、『何やってんだか』と和やかだと思いました。こちらの要求を理解したり笑ってくれたりすることもありました」

(裁判長)
「要求を理解し、笑う。それが意思疎通できたということではないのですか」

(被告)
「それは人としての意思疎通がとれたとは思っていません」

被告は即座にそう返しましたが、記者には印象的なやりとりでした。

犠牲となった43歳の男性「甲Sさん」の母親の弁護士は、こう聞きました。

(甲Sさんの母親の弁護士)
「やまゆり園に勤務していたとき入所者と意思疎通をとっていたといいますが、ことば以外でどうしていたのですか」

(被告)
「例えばテレビを指さしているのでつけると喜びます」

(甲Sさんの母親の弁護士)
「それは意思疎通ではないのですか」

(被告)
「人間の意思疎通とは言えないと思います」

(甲Sさんの母親の弁護士)
「では外国などことばの通じないところであなたはどうやって意思を伝えるのですか」

(被告)
「身振り手振りです」

(甲Sさんの母親の弁護士)
「分かったんですよね、言語でなく身振り手振りで」

(被告)
「……はい」

しきりに汗をぬぐう場面も

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19歳で被告に殺害された美帆さんの母親の弁護士も聞きました。

(美帆さんの母親の弁護士)
「ロボットと人間の違いはどこにありますか」

(被告)
「人もロボットも大して変わらないと思います。人間は高度なロボットだと思います」

(美帆さんの母親の弁護士)
「感情はロボットにあるんですか」

(被告)
「システムを作れば」

(美帆さんの母親の弁護士)
「それを作るのは人間でしょう。名前や住所を言えなくても、心と感情があれば人間でしょう。それは人の命そのものではないのですか」

被告が殺害の理由を「障害者に金と時間がかかっている」と主張することについてもこう問いました。

(美帆さんの母親の弁護士)
「あなたは措置入院が解除されたあと生活保護を受けていますよね。それだってお金がかかる。では死なせるべきなんですか」

(被告)
「私は社会勉強する時間のためです」

(美帆さんの母親の弁護士)
「では生活保護を申請するときに『社会勉強をするため』と言いましたか」

(被告)
「うつ病のふりをして申請しました」

植松被告はいつになく汗をかき、突然スーツの上着を脱いで椅子にかけたり、ハンカチでしきりに汗をぬぐったりしていました。

「あなたが殺されたら?」「両親は悲しむと思います」

これまで明かされてこなかった被告と両親との関わりもかいま見えました。

事件の5か月ほど前、障害者を安楽死させる考えを話した際の反応です。

(被告)
「両親には『人を殺したら悲しむ人がたくさんいる』と言って止められました。『確かにな』とは思いました」

両親には大切に育てられたと言います。

(被告)
「いろいろ手をかけてくれて、塾に通わせてもらったり部活動をさせてもらったり、不自由なく生活させてもらいました。
事件のあと面会に来て、自分は謝罪して親が涙を見せて、申し訳ないことをしたなと思いました。両親に対して照れくさいですが愛情はあります」

43歳の男性「甲Sさん」の母親は裁判で読み上げられた調書で、「生まれ変わってもまた私の子になってほしい」と述べていました。

「甲Sさん」の母親の弁護士は被告にこう聞きました。

(甲Sさんの母親の弁護士)
「あなたが殺されたら両親がどう思うか考えたことはありますか」

被告は10秒ほど沈黙したあとで「ありません」と答えました。

弁護士がさらに「いま想像したら?」と尋ねると、はっきりと「悲しむと思います」と答えました。

(甲Sさんの母親の弁護士)
「遺族の悲しみとあなたの両親の悲しみは同じですか」

(被告)
「人によっては同じだと思います」

市民から選ばれた裁判員も質問しました。

(男性の裁判員)
「事件を起こしたことで、当時考えていたような社会になったと思いますか」

(被告)
(少し考えてから)「重度障害者と共生する方向に社会が傾いたと思います」
「『やっぱりそれは無理だ』となればいいと思います」

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「切ない裁判」の意味を受け止める

植松被告の考えの浅さや矛盾、それを突かれ動揺も見えた被告人質問は、こうして終わりました。

このあとの審理では遺族などが法廷で気持ちを述べます。
60歳女性の弟として被告人質問にたち「切なくなるので」と質問を終えた男性に後日連絡をとると「なんか気持ちが落ちてしまった。このあとの陳述もやめようかなと…」と口にしました。

しかしすぐに「いや、この週末もう一度被告に何を伝えるべきか、考えてみます」と力を込めて語りました。

何をどう伝えても大切な人は戻ってこない。被告の考えも変わらないかもしれない。それでも問い続けたいという思いで男性が口にした「切ない裁判」ということばの意味を、記者は改めて受け止めています。

(2/7 障害者殺傷事件取材班)

19人殺害 あの“さとくん”が、なぜ

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「陽気で明るかった」「教師を目指していた」

昔の同級生や幼なじみにふと思いをはせることは、誰にでもあると思います。“さとくん”もそんな風に友達に思い出される普通の若者でした。そんな彼がどうして19人を殺害した「植松聖被告」になったのか。

今回の傍聴記では事件がなぜ起きたのか、その糸口を探るためにあえて被告のことばと事件までの経緯を直視していきます。

出生からの経緯を振り返る

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裁判の5回目の審理では証人尋問が行われ、6回目と7回目の審理では同級生や元交際相手などの調書が読み上げられて、植松被告が事件を起こすまでの経緯を振り返りました。

今から30年前の平成2年1月20日、小学校の教師の父親と母親のもとに1人の男の子が生まれ、「聖」と書いて「さとし」と名付けられました。

男の子は今回の事件の現場となる相模原市緑区の知的障害者施設「津久井やまゆり園」の近くで育ち、幼稚園から中学校まで地元の学校に通いました。

「陽気で明るかった」幼稚園~高校時代

まず幼かったころの被告について。

幼なじみ:
「『さとくん』と呼んでいた。陽気で明るい性格でわいわい遊んだ仲でした」

通っていた小学校には重い知的障害がある同級生もいたといいます。

小中学校時代の同級生:
「こうした子に対し、さとくんから偏見や差別的なことばは聞いたことがないです」

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植松被告の中学時代の写真

記者は法廷に響く「さとくん」という呼び方と目の前の被告とのギャップを感じつつ、被告が通っていた中学校の元教員も、卒業アルバムを見ながら「この写真の笑顔のように、さとくんは人なつっこい感じだった」と話したことを思い出しました。

