MENU

19のいのち

事件を見つめて

「ホームレス支援全国ネットワーク」理事長・牧師 奥田知志さん

「ホームレス支援全国ネットワーク」理事長・牧師
奥田知志さん

2020年02月 更新

(1月8日の初公判を前にインタビュー)

おととし(H30)の夏、お子さんに障害がある知人とともに拘置所にいた植松被告と接見しました。送検される時のニュースで見たような恐ろしい感じではなく、礼儀正しい青年という印象でしたが、「移動と排せつと食事ができない人は人間ではない」と淡々と冷静に語る様子にショックを受けました。

こう述べる被告に対して「私はそう思わない」と言いながらも、この事件は1人の異常な青年が起こした事件として見るべきではないと思いました。彼の責任を割り引いたり弁護したりする訳ではなく、事件に対して彼が責任を負わなければならないのは間違いありません。一方で、1人の異常な青年がやった事で済ませてしまいたい気持ちがみんなの中にあるのではないか。自分は関係ない、あるいはおかしな人なんだと。でもそう考えてしまうと事件は、それで終わってしまう。私は最初に「生きる意味のない命」という被告の言葉を聞いたとき、日本にもナチズムに傾倒した若者が現れたのかと思いました。しかしその後、被告はナチスが障害者を殺害したことを知らなかったと言っていると知り、日本の社会で生まれ育つうちに育った思想なのだと感じました。少しオーバーな言い方ですが、被告の言葉は「時代の言葉」なのではないかと思ったのです。

接見した時に私が「つまり今の社会において役に立たない人間は、死んでくれと言いたいのか」と聞くと「そのとおりです。役に立たない人間を生かしていく余裕はこの社会にありません」と答えました。私は接見の最後に「事件を起こす前、あなた自身は役に立つ人間だったんですか」と聞きました。すると被告は少し考えて「僕はあまり役に立たない人間でした」と答えました。このやりとりから私は、被告自身が意味のある人間とない人間の分断線の上を綱渡りのように歩いていたのではないかと強く思いました。一歩こっちに行けば価値のある人間になれる、一歩こっちに行けば価値のない人間になる、単に殺したかったからとかそんなものではなく、自分自身が役に立つ、生きていていい人間で「君すごいな、役に立つ男だ」と認めてもらいたいという欲求が働いたのではないかと感じました。

この事件について社会は、被告が神様でもないのに、生かしておくべき人間と殺すべき人間の分断線を引いた、ひとつの価値判断をした事件だと見ていると思いますが、違うと思うのです。もともとこの社会に分断線があったのです。彼が事件を起こす前から。私は生活困窮者の支援を30年以上してきましたが、今の時代ほど、困窮状態にある人たちに対する風当たりが強い時代はありません。そういう時代の中にあって皆が何となく社会の中で自分がどう見られているのか、有用な人間だと思われているのか、おびえてるんじゃないかと思うんです。だから「生きる意味のない命」というのは、“時代の子”における“時代の言葉”であって、この傾向はどんどん強まっていると思います。例えばLGBTは生産性が低いという話が雑誌に書かれてしまう。つい先日も、台風のさなかにホームレスの人が避難所に避難したが住民じゃないから受け入れを拒否されたという話もありました。経済の格差の問題を超えて、存在や命自体の格差に広がってきていて、生きていていい人と生きては駄目な人たちが、どこかで明らかに分断されていく。そういう時代全体のなかでこの事件をもう一度位置づけ直さないと見誤るんじゃないかと思います。

事件を風化させてはいけないと、これまで各地の講演会でこの事件について話をしています。私は「ともかく生きる」「ともかく命が一番大事」ということを強調したいです。生まれてきたこと、生きていることそのものに意味がある。「そんな当たり前のことを」と言われるかもしれないけれども当たり前のことが当たり前になっていない。障害者も健常者も等しく生きること自体に意味があるという当たり前のことを、社会全体で共有していく必要があるのではないでしょうか。残念ながら、たった3年で多くの人がこの事件を忘れてしまっているのではないかと感じています。それだけに今回の裁判は、もう1回あの事件は何だったのかと検証する機会にもなると思っています。

裁判で被告が主張を変えることはないと思いますが「自分が選んだ結論は間違っていた、申し訳なかった」と言ってほしいと思っています。その上で殺された人たちの命も自分の命も同じ命だということに気がついてほしいです。植松被告が「なぜ事件を起こしたのか」ということは同時に「19人がなぜ殺されなくてはならなかったのか」さらには「社会がなぜ守れなかったのか」ということと同じことです。そこを私たちの問題として考え、この事件を社会の問題として捉えていくべきだと思います。

和光大学名誉教授 最首悟さん

和光大学名誉教授 最首悟さん

2020年02月 更新

(1月8日の初公判を前にインタビュー)

植松青年がなぜ事件を起こしたのか知りたいと、おととし(2018年)から手紙のやり取りや接見を重ねています。初めて接見したのはおととし7月のことでした。このとき植松青年は私と目を合わせることもなく“気が弱い青年”というのが第一印象でした。去年(2019年)12月に2回目の接見をしたのですが、そのときはだいぶ顔が引き締まっていて1年前と全然違いました。裁判が近づいてきて、自分の行く末への緊張があるのではないかと感じました。彼は殺人とか強姦を犯した罪には死刑は必要だと言いながら、自分には正当性があり極悪人ではないから死刑に値しないと思っている。

植松青年からは接見や手紙で、私の娘で、ダウン症で目が見えず重い知的障害のある星子について「殺しなさい」などと言われます。それに対し平然といられるはずはなく、やはり許せない、八つ裂きにしたいという思いがあるのも本当です。どんなに苦労をしてもつらいことがある中でも、そこから逆に喜びをくみ取っていくのが人間の根本的なあり方なのに、そのことが彼にはわかっていないのです。

今回の裁判が、始まってから2か月で終わってしまうと聞いて、短すぎると思っています。そして全体として、植松青年個人の罪が刑法に照らして許せないというだけで終わってしまうと、何のための裁判なのかという気がしてしまいます。彼は今の社会の状態や趨勢、多数意見にのっとって自分の考えを持っていると思うので「自分は正しい」という事が何なのかを明らかにしてほしい。どうしてそういう考えに至ったのか、社会との関係を知りたい。あるいは育った家庭と彼の関係を知りたい。それは殺された被害者と同じような立場にある人たちの強い希望だとも思います。

