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19のいのち

55歳の男性

55歳の男性

更新2020年03月 更新

妹が法廷で語ったことば

被害者の遺族として、裁判所に意見を申し上げます。被告がこれまで重度障害者について考えてきたこと、話してきたこと、実行したことは全く間違っています。それを強く言いたいです。

私の兄は、ちゃんと感情がありましたし、私たちが兄に伝えることをちゃんとわかっていました。言葉でのコミュニケーションは取れなかったけど、うれしいこと、悲しいこと、びっくりしたこと、いやなことは、体の動作で全身を使って会話をすることができました。兄は、生後、高熱で病気になって障害を持ちましたが、両親から深い愛情をもらい、褒められたり、叱られたりして育ちました。だから、兄としての自覚もあって、正義感もありました。兄は私たち妹と一緒に遊んでいました。留守番もしてくれました。家族の誕生日も知っていて、誕生日のカレンダーの日付を指さしておめでとうという気持ちを表現してくれました。

こういう兄が、人としての尊厳もなく殺害されていいわけがありません。私は、被告が意思表示ができない人は安楽死させるとか、それが世界平和につながるとかいった考えは全く理解できませんが、被告なりに考えに考えた末に到達した考えだと思っていました。しかし、被告が言っていることを聞いてみると、単なる思いつきだったと思いました。こんなことのために亡くなった兄がかわいそうになりました。兄もさぞ無念だっただろうとあらためて悔しい気持ちでいっぱいになりました。私は、被告のことも、偏った考えも絶対に許すことはできません。

更新2020年03月 更新

法廷で読まれた妹の調書から

現実だと思えない恐ろしい事件が起きてしまいました。愛する兄を失い、頭が真っ白になりました。何の落ち度もない人たちが殺されたと思うと、被告への憎しみは増すばかりです。

兄は会話によるコミュニケーションはできませんでしたが、こちらから注意したことはある程度理解でき「お客さんが来るから静かにしていて」と言えば部屋で静かに過ごすことができました。小学校のころは先生に家に来てもらって勉強していました。先生が熱心に教えてくれ、数字とひらがなは理解できるようになりました。例えば紙に「りんご」と書けば台所からりんごを持ってきたり、家族の誕生日の日付を書けば、家族を指さしたりしていました。家族の誕生日が近づくと「お祝いしよう」とジェスチャーをしていました。

言葉を話すことはできませんでしたが、こちらが話しかけたことは理解していて「あー」「うー」と意思や喜びを伝えられました。歌番組を見て踊り回ることもありました。兄は30代の半ばごろにやまゆり園に入所しました。着替えや食事は少し自分でできました。食事は少しだけですがスプーンとフォークで口に運ぶこともできました。好き嫌いはなく何でも食べていました。兄の表情から園では楽しそうに生活していたと思います。

被告が「障害者は生きていても仕方がない」と言っていると知り憤りを感じます。家族の苦労や幸せを無視した身勝手な発言です。何度死刑にしても気がすみません。

兄に意思が思うように伝わらず、家族が苦労したのは事実です。特に両親は仕事をしながら、大変な苦労をしてきたと思います。でも兄は私たちにとって大切な家族であり、一生懸命ジェスチャーする姿を見ることは家族にとって幸せな瞬間でした。月に1回の面会には両親が行っていて、父が亡くなってからは母がタクシーで行っていました。タクシー代がかなりかかっていたようですが母は「会うためだもん」と、楽しみにしていました。

父と母も天国でとても悲しんでいると思います。母は自分の病気のことよりも兄のことを心配していましたし、父は写真が好きでよく兄のいろんな表情を撮っていました。両親は障害があっても特別扱いせずに兄を育てていました。兄との思い出があふれ出てきます。

更新2020年01月 更新

元施設職員(40代・男性 ※過去にも30代で紹介した方)

男性は車が好きだったようです。私の車の脇を通ったとき、興味がありそうだったので『かっこいいだろう?』と聞くと、にこっと笑っていました。運転席に座ってもらって、エンジンをかけると、うれしそうな様子でした。また、ある日、私のズボンのポケットから車の鍵が落ちそうになっているのを見つけて走り寄ってきて、指で鍵をつついて乗りたそうにしていたこともありました。一緒に洗車もしました。うまくできないんだけど、車に水をかけようとしたり、すごく小さな幅だけど、一生懸命に車をふいたりしてくれました。本当に表情や表現が豊かな人でした。自分と色違いのおそろいでスエットを買ったことがありました。その時、自分が着ていたスエットは、今も家にあります。穴が開いて、ぼろぼろだけど、捨てられずにいます。男性との大切な思い出です。

写真
更新2017年07月 更新

家族

あの日、ラジオで事件のニュースが流れてきて「津久井やまゆり園だ」「まさかな」と思っていたら朝7時過ぎに園から電話があって兄が犠牲になったことを知りました。障害者を狙うなんてとショックが大きく、今でもパトカーや救急車の映像を見ると辛くなってしまいます。
事件直後は大きな騒ぎになりましたがすぐに消えてしまい、1年経ったいま何もなかったようにすら感じて怖いです。でもいろんな事件があるから仕方ないのかもしれませんね。

