MENU

19のいのち

43歳の男性

43歳の男性

更新2020年07月 更新

母親

息子が亡くなって、4年になりますが、全く忘れることはありません。先日も息子のアルバムを見ながら、生まれたときからの色々な事を思い出していました。小さい時は障害があるとは思わず、女の子に間違えられるほど、かわいい息子でした。いつも私の背中等にしがみついて、なかなか母子分離が出来ずに泣いていた事もありました。そんな息子をなつかしく思い出して居ます。

息子と一緒に居た時間は大変さもありましたが、楽しく、本当に幸せだったと改めて思うと共に、いつまでも悲しんでばかりではいられないかな…。息子は私の心の中に思い出と一緒にずっと生きている!写真を見ながら思います。

死刑判決が確定し、いつ実行されるのか分りませんが、その日が来るまでに自分がしたことは間違っていたと気付き、心から反省し謝罪の気持になってくれればと、今はそれがせめてもの願いです。

更新2020年03月 更新

母と姉(3月16日の判決を受けて)

裁判が始まるまではとても長かったですが、始まってからは長いようで短かったです。
けさは判決の日だと思うとソワソワして落ち着きませんでしたが、死刑という納得のいく判決が出て安堵しました。お彼岸も近いので、お墓に行って報告したいと思います。

更新2020年03月 更新

法廷で代読された母親のことば

息子が亡くなって4回目の正月がすぎたばかりの今年1月8日から、ようやく裁判が始まりました。しかし、この「ようやく」との思いとは裏腹に、私の時間は息子が亡くなった平成28年7月26日で止まったままです。

息子が亡くなってから、私は年賀状が書けません。「あけましておめでとうございます」が書けないのです。年賀状をいただいた方には返信するようにしていますが、「おめでとうございます」だけはどうしても書けません。息子は、お正月には毎年自宅に戻ってきていました。家族で箱根駅伝を見ながらのんびり過ごすのがいつものお正月で、息子と一緒に笑いながら過ごす時間はとても幸せでした。でも、もう息子と一緒にお正月を過ごすことはできません。毎年、お正月やお盆など息子が自宅に戻ってきていた時期がくると、もう息子がいない現実を突きつけられているようで、悲しくて辛くなります。私は、被告に息子を奪われ、同時に幸せも奪われたのです。

息子との思い出はお正月だけではありません。キャンプに行ったり、海へ行ったり、美術館に行ったり、楽しい思い出がたくさんあります。海へ行った翌年には山へ行くというように、夏には海と山を交互に行っていましたし、息子は車に乗るのが好きだったので、毎年家族みんなで長野の高原へドライブに行っていました。旅先で息子はとても喜んで、飛びながら歩いていました。そんな息子の笑顔は本当にかわいくて、私や家族を幸せにしてくれました。

夫が亡くなり、体の大きい息子に力でかなわない私は、平成16年7月に息子をやまゆり園に入所させました。息子と離れることは辛かったですが、入所後も息子が楽しそうに生活しているのを見て、ここを選んで本当によかったと思っていました。日中活動で農業をしたり、お散歩をしたり、ドライブに行ったり、息子はやまゆり園での生活が気に入っているようでした。自宅では私にべったりなのに、一時帰宅からやまゆり園へ戻るとニコニコしながら「もう帰っていいよ」と言わんばかりに私に手を振っている姿には、寂しさを感じながらも笑ってしまいました。

息子は優しい子で、私たち家族のことも常に気にかけていて、やまゆり園で小旅行に行けば、おまんじゅうや漬け物など、必ずお土産を送ってきてくれていました。亡くなる直前も、7月7日から8日にかけて御殿場へ旅行に行っており、息子から自宅へスイートポテトが届きました。もちろん職員さんが手配をしてくれているのですが、息子が私たち家族のことを思いながら何を送るか選んでくれていたのだと思います。また家族も一緒に行ける日帰りバス旅行が年に1回あり、平成28年は富士サファリパークへ一緒に行って、楽しい思い出ができたところでした。

私は、障害があっても息子にはいろいろな経験をして社会参加してもらいたかったので、養護学校へ12年間一緒に電車で通学しました。養護学校を卒業したあとは作業所で黙々と働き、少額ながらお給料をもらっていたこともありました。息子は、言葉こそ出ませんでしたが、理解力はありましたので、周りの言うことを理解して行動することはできました。自分が何か伝えたいことがあれば、私の手を引っ張ったりして伝えられましたし、嬉しいときにはよく笑い、怒ったときには声を出すなど感情表現もできたのです。

体はいたって元気で、特に病気などもしていませんでした。それなのに、どうして被告がこんなことをしたのか、最初から息子をいらない子だと思ったのか、思ったのならどこでそう思ったのか、面識はあったのか、なんで息子がいらないと思われてしまったのか、私たちには大切な子で幸せをたくさんくれたのに、この事件は分からないことばかりでした。