また、今回の裁判で被害者が匿名で審理されていることも考えるべきだと思います。何かくさい物にふたをするような感じがどうしてもしてしまうし、匿名ということが今の社会を反映している。名前を明らかにしなければ、いかにもそういう事態がこの犯罪を生んでいると思わせてしまう。そういう社会じゃなくして欲しいというのは、誰もが思ってることなんです。しかし個々の事情に立ち入っていくと、やはり、1人1人、今生きている人にとって、自分の名前を知られるという事や、今の社会の中で名前を明らかにするとどういう人生が待ってるかというのを考えると、ここはやっぱり匿名は絶対反対だとはならないんですよね。そこがもうみんな歯がゆい思いなんです。正論的に「匿名はだめ」と言わなくちゃいけないんだけれども、現実は、そうじゃない。重い障害を抱えた人を世話しながら生きる事がどんなに大変かということに対して思いが薄すぎるという社会の問題があると思います。

植松青年とのやりとりはこれから先も続けていくつもりです。いま社会の在り方をめぐる1つのポイントに立っている。彼はその瀬戸際のポイントを少し切ってレールの切り替えをやった。ここで社会の経済効率や経済成長に役立たないものをお荷物として捨てるような植松青年的な考え方を容認してしまったら、この社会はすさんで成り立たなくなる。そのポイントを切り替えさせないこと、別の道を示すことが大事で、私としては星子と暮らしてきて、どうしてもそれは自分としてやらなきゃいけないと思うんです。手紙のやりとりを通じて、本人だけでなく社会に伝え続けることが私の責務だと思っています。

和光大学名誉教授 最首悟さん
2018年09月 更新

私にはダウン症で目が見えず、重度の知的障害のある41歳の星子という娘がいます。被害者の多くが重い障害のある人たちだということで、この事件は私の中で星子のことと重なります。
その私に今年(平成30年)4月、植松青年から手紙が届きました。事件後に私が新聞に寄稿した文章で、彼について「無縁社会が生み出した孤立化した個人である」と論じたのを読んで送ってきたようです。

『最首さんのお考えを拝読させていただきましたが、現実を認識しつつも問題解決を目指していないよう映ります』『私のことを“現代が産んだ心の病”と主張されますが、それは最首さんも同様で、心失者と言われても家族として過ごしてきたのですから情が移るのも当然です』

娘のことも知った上で、「家族として情が移っているに過ぎない」と書いている。大きなお世話ですよ。こんなこと、人に言う必要はないのに。

彼は意思疎通がとれない障害者を、心を失った者、「心失者」と呼んでいます。それは金食い虫で、日本の借金を増やしていくだけの存在じゃないかというのです。
私に日本の財政問題に対する実行可能な解決策があるかというと、たしかに何も持っていません。それは個人が容易に解決できる問題ではなくて、人々の考えが大きく集団として変わっていかなければ、解決は難しいでしょう。

それより私が彼に問いかけたいのは、心を失った人がいるなどと、どうして言えるのかということです。
娘の星子は自分一人では食事も排泄の処理もできず、妻や私の世話が必要です。意味のある言葉を発することもなく、意思を読み取ることは私たちにとっても非常に難しいことです。それでも部屋で音楽をかけるといつまでもじっと聞いています。若い頃は海やプールに連れて行くと、本当に喜んだ表情をしていました。それは意思があって、意識があって、気に入った場所があって、そこにいることを選択しているということでしょう。ほかの人に自分の気持ちのあり方を知らせることができない状態はあっても、心が無くなることはありません。
ところが彼は、心とは動作や言葉など外面に現れるものだという考えなんですね。それは単純すぎるでしょう。沈黙の言葉というのもあるし、心がどういう状態かなど誰もいい切れやしないし、わからない。それを速戦即決みたいに「この人は心がない、心がないから物である。しかも害をなすものである。だから消していかなければいけない」などと、そんな考え方がどのような教育や社会の中で彼に生まれたのか。だんだん怖くなってきます。

「働かざる者食うべからず」という言葉がありますよね。社会の中には、重度の寝たきりの障害者や認知症老人に、生きる意味や生きがいはあるのだろうかと疑問に思っている人は多いと思います。「自分が意思疎通できなくなったら、安楽死させてほしい」と言う人もいるでしょう。でも実際に意思疎通できず食事も排泄も自分でできなくなった時に、実は心の内は平穏な状態でのんびりと過ごしていて、「私、ちょうどこれでいいな」と思っているかもしれない。そういう状態の人を見て「ああ、この人は初めて幸せになっているのかもしれないね」と思いやるのもまた心です。そうした想像力を大切にすることが、社会の絆になると思うのです。生きる意味がないなどと決めつけていては、人の心はすさむばかり。落ち着いた穏やかな人生なんて送れないのではないでしょうか。

そういう意味で、彼は幼すぎる。幼いながら、ガチガチに固まった考え方の中で問題の解決策を考えてしまっている。生きる中での寂しさとか悲哀、そして幸せと感じる瞬間もあったりするといった、「ああ、生きるというのはこういうことなんだ」というため息を伴った充足感というものの体験が、彼にはないんじゃないかなと思います。

2018年7月6日、植松青年の雰囲気や様子を知っておこうと思い、立川拘置所で彼に面会しました。短い時間でしたが、一番の印象は、あまりシャープな感じがしない。ふてぶてしさがあるかなと思っていたら、それもない。私をまともに見ることが無く、目を伏せている。気弱そうで、あの事件を実行した気力と体力は、どこから湧いてきたのだろうかと思いました。
彼は私に「大学で教え指導をする立場の人が、IQの低い人間と暮らすのはありえない」ということを言ってきました。星子のような存在は、大学で教える進歩主義に反するじゃないか、なぜそれをかばうのかと言いたかったのでしょう。私はこの日は深いやりとりをするつもりはありませんでしたが、「星子との暮らしは、そう大変だというわけではありません」とだけ言いました。

面会した後、私は彼に送った手紙で、こう書きました。
『わからないからわかりたい、でも一つわかるといくつもわからないことが増えているのに気づく。すると、しまいにはわからないことだらけに成りはしないか。そうです。人にはどんなにしても、決してわからないことがある。そのことが腑に落ちると、人は穏やかなやさしさに包まれるのではないか』

手紙は今後も書き続けます。長いやりとりになるかも知れません。彼に向けて書くとか語るというのを超えて、もっと多くの人たちの疑問に答えていくということになるでしょう。何らかの形で、手紙は公表しようと思います。

映画監督 森達也さん

映画監督 森達也さん

2020年02月 更新

(1月8日の初公判を前にインタビュー)

今回の裁判によって、社会の側がこの事件を、あるいは植松被告をどのように受けとめるのか、解釈するのかが本格的に始まると考えています。

異常な男が起こした異常な事件で終わらせてはいけないし、この事件の背景に何があるのか、あるいは植松被告が思ったこと、考えたこと、そこにどんな普遍性が隠されているのかを考えなくてはいけない。彼の命に対しての見方は余りにも極論です。それは大前提なんですが、同時に自分たちはどうなのか。例えば脳死の問題だったり、あるいは母体保護法の問題だったり、どこかで命を峻別していないか、あるいは日本国内の命と海外の紛争地の命を本当に私たちは平等に扱っているか。実はいろんな矛盾があるわけですよね。そうしたあえてこれまで目をそらしてきた矛盾を突かれた。だから当然ふざけるなと一喝すべきなんですが、条件反射的にするのではなく、ふと立ち止まって自分の中の植松被告的な部分を見つめることは、その人の人生にとっても、あるいは社会にとっても決してデメリットだけではないと思います。

