ひまわりの花を見るたびに娘の笑顔を思いだします。
ある日、突然会えなくなってから特に思います。
何も悪いことをしていないのに、どうして命を奪われなければならなかったのか?
今でも疑問に思います。
悲しくて悲しくて、どうしようもなく辛い日々を過ごしていると、様々な事故や事件を耳にします。
そのたび胸が痛くなる。
やまゆりの事件と重なる時もある。
でも社会はしばらくすると何事もなかったような空気になっている。
いつも置き去りにされたような気分を味わう。
他人事なのかもしれないけれど私は忘れられなくて、
でも忘れさられてしまっているかのような空気になっていると感じてしまう。
とてもついていけないと思う。
そんな空気に馴染めずに孤独を感じる。
でも時は1日、1日と過ぎていく。
いつの頃からか、何かきっかけというものは、ないのだけれど、
気がついたのは娘にいつも見守られているということ。
(姿が)見えるわけではないけれど、この頃とても、そう感じます。
私がいつまでも涙しているのは心配なのだと。
娘のことを忘れたことはありません。いつも娘のことを思って生きています。
私が笑顔でいるほうが娘は安心なのだと気づきました。
そして娘の命を無駄にしたくないので、細々とですが活動している私を応援してくれている。
そんなふうに思うようになりました。
何の取り柄もない、ただの母親ですが、娘のことを思う気持ちは、今もいっぱいです。
最初は、娘の写真に手を合わせることに、すごく違和感がありました。生きていたらこんなことしなくてもいいのにと。いまも全くなくなってはいないですが、写真に話をすることが日課みたいになっています。6年…やっぱりとても会いたいです。さよならも言わずに突然で、最初の方のパニックのような悲しみとは違いますが、じわじわと本当に悲しく、切ないです。会えない時間が長くなればなるほど、恋しい気持ち、会いたい気持ちがあって「もう6年も会えていないのだ」と。1度でも、お化けでもいいから幽霊でもいいから、会いたいなと思います。
写真を見ていると、本当に色んなことを思い出します。ことばはありませんでしたが、車に乗りたいときは車の鍵をもって靴を履いて待っていたり、プールに入りたいときは水着を持ってきたりして意思を伝えてくれました。笑う時も一生懸命だったし、NOも態度ではっきり伝えるし、パニックを起こす時はものすごい勢いで泣いていたし、表情豊かな人でした。一生懸命生きていたのだろうなと思います。風のように通りすぎてきました。
裁判にあわせて娘の名前を出したことは、後悔していないし、出せてよかったという気持ちが強いです。どこに出しても恥ずかしくない娘なので、美帆という名前を知ってもらって、こういうかわいい子が19年間生きていたことを覚えていて欲しかったので、それは美帆のためにできたかなと思っています。
忘れてほしくないし、あんな事件は2度とあってはいけないし、障害のある人への虐待もあってはいけない。ですが虐待のニュースはなくならない。娘に障害があることで差別や偏見もすごく受けてきました。障害があってもなくても、誰もが生きやすい社会にすることが、亡くなった人たちが一番喜んでくれることなのかなと思います。それが美帆を含めて19人にできることなのかなといつも思います。そうすればあんな事件は起こらなかったと思うので。
本当にいろんな人に助けられて協力してもらって、生きてこられたと思うので、誰かのためになることをして恩返しをしていこうと、少しずつだけど今はそんなふうに思うようになっています。
美帆に会いたくてたまらないです。最後に会った5年前の7月24日に自宅に連れて帰っていたらと、今も思います。施設がもっと事件を起こした元職員と向き合ってくれていたらと思わずにいられません。
5年を前に献花に行き、モニュメントに刻まれた娘の名前を見て『本当に亡くなってしまったのだ』と涙が止まりませんでした。それでも名前を記すことで美帆を思い出してもらい、美帆が誰かの心の中で生き続けていってくれたらと思っています。
美帆のことを、19人のことを、事件のことを、覚えていてほしい、忘れないでいてほしいです。あの日のことを思い出すのはつらいけれど、差別が悲しい事件を生んだ事実を風化させたくないと思っています。
あれから4年経ちました。
美帆に会いたいです。会いたくて、会いたくて仕方ありません。時がたてば経つほど会いたい気持ちが増すように思います。でも会えなくて、悲しさや淋しさが押しよせてきます。