平成17年、被告は東京・八王子市の私立高校の調理科に進学します。このころの様子について被告と交際していた同級生の調書です。

高校時代の交際相手:
「クラスではリーダー的存在で、ダンスの練習のときに面倒くさそうにしている人がいると『やるぞー!』と呼びかけたりしていました。ただ気にくわないことがあると物に当たることがありました」

こんな調書も紹介されました。

被告の友人:
「当時はまじめで教員を目指していると話していました」

変わり始めた大学時代「ピュアではなくなってしまった」

平成20年、被告は都内の私立大学に入学して教育学科の初等教育コースに進みます。

大学時代の友人:
「フットサルサークルに入っていました。基本的には明るくておもしろく、騒ぐのが好きな性格でした。大学2年の夏には頻繁に飲みに行ったりマージャンする仲でした」

自分の周りにもいそうな人物だと記者は感じましたが、大学2年のころに変化が見え始めます。

大学時代の友人:
「2年の冬には『脱法ハーブ』を使うようになっていました」

高校時代の友人:
「20歳のころ入れ墨をしていました。『彫り師になりたい』と言っていたそうです」

高校時代の交際相手:
「あるとき沈んだ声で電話をしてきたことがあった。『前みたいにピュアではなくなってしまった』と言っていました」

この調書が読み上げられたとき、被告は法廷で声を出して笑いました。

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一方で夢に向かっていた様子もうかがえました。通っていた大学が捜査当局の照会に応じた内容によると、大学4年の5月から6月にかけての約4週間、小学校で教育実習をしたということです。

勤務状況は「朝、児童に玄関で気持ちよく声をかけて、やる気を感じさせる」と「A」評価でした。学力は「B」ですが指導態度は「子どもと過ごす時間を大事にして声をかけている」と「A」評価で、総合成績は「B」でした。

大学の進路希望調査には次のように回答していました。

1. 教員
2. 公務員
3. 運輸・倉庫

平成24年3月に小学校教諭1種の免許も得ましたが、教員採用試験は受けなかったといいます。希望通りの進路がかなわなかったことで挫折感を味わったのでしょうか。友人などの調書からはわかりませんでした。

大麻の使用について

今回の裁判で弁護士は、大麻を使用したことによる精神障害の影響で責任能力はなかったとして、無罪を主張しています。

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植松被告

高校時代の友人:
「平成23年ごろだったと思うが、被告は時折大麻を吸うようになりました。被告は『大麻は自然のものだから体に悪くない』と話していました」

そして在学中に友人との間で交わされた会話です。もし子どもに障害があったらどうするかという話になったときの発言だといいます。

大学時代の友人:
「被告は『俺は障害者は無理だな。俺が親なら育てられない』と言っていました」

「障害者はかわいい」「天職」と語っていた

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大学卒業後は運送会社に就職しますが半年ほどで辞めて、平成24年12月から津久井やまゆり園で非常勤職員として働きはじめました。

採用時に提出されたエントリーシートに記された、被告の作文の内容です。テーマは「人生にプラスになった出来事3つ」でした。

「部活動。小学5年から高校3年までバスケットボールに打ち込みました」「今思えば過酷だったが、バスケをやめたいと思うことはありませんでした。忍耐力と継続力が今の自分の支えになっています」

「学童保育。3年間非常勤として学童保育所で勤務しました」「子どもの根っこの思いやりを動かすことで成長するし、自分も成長できます。卒業時に子どもの流した涙が忘れられません」

「卒業後、社会人として仕事をして、新入社員代表に選ばれ、現場のルートをいち早く任されました」「人は小さな出来事の積み重ねで成長につながります。3つは大きな経験です」

法廷で読み上げられた内容からは、のちに凄惨(せいさん)な事件を起こすような人物には思えませんでした。施設で働き始めた当初は待遇などに不満はあったようですが、やりがいを持って働いていた一面もかいま見えました。

大学時代の友人:
「被告は『職員が死んだ魚の目をして希望なく働いている』と話すこともありました。しかし『でも障害者はかわいい。いつも寄ってきてくれるし俺がいないと生きていけないんだ』とうれしそうな口調で言っていて、ようやく被告が楽しく仕事をするようになったと安心しました」

小中学校時代の同級生:
「仕事について被告は『年収300万円で安い』と言っていましたが、『障害者はかわいい。仕事はおもしろい』と言っていました」

さらにこんなことばも。

大学時代の後輩:
「就職活動について相談したところ、被告は『仕事は金のためじゃなくやりがいだと思う。入れ墨を入れている自分でも、障害者の人たちはきらきらした目で接してくれる。自分にとって天職だ』と話していました」

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働き始めたころは差別的な主張をしていなかっただけでなく、「天職」とまで言っていたのです。

頻度増す大麻 始まる差別的主張

平成25年、26年ごろになると、被告が大麻を吸う姿が頻繁に目撃されるようになります。

被告の友人:
「以前から被告は友人から借りた大麻を吸っていて大麻の効果を知っていました。平成26年の夏ごろには大麻を買うようになり紙に巻いたりパイプに詰めたりしていました」

幼なじみ:
「平成26年に大麻を吸っている姿を何度も見ました。テンションが高くなることはありましたが、異常な行動をしたり錯乱したりすることはありませんでした」

危険ドラッグから大麻へ。法廷でメモを取りながら、こんなに手軽に大麻が手に入ってしまう現実にも驚きを隠せませんでした。やがて施設で働き始めて2年ほどがたったころには、障害のある人への見方に変化が現れていました。