実名匿名の議論はかなり複雑に入り組んでいて、そう簡単に話せることではないんですが、報道に関して日本は実名報道が原則ですよね。私は実名原理主義ではないんですが、裁判は別の座組みで考えるべきでしょう。本来裁判は、加害者も被害者も実名というのが大前提ですが、今回に限っては匿名になっています。これも障害者などマイノリティーに対するある意味での差別意識や後ろめたさを引きずり出されてしまったがために、過剰に匿名であることを「しょうがない」と受け入れる結果になったように思います。このプロセスをもう少し明らかにしないと、結局何も成長できません。自分たちの後ろめたさも見つめた上で、何をどう変えていくべきか考えなくてはいけないと思います。

今回の裁判はあの小さな傍聴席だけではない、私たちみんなが当事者である、そんな意識を持つべき法廷、本来法廷というのはそうあるべきなんですが、特にその要素が強い法廷になるのではないか、なって欲しいと思っています。裁かれるべきは、当然ながら植松聖被告ではありますが、私たち1人1人が自分の心の奥底にいる植松被告のような考えにどういう判決を下すのかが問われています。自分の中で本当は認めたくないものを認めなければいけない部分が出てくると思います。しかしその作業をしなければ、今まで障害のある人たちにどんな不合理を押しつけてきたのか振り返ることにならないでしょう。

異常な事件で異常な男に対して厳罰に処すというまとめ方だけはすべきではないし、多分そうはならないだろうと予測しています。植松被告的なもの、命に対する選別であったり、差別であったり、順列組み合わせであったり、僕たちが常日頃やっていることなんです。あえて可視化しないようにしてきたけど、やっぱり自分の中を見つめるしかない、命の矛盾、エゴ、そうしたものを全部凝視した上で、命の選別はすべきではない、命の価値には差がないんだということ。建て前です。きれいごとです。でも、そのきれいごとをしっかりと裏付けした上で、植松被告に対抗しなければならない。被告が突きつけてきたものに、私たちはどう反論できるか、どう理論構築できるのか、この裁判はそうしたことを試される期間になると思っています。

もう2度と同様のことは起こさせないという覚悟で、自分を見つめ、自分にもつながっているという意識を持つことができれば、この事件をもっと前向きに考える姿勢が鮮明に出てくると期待しています。

映画監督 森達也さん
2018年07月 更新

「もう2年も過ぎたのか」というのが率直な感想です。感覚的に2年過ぎたという感じが持てません。19人の方が殺害された事件で、その理由も動機も全く納得できないままで、今日までずっと来てしまっているということからも、やはり前代未聞だという感じがあります。だから、不全感がとても強いです。

この事件が、極めて特異な所で、特異な男が、特異な人たちに対して起こした事件ではなく、背景にこの社会が今持ってるものとものすごく濃厚に繋がってると思います。
だから、多くの人がこの事件から目を背けたいのだと思います。障害者に対しての「差別」とは違いますが、重い障害者の方を見たときに「大変だな」と思ったり、もし自分が知っている人が植物状態になってしまった場合に「今、つらいんじゃないか」と思ったりしてしまう。また延命治療などに対して、わずかでも疑問を持ってしまったりする瞬間は誰にでもあると思います。ものすごく命に対してエゴイスティックな見方です。この事件は、自らのそうした部分を引きずり出された部分があるからこそ、逆に「目を背けたい」という意識が働いているのかもしれません。

被告が「生産性がない人間に価値がない」というフレーズを使ったとき、それに対して、障害がある子どもの親が「うちの子どもは大事な存在です」と反論します。これは大切で切実な叫びだと思います。でも同時に、価値というのはそんなものではなく、そこにいるだけで価値があり、被告の使う“生産性”というレトリックに反論すべきではないと思います。
そんなものは足蹴(あしげ)にすべきです。

こうした考えはある意味で「きれいごと」です。でも、きれいごとは大事です。社会の成熟とは何かを考えた時、一つはきれいごとをいかに実現していくかだと思います。かつては、年老いた人や病気の人など社会的弱者はどんどん亡くなっていく社会状況もありました。しかし、今は変わってきています。それは、どんな人でも価値があり、命は平等なんだという考え方です。これは当時からすれば確かにきれいごとです。でも、私たちはその「きれいごと」を実現してきたんです。そして、現在があるんです。だから、これからも大事にしていかなければいけないと思います。

今、なんとなく、この事件については「そんなことあったよね」というような形で、終わりかけています。でも、終わらせたらダメです。2年過ぎた今だから、被告が何を考えていたのかではなく、私たちの何と被告の考えが接合したのか、私たちの社会は事件をどう受け止めるべきかを考えられる時期が来ているように思います。

映画監督 森達也さん
2017年02月 更新

19人について伝えることは、"記号化"に抗う意味で報道にとって、とても大事なことだった。まして、この事件は非常に早く"店じまい"してしまった。事件が発生してから、あっという間に報道が収束してしまった。そのひとつの理由が10日後に始まったリオデジャネイロのオリンピック、あっという間にメディアはその体制に変わってしまった。これはメディアの責任だ。
もうひとつは、警察が匿名で公表するという異例の対応をとったことで、犠牲になった人の名前も写真も出なかった。しかし、考えてみたら名前や写真だって記号でしかない。どういう方だったのかは、結局のところわからない。こうしたサイトのような形でそれが伝われば、こちらも考えられる。逆に言えば、何故いまこれほどに僕たちがここに強い視線を向けているのか、興味をもっているのか、反響が強いのか、ここに事件の本質が見え隠れしている気がする。あれだけ急速に終わってしまったからこそ、えぐられたからこそ、これでいいのだろうかと、半年以上たったいまそういう意識が立ち上がってきたことはいいことではないかと思う。

サイトに寄せられる声は様々で、障害のある人への理解を深めようとする声の一方で、障害のある人を受け入れられないという意見など、双方の立場がある。結局、僕たちは矛盾している。差別心は誰もがある。例えば、障害のある人が身内にいたら、もしかしたら楽になったほうがいいのではないかと思った瞬間は誰にでもあると思う。それは誰も責められない。でも、それを押し殺してこの社会で生きてきたわけで、そうした矛盾がこの事件によって一気に噴出したという気がする。