7月近くになると、毎年、身体も心も重くなります。できていたことができなくなります。とても不安が強くなります。事件の翌年は7月のカレンダーを見ることができず、破って捨てていました。今は見ないように過ごしています。あの年から、私は7月が嫌いになりました。
裁判は空しいものでした。私は犯人が間違ったことを認め、亡くなった19人、怪我をした27人に謝ってほしかった。でもそれは無理でした。
ただ控訴しなかったのは罪の重さや自責の念が多少なりにもあったのではないか。自分の意見が破綻していたことも多少はわかっていたのではないかとも思います。
彼は拘置所の中で初めて自分の話をきちんと聞いてくれる人達に出会ったのではないでしょうか。裁判中もたくさんの人が彼の話を真剣に聞いてくれて嬉しかったのではないでしょうか。私は、法廷で顔を見ず、声を聞いていただけですが、「はい」と元気よく嬉しそうに話していたように感じました。言いたくないことは誤魔化していましたが。
彼は「両親にはいろいろしてもらった」と言い「具体的に?」と聞かれると「大学に行かせてもらったり、塾にいかせてもらった。」と言っていました。でもそれは、物理的なことで、お金があれば誰でもできることです。私が親だったら大麻を勧められた時に警察に連れて行きます。逃げたら「捕まえて下さい。」とお願いします。かわいい息子なら心を鬼にしても更正させます。
友達が沢山いたようですが、本当に彼のことを思い心配してくれた人はいたのでしょうか。上辺だけの薄っぺらい付き合いの知りあいばかりだったのではと思いました。
彼はお金では買えないもの、愛情とか思いやりの心、人を大切に思う心、無償の愛のような目では見えない大切なものがわからなかったのではないか、彼は心(気持ち)が成長しないまま、大人になってしまったのではないかと思いました。
裁判と社会に「美帆」の名と写真を4枚出せて良かったと思っています。たくさんの方に覚えて頂けたこと、裁判員の方にもこれまで見えてこなかった被害者のことが少しはわかってもらえたのではないかと思いました。
後悔はしていません。たくさんの方に覚えて頂き、その方々が美帆のことを思いだしてくれる時、美帆は生きているわけですから。本当にいろいろな方々に見て頂き、覚えて頂いてありがとうございます。
やまゆり園が再生を目ざすのではあれば、日本一、いや世界一いい場所だと誰もが思うような、安全で安心な施設にして下さい。切に願っております。
今、コロナで医療従事者の方への差別があります。感謝しなければならないのに悲しいことが起きています。アメリカでは人種差別で黒人の方が亡くなっています。肌の色が違うだけで同じ人間なのに、なぜ差別されなければならないか。日々悲しくなります。
差別は容易になくならないでしょう。でも少しでも減ればいいと思います。差別をされる方も悲しいし、人を差別して本当に気持ちのいい人はいないと思います。
これからどうしたらいいのか、日々考えながら過ごしています。心穏やかに過ごせる社会になればいいと願っています。
2020年7月26日 美帆の母
当然の結果だと思う。悲しみは変わらない。けれど1つの区切りだと思う。大きな区切りであるけれど、終わりではない。19の命を無駄にしないよう、これから自分のできることをしながら生きていこうと思います。
2020年3月16日 美帆の母
私は美帆の母親です。美帆は12月の冬晴れの日に誕生しました。1つ上に兄がいて待ちに待った女の子でした。幼いころはとても音に敏感でした。大きな音、初めての場所、人がたくさんの場所が苦手でした。人に挨拶されただけで泣き叫ぶ子でした。3歳半で自閉症と診断されたあとは、とにかく勉強しました。本を読んだり、講演会に通い、少しでも美帆のことを理解しようとしました。他の親御さんたちと障害のある方や、その親の気持ちを伝えようと思い、学校や地域で語ったこともありました。にらまれたり、怒られたりするのがこわかったから理解してくれる人を増やそうと思いました。美帆が私の人生の全てでした。
多くの良い先生や、友達、支援してくれた職員さん、ガイドヘルパーさん、ボランティアさんに恵まれました。みんなやさしく接してくれたので、とても人が好きで人懐っこい子に育ちました。とても音楽が好きで「いきものがかり」、ドラマの主題歌や童謡、クラシック、アニメなどジャンルは問わず、いろいろな曲を聴いてノリノリで踊っていました。乗り物に乗っているとご機嫌で、よくドライブしたり電車やバスに乗りました。小さいときはブランコが大好きでした。プール、ジェットコースター、プラネタリウム、水族館、パレード、ラーメン博物館、公園等、本当に大好きでいろんな場所に家族やガイドヘルパーさん、ボランティアさんと出かけていました。