幼なじみ:
「2年ぐらいたったときに、『障害者はかわいそう。食べているごはんもひどくて人間として扱われていない』と話すようになりました」

そして事件の1年ほど前、平成27年の夏ごろになると被告は差別的な主張を周囲に伝え始めます。

高校時代の友人:
「6月ごろ突然『意思疎通できない障害者は生きている意味がない』と私に言うようになりました。あんなに仕事に満足していたさとくんがそんなことを言うようになったので仕事で何かあったのかなと思いました」

地元の友人:
「夏ごろから意思疎通ができない障害者について『安楽死させたほうがいい』などと言うようになりました」

そして年末から事件が起きた平成28年に入るころには、常軌を逸した主張はさらにエスカレートし、「殺害」ということばが出てくるようになります。

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植松被告

高校時代の友人:
「年が明けた頃、予言のカードを示しながら『このカードは俺のことを言っている。俺は伝説に残る男になる』と真顔で言ってきました。『自分が障害者を殺せばアメリカも同意してくれるはずだ』とか『UFOを見てから人格が変わった』とも言っていました」

そして2月になると周囲の人たちに殺害計画について語っていました。

小中学校時代の同級生:
「2月11日、『相談したいことがある』と言ってきて、『やまゆり園の障害者を殺そうと思っている』『安倍総理に手紙を出そうと思っている』などと言っていました」

被告は実際に衆議院議長宛てに障害者を大量に殺害する計画を記した手紙を書き、安倍総理に伝えてほしいと公邸まで渡しに行くなど、ことばだけでなく現実的な行動も伴うようになり、2月には施設を退職します。

同時に障害者に危害を加えるような発言が原因で10日間ほど措置入院しますが、考えが改まることはありませんでした。

当時交際していた女性:
「措置入院の前と違いなく障害者に対してネガティブな発言は継続していました。『俺がやる』『俺の手でやる』などと殺害をほのめかすような発言もしていました」

多くの人が異変とその危険性を感じ、被告を止めようと家族の立場になって考えるよう諭した人や被告を呼び出して説得した友人もいました。中には「本気なら監禁してでも止める」と言った友人もいましたが、被告はその友人にまで「そんなことしたら殺すよ」と言って、考えを変えようとしませんでした。

次第に周囲は被告との関わりを避けるようになり、凶行を未然に食い止めることはできませんでした。

直視することで糸口を探りたい

5回から7回の審理では、被告が変貌していく様子や大麻の使用状況は見えてきましたが、差別的主張がなぜ生まれたのかはわかりませんでした。

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1月24日に始まった被告人質問でも、被告は法廷で自身の差別的な主張を展開しました。重い知的障害のある娘と暮らし、被告と手紙のやり取りや接見を重ねてきた和光大学名誉教授の最首悟さん(83)は、傍聴したあとこう語りました。

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最首悟さん:
「社会の至るところで生産性のない荷物を始末するという線引きが行われていて、被告は自分の考え自体は世界で支持されると思っているようだが、私たち夫婦は障害のある娘に頼り、娘のおかげで生きている。
被告はより強くあることが人類の目的であるかのように考えているかもしれないが、弱さにこそ人が生きるうえで本当によるべき価値観があると思う。人への情愛を抜きにした社会はいずれ滅びてしまう。本来はそのことを考える裁判だと思うが、その片りんは感じられなかった」

裁判では、次回以降も被告人質問が続きます。今回の傍聴記では書いている私たちもそうですが、読んでいる方も不快になったり傷ついたりする内容もあったと思います。

しかしなぜ事件が起きたのか、どうして防げなかったのか、どうしたらこのような事件を2度と起こさない社会にできるのか、その糸口を探るためにも引き続き審理の行方を伝えていきたいと思います。

「人は生きているだけで価値がある」

そんな当たり前のことをあえて言わなくても済むように。

(1/25 障害者殺傷事件取材班)

「お母さん、幸せだったよ」~法廷に響いた反論~

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大事な人と最後に会った時の表情、声、ぬくもりを覚えていますか。それが最後になるとわかっていたならー。その思いは当然ながら、障害のあるなしで変わるものではありません。法廷に響いたのは、私たちがこの3年半、最も伝えたかったことばでした。

“奇妙な姿”で現れた被告

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1月10日、2回目の審理。初公判で指をかむような動作をして突然、暴れた植松聖被告は姿を見せるのか。まずそこに注目が集まりました。

法廷に入ってきた被告は、ネクタイはつけていないものの黒いスーツ姿。初公判と同じ服装かと思ったやさき、両手を見て驚きました。自傷行為を防ぐための厚手の白い手袋をはめていたのです。それはまるで「鍋つかみ」のようで何とも奇妙な姿でした。

その被告に裁判長は、初公判の時のように法廷で秩序に反する行動をしないよう告げ、「はい、申し訳ありません」と小声で述べた被告が少し頭を下げて、裁判が始まりました。

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私たちは後日、被告に拘置支所で接見し、暴れた理由を尋ねました。返ってきた答えは。

「ことばだけの謝罪だけでは納得できず、いちばんいい方法だと思った。考えてとった行動であり、錯乱していたわけではない。2年ほど前から考えていた」

理由はどうあれ、以降の法廷では、6人の係官がずっと被告を取り囲んでいました。

受けた傷の説明だけで1時間

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2回目の審理でまず始まったのは、検察官による捜査報告書などの証拠の説明です。検察官は透明のケースに入れられた凶器の刃物5本を実際に提示。続いて犠牲となった19人の傷の状況や死因の説明に移りました。

犠牲者の呼び方は、漢字とアルファベットを組み合わせたもの。「甲Aさん」の傷は、「甲Bさん」の傷は、「甲Cさん」の傷は…。人によっては深さ20センチの傷を負い、抵抗した際に手などにできる「防御創」と呼ばれる傷もあったことがわかりました。

説明にかかった時間はけが人も合わせて1時間。「死者19人 負傷者26人」という事実の重さを改めて突きつけられ、メモをとるのが苦しくなる時間でした。

一貫しない「しゃべれるか」

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続いて、結束バンドで拘束された施設職員の調書が順に読み上げられました。被告は襲いかかる前に入所者が話せるかどうか職員に確認していたといいます。ある職員の調書です。