加害者は、障害者は社会の役に立たないからこそ価値がないという論理を使った。それに対抗して、ネットの書き込みの中でも世間一般の声でも、「障害者は役に立つのだ」と、「こんなにも自分にとって意味があるのだ」という声が多く聞かれた。これはよくわかるのだが、同時に「役に立たなくてもいい」とも言える。役に立つかどうかを言い出してしまえば加害者が掲げた論にはまってしまう。でもこうして生きているわけで、いろんな人がいる。だからまずは、障害者だろうが、健常者だろうが、外国人だろうがいろんな人がいる、それが社会なのだと、そこには役に立つかどうかの価値などどうでもいいと、その意識を持ったほうがいい。

例えば電車の中で、ひとりごと言っている人を見ると、危ないから向こうに行こうとか、車両移ったりするけれども、ああいう方って普通に話しかけると普通に応えてくれる場合がほとんどだ。もちろん個人差はあるが、線引きできるものじゃない。
無理やり同じだと思わないし、違う。でも違って当たり前で、いろんな人がいる。そういう意識をもっと持てば、社会が変わるんじゃないかと思っている。

佐藤聡事務局長

障害のある人たちでつくる「DPI日本会議」
佐藤聡 事務局長

2019年09月 更新

事件から3年がたちました。NHKが3年を前に行った世論調査で、5人に1人が事件を「覚えていない」(「全く覚えていない」「ほとんど覚えていない」の合計)と答えたことについて、そんなにたくさん忘れている人がいるのか、と驚きました。
私自身、車いすを使っている障害者ですが、事件が起きた時、「凍り付くというのはこういうことなんだ」と冷たい汗をかくような感覚でした。「自分は殺される存在なんだな」ということを、強く突きつけられた感じがしました。だから、私たち障害者は絶対にこの事件を忘れないんです。

一方で、社会全体として事件への関心が薄れていっているのは、身近に障害者がおらず接点が少ないからだと思います。日本は障害者と健常者を分ける「分離教育」が行われていて、普通の学校に行っている人たちは、障害者に出会う機会が少ない。身近にいなかったら、障害者がどういう人なのか、分からないですよね。だから事件にも実感を持てず、関心が低くなっていくのではないかと思います。
背景の1つとしては、優生思想自体を悪いと思っていない人が多いからかもしれないですね。遺伝的に優れたものがすばらしくて、そうでないものは淘汰されていく優生思想の考え方を持ってしまうと、障害者が全ていらない存在になってしまいますから、それはすごく生きにくい社会だと思います。

少し話が外れますが、私はよくサッカーを見ます。サッカーでは人種差別にすごく敏感で、人種差別的な発言や行動があった時は、ヨーロッパでも日本でも、そうした事案が起こる度に、「人種差別は許さない」というメッセージを繰り返しちゃんと出して、断固として許さないということを伝えるんです。それはすばらしいなと思います。それを見た人が“ああいう行為は差別なんだ”ということが分かって、それはやってはいけないことなのだという事を理解できますよね。今回の相模原市でおきた障害者殺傷事件で言えば、政府が明確に、「これは優生思想に基づいた行為で、優生思想とは断固戦っていかなければならない」というメッセージを明確に出さないといけないと思っています。そうする事によって新たな施策に取り組めるのではないかと思います。

NHKの世論調査では、今の日本の社会に障害者への差別や偏見があるかどうかについて、「ある」と答えた人が8割近くに上りました。一方、自分自身に障害のある人への差別や偏見があるかどうかについて、「ある」と答えた人は25%にとどまり、「社会」と「自分」の間に大きな差が生じていました。

率直に私は、意外と多くの人が日本社会に差別があることを理解してるんだなと思いました。その昔、障害者差別解消法ができる前は、日本に障害者差別はないんだ、と真面目に言ってる人が結構たくさんいたんですよ。なぜそう思うのかと考えたら、障害がある私は、日常的に差別を経験しますが、障害のない人で身近に障害者の知り合いがいない人は、差別の場面に出会っていないんだと、だから日本に差別はないと思うのだということが分かりました。

一方で、自分自身に差別や偏見があると答えた人が25%だったことについては、自分がやっていることが差別だと自覚してない人が多いのではないかと感じています。
この2つの結果は矛盾しているように見えますが、私自身が差別を受けた時に、一番ややこしいと感じるのは、本人に差別をしている意識がない人です。その人とは話がかみ合わない。実際には、差別意識というものは、誰でもあると思います。正直、私自身にも差別意識というものは潜在的にあって、そういう意識をなくしたいと思っていても、ある時にハッと“これは差別じゃないか”と気が付くことがある。ああ、これはちゃんと直さなあかん、と思うことがよくあります。差別意識があることだけが悪いのではなくて、それに気付いた時にどういうふうに直せるか、変えていこうとするか、その姿勢が大切なのではないかと思います。だから、もう少し差別意識というものに敏感になってほしいなと思いますね。

障害者差別解消法ができて、世の中で“これが差別ですよ”という共通の物差しを作っていくことはとても大事だと思います。この法律は、まだまだ不十分なところも多いと思うので、時代に合わせて、法改正してバージョンアップさせて、法律を育てていくことが必要だと思います。
また私は、“障害者と健常者の場を分けない”ということにすごくこだわってます。障害者にとってよかれと思って分けている人がいますが、実はそうじゃないと思います。分けることによってやっぱりいろんな問題が起きていると思います。ですので日常的に障害者が身近にいる環境を、教育現場や職場で作ることが必要だと思います。障害のある人もない人も一緒に学び、子どものときから日常的に接する事によって、障害のない人は障害者のことを自然に考えるようになる。それが大人になってから生きてくると思いますし、社会全体がいろいろな場面で良くなっていくことにつながると思っています。

脳性まひの障害がある小児科医 東京大学先端科学技術研究センター准教授 熊谷晋一郎さん

脳性まひの障害がある小児科医
東京大学先端科学技術研究センター准教授
熊谷晋一郎さん

2018年07月 更新

この2年間は、残された自分たちが何をできるか、何をなすべきかを考え続け、できるわずかなことを重ねてきた時間だと思っています。事件についていえば、情報が増えてもなおわからないことのほうが多いです。一方、事件を安易に解釈し、分かったような気になってしまうことこそが風化につながっていきます。今回の事件は私たちが安易に解釈できないからこそ風化は不可能とも思っていて、もっと考えろ、行動しろと差し迫ってきているように感じます。

被告は「生産性がない障害者は生きる価値がない」という主張を繰り返していますが、経済合理性は何のためにあるのかということを考える必要があります。人の命よりも重い経済合理性はありません。そもそも経済というものは人が幸せになるためのシステムとして、手段としてあるということを考えるべきです。人の命は価値の源泉であって、価値に隷属するものではないのです。“生産性”などをあげて、命を超える価値がほかにあると考えることが、すでに間違った発想ではないかと思います。経済合理性を優先して人の命を選別するというのは目的と手段の関係が逆転した受け入れがたい発想です。