そのことを知りたくて、私は職場の理解を得て仕事を休ませていただき、1月8日の初日からおとといの2月10日まで、毎回、裁判所へ足を運んでいろいろな人が話す内容を聞きました。聞くのが本当に辛いことばかりでしたが、事件当時の様子が分かったので、この点については良かったと思っています。けれど、息子のことについて分かったのは、被告が、息子がだれなのか、どんな子なのかも分からないのに、刺してしまったということだけでした。被告は自分勝手な主張をしていますが、私には、息子は、被告が逃げる途中にたまたま入った最後の部屋で、無差別に殺されてしまったのだとしか思えません。私は息子の左腕の傷を見て、息子が刃物を払いのけるなど抵抗したのではないか、被告に襲われたときに何か声をあげたのではないかと思っているのですが、被告は当時の状況を覚えておらず、息子が最期どのようにして亡くなったのかを知ることはできませんでした。

また被告は障害者を施設に入れて面会に来ない家族もいると言っていましたが、中には身よりのない方だっていますし、体調の関係で面会に来たくても来られない家族もいます。誰でも、高齢になれば、体に不具合が出てくるかもしれないし、認知機能が衰えたり会話が難しくなるかもしれない。事故にあったり病気になることだってあるかもしれない。誰だっていつ障がい者になるかもしれないのです。障がい者だって1人の人間なのに、自分が理解できず勝手に思い込んだことだけで命を取るなんて、ただただ悔しいです。

また裁判では、被告の偏見に同調するような友人の言葉もありました。私は、こんなことが2度と起こらないように、障がいを持った人たちがどんな風に生きているのか、今を生きている障がい者たちの現実の姿を、もっと世間の人に知ってもらいたいですし、その人達がこれからもっと生きやすい社会になるようにしてほしいです。

私は、元気だった息子が急にいなくなってしまって、息子の死を受け入れることができませんでした。今もまだそうですが、ただ、この裁判にずっと出てきて、息子がいなくなってしまったというのを少しずつ理解し始めたような気がします。被告人は障がい者は不幸を作ると言っていますが、不幸を作ったのは被告です。息子は不幸なんて作っていません。いつも幸せを作っていました。大変なときもありましたが、苦労と不幸は違うのです。私は、息子を返して欲しい。息子にもう1度会いたいです。

更新2020年03月 更新

法廷で代読された姉のことば

植松が一番最後に殺したのが私の弟です。私のただ一人の、血を分けた兄弟でした。弟は、父の入院が続いていた時期に、やまゆり園の短期入所を利用するようになり、父が亡くなったころには、正式にやまゆり園に入所していました。弟は入所してからも、年末年始やゴールデンウィーク、お盆休みには毎年自宅に帰ってきました。生きていれば、殺された年の夏も帰ってくるはずでした。

弟がもうこの世にいないということが未だに信じられません。今でも、相模湖のやまゆり園に車で迎えに行ったら、ピョンピョンはねながら元気に出てきてくれるような気がします。やまゆり園という安全な場所で規則正しい生活をしている弟は、病気や事故にあうリスクは低いと思っていました。私よりも長く生きると当然のように思っていました。

しかし平成28年7月26日の未明、弟は植松に殺されました。痛ましかった弟の死を思うと、自分の中の何かが壊れ、考えれば考えるほど、自分がわからなくなります。私たちが植松に奪われたものは、弟の人生だけではなく、私たち家族の、弟とのこれからです。

裁判での植松の「意思疎通のできない重度障害者はいらない」「重度障害者は不幸をつくる」という言葉を聞いて、弟だけではなく、まるで世の中の障害者全体が殺されたような気持ちになりました。今回の事件がきっかけで、障害者の中には、自分がいなくなってしまったほうがいいのではないかと考えてしまう人、植松のような考えをもっている人に突然街中で襲われてしまうのではないかと外出が怖くなった人、障害者への偏見が強くなったと感じている人もいると聞いています。世の中には、心の奥底で、植松のように考えている人は少なからずいるのではないかと思います。

一方そういう自分も、重度障害者本人やその家族が不幸ではないと断言はしません。健常者同様に、障害者にも不幸な人も幸せな人もいるのだと思います。しかし植松の起こした殺人という行為に、納得や共感をする人はいないであってほしいです。
植松のように「障害者はいらない」と考えている人が、なんらかのきっかけで社会的立場が弱くなったときに、精神が弱ってしまったときに、植松のように一線を越えてしまう人が出てきてしまうかもしれない、そう考えると、大変不安で恐ろしくなります。

