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19のいのち

41歳の男性

41歳の男性

更新2020年03月 更新

法廷で読まれた母親の調書から

生まれつきのダウン症で人生にハンディキャップをもってきました。被告は「障害者は生きていてもしょうがない」と言っています。被告が何を言おうと勝手ですが、これまでの生活は本当に幸せでした。息子は私たちにとっては初めての子どもでした。生まれてきた息子を見たときは本当にうれしかったです。ただ一度にミルクを飲む量がほかの子よりも少なく、医師からはダウン症だと言われました。ダウン症について調べると3歳くらいまでしか生きられない可能性があることがわかりました。短期間で亡くなってしまうのではないかと不安でしかたありませんでしたが、寝顔を見ていると不安よりも一生懸命生きていこうという前向きな気持ちになれました。抵抗力が弱く夜熱を出したときには「短命」と言うことばが頭をよぎりました。そして3歳の誕生日を迎えたとき、息子は生きていました。本当にうれしくて家族でケーキを買ってお祝いをしました。

成長するにつれて、身の回りのこと食事や排せつなど基本的なことはできるようになりました。「はい」「うん」「ごめんなさい」ということは話せます。計算をしたり文字を読んだりすることは出来ませんが、頼むとものを取りに行ってくれるなどジェスチャーでコミュニケーションをとることができました。ふだんの生活で学んだのか、私が洗濯をしていると頼んでもないのに物干し竿を運んできてくれて、人を気遣うこともできました。

障害についてかなり重い症状を想像するかもしれませんが、私にとっては年齢にみあった知能が追いついていないだけでした。週末は夫と3人で出かけるのが楽しみで、息子自身も家族の大切さを感じていると思っていました。ドラゴンボールを見てかめはめ波のまねをして笑わせてくれたり、熱湯を浴びて心配をさせたり、時間がないのにゆっくりと準備をして私たちをやきもきさせたりもしていました。施設に通い始めましたが自立させたかったので慣れた頃に1人で行かせるようになりました。電信柱から隠れて見ていると、違うところで曲がったりすることもありましたが、最後には1人で施設まで行けるようになりました。私は心からうれしく、本人も誇らしかったのか満面の笑みでした。

津久井やまゆり園には2日前から短期入所中でした。無事を早く確認したい、それだけの気持ちで施設に向かいました。亡くなったことを職員に告げられ、ことばでは理解していましたが頭が真っ白になってその場で泣き崩れるしかありませんでした。夜に対面しましたが必死に名前を呼んでも応えてくれずただ涙があふれてきました。何でこうなったのか、何で息子が死なないといけないのか、入所させたからこうなったのかと後悔しました。私はいつまでも横にいて、成長を見守ることができると思っていました。被告にはもちろん極刑を望んでいます。そうしないと息子の死を私自身受け入れられないし、息子に報告ができません。

更新2018年11月 更新

家族

息子は、生まれたと同時に、ダウン症であること、3年くらいしかもたないだろうということをお医者さんから告げられました。それでも授かった大事な命ですから、夫婦で「いい薬がないか」、「いいお医者さんはいないか」と一生懸命に探しました。そうしたところ、主人の恩師の奥様が看護師をしていらして、いろいろと調べて下さいました。そして千葉に良い病院があるとご紹介頂きました。その後、当時在住していた実家から千葉まで、その病院に通いました。実家は千葉からは距離があり、通院するのは大変だったので、少しでも通院を楽にするため、家族3人で相模原に越すことにしました。こうして息子は相模原で、幼稚園から、養護学校の高等部まで通うことになったわけです。

私たちはご近所に息子のことを隠したりせず、普通に生活をしていたので、ご近所の方からは私たちに対して、声をかけてもらったり、気にかけて頂いたりしました。近所の方々に支えて頂いて生活でき、心強く思ったものです。ある日、「この頃姿を見ませんね」と声をかけられ、亡くなったことを話したところ、施設に入所したのではと思われていました。亡くなったことを聞いて驚かれ、お花を頂戴したりしました。毎日デイケアセンターに通う姿を温かく見守って下さったことに、あらためて感謝をしました。

振り返ると、いろいろな思い出が頭をよぎります。
小学校の低学年のころ、ちょっと目を離したすきに自転車に乗っていなくなったことがありました。近所の方々や主人の会社の人たちが探してくれましたが見つからず、ただ自転車に乗って自宅からかなり離れた駅の方に向かって行ったという目撃情報があっただけでした。その情報を頼りに、私たちは車で駅近辺を探していましたが、見当たりませんでした。その後、乗っていた車を停めようと入っていった駐車場に、自転車に乗った息子が同じタイミングで入ってきたのが目に入ったのです。息子は白内障で、夜になるとよけい目が見えなくなります。ですから、車は見えたとしても、その車に私たちが乗っているのは見えなかったはずです。大声で名前を呼んだところ、泣きながら抱き着いてきました。同じタイミングで親子そろって駐車場で出会えたことに、奇跡を感じずにはいられませんでした。