成長するにつれて、美帆は落ち着いてきました。一方で9歳から大きなてんかん発作があり、小学校5年生ぐらいから多いときは週1、少ないときも月1回ぐらい発作がありました。家庭の事情で中学2年生の時から児童寮で生活していました。毎月会いに行くのが楽しみでした。仕事も娘のためと思うと頑張れました。多いときには4つの仕事をかけもちでしていました。
娘に障害のこと、自閉症のこと、てんかんのこと、いろいろ教えてもらいました。私の娘であり先生でもあります。優しい気持ちで人と接することが出来るようになりました。待つことの大切さや、人に対しての思いやりが持てるようになりました。人の良いところ、長所を見つけることが上手になりました。人を褒めることが上手になりました。
人懐っこくて言葉はありませんが、すーっと人の横、そばに来て挨拶をして、前からの知り合いのように接していました。笑顔がとても素敵で、まわりを癒やしてくれました。ひまわりのような笑顔でした。美帆は毎日を一生懸命生きていました。
(法廷で被告に)「お母さんのことを思うといたたまれません」と言われて、むかつきました。考えも変えず、1ミリも謝罪された気がしません。痛みのない方法で殺せばよかったということなんでしょうか。冗談じゃないです。ふざけないでください。美帆にはもう、どんな方法でも会えないんです。
(事件)当日は7時30分頃「美帆が被害にあっている」との連絡をもらい9時から10時の間ごろ、やまゆり園に着きました。名簿の×を見たときから、もう何がなんだかわからなくなり、頭も真っ白でした。何回も夢じゃないかと思い、ほっぺたをつねってみたのですが、夢か現実か、自分が誰なのか、どうしてここにいるのかも、わからなくなっていました。
だいぶ時間が経ってから美帆に会えました。顔しか見せてもらえませんでした。ストレッチャーに乗せられていて「美帆ちゃん、美帆ちゃん」と何度呼んでも答えてくれなくて、自分で体温調節するのが苦手で、汗をあまりかかない子だったので、いつも温かい子が、その時はすごく冷たくて、冷たくて、そんなことは一度もなかったのにすごく冷たくて一生忘れることのできない冷たさでした。会ったのは数分だと思います。
プリント等配っていましたが、何を手にしているのだろう、皆、何を言っているのだろうと不思議でした。私は頭痛がひどくて「診療所の先生が園に来ているから具合の悪い人は言って下さい」と園長先生に言われて診てもらったら「血圧がすごく高いので頭痛は治らないけど点滴するので診療所に来られるようなら来て下さい」と言われ警察の車に乗せて頂き点滴を受けました。警察と園と遺族の話で、名前を出すか出さないかでとても揉めていたのを覚えています。私は言葉がでなくて一言も発することが出来ませんでした。
葬儀は、地元の斎場で音楽葬でしました。マスコミが多く来ていたようですが、弁護士会から来て頂いている弁護士や警察が協力して入れないようにしてもらえました。美帆の好きな童謡や「いきものがかり」などの音楽を流し、参列者には娘の顔も見てもらいました。美帆のアルバムや額に入った写真を見てもらいました。着物を着せて見送りました。のべ200人位の人が見送ってくれました。
事件後、家はめちゃくちゃになりました。社交的で老人会や自治会の活動に積極的に参加していた祖母が家に引きこもってしまい、一歩も外に出なくなりました。人と話をするのが好きだったのに誰とも話さなくなりました。料理や庭の手入れをするのが好きでしたが全くしなくなりました。笑顔が消え、表情がなくなりました。兄は具合が悪くなり、休み休み仕事をしていましたが入院することになり仕事を辞めました。私は食事をしても味がわからなくなり、9キロやせました。心療内科に通い薬を飲むようになりました。体が痛くて寝る時に骨が当たって痛くて眠れませんでした。1人で外出するのが怖くなり、外に出られなくなりました。がんばって外に出ると心臓の動悸がすごく、ドキドキしてブルブル全身が震えてしまうことがよくありました。今でもこの発作で震えてしまうことがあります。私の人生はこれで終わりだと思いました。自分の命より大切な人を失ったのだから。美帆がいなくなったショックで私たち家族は、それまで当たり前にしていたことが何一つできなくなりました。私たち家族、美帆を愛してくれた周りの人たちは皆、あなたに殺されたのです。未来を全て奪われたのです。美帆を返して下さい。