今、社会の多数派に余裕がなくなっているように感じます。かつては、多数派が少数派である障害者に対して、慈善の手をさしのべるか、または無視するという時代がありました。しかし、今は多数派と少数派がある意味で地続きになっているように感じます。多数派が圧倒的に安定していた時代とは違い、健常者と呼ばれる人たちでも、例えばあすにもリストラされて仕事を失ったり、精神的に病んでしまったりする怖さを感じています。そういう意味でも、障害者とそうでない人たちの垣根が以前よりなくなっていると思います。そうなったとき、かつての多数派が障害者に対して行っていた慈善の手を差し伸べるか、無視するかではない、第三のアクションとして「否定」という行動が出てきます。これは以前であればなかったことで、それだけ多数派に余裕がないことの裏返しでもあります。

一方で、この状況は最大のピンチであり、実は最大のチャンスともいえます。障害者だけが感じていた「不要とされる不安」を、いまや多くの人が潜在的に感じ始めています。その中で生き残ろうと思って、視野狭さくに陥れば、当然、自分はいかに能力があり、他人は能力がないかを証明しようと躍起になり、能力を証明するゲームに汲々としているのかもしれません。でも、そういう時代になったからこそ、逆に多数派も含めて「みんながこんなにも安心して暮らせない世の中はおかしい」と考えて、協力して連帯するという選択肢も論理的にはあるわけです。今の日本の社会はどちらに向かうのか、その分岐点に立っています。やはり誰でも安心して生きていたいと考えます。能力があるかないかという軸と、生きていていいかどうかという軸を切り離すことが非常に重要だと思います。

脳性まひの障害がある小児科医 東京大学先端科学技術研究センター准教授 熊谷晋一郎さん
2017年02月 更新

「19のいのち」は、匿名化された障害がある仲間を、雰囲気のあるイラストと遺族への配慮をした上で、様々なエピソードで、固有名に近づけてくれました。犠牲となった19人には、1人1人に当然、毎日の生活があり、その生活の中で紡がれた物語があります。 今回の事件は、毎日を大切に生きてきた19人の物語を抹消してしまう暴力性をすごく感じました。匿名を希望する遺族がいる中で、19人の物語を伝えることは非常に難しかったと思うのですが、このサイトは、何とかして伝えようと細い道をたどるようにして実現したと思います。しかし、ここで私たちが考えなくてはいけないことがあります。それは、匿名報道を家族に求めさせてしまったのは「誰か」ということです。家族をしてそう言わしめた社会の問題として位置づけなくてはいけないと思います。

今回の問題は能力主義や優生思想などあまねく私たちを取り囲んでいる普遍的な問題としてとられることができます。誰もが明日自分が社会で不要な存在、用なしの存在になってしまうのではないかという不安をかつてないほど感じる時代になっていると思います。こうした不安は、今や中間層にも広がっています。今回の事件は、そうした多くの人が潜在的にもっている自らの不安を刺激するものでした。自分が社会から排除されたり、能力がないと方をたたかれたりするのではないかと強く感じたといえます。

被告が「障害者は生きる価値がない」と犯行動機を語った時に、「なんと惨酷なことを言うのだ」と思う一方で、では自分たちの中に、能力主義や優生思想がないのかと問い直すと、おそらく多くの人は大なり小なりにあるのではないかと感じたのではないでしょうか。仕事の中で、上手くいかないときに、自分の無能さを責めたり、他の人の能力を批評したりする自分と、どこか地続き感を感じた人もいると思います。

昨今の風潮として「本音主義」がはびこりすぎています。"本音"を声高に叫び、意見を戦わせることは、それは"正直"なことなのでしょうか。正直になるためには他人の声も自分の声にも耳を傾けることです。「19のいのち」に寄せられたメッセージは、本当に時間をかけて、正直に自分の声も他人の声も聞き、したためられたであろうとしのばれる文章ばかりです。

だからこそ、寄せられた様々なメッセージを、拙速に要約したり、何か無理やりまとめたりしないで、ただ静かに並べていただきたい。もしかしたら、これから時間がたって遺族の気持ちが変わって、ある日、犠牲者の名前が出るかもしれないし、もっと違うエピソードが書き加えられるかもしれません。正直な言葉が集まる場所、静かに声に耳を傾けられる場所であってほしいです。

宍戸大裕監督

地域で生きる重度知的障害者の姿を追った
映画「道草」を製作 宍戸大裕 監督

2019年09月 更新

事件から3年が経ち、ずっと気になっているのが、いまだに声を上げることのできない遺族の方々です。被告は能弁に語る一方、被害者は声を出せず、取り残されている家族もいまだに沈黙を強いられています。そこには、何かを発言したら、その後どうなるかわからないという社会への恐怖があるんだろうと想像しています。沈黙を強いている世の中の残忍さ、世間の人たちの想像力の届かなさを、逆に知らされるという感じがします。

私自身、撮影などを通じて、意識的に障害のある方たちと関わるようになってから、もう10年以上になります。その中で気付かされたのは、差別うんぬんの前に、多くの人が障害のある人に関心さえ持っていない現実でした。それが、この事件で、それまでの“無視される存在”から、“憎しみや排除の対象とされる存在”にされた印象があり、自分の中で恐怖となっています。被告の「生産性のない人間はこの日本にいらない」というような一方的な主張が流布してしまった。生産性で人を見ることは、昨日や今日に始まった話ではなく、昔からあった見方だと思いますが、日本の社会がどんどん余裕がなくなる中で、自分と同質の人間で固めようとする動きが広がっていることが背景にあると感じます。

私自身も障害のある人と関わる前は、「働かざるもの食うべからず」だと思っていましたし、普通の企業に勤め、給料をもらって暮らしていかないと自分の人生は先がないと思い込んでいました。私は、なかなか人とうまくやれないタイプで、集団のなかに入ることができず、「このままでは生きていけない」と思っていたところ、「生きていける」と教えてくれたのが障害者の方たちだったんです。だから、今は自分の中では「生産性で人を語らせない」という思いが湧いています。
彼らの姿というのは、「自分は自分の体のまま、それに合った服を自分で選んでくる」という生き方に見え、それまで私がとらわれていた、「社会という服の形に自分の体を合わせる」という生き方を変えていいと思わせてくれました。社会の規範みたいなものにガチガチになっている自分に、いろんなところから窓を開けてくれる存在なんで、今の世の中の閉塞感を打ち破ってくれるのは彼らだと思っています。

一方で、優生思想というのは、自分の中にもぬぐいがたくあります。映画の製作中に当事者の方が暴れてしまったり、電車の中で大声を出したり、店の中でトイレにこもってジュースを飲んだりすることがありました。そのときは「勘弁して欲しい」と思ったり、周りの目が気になったりして、本人の側ではなく世間の側に立っている自分を突きつけられ、情けなくなりました。一番しんどい思いをしている本人が頑張ろうとしているところで「勘弁してくれよ」と言われたら、立つ瀬がないはずです。自分に置き換えても、生き生きしてるときだけが自分ではないはずです。調子がいいときも悪いときも含めて、自分なんだということを自分には許しているのに、他人には許容していないと気づかされる。まだまだだなと思う瞬間です。