好奇心が旺盛な子で、じっとしておられず、ちょくちょく学校からいなくなりました。
小学校の入学式で、集合写真を撮るためにほかの子がいるところに連れて行っても、写真を撮り終わるまでにはいなくなっていました。猫とか犬が本当に大好きで、実家に帰った際、いないと思ったら、家の軒先の犬小屋の中に犬と一緒にいたりしたこともありました。実家で目を離したときにいなくなってしまい、探していたところ、家のそばの小さな池に落ち、すました顔をして這い上がってきたこともありました。実家には、お盆のお墓参りに毎年帰っていました。息子はとても楽しみにしていました。事件のあった年も、早めに実家行きを予約していました。今回の事件を受けてキャンセルしようかと思いましたが、息子の写真を持って、一緒にお墓参りに行ってきました。今年も写真を持って、行ってきたばかりです。楽しみにしていたお墓参りに行けなくて、息子も残念がっていると思います。

2年たった今も私たち家族にとってつらい気持ちで、日々過ごすことに変わりはありません。息子に会いたいという思いは強くなるばかりです。頑固でやさしく、ひょうきん、争いごとはこのまず避ける。ダンスが好きで、休みはB'zのCDをかけて踊っていました。畳がすり減り、カーペットを敷いても同様です。ドラゴンボールも大好きで、DVDを大切にし、短期入所のたびに、本と一緒にもっていくため、大荷物でした。
持ち物の整理は、当初していましたが、買ったばかりのものはともかく、本人がよく着ていた服や、気に入っていた物などは本人の気持ちや思いが詰まっており、そう簡単には捨てられませんし、目にするたびに思い出してしまい、辛くなるので、やめてしまいました。今でも、みんなでいるときはいいのですが、一人で写真の前に立つといたたまれない気持ちになります。

事件の2日前、5日問の短期入所ということで、やまゆり園に家族みんなで送ったばかりでした。2日後には迎えに行く予定だったのに、事件に巻き込まれてしまい、迎えに行くことができなくなりました。葬儀の折、死を解さない小さな孫に、「おじちゃん、いつ帰ってくるの?」と聞かれたときは、答えることができませんでした。今では写真を見て「おじちゃんは死んだんだよ」と言います。受け容れたくない気持ち、悔しい気持ちを抱えて日々を過ごしています。

私たちははじめ、意見を発表するつもりは全くありませんでした。そっとしておいてほしかったからです。亡くなったということを否定したいのに、周りから何か言われれば、亡くなったということを押し付けられているみたいで、余計落ち込んでしまうからです。今でもその気持ちに変わりはありません。
でも、犯人が言っていることに賛同している人たちがいるということを聞き、ショックを受けました。「もしそういう人たちが犯人のほかにも出てきたら怖い」、「障害者がつらい立場に置かれる」と、居ても立っても居られなくなりました。
意見を出すといってみたものの、自分には無理だと思いました。何度も弁護士さんに連絡をして、「やっぱりやめておきます」と言いかけました。でもここで声を上げなければ後悔すると思いました。声を上げないと息子に申し訳ない、とも思いました。

事件から2年経ち、やまゆり園の事件も耳にすることが少なくなってきています。
息子は亡くなりましたが、障害をお持ちの方はほかにもいらっしゃる。障害者に対してもっと目を向けて欲しい。今回の件をきっかけに、障害者についてもっと議論して欲しい。そう思っています。

裁判がいつ始まるかはまだ正確にはわからないそうです。でも一日も早く始まって欲しい。たとえ犯人の刑が決まり、裁判が終わっても、私たち遺族にとって、それは事件の終わりではありません。それでも一日も早く裁判が始まってほしいと願うのは、犯人がどうしてこういう事件を起こしたのか、なぜ息子が死ななければならなかったのかを知りたいからです。
そして、犯人に聞きたいからです。
もしあなたの家族、親、兄弟、子供が障害者となったら、同じような行動がとれるのか?自身を含めて、いつ障害者の立場になるかわからないのに。

更新2017年01月 更新

施設関係者

短期で施設を利用していた方でした。作業のときもふだんから、ホームの仲間たちを優しく見守ってくれていました。

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