「被告が『しゃべれるのか』と聞いたので、『しゃべれません』と答えました。被告は布団をはがし、中腰で包丁で数回刺しました」

一方で、その行動は一貫していませんでした。別の職員の調書です。

「実際に会話もできる人だったので『しゃべれる』と答えたのに、被告は『しゃべれないじゃん』と言って包丁を振り下ろしました」

被告は「意思疎通のできない人間は生きる価値はない」などと、差別的な考えから事件を起こしたと主張していました。それ自体が論外なのは言うまでもありませんが、裁判では被告が次第に、話ができるかどうかにかかわらず襲っていたことも見えてきました。

「意思疎通」しながら通報に

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尾野一矢さん(46)

さらに、初めて明らかになった事実もありました。裁判で実名で審理されている尾野一矢さん(46)は、事件で首などを刺され一時意識不明となる大けがをした1人です。その尾野さんの行動について語った職員の調書です。

「被告が逃走したあと、部屋から尾野さんが出てきました。尾野さんは『痛い』と言っていて、私は『痛いけど頑張ってね』と励ましました。『リビングにある携帯電話を取ってきて、四角いの』とお願いすると、尾野さんが持ってきてくれたので、私は結束された親指以外の指で110番通報をしました」

危機的な状況で職員と「意思疎通」しながら交わされたやり取りが、警察への通報につながっていたのです。尾野さんの父親の剛志さんは審理が終わったあとで次のように語りました。

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尾野さんの父親 剛志さん

(剛志さん)
「きょうまで一矢は刺されたあと、そのまま気絶したかと思っていました。よくがんばったなと思ったし、本当に褒めてやりたい。女房とぼろぼろ泣きながら聞きました」

私たちも初めて知った19人全員の遺族の思い

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3回目と4回目の審理では、検察官が犠牲になった19人全員の遺族の調書を朗読しました。2日間にわたって犠牲者の生前の姿、施設に入ったいきさつ、最後に会った日のこと、それぞれの遺族の悲痛な思いが1人ずつ明かされたのです。

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美帆さん(19)

はじめに読み上げられたのは、当初、匿名で審理されることになっていたものの、この日から名前で呼ばれることになった19歳の「美帆さん」の母親の調書です。呼び方が変わったのは、母親の「娘の生きた証しを伝えたい」という希望によるものでした。最後に会ったのは事件の2日前でした。

美帆さん(19歳)の母親の調書

「会いに行った際、美帆は『キャー、キャー』と大きな声を出して喜んでいましたが、10分ほどしか一緒にいられませんでした。美帆はいすに座ったままじっと私を見ていました。『また会えるから』と出てしまい仕事に向かいました。この時、もっと美帆と遊んでおけばよかった。もっと一緒にいればよかった。美帆のことは女手一つで大事に大事に育ててきました。表情豊かで、楽しい顔やうれしい顔や怒った顔をしました。私にはどの顔もとてもかわいかったです。美帆に希望をもらって生きて来られました。被告に言いたいことは、とにかく美帆をかえしてほしい。元気な状態でかえしてほしい」

法廷で「甲Bさん」と呼ばれる、40歳の女性の母親の調書です。施設に入ったいきさつも読み上げられました。

甲Bさん・40歳女性の母親の調書

「娘はすべての行為に人の助けが必要で、大変だったことも難しいこともありましたが、人なつこくかわいい存在でした。できることなら自宅で生活をともにしたかったですが、私たち夫婦が引退する世代になってしまい、娘の手助けをできなくなってしまいました」

そして、裁判員の前のモニターには、事件の2週間ほど前に最後に会った時の笑顔の写真がうつしだされました。

甲Bさん・40歳女性の母親の調書(続き)

「一時帰宅の時、大好きなピザや揚げ物を用意して食事しました。近くのカフェにも行き、小さい頃から知っている人たちにも会って喜んでいる様子でした。まさかこれが最後になるとは思っていませんでした。私たちはもう二度とこの笑顔を見ることはできなくなりました。この日が本当に家族4人が過ごした最後のときでした」

法廷で「甲Gさん」と呼ばれる46歳の女性の母親の調書です。

甲Gさん・46歳女性の母親の調書

「感情や表情が豊かで本当にかわいい娘です。小学校は特別支援学級に入りました。他の子よりゆっくりでも、娘が成長していく姿を見るのが幸せでした。小さな喜びがいくつもありました。娘が26歳の時に、さみしかったですが糖尿病などもありやまゆり園にお世話になることを決めました。最後に会ったのは7月12日で、マニキュアを塗っていてうれしそうに両手の爪を見せてくれました。娘はファッション誌を見るのが好きで、『8月6日はお祭りだね、浴衣が着れるからね』と話していました。娘は毎年、浴衣を着るのを楽しみにしており、満面の笑みで応えてくれました。娘と別れてから、もう1度浴衣を着せてあげたかったとかなわぬ思いを持っています」

法廷で「甲Lさん」と呼ばれる43歳の男性の母親の調書の内容です。最後に会ったのは、事件の16日前でした。

甲Lさん・43歳男性の母親の調書

「会うときはいつも近くの食堂で食事をとっていたので、この日もバスで食堂に行きました。息子はフライ定食と焼きそばを注文しひとりですべてを平らげて楽しそうに笑っていました。苦しい家計のなかでも息子との食事のときには奮発して注文したいものを注文させてあげました。帰りにバスを待っていると季節外れにツバメが巣をつくっていて、息子は興味津々でいつまでも見ていました。今となっては息子と一緒にいるときに神様が最後に美しい光景を見せてくれたのかなと思っています。今でも食堂やツバメのことを思い出して心が壊れてしまうような気持ちになります」

そして、息子の遺体と対面した時のことについて。

甲Lさん・43歳男性の母親の調書(続き)

「息子に会えて顔をのぞき込むと、口を少し開けて笑っているような表情をしていました。『いままでありがとうね。お母さんは生まれてきてくれて幸せだったよ』と話しました」