多くの障害のある人が地域で暮らせず、施設や親元で暮らさざるを得ない現状が変わらないと、大きな変革は起きないのではないでしょうか。日常的に障害のある人たちが周りにいて「○○さん、どこに出かけるの」と、普段着の会話や出会いが繰り返されるなかで、人の意識が少しずつ変化していく。時間はかかるはずです。
でも、ここで私が強く言いたいのは、障害のある人を支援しなくてはいけないとか、地域で暮らさなくてはいけないという以前に、彼らはとにかく面白くて、みんな出会った方がいいですよということなんです。障害のある人たちの存在は、自分が常識だと思っていることを、全部問い直させてくれます。常識人がいつも東から考えていることを、彼らは西から北から窓を開けてくれる、そんな開き方があったんだと教えてくれ、自分自身を揺さぶってくれる存在なんです。ときどき、しんどいこともありますが、それも含めて、一緒にいると自分自身を大きくさせてもらえます。
映画を通して、彼らのように障害があっても地域の中で当たり前に暮らせるということを知ってもらいたい。そして、実際にそういう暮らしを始めてもらえれば、その隣近所の人たちも、普通に歩いていてすれ違ったり、偶然行くところが重なったりして、一緒に同じ場所で楽しんでしまったということが増えるのではないでしょうか。その当たり前の何でもないことの積み重ねによって、世の中がいつの間にか暮らしやすくなっていた、という気づきになるといいなと思います。

障害のある人への差別に限らず、外国人差別とか、あらゆる世の中にあるヘイトスピーチみたいなものって、自分の恐怖とか不安を大きくしすぎていることに原因があると思います。もっと人間を信じるところから始まるというのが大事じゃないでしょうか。
そのうえで、障害のある人たちと一緒に暮らしていくことを続けていく、事件についても考え続けていく。どこかのフォルダに入れて、いっちょ上がりにしないということが大事だと思います。それは、自分自身も含めてですけど。

NPO「ぷかぷか」代表 高崎明さん

知的障害のある人達が働くパン屋
NPO「ぷかぷか」代表 高崎明さん

2018年08月 更新

相模原事件を乗り越える社会をどうやって作っていくかは、ああだこうだと理屈っぽい話じゃなくて、障害のある人といい1日をどこまでこつこつと作りあげていくのかということでしかない。

知的障害のある人たちの魅力にひかれ、一緒に働ける場をと、8年前に横浜市で始めたパン屋も、当時はすごい大変でさ。声の大きい人が店の前で「美味しいパンいかかがですか」と叫ぶ。そうすると「うるさい」とか言って苦情の電話がかかってきてね。それとか自閉の人で、同じところを行ったり来たりする人がいて「目障りで飯がまずくなる」とか、いろんな苦情があった。ほかにも落ち着かなくてパニックで、ギャーとか叫びながら飛び出しちゃう人もいて、そうすると思いっきり怒鳴られるんだよ。すみませんと謝るしかないんだけど。でも、みんながみんな、そういうふうに見ているわけじゃないので、中には「今日も元気で頑張っているよね」と声をかけてくれる人もいるし、計算がうまくできなくて焦っていたら「いや、そんな焦らなくて、ゆっくりでいいんだよ」と声をかけてくれる、そういう人がいるんだよ。そういう日々を重ねていく中で、少しずつ地域になじんでいった。にぎやかなこういう日々を作っていくということ。こういういい1日の積み重ねが、この地域を変えてきた。昔は大きな声を出すとすぐに苦情が出たはずなんだけど、今は出ない。ここで毎日暮らしていくことがひとつの大きな力になっていく。それが日々を作っていくことの、事実の強さだと思う。

僕自身がそう感じるようになったのは、養護学校で30年以上働いてきた中で、障害のある子どもたちと出会って、人生がすごく楽しくなった、本気で笑えることがいっぱいあったから。
重い知的障害の子どもを受け持っていたから、排泄がうまくできないたびに「おい」とか大きい声で呼ばれるのね。「流せ」とか「拭け」とか、初めは戸惑ったけど、毎日付き合っていくと、それが日常になっていく。でも、そういう子どもたちのおかげで、人間はなんなのかなとか、ものすごく深いものを教わることができた。排泄物を投げつけられることもあって、大変だったんだけど、でも、その大変さがあったから、彼らと本当の意味で出会えた部分がある。
それを生真面目に支援しようとか、やってあげようとか思っていると、関係がどんどん嘘っぽくなってくる。だから指導とか支援じゃなくて、素直に楽しいときは一緒に楽しみ、怒るときは本気で怒るほうがいいと思うんだよね。肩の力を抜いて、一緒に生きるというか。
言葉で割り切れたら苦労しないんだよ。言葉にならないところで、彼らは自傷行為をやったり、人を疑い暴力を振るったりとかがある。何も暴力を振るいたくてやっているわけじゃないから、取りあえずその現場では止めるにしても、長いおつき合いのなかでなんとなくその意味が見えてくるとそれを大事にしていく。
昔しょっちゅうお漏らしをして、10分おきにパンツを脱いじゃう男の子がいて、「みっともねえからパンツをはけ」とか言って、はかすじゃん。すると、また10分したらぱっとパンツを脱ぐと。そういうことを繰り返していたんだけど、ある時、彼が天気のいい日に芝生の上でパンツを脱いで大の字になって寝っ転がっているのを見て、彼のほうがいい人生を生きているなと、ふと思った日があったの。だって、こんな気持ちのいい顔しているそばで、僕は陰気な顔をしてさ、ぐちぐち言うじゃん。本当に俺はいったい何やっているんだって。それは僕が規範から自由になった瞬間だったのね。規範に縛られているでしょ、僕らは。こういうときはああしなきゃいけない、こうしなきゃいかんという規範に縛られているんだけども、彼らってそういう規範がわりとない。その規範のない彼らにつき合っていく中で、自由になれるというか。だから、僕は養護学校に勤めていて一番よかったなと思うのは、僕自身が自由になれたというところなのね。