家では毎日家族と兄の仏壇にお線香をあげ、兄が好きだったものを買ってきて供えて、兄との思い出話をしています。怒られた時はしゅんとして、ほめられるとすごい笑顔になる喜怒哀楽が豊かな兄でした。言葉で表現するのは苦手でも「あー」や「うー」と声やトーンを使い分けて伝えてくれました。黒い服が似合わない父を見て母が「あなた本当に黒が似合わないわねえ」なんて言うと、兄がケラケラと笑って、それを見て父が「なんで笑うんだよ-」と笑いながら声をかけていたことも懐かしく思い出します。一度覚えたことは忘れなくて、家族の誕生日が来ればカレンダーを指さして「今日だね」と言うように教えてくれました。

両親は「障害あって大変でしょう」と言われるのが嫌で、あまり兄に障害があることを周囲に伝えていませんでした。ただ実際には大変だと思ってなかったようで、私たち他の子どもと同じように愛情深く育てていました。子どもが好きだったんだと思います。兄は障害はありましたが、体はとても健康で園から届く健康診断の結果もいつも良かったので、母は「きっと親より長生きできるね」と喜んでいました。
事件のあと、数年前に亡くなった父がお世話になっているお寺に兄がいつか寿命を迎えたときの葬儀代を事前に払っていたことを知りました。まさかこんな事件で両親を追いかけるように亡くなるなんて思っていなかったと思います。

匿名を希望したのはさらに差別を受けるのではないかと怖かったからです。事件後、長年つきあいがあり兄のことも知っている近所の人に「事件があったことは悲しいけど、でもよかったんじゃない?」と言われたことが悔しくて、そう思う人がいるのならばと思いました。

被告に対してはずっと許せないという思いが続いています。被告にも家族がいたのに、どうしてあんなことをしてしまったのかと。被告が「障害者は生きる意味がない」「社会の役にたたない」と言い、インターネット上でそれに同調する人たちがいましたが、それは絶対に違う。兄にたくさん助けてもらったし私たち家族は障害を理由にそんなことを考えたことはありません。
正直、もうあの事件のニュースはあまりやってほしくない。でも二度と同じような事件が起こらないように障害者のことは伝え続けて欲しい。思い出したくないけれど、忘れてほしくない、それが今の気持ちです。

更新2017年01月 更新

ご家族

20年ほど前に津久井やまゆり園に入所しました。両親は幼い頃から、障害のあるなしにかかわらず、他の兄弟と分け隔てなく育てていました。とても愛情を持っていて、叱るときは叱り、褒めるときはたくさん褒めていました。本人も両親のことが大好きで、園に面会にいくと本当にうれしそうにしていました。かわいらしいところがある人でした。
一方で、障害があることはごく親しい人以外には伝えていませんでした。「差別を受けるから」と言うことでした。
今回の事件では、体の傷があまりにひどく、棺の中の顔だけをみてお別れをしました。今も事件の衝撃を受け止めきれずにいます。あんなふうに殺される人は19人で止めなくてはいけない、20人目は絶対に出してはいけないとも思っています。そのためにも、いつか名前を出して伝えたほうがいいという気持ちもあります。ですが、名前を出せば何か差別を受けるのではないか、誰かが家に押しかけてくるのではないかと、社会の反応が怖く、今はまだそういう心境にはなれないのが現状です。

元施設職員(男性・30代)

感情表現が豊かな人でした。介護士になって初めて担当させていただいたので右も左もわからない中、いろいろと勉強させてもらいました。
男性には片足がつま先立ちになってしまう症状があり、なかなか散歩に出られないのが悩みでした。何とかしたいと思い、靴メーカーに勤める知人に頼んで、バランスが保ちやすいよう靴のゴム底を足の甲の部分まで取り付けた特別なスニーカーを作ってもらってプレゼントしました。その後、歩くのが楽しくなったようで、よく散歩に出かけられるようになった姿を見て、担当職員としてうれしかったことを思い出します。
散歩では、施設から少し離れたところにある100円で缶コーヒーが買える自動販売機まで行くのが楽しみでした。甘いのが大好きで、園に持ち帰って専用のコップに入れて飲んでもらっていました。
事件は風化してしまうかもしれませんが、自分は男性のことを絶対に忘れないし、絶対に忘れない人間がいることをご家族の方々にもお伝えしたいです。

元施設職員(男性・50代)

部屋に貼ってある家族や行事の写真などを指差しながら、楽しそうにいろいろと話してくれたのを覚えています。言葉は少し聞き取りにくいのですが、ゆっくり聞いていると訴えたいことが聞こえてくる感じで、何を言いたいのかだいたいわかりました。それを元に「こういうことですか」と聞き返すと「うん」と返事をしてくれました。ふだんはリビングで職員の動きをじっと見ていることが多かったのですが、家族が来たり職員が出勤したりすると、いちもくさんに玄関に迎えに行って喜んでいました。玄関に貼ってあった早番とか夜勤とか職員の勤務体制を知らせるマグネット付きの写真を指さしながら、「きょうはこの職員が来るよ」と教えてくれることもありました。気持ちが上手く伝わらなかったり、言いたいことがうまく表現できなかったりすると、涙をボロボロ流すなど、感情表現が豊かで優しい方だったので、利用者の仲間にも好かれていました。

元施設職員(男性・70代)

歩きにくさを抱えていましたが、当時は日常生活に支障はほとんどありませんでした。おとなしい方で、ホームでは静かに全体の様子を眺めていることが多かったです。遠足に参加した時には、バスの中でうれしそうにはしゃいでいたことを思い出します。

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