法廷で「甲Sさん」と呼ばれる43歳の男性の母親の調書です。

甲Sさん・43歳男性の母親の調書

「夫の病気が悪化し、息子を入所させることが決まったのですが、その日が来る前に夫が亡くなりました。息子と離れるのはつらいと思いましたが、私も生活のために働きに出ないといけなくて、苦渋の決断をせざるをえませんでした。私は息子を愛しています。息子と一緒に過ごせて本当に幸せでした。生まれ変わっても、また私の子になってほしい。ずっと天国から見守っていてね。幸せをたくさんくれてありがとう」

どの調書からも、犠牲になった19人が家族から深く愛され、それぞれ豊かな人生を歩んでいたことがうかがえました。また、そうした大切な家族を施設に預けることは、悩んだ末の選択だったこともわかりました。一緒に住んでいなくても、家族が強い絆で結ばれていることを感じさせる遺族のことばが続きました。

被告の主張への反論と、厳しい処罰感情

また、多くの遺族が被告の差別的な主張を否定することばを発し、厳しい処罰感情を示していました。

法廷で「甲Eさん」と呼ばれる60歳の女性の弟の調書の内容です。

甲Eさん・60歳女性の弟の調書

「被告は『障害者は不幸をつくる』という差別思想から事件を起こしたと言いますが、家族の苦しみ、一緒に暮らしていた家族の幸せをどれだけ分かっているのかと思います。悔い改めるよう厳重に処罰されてほしい」

法廷で「甲Nさん」と呼ばれる、66歳の男性の姉の調書の内容です。

甲Nさん・66歳男性の姉の調書

「『障害者は価値がなく死んだ方が日本のためだ』と話していると聞きましたが、自分がしたことを反省せず、日本の福祉制度や私たちのような家族のためだと言わんばかりで、被告への憎悪が募るばかりです」

こうしたことばを、被告はどう受け止めたのか。遺族の調書が読み上げられる間、時おり首をだるそうに動かすなどしていましたが、表情を変えることはほとんどありませんでした。

差別がなくなることを…

そして法廷で「甲Mさん」と呼ばれるラジオが大好きだったという66歳の男性の兄の調書の内容です。そこには痛切な願いがつづられていました。

甲Mさん・66歳男性の兄の調書

「被告1人を死刑にすることでは解決できない。障害者への差別がなくなることを願うばかりです」

法廷に響いた私たちがいちばん届けたかった“ことば”

これまで私たちは、「施設で暮らす重度の知的障害者」、「匿名の19人」というくくりではなく、それぞれに豊かな個性と奪われてはならない人生があったことを伝えたいと、この3年半、取材を重ねてきました。それが被告の差別的な主張に対じすることになると考えてきたからです。ですが一部のご遺族からは亡くなった方の生前の姿や思いについて伺えたものの、どんな人柄だったのか、家族がどんな思いでいるのかほとんど分からない方もいました。

法廷に静かに響いた、被告への“反論”とも言えることばの数々は、私たちがいちばん伝えたかったことでした。

(1月17日 障害者殺傷事件取材班)

第1回 初公判~暴れた被告 異例の幕開け~

“冬の嵐”になるーー。
朝から雨風が強まった1月8日。
裁判所近くに集まった傍聴を希望する2000人近い人たち。
法廷で突如暴れ出した被告。
そして、犠牲者が匿名となる中、娘の名を初めて明らかにした遺族。

差別的な動機で19人のいのちが奪われた事件の初公判が始まりました。

遅れた開廷 傍聴券に長蛇の列

朝9時。
横浜の観光名所「赤レンガ倉庫」の近くにある公園には、続々と人が集まり始めていました。

ふだんは横浜地方裁判所で行われている傍聴を希望する人たちの抽せん場所が、今回は特別に公園となったのです。

対象の裁判は、相模原市の知的障害者施設で19人を殺害し26人にけがを負わせた、植松聖被告(29)の初公判。車いすを利用する人の姿も見られ、曇り空が風を伴った雨に変わったあとも、人は増え続けました。

傍聴券を求めて並んだ人たちは。

埼玉県加須市から来た43歳の男性。
「以前、障害者支援の仕事をしていたため、事件の発生当初から関心を持ってきました。被告が心から被害者や遺族などに謝罪することばが出るのか注目したい」

横浜市の老人ホームに勤める31歳の介護福祉士の男性。
「同じ介護士として、なぜ植松被告が残虐な事件を起こしたのか、その理由を聞きたくて来ました。被告には障害が重度であれ軽度であれ、一つの命だということを理解してほしいです」

午前10時。整理券の交付の締め切り時間をすぎても数百人が列を作ったまま。

最終的に、26の一般傍聴席に対し希望した人は1944人。倍率は約75倍となりました。

裁判所の想定を超えた傍聴を希望する人たち。整理券の交付は30分ほどずれこみ、開廷時間は11時20分に変更されました。

多くの人がこの事件と裁判に、関心を寄せていることを改めて感じる場面でした。

始まった初公判 匿名審理

そして午前11時26分。裁判が始まりました。

植松被告は法廷に入ると軽く一礼をして弁護士の後ろの席に座りました。

黒のスーツに紺色のネクタイ。私たちが接見した際に、事件後一度も切っていないと話していた髪は、背中の中ほどまで伸びていました。

今回の裁判を物語るものが傍聴席にありました。
高さ1.8メートルほどの遮蔽板です。大けがを負った1人を除いて、被害者が匿名で審理されることになったのです。

裁判長は、冒頭被害者や遺族のプライバシーに配慮して、傍聴席の一部を遮蔽板で見えないようにしていることを説明。

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検察官が起訴状を読み上げる前にも、裁判長が被害者の要望に応じ、個人が特定される情報は伏せて、匿名で審理を行うことを説明しました。

検察官も、被害者については氏名を出さず、「甲A」「乙A」などという表現で起訴状を読み上げました。

匿名で審理される状況を傍聴した1人、骨の発達に障害があり、兵庫県西宮市から車いすで訪れた住田理恵さんは。

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「裁判官が『犠牲者の名前を甲と呼ぶとか、AとかBとかで呼ぶ』と説明するのを聞いて、悲しい気持ちになりました。19人の人格があって、それぞれの名前を呼んであげたいと思いました。匿名で裁判をしないといけない社会にも腹が立ちました」