うちの店でも仕事中ずっとおしゃべりしている人がいる。普通は、仕事中はおしゃべりしちゃいかんという規範がある。だけど外販先で、彼の人気はもう絶大だしね。僕なんかいなくても誰も気がつかないんだけど、彼がいないとみんな心配するんだよ。それぐらいの人気があって、その人気が売り上げを伸ばしているのよ、おしゃべりしながらね。じゃあ、仕事上おしゃべりしちゃ駄目でしょという、その社会的大きな規範はいったいなんなのということになる。だからうちの店では、最低限お客さんが不愉快な思いをしなければいいと思ったので、そこだけルールを作って、あとはもう好きに自分たちで考えてやりましょうと。そうすると、決してうまい接客じゃないんだけど、気持ちが伝わる接客をやってくれた。ファンができた。なんか毎日、ケラケラ笑う、笑い声に癒やされましたとかね。そういうお客さんが出てきたの。
だから、障がいのある人は社会に合わせなきゃいかんとか言っているけども、むしろ合わせるのは社会のほうであって、彼らに合わせていくと、こちら側が豊かになる。彼らとずっとおつき合いがあったからそう思えた。相模原事件の犯人がこいつら生きていて意味がないみたいなことを言ったのは、結局、いいおつき合いができてなかっただけの話で、相手にはなんの問題もなかったはずなのね。だけど、生きている意味がないという言葉が、結局、1人歩きしてしまう社会があってさ、共感してしまう人がやっぱり多い。それを解消するって、やっぱり彼らとおつき合いするのが一番だと思う。ああだ、こうだと理屈っぽいところで、それをひっくり返すとか反論するとかじゃなくて、おつき合いすれば、彼らが教えてくれると思うんだ。

子どもたちが見つめた障害者殺傷事件

子どもたちが見つめた
障害者殺傷事件

2017年11月 更新

事件から1年半がたち、社会からあの日の衝撃が薄れていく中、痛みを胸に留め、事件と向き合い続けてきた子どもたちがいます。その言葉から。

「障害者殺害事件から…」
広島県
小学6年 塚本風歌

障害者が大量に殺された事件から、約1年半が経過した。今私は改めて障害というものについて考えている。なぜ障害というものがこの世にあるのか。そして、なぜその障害者たちは殺されなければならなかったのか。そのような事について、ここでは書いていきたい。

最近、父とこの事件の話をよくしている。その時の話によると、犯人は取り調べで、「障害者は、なにも出来ないくせに税金ばかりむだづかいするから、生きている価値がないと思い、殺した。」と答えた。そしてそれを聞いた世間の人々の中では、「殺すのはいけないと思うけど、犯人の意見には同感。」と、ほとんどの人々が答えたそうだ。私はこわくなった。そして、そう答えた人々に対して、どうしてそう思えるのかと聞きたくなった。

もし、私が将来障害を持った時、そのように考え、行動に出ようとする人がいたら、どれだけこわいだろう。外も出歩けない。「もしかしたらあの人も…。」と思って人間不信になるかもしれない。そう答えた人々は、障害がいつ自分に起こるのかも分からないのに、そういうことを想像することも出来ないのか。「生きる価値がない」なんて言葉を口に出せるのが、最悪だと思った。障害者側だって、望んで障害になったわけではないのに。

障害児のみが通っている学校というものがある。それは、障害者のことを分かってくれる人たちがいるのだから、幸せなのかもしれない。しかし、視点を変えると、今すでに人々の中で障害者がはなされているのに、この人たちはふつうの学校の児童からもかくりされているという考え方にもなる。

人々が小さい時から障害者に慣れ親しめていれば、このような事件は防げたのかも知れない。命の重みはみな同じ。貧乏でも金持ちでも、障害があってもなくても。人々が、1人でも多くこんな考えを持っていたら、差別のない、今よりももっともっと明るい未来が来るのかもしれない。

「誰にも同じ生きる価値」
神奈川県海老名市
中学3年 吉井遥香

一年前の七月に、相模原で多くの障がい者の命が奪われた恐ろしい事件が起こりました。この事件の犯人は、「障がい者は、生きている価値がない、親がかわいそうだ。だから安楽死させるべき」という考えのもと、犯行に至りました。

私には、見た目には分かりにくいけれど、知的障害のある妹がいます。あまり多くの言葉を持たない妹だけど、嬉しいときには笑い、悲しいときには涙を流し、くやしいときには怒る、私にとってはごく普通の十二才の女の子です。もし私の妹が、障がいがあるから死んだ方がいい、と言って殺されたら、私たち家族は、悲しみのどん底に落とされ、犯人を一生許せないでしょう。

私と妹の生きる価値に違いはあるのでしょうか?以前、妹が通っていた療育センターの園長先生は、自閉症の人たちについてのお話の中で、「人それぞれ血液型が違うように、脳のタイプが違うだけ」と仰っていました。血液型はみんな違います。性格だって全く同じという人はいないでしょう。たったその程度の違いなのに、生きる価値に違いなんてあるはずがありません。たまたま私は健常者として生まれ、妹はたまたま障がい者として生まれてきただけです。もしかしたら私が障がい者として生まれて来ていたかもしれません。

社会の中には、犯人と同じように、「生産性のない障がい者はいらない。」と言う人も多く出てきました。ネット上で匿名で犯人に同調する人が多く出てきて、驚きました。たしかに障がい者はお金を生み出せないかもしれません。でも、何事にも一生懸命に取り組む姿を見て、私はいつも勇気をもらいます。頑張ろうと思います。私は障がい者に生きる価値がないと言う人たちに言いたいです。もしも自分の子どもが障がいを持って生まれてきたら、もしも自分の身内がある日突然、事故や病気で障がい者になってしまったら、今と同じことが言えますか?と。

事件の後、障がい者の人たちはどのような気持ちで生活しているのでしょうか。町を歩いている時、電車に乗っている時、自分の周りにいる大勢の人たちの中にも、自分の事を「死んでしまえばいいのに」と思っている人がいるかもしれないと思ったら、大変な恐怖なのではないでしょうか。

多くの健常者にとっては、障がい者の人は遠い存在だと思います。私も妹がいなかったら、一生関わりを持たなかったかもしれません。最近では、グループホームという形で地域の中で暮らす障がい者の人たちも増えてきました。でもまだまだ地域の住民に受け入れられないという現実もあります。昔、障害者施設を建てる時、地域の人々が障がい者に会う際には妊婦さんはお腹に鏡を付けて会ったそうです。生まれて来る子供に障害がうつらないようにそうしたそうです。今はそこまでの事はないけれど、よく理解されていない点はたいして変わっていないのかもしれません。

もっともっと、健常者と障がい者の交流が深まれば良いと思います。例えば子供の頃から学校などで障がいを持った友達と遊ぶ機会が全員にあれば、今回の事件の時だってその子の顔を思い出し、他人事とは思わなかっただろうし、犯人に同調なんかしないで、被害にあった人たちや、そのご家族の悲しみに寄り添えたのではないでしょうか。