他人が勝手に奪っていい命などひとつもないということを伝えます。あなたはそんなこともわからないで生きてきたのですか。ご両親から教えてもらえなかったのですか。周りの誰からも教えてもらえなかったのですか。何て、かわいそうな人なんでしょう。何て、不幸な環境にいたのでしょう。本当にかわいそうな人。私は娘がいて、とても幸せでした。決して不幸ではなかったです。「不幸を作る」とか勝手に言わないでほしいです。私の娘はたまたま障害を持って生まれてきただけです。何も悪くありません。
あなたの言葉をかりれば、あなたが不幸を作る人で、生産性のない生きている価値のない人間です。あなたこそが税金を無駄に使っています。あなたはいらない人間なのだから。あなたがいなくなれば、あなたに使っている税金を本当に困っている人にまわせます。あなたが今、なぜ生きているのかわかりません。私の娘はいないのに、こんなひどいことをした人がなぜ生きているのかわかりません。何であなたは1日3食ごはんを食べているのですか。具合が悪くなれば治療も受けられる。私の娘はもうこの世にいなくて何も出来ないのに。
あなたが憎くて、憎くて、たまらない。八つ裂きにしてやりたい。極刑でも軽いと思う。どんな刑があなたに与えられても私は、あなたを絶対に許さない。許せません。私の一番大事な大切な娘、美帆を返して下さい。美帆はもうこの世にいなくて、好きなことは何もできません。私たち家族と会うこともできません。失われた時間はもう二度と取りもどせません。
でも、あなたは、こうして生きています。ずるいです。おかしいです。19人もの命を奪ったのに。美帆は、一方的に未来を奪われて19年の短い生涯を終えました。だからあなたに未来はいらないです。私は、あなたに極刑を望みます。一生、外に出ることなく人生を終わりにしてください。
2020年2月17日 美帆の母
突然の出来事に理解が追いつかず「美帆がまだ生きているのではないか」「いや、いないんだ」という繰り返しです。平成28年7月26日の午前6時すぎ、美帆の兄のお弁当を作っていると携帯電話のメールが頻繁に届きました。「美帆ちゃん大丈夫?」と心配する内容でした。テレビをつけると事件が報道されていて、施設との電話で「美帆さんが被害にあわれました」と言われました。「美帆は大丈夫ですか」と聞くと、「すぐに来て下さい」と言われ、殺されているとは思わず施設に向かいました。
到着すると名簿が置いてあり、名前の横に「○」が書いてあれば大丈夫だと言われ美帆の名前を確認したところ「×」が書いてありました。見た瞬間、信じられない気持ちと衝撃で頭が真っ白になりました。警察と施設の職員から説明を受けましたが、内容は覚えていません。会った美帆はとても冷たく、私の呼びかけには反応してくれませんでした。
美帆は3歳の時に自閉症で重度の障害があると認定されました。程度は最も重いものでしたが、身体能力には異常なく、走ったり踊ったりしていました。会話によるコミュニケ-ションはできませんでしたが、私や施設の職員が話している言葉を理解し、笑ったり怒ったりしていました。会話が出来なくても、一生懸命自分の意思を伝えようとしていました。娘に障害があると知らされた日はショックでしたが、私が美帆を支えなければいけない、一番の理解者にならないといけない、守りたいと思い、いろんな本を読んだり話を聞いたりして勉強するようになりました。美帆にあった育て方を考えるようになりました。
やまゆり園の職員は、美帆の成人式のことを気にして「着物を着るために髪の毛を伸ばしましょうか」などと言ってくれ、良い印象を持っていました。成長してもかわいい、いたずらっ子でした。(事件の2日前の)7月24日に会いに行った際、美帆は「キャー、キャー」と大きな声を出して喜んでいましたが、プールの説明などがあり10分ほどしか一緒にいられませんでした。一時帰宅もあるからと手を振ると、美帆はいすに座ったままじっと私をみていました。「また会えるから」とあっさり出てしまい、仕事に向かいました。この時、もっと美帆と遊んでおけばよかった、もっと一緒にいればよかったと思ってしまいます。
被告に言いたいことは、とにかく美帆をかえしてほしい。元気な状態でかえしてほしい。どんな罰を与えられても、許すことはできません。何で美帆だったのか、美帆は事件の年に施設に入っていて、被告は美帆を知らないはずです。美帆は何も悪いことはしていません。なぜ手をかけたのか聞きたい。女手一つで大事に大事に育ててきました。中学2年で施設に入り、一緒に生活できずに寂しい思いをしました。美帆は理不尽な形で19歳という短い期間で突然終わりを迎えました。