裁判を傍聴した71歳の女性は。

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「亡くなった19人やけがをした人が匿名のまま裁判が行われ、存在していなかったように扱われていると感じるので残念。廷内に遮蔽板を設置するという今回の対応には今の社会のありようが表れていると思う」

無罪主張と“暴れた被告”

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法廷で裁判長から、起訴された内容についてまちがったところがあるかと尋ねられた植松被告。

「ありません」とはっきりした口調で述べ、殺害などについて認めました。この時、被告は証言台の前に立ったまま、裁判長のほうをじっと見ていました。

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一方、裁判長に意見を求められた弁護士は、「当時、被告人には精神障害があり、その影響で責任能力が失われていたか、弱くなっていたため、心神喪失者または耗弱者であったと主張します」と述べて無罪を主張しました。

このあと、弁護士が被告に発言を促したところ、被告は「皆様に深くおわびします」と述べました。

その直後、被告は突然、口の中に何かを入れるようなしぐさをするなど暴れ出し、近くにいた係官に制止されます。

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被告は押さえつけられてしゃがみこみましたが、係官から「やめなさい」と何度も注意され、裁判長が休廷を告げました。法廷は騒然としました。

横浜地裁はその後、「被告が右手の小指をかみ切るような動作をしたため休廷した」と説明しましたが、けがをしたかについては「答えられない」としています。

被告不在で進む異例の幕開け

午後1時20分ごろに再開された法廷。

被告の姿はなく、検察官と弁護士による冒頭陳述は、被告不在のまま進められました。

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争点となる被告の「責任能力」について、検察官の主張です。

「被告には完全に責任能力があった。パーソナリティー障害と大麻使用による精神障害があったことは認めるが、パーソナリティー障害は、人格に偏りがあるにすぎないことで、大麻使用については、病的妄想を生じさせるものではない」

一方、弁護士は。

「客観的事実は争わない。事件が誠に痛ましい事案であることも否定しない。被告は大麻の乱用によって大麻精神病になり本来とは違う別の人になった結果、事件が起きた」

「娘は甲でも乙でもない」名前明かした遺族

この日、遺族や被害者の家族はそれぞれの思いを抱きながら臨みました。

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事件で大けがをした尾野一矢さん(46・写真左)の父親の剛志さん。
被告の主張を打ち消したいと、事件後、実名で息子の生きる姿と家族の思いを伝えてきました。

被害者では唯一実名で審理に望んだ剛志さん。初公判を前に、こう語っていました。

「事件から3年半がたってやっときょうの日にたどりついたという感じです。緊張していますが、来る時が来たので腹をすえて法廷に入りたい。被告の顔をこの目できちんとみて、彼の真の心を探りたいです。被告に、もし謝罪の気持ちがあるとすれば、人の気持ちがあったのだと、そう思いたい」

だからこそ、閉廷後の記者会見では被告の態度に落胆した思いを語りました。

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「法廷での被告の行動は心神喪失や心神耗弱にみせかけようとしたパフォーマンスとしか思えなかった。裁判をつぶしてやろうという意図がみえて、この程度の人間だったのかと改めて軽蔑したい。施設で働き始めた頃の被告はやさしそうな好青年だった。当時からそういう気持ちがあったのか、そうでなければいつ気持ちが変わったのか、今後の裁判で確かめていきたい」

そして、もう1人、ある決意をして裁判を迎えた人がいました。
事件で犠牲となった19歳の女性の母親です。

「娘が一生懸命生きていた証を残したい」と、初公判にあわせ初めて娘の下の名前を「美帆さん」と明かしました。

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美帆さん

幼い頃から亡くなる19歳までの4枚の写真と手記も寄せました。
手記には、葛藤しながらも明かした理由をこうつづっています。

「美帆は一生懸命生きていました。その証しを残したいと思います。こわい人が他にもいるといけないので住所や姓は出せませんが、美帆の名を覚えていてほしいです。うちの娘は『甲』でも『乙』でもなく美帆です。どこに出しても恥ずかしくない自慢の娘でした」

裁判についてもこう記していました。

「犯人の量刑を決めるだけでなく社会全体でもこのような悲しい事件が二度と起こらない世の中にするにはどうしたらいいか、議論して考えていただきたいと思います」。それだけに、きょうの被告の行動を代理人の弁護士から聞き、こうコメントを出しました。「とても裁判に臨む態度ではなく残念です。この先の裁判がどうなるのか心配です」

初公判を見つめて

法廷での被告の突然の行動には、取材をしていた私たちも驚かされました。

裁判を被告と対じする機会として捉えてきた、遺族や被害者の家族などの思いを想像すると、やりきれない気持ちになりました。

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初公判を見つめた、脳性まひの障害があり、障害者と社会の関わりについて研究している東京大学の熊谷晋一郎准教授。

2000人近くが傍聴を希望して集まったことについてーー
「事件の風化が危惧されていたが、多くの人たちが3年間にわたり、それぞれの立場で関心を寄せ続けていると改めて感じた」

そのうえで植松被告についてーー
「おわびをすると言ったが、まだ彼がおわびをできる状況ではない。被害者におわびをしたり、罪をつぐなったりするためには犯した行為の背景と与えた影響を深く理解することが必要だが、全く不十分にみえる。意志疎通ができない人とカテゴリー化する前に、相手の話を聞こうとしたのか。被害者や遺族の声をしっかり聞いて深く理解すべきだ」

そして今後の裁判に向けてーー
「多くの人々がなぜこのような事件が起きたのかと思っている。被告自身の生い立ちや人生、そして社会における重度障害者が置かれている状況など多角的な視点からなぜ事件が起きたのかを明らかにしてほしい」

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事件から3年半がたってようやく始まった裁判。
多くの人が注目したその法廷に、植松被告がいた時間は、わずか10分ほどでした。被告本人が不在でも、審理を続け判決を出すことは可能です。