どんな事情があるにせよ、どんな動機があるにせよ、これだけの人間を殺傷して許されるようなことは決してあってはならないと思うのです。裁判で、植松が各入所者がしゃべれるかしゃべれないかを確認して殺した、ということがわかりました。しかししゃべれるかしゃべれないかということと、意思の疎通ができるかできないかということは、結びつかないと思います。そのことを障害者施設で3年も働いていた植松が知らないはずはないと思うのです。
家族が施設に障害者を入所させる理由に、家族が高齢となったり、病気になったりと、さまざまな理由があることを障害者施設で働いていて知らないはずがないと思うのです。 この裁判をみていると、どんどん疑問がわいてきます。むなしい、やるせない裁判です。

この裁判を見てきて、植松は世界平和のために革命をおこしたかったのではなく、自分の思い込む方法で、命をかけて、自己実現をしたかったのだと思いました。今は裁判や報道で自己表現ができてさぞかし満足していることと思います。植松は、措置入院のときにはおとなしい良い子のふりをして、生活保護を受給していたときには、うつ病のふりをしていたと聞きました。この裁判でも「自分には責任能力がある」と言いながらも、「責任能力がない人」を演じているように見えます。

事件から3年たっても、いまだ「自分の考えは正しい」と思っている植松は、機会があればまたなんらかの歪んだ方法で、自己実現をするのではないでしょうか。こんな身勝手な植松に、弟をふくめ19人が犠牲になったことが、本当に腹立たしく、悔しくてなりません。植松には、植松の考える定義の重度障害者、名前も年齢も住所も言えないような状態になって、自分の伝えたいことを身振り手振りで必死に伝えようとしても植松をわかろうとする人が一切いないような環境の中で生きる気力を失い、絶望しながら一生を過ごしてほしいです。しかし、日本には終身刑がないため、そのようなことは望めません。そうなると、選択肢は一つしかありません。

更新2020年03月 更新

法廷で読まれた母親の調書から

息子は残酷な被告に殺されました。知的障害と自閉症があり、こだわりが強く意図が伝わらないとかんしゃくを起こすことがありましたが、私にとってはかけがえのないかわいい子どもでした。

事件の日、連絡を受けて何とか施設に行くと、息子は白いシーツをかけられベッドの上で横たわっていて、私は近づいて顔を見ました。抵抗したときにできたであろう生々しい傷跡が手にあり「痛かったよね、怖かったよね」と涙ながらに思いを巡らせ、氷のように冷たくなったほおに手を伸ばし息子を抱きしめました。私は大切に育ててきた息子を失ったのです。

息子は健康でトイレもお風呂も自分ですることができます。養護学校を終えたあと、息子にいきいき生活して社会貢献してほしいと作業所に通所させました。小額でも給料をもらっていました。私は感動して、すごくうれしかったです。20歳のころになると発作も落ち着き、娘にも協力してもらい4人で過ごしていましたが、夫が体調を崩して手術をすることになり、入院中は夫の世話をしながら息子の面倒をみることが難しくなりました。次第に夫の病気が悪化し、息子を入所させることが決まったのですが、その日が来る前に夫が亡くなりました。息子と離れるのはつらいと思いましたが、私も生活のために働きに出ないといけなくて、苦渋の決断をせざるを得ませんでした。

最後に会ったのは平成28年7月10日の家族会の時です。息子は楽しそうにしてアイスを食べジュースを飲み、かわいい姿を見て癒やされました。いつものように入り口まで見送って別れ、息子は元気に部屋に戻っていきました。これが最後に見た息子です。そして帰らぬ人になりました。

私は息子を愛しています。「障害のない体に産んであげられずごめんね」と後悔でいっぱいです。息子は私を恨んでいるだろうかと思いますが、息子は優しい子なのでそんなことは思わないだろうと思うのです。私がお母さんで良かったと思っていますか。私は息子と一緒に過ごせて本当に幸せでした。生まれ変わっても、また私の子になってほしい。ずっと天国から見守っていてね。幸せをたくさんくれてありがとう。直接伝えることはもうできませんが、息子も同じ気持ちならうれしく思います。

被告のゆがんだ考えがどこで生まれたのか、施設で働き始めたときの志や気持ちはどこにいったのか。こんなことをして満足している被告を、私は一生許すことがありません。ただ息子を返してほしい、それができないなら死ぬこと以外、償うことはないと思います。

更新2017年01月 更新

元施設職員(男性・50代)

すごく明るくて元気な方で、いつも跳びはねていた印象があります。

施設関係者

音楽が好きで、踊りのレクをとても楽しみにしていました。

ご意見をお寄せください

相模原障害者殺傷事件についてのご意見や、
亡くなられた方へのメッセージを募集しています

PAGE TOP