365日24時間、忘れたことはありません。表情豊かで、楽しい顔や嬉しい顔や怒った顔をしました。私にはどの顔もとてもかわいかったです。幼い頃は子育ての中で自分の命を絶とうと思ったこともありましたが、美帆に希望をもらって生きて来られました。美帆はいま、天国で元気に過ごしていると思います。すぐにはそちらには行けないけれど、いつか行くまで、待っていてほしいと思います。
大好きだった娘に会えなくなって3年が経ちました。時間が経つほどに会いたい思いは強くなるばかりです。会いたくて会いたくて仕方ありません。本当に笑顔が素敵でかわいくてしかたがない自慢の娘でした。アンパンマン、トーマス、ミッフィー、ピング-等のキャラクターが大好きでした。音楽も好きでよく“いきものがかり”を聞いていました。特に“じょいふる”が好きでポッキーのCMで流れるとリビングの決まった場所で、ノリノリで踊っていたのが今でも目に浮かびます。電車が好きで電車の絵本を持ってきては指さして「名前を言って」という要求をしていました。よく指さしていたのは、特急スペーシアと京浜東北線でした。ジブリのビデオを見るのも好きでした。特にお気に入りは魔女の宅急便と天空の城ラピュタ、他のビデオも並べて順番に見ていました。
自閉症の人は社会性がないといいますが、娘はきちんと外と家の区別をしていて、大きな音が苦手でしたが、学校ではお姉さん顔をしてがんばっていたようでした。外では大人のお姉さん風でしたが、家では甘ったれの末娘でした。児童寮に入っていた時、一時帰宅すると最初のうちは「帰らない、家にいる」と帰るのを拒否していました。写真を見せて「寮に帰るよ」と声かけすると、一応車に乗り、寮の駐車場に着くものの車からは出てきません。「帰らない」と強く態度で表していました。パニックを起こして大変だったけれど、うれしい気持ちもありました。2年くらいは続いていましたがそれ以降は、自分は寮で生活するということがわかってきたようで、リュックをしょって泣かずに帰っていくようになりました。親としては、淋しい気持ちもありましたが、お姉さんになったなあといつも思っていました。
月1くらいで会いにいき、コンビニでおやつと飲み物を買い、一緒にお庭で食べるのですが、食べおわると部屋にもどることがわかっていて、食べている間中、「歌をうたって」のお願いをされ、よくアンパンマンの“勇気りんりん”と、ちびまる子ちゃんのうた、犬のおまわりさん等、うたっていました。私の歌をBGMにしておやつをおいしそうに食べていました。自分の部屋にもどる時も「またね」と手を振ると自分の腰のあたりでバイバイと手を振ってくれていました。泣きもせず、後おいもせず、部屋にもどっていく後ろ姿を見ているとずいぶん大人になったなと思っていました。
美帆はこうして私がいなくなっても寮でこんなふうに生きていくんだなと思っていました。人と仲よくなるのが上手で、人に頼ることも上手でしたので職員さんたちに見守られながら生きていくのだと思っていました。言葉はありませんでしたが、人の心をつかむのが上手で何気にすーっと人の横に近づいていって、前から知り合いのように接していました。皆が美帆にやさしく接してくれたので人が大好きでした。人にくっついていると安心しているようでした。
美帆は一生懸命生きていました。その証を残したいと思います。恐い人が他にもいるといけないので住所や姓は出せませんが、美帆の名を覚えていてほしいです。どうして今、名前を公表したかというと裁判の時に「甲さん」「乙さん」と呼ばれるのは嫌だったからです。話しを聞いた時にとても違和感を持ちました。とても「甲さん」「乙さん」と呼ばれることには納得いきませんでした。ちゃんと美帆という名前があるのに。どこに出しても恥ずかしくない自慢の娘でした。家の娘は甲でも乙でもなく美帆です。
この裁判では犯人の量刑を決めるだけでなく、社会全体でもこのような悲しい事件が2度とおこらない世の中にするにはどうしたらいいか議論して考えて頂きたいと思います。障害者やその家族が不安なく落ち着いて生活できる国になってほしいと願っています。障害者が安心して暮らせる社会こそが、健常者も幸せな社会だと思います。
2020年1月8日 19歳女性 美帆の母
あなたの存在は、沢山の人の喜びでした。あなたが笑ったり泣いたり食べたり寝たりするだけで、どうして一緒にいた私達の心があんなに動かされたのか、とても不思議です。今もそれは変わりません。あなたのことを思うだけで、あなたと一緒にいたときと同じように心は揺れ、あたたかくなります。