法廷で「深くおわびします」ということばを述べたのであれば、遺族や被害者家族の気持ちに少しでも向き合うため、まず被告は今後繰り返し開かれる裁判に出廷すべきだと感じました。

次回の裁判は今月10日。
被告は出廷するのか、そして、その後の裁判にどう向き合っていくのか、“異例の幕開け”となったこの裁判の行方を見つめていきたいと思います。

(1月8日 障害者殺傷事件取材班)

奪われた19のいのち 障害者施設殺傷事件 初公判を前に

奪われた19のいのち 障害者施設殺傷事件 初公判を前に

それは、3年5か月余り前の夏の日のことでした。「意思疎通のできない障害者は生きている意味がない」 そう語ったのは、かつて教師になりたかった26歳の若者でした。あの日、障害があるだけで奪われた19のいのち。そしてその動機に心を殺された無数の人たち。“過去に例のない差別犯罪”は、なぜ起きたのか。3年半近い時を経て、1月8日からその裁判が始まります。

未明に飛び込んできた一報

事件直前の時間帯に防犯カメラに映った植松被告とみられる人物

「障害者施設に男が侵入、多数のけが人が出ている」

2016年7月26日未明、横浜局の泊まり担当記者が消防から聞いた、この事件の一報でした。

私たち記者は状況もわからないまま、ある者は現場へ、ある者は警察署へ、ある者は病院へと直行しました。次々と入ってくる入所者の死亡情報。いったい何が起きているのかー。

送検される植松被告

少したって、「私がやりました」と出頭した男が逮捕されたという情報が入ります。そして朝には、この男が現場となった相模原市緑区にある知的障害者施設「津久井やまゆり園」の元職員 植松聖被告だということも明らかになりました。

しかし、なぜ元職員が?

夜になって伝わって来たその答えは想像を絶するものでした。

「意思疎通ができない人を刺した」
「障害者はいなくなればいいと思った」


警察の調べに対し被告はそう供述したのです。

この動機に社会は震撼(しんかん)し、障害のある人たちや家族で作る団体などがさまざまな声明を発表しました。

全国手をつなぐ育成会連合会
「どのような障害があっても一人ひとりの命を大切に懸命に生きています」「私たち家族は全力でみなさんのことを守ります。ですから、安心して、堂々と生きてください」

日本知的障害者福祉協会
「障がいの有り無しで命を選別することは、絶対にあってはなりません。どんなに重い障がいのある方も同じ地域の一員です」

総理に伝えて…「殺害計画」

その後の捜査で、事件の概要が見えてきます。

午前1時43分ごろに敷地に侵入、女性が暮らす「はなホーム」の1階の部屋の窓ガラスを割って建物に入り、最初に19歳の女性を殺害。通報されないよう夜勤の職員を結束バンドで拘束し、東から西へとホームを移動、約1時間で40人以上を刃物で襲ったということです。

事件後の「津久井やまゆり園」

さらに事件の5か月前には、レポート用紙3枚分の手紙を衆議院議長に渡そうとしていました。

植松被告が書いた手紙

「障害者を大量に殺害する」 計画を総理大臣に伝えてほしいという内容でした。自分の名前と住所、当時働いていた津久井やまゆり園を標的にすることまで記されていました。

その後、相模原市は「他人を傷つけるおそれがある」として、医師の診断に基づき強制的に入院させる「措置入院」の対応を取りました。しかし、別の医師の診断で12日後に措置入院が解除、被告は退院しました。

それから4か月余り後に事件が起きました。

逮捕後、検察側の精神鑑定では「自己愛性パーソナリティ障害」など複数の人格障害があったと指摘されましたが、検察は刑事責任能力はあったとして被告を起訴しました。

今回の裁判ではその責任能力の有無が争点になります。

教師になりたかった青年

なぜ施設で働いていた若者がこのような事件を起こしたのか。

多くの人がその疑問を抱いたと思いますし、私たちもそうでした。捜査関係者や被告の子どもの頃を知る人、恩師、友人たち、同僚など関係者を訪ね歩きました。

植松被告は相模原市出身で小学校の教師の父親と、母親の3人家族で育ちました。幼稚園から中学校は地元で通い、その後、八王子市の私立高校に。

高校生のときには、父親と同じ小学校の教師になりたいと考え、大学は教育学部に進学。母校の小学校にも教育実習で訪れていました。

被告が受け持ったクラスの児童は、高校生になっても当時の様子を覚えていました。

「話し方はとても温かくて、生徒に親身に接していた。誠実な感じで介護には向いているような印象を受けた」

しかし、結局、教師にはならず大学卒業後は運送会社に就職、自動販売機に飲み物を補充する仕事に就きました。

この仕事は1年半ほどで辞め、平成24年12月からは事件現場となった「津久井やまゆり園」で非常勤職員として働き始め、その後、職員として正式に採用されました。

事件の前まで被告と連絡を取り合っていた中学校の時の同級生の男性は、事件に至った背景についてこう語りました。

「明るいし、誰とでも仲よくするようなタイプだった。目標だった先生になれなかったことが大きかったと思う」

「成功者」になりたかった

私たちは、本人にも話を聞こうと拘置所にいる被告と20回以上接見を重ねて来ました。

拘置所での面会の様子(スケッチ)

届いた手紙は40通余りになります。この中で被告は自身の差別的な主張は雄弁に繰り返しましたが、両親のこと、教師を目指していたことなど、施設で働く前のことを聞いても、話題を変えて明確に答えませんでした。

植松被告から届いた手紙

去年10月、19回目の接見で記者はこう問いました。

「私にはいろいろ理屈を取り繕っているように聞こえる。結局のところ、なぜ事件を起こしたのか、よく分からない」

すると、被告は不意に次のように語りました。

植松被告
「本当のところは『成功者』になりたかった。自分が歌がうまかったり野球が得意だったりしたら別ですけど、そうじゃないので。いちばんよいアイデアだと思った。でも結局、成功者にはなれなかった。いまお金もないですから」

ずっと差別的な主張を繰り返していましたが、結局は目の前にいた人たちに自分の弱さをぶつけただけではないのか、そう感じる、あまりに理不尽でやりきれないことばでした。

“匿名審理” 「甲A」「乙B」と呼ばれる被害者たち

裁判が開かれる横浜地方裁判所

被告が語り続ける一方で、命を奪われた19人は、いまも匿名のままとなっています。警察は「家族の意向」などとして、発生当時から19人の名前を発表していません。

そして公開が原則の裁判でも19人は匿名となります。「秘匿決定」と言って被害者の氏名など個人が特定される情報について裁判所が明らかにしないと決めるものです。

40人を超える被害者の中で、死者は「甲」とアルファベットの組み合わせに。負傷者は「乙」「丙」とアルファベットの組み合わせに。つまり「甲A」さん、「乙B」さんと呼ばれる予定です。

さらに、傍聴席は遺族らが座る3分の1近くが遮蔽板で区切られ、他の傍聴人から姿が見えないようになる見込みです。多くの裁判を取材してきた私たちにとっても「かつて見たことがない法廷」になります。

“19のいのち”を伝えたくて

事件から半年後、私たちは、匿名の犠牲者に決して奪われてはならない豊かな個性と大切な日常があったことを伝えたいと思い、特設サイト「19のいのち」を立ち上げました。

19のいのち-障害者殺傷事件 サイトはこちら

それぞれの生きた証を少しずつでも刻んでいきたいとご遺族や元職員など亡くなった方たちを知る人たちにお話を伺ってきました。

「どこに出しても恥ずかしくない自慢の娘でした」
「一生懸命、生きていたことを知ってほしい」
「職員の自分に色んなことを教えてくれる人だった」


それは、被告が奪った命の重さを実感する日々でした。ご遺族が匿名を希望する背景にさまざまな理由があることもわかってきました。

「ただただ、そっとしておいてほしい」という方、「社会の偏見や差別が怖い」という方。「障害のある家族のことを隠したいと思っているわけではない」という方もいました。

家族に匿名を強いてしまっているのは、私たちマスコミも含めて社会の側の問題だと感じることも多くありました。

裁判で何が明らかになるのか

今回の裁判、法廷にはあえて行かないという遺族もいます。逆にできるだけ公判に通って、裁判を見届けようとする方もいます。そして、みずから法廷に立ち、被告に思いを伝えようという方もいます。

この3年半近く、取材を続けてきた私たちは、被告の生い立ちがどう影響しているのか、どこで被告の差別的な考えが生まれ、なぜ殺意にまで発展したのか、重度知的障害者が暮らす施設という環境が影響したのか…。

二度とこのような事件が起こらない社会にしていくためにも、1つでも法廷で事実が明らかになってほしいと思っています。そして、これまで主張を変えなかった被告に、遺族のことばが届く日がくるのか…。

「特殊な人物による特殊な事件」として終わらせることは簡単です。しかし、私たちひとりひとりも、この事件を起こした被告を生んだ社会に生きています。

裁判を、いま一度この社会のありようや自分の心のうちを直視する機会にしていけないか。そんな思いで判決が言い渡される予定の3月16日まで、傍聴席から見つめ、ここにつづっていきます。そして、特設サイト「19のいのち」ではこの間も、皆さんからのことばをお待ちしています。

2020年1月4日
NHK障害者殺傷事件取材班
横浜局記者 廣岡千宇
横浜局記者 山内拓磨
社会部記者 清水彩奈

「匿名審理」に取材班は

今回の裁判で被害者は、重傷を負った尾野一矢さんを除いて匿名での審理となる見通しです。
この事件では発生当初から警察が、「家族の意向」などとして亡くなった19人全員を匿名で発表する、異例の対応を取りました。公開が原則の裁判でも、その状態が続くことになります。
ご遺族が座る傍聴席と一般の傍聴席の間には遮蔽板が設けられ、私たちも過去に経験したことがない法廷になります。

今回の事件では匿名となったことで亡くなられた方の姿が見えませんでしたが、取材の中でそのお名前を知り、ご遺族や関係者からお話をうかがえたことで、19人の人柄や人生の一端を知ることができました。
そこには被告が主張した、「不幸しかつくらない」とか「意思疎通ができない」といったこととは全く違う豊かな感情があり、周りの人と深く関わり合いながら過ごしてこられた人生がありました。
匿名ならばと話して下さった方が多く、取材班では「19のいのち」という特設サイトを立ち上げ、イラストなどを交えてお一人お一人のエピソードを伝えてきました。

サイト「19のいのち」
サイト「19のいのち」

これに対してさまざまなご意見もいただきました。「障害のある人や家族に差別や偏見がある社会において匿名はやむを得ない」という声があった一方で、障害のある当事者やそのご家族などから「他の事件と同じようにその人生を名前とともに伝えて欲しい」「名前を伝えることが差別をなくす一歩になる」といった声もいただき、取材班では議論を続けてきました。

1月8日からの初公判にあたっても、どのように伝えるべきか検討を重ねました。
裁判では被告が19人に対し、実態と異なる差別的な発言を繰り返すことや、それに同調する人が出ることへのご遺族の懸念がある一方、こうした中でも初めて下の名前だけでも伝えようと決心されたご遺族や、傍聴という形や法廷で気持ちを直接語る形で被告と対峙しようとされているご遺族がいます。
お話を伺う中で3年半近く悩みぬいて、ぎりぎりのところでそれぞれが出された判断だと受け止めています。それが匿名での審理につながっていると考え、初公判についてはそのままお伝えします。

NHKは事故や事件、災害などで亡くなられた方を実名で伝えてきました。「名前」はその人の存在そのものであり、誰であれ差などあろうはずもありません。
今回の裁判では匿名で審理されますが、被告によって一方的に傷つけられた19人の方々の尊厳を取り戻し、社会にある差別や偏見をなくしていくために、私たちはこれからも、お一人お一人の人生をつぶさに伝えていく取り組みを続けてまいります。

2020年1月8日
NHK障害者殺傷事件取材班

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