もう会えないことがとても悲しいです。あなたに出会わなかったら、あのような形でお別れしなかったら、私の人生はどうなっていたことだろう、と考えることがありますが、「出会う前の時点に戻してあげるから、関係のない人生を選んでいいよ」ともしも言われたとしても、それを選ぶことは決してありえません。
喜びだけでなく、(事件によって)とても乗り越えられないと感じる悲しみも、あなたと出会ったことで受け取ったけれど、これもまたあなたがくれた幸せと一緒に抱きしめて生きていきます。
そうすることで、同じように悲しんでいる人に優しく出来る人になれたらいいなと思います。あなたのように、「そこにいるだけで」周りの人を幸せに出来るなんてことは誰にも出来ないけれど…。あなたのことが、いつまでも大好きです。沢山の幸せをありがとう。
本当に笑顔が素敵で、かわいくてしかたがない自慢の娘でした。ミッフィーや機関車トーマスがお気に入りで、歌も大好きでした。言葉はなくても、表情豊かに意思を伝えてくれました。活発で、ジェットコースターも「キャー」と言いながら、ニコニコと乗っていたのを思い出します。バニラ味のアイスが好きだったので、ソフトクリームの上だけ食べていた姿が懐かしく、街で売っているのを見かけると思わず買ってしまいます。もう、一緒に食べられないのが本当に残念です。
幼い頃、音に敏感で、雨が降っても、外出しても激しく泣き続けました。まだ障害が分かる前で、周囲からは「育て方が悪い」と厳しい目を向けられ、自分を責め、親として自信をなくすこともありました。3歳半で自閉症と診断されたあとは、とにかく勉強しました。専門家の本を読み、講演に通い、少しでも娘のことをわかりたいと向き合ってきました。ほかの親御さんたちと、障害のある子やその親の気持ちを知ってほしいと、学校や地域で語ったこともありました。娘が、私の人生のすべてでした。
津久井やまゆり園には、事件の4か月ほど前に入所しました。何か所か見学した中で、やまゆり園の方だけが「今度は娘さんを連れてきてくださいね」と言ってくれ、本人を尊重してくれるように感じて決めました。事件後は、誰に言われるわけでもないけれど、「私があそこに決めなければ」と、いまも自分を責め続けてしまいます。
娘は成長するにつれ、落ち着いて過ごせるようになり、多くのいい先生や友達に恵まれました。障害ゆえに本当に大変な時もありましたが、その分、何かできたときの嬉しさは倍増し、信じて待つことの大切さも教えてもらいました。何より、嘘偽りのない笑顔に助けられてきました。そんな思いで育ててきた娘を「不幸をつくる」と勝手に決めて奪われたことに、やり場のない思いを抱えています。全然、不幸なんかじゃなかったのです。娘が私のもとにうまれてくれて本当に幸せでした。
娘を亡くしてから、悲しくて悲しくて辛い日々を過ごしてきたけれど、そんな中で、日航ジャンボ機墜落事故の遺族や、東日本大震災の遺族との出会いがありました。私が7月が来るのがつらいように、3月が来るのがつらいと聞き、私だけではないのだと思えました。娘がたくさんの人に出会わせてくれ、その人たちに支えられてきました。
3年経った今も、娘に会いたくて会いたくて仕方なく、あの笑顔がもう一度見たい。時間が経っても気持ちは全く変わりません。世間の人には何をどうして欲しいと言うことはないけれど、娘が一生懸命に生きたことを覚えていてもらいたいと思っています。
妹と同じホームにいた方でした。若くて活発で元気に動き回っていた姿が思い出されます。ある日、妹の部屋に2人でいたところ、戸を開けて部屋に入って来られたのを覚えています。女性のホームですし、私くらいの年齢の男性が来ているのが珍しくて、様子を見に来たのかなと思いました。興味深そうにじっとこちらを見つめていた表情がとても印象的な方でした。事件については2年がたつ今も、悲しいとか気の毒とか、そういった言葉ですら、簡単には言葉にできないと感じています。
今は突然のことで混乱し、何と言ったらいいのか、わかりません。可愛い娘を失い、ただ悲しく、事実を受け入れられない状態ですので、落ち着くまでそっとしておいて欲しいと思います。(事件直後のコメント)
短期で施設を利用していたころから、かわいらしい笑顔で人気者でした。
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