相模原事件の犯人は、「家族がかわいそうだ」と言いました。確かに普通の子育てより何倍も大変な子育てだろうと思います。私の母も明るくしていますが、妹が小さい頃は、妹の将来に不安を感じてよく泣いていたそうです。今でも、自分たちが死んだ後のことは、いつだって心配だと言います。だからと言って、妹が死んでしまったら楽になるのでしょうか?まったく違います。悲しみに暮れ、生きる望みを失くすと思います。妹は、家族の癒しであり、世界でたった一人の大切な存在だからです。母は、妹が小さい時から近所の人たちに妹の事を打ち明けてきました。妹を理解してもらい、一人で困っていたら助けてもらえるようにと考えたからです。この世の中は、障がい者にとってはまだまだ生きにくく、妹の人生は私の人生よりもハードな障害物競走のようなものになるだろうと思います。妹は時々、思い出したかのように、「お姉ちゃん、大人になったら、一緒に暮らしてくれる?」と聞いてきます。小学生なのに、自分の将来に不安を感じているのです。

私には、この事件を通してより一層強くなった願いがあります。妹のような障がい持った人たちが、希望を持って自分の人生を歩いていけますように。私の両親のような、障がいも持った人を育てている人たちが、安心して我が子より先に旅立てますように。そして、私のような人たちが父母亡き後も、障がいのある兄弟を支えていけますように。

「人の価値」
神奈川県相模原市
中学2年 中村涼太郎

車が通り過ぎる中、僕は道端でごみを拾っていた。道路に落ちてているタバコをごみ袋に入れる。前には同じようにごみを拾っている人が何人もいる。僕は「めんどくさいなぁ」と思い始めていた。拾っても拾っても毎年ごみが落ちているからだ。学校の行事としてやっているが、なぜ人が捨てたものを毎年拾わなければならないのか。だがそんな僕とは対照的に、僕の後ろではやまゆり園の人たちがごみを拾っていた。職員の人たちと楽しそうに話をしていた。なぜあんなにニコニコしているのだろう。その姿を見て、僕までうれしくなった。

こんな事もあった。それは、僕が毎年行っている花火大会の時だ。やまゆり園に人が集まり始めた。打ち上げはまだだ。広場にいた僕は施設の中に入った。お店に人が集まっていた。地域の人と入居している人が出している店だ。立って歩ける人もいれば車椅子に座っている人もいる。みんな笑顔でニコニコと笑っていた。外に出ると、辺りは暗くなっていた。「どーん」花火が打ち上がった。赤や黄色の花火が開き、破片が降ってくる。それほど花火との距離が近い。一番大きな花火に歓声が上がる。やまゆり園の人たちの声も聞こえた。笑って見ている人もいる。歓声をあげて見ている人もいる。中にはただぼーっとしながら見ている人もいた。僕も笑って花火を見た。お店で買った焼き鳥や焼きそばを食べながら、みんなで楽しく話す。隣に立っていたやまゆり園の人にもこちらに座ってもらってみんなで花火を眺める。毎年そんな夜が僕は楽しみだった。

だが、あの事件が起きてしまった。僕はそのとき三重県の祖母の家にいて、朝になるまで事件の事を知らなかった。家から数百メートルの所で起きた事件を。犯人は「障がい者は不幸しか生まない」と言って返事ができない人から殺していったという。だがこんな事があった。

その日僕は、友達の家に遊びに行こうとしていた。そこで散歩をしているやまゆり園の人たちと会った。自分で立って歩いている人もいれば、職員の人に支えられている人もいた。自分で歩いている人たちは職員の人と話をしていたが、支えられながら歩いている人は職員の人が何か話しかけても何もしゃべっていなかった。

僕は「こんにちは」とあいさつをした。歩いている人たちもあいさつをしてくれた。だが支えられて歩いている人は僕にあいさつを返す事は無かった。しかし、そんな支えられている人も、僕には笑っているように見えた。

また母からこんな話を聞いた事がある。生まれつき障害を持っていない人でも、歳をとると体が動けなくなる人もいる。ベッドの中で誰かが横に動かすと、その姿勢のまま、本人は動く事ができない。それどころか、しゃべる事も表情を変える事もできなくなるらしい。だがそんな人でも好きな音楽をきくと泣いたりする事があるそうだ。動く事はできなくても、心の中では考えているし、感じている。だがそれは周りの人には判断できない。その人が考えている事は本人にしか分からないはずだ。それはやまゆり園の重度の障がいを持った人も同じなのではないだろうか。

だが犯人は、返事をしないという理由で殺していった。

本人にしか分からない事を他人が決めるのはおかしい。障がいがあるからと言って「不幸しか生まない」と言うのもおかしい。やまゆり園にいろいろな人がいるように、世の中にもいろいろな人がいる。誰にも苦手な事があるし、得意な事がある。「障がい者」という区切りではなく、一人の人として見なければならないと思う。

花火大会でにこにこと笑っていた人、歓声を上げていた人、ボーッとしながら見上げていた人。そんな人たちの顔を僕は忘れることができない。支えられながら歩いていた人。みんなに価値がある。人の価値を決められる人は誰もいない。だから僕は、相手の価値を勝手に決めず、相手の価値を互いに尊重しあえる社会であってほしいと思う。

「障害を持つ自分にできること」
神奈川県藤沢市
中学3年 大石健太

僕は世間で言うと障害をもつ人間である。ただ僕は障害者認定は受けていない。認定される程の障害ではないのが正直なところだ。でも重い障害ではなくて良かったなんて思ったことは一度もない。僕にとっては軽度、重度は関係ない。僕は障害があるということが事実だからだ。僕は「健常者」として生まれた。両親から聞いたところによると一才三ヶ月の時に突発性発疹が原因で急性脳症になり、そして左片麻痺の後遺症が残った。その後リハビリのため小学校六年生まで療育センターに通った。療育センターにはさまざまな障害を持った子どもたちが通っている。たぶん僕自身障害をもたなければ一生行くことはなかっただろう。通っている子どもはそれぞれ希望をもって一生懸命だ。僕が以前まで通っていて通っていない今感じることは、障害者は健常者より生きることに一生懸命だということだ。例えば苦しい時怒っている時うれしい時表現の仕方はそれぞれあるがみんな生き生きしていた。表情に魅力があった。人間味もあった。そして障害者、先生も笑顔だった。僕も療育センターでは坂道を歩く練習、ひもでちょうちょ結び練習、片手リコーダーなど、日常生活、学校生活に必要な訓練をした。

世の中には障害者になりたくてなっている人なんて一人もいない。僕も障害をもったことで障害者の気持ちが健常者より少しだけ分かる気がする。僕も本当は障害なんて持ちたくなかった。みんなと同じように普通にリコーダーを吹きたい。鉄棒やマットもたくさんやりたい。定規を使って図をキレイに書きたい。両手を振って走りたい。悔しい思いを何度もした。あの時、病気にならなければと何百回、何千回思ったかわからない。

でも誤解されたくないのではっきりと言っておきたい。障害は悪いことばかりではない。僕は障害をもってしまった僕は心優しい友人たちにたくさん出会えた。僕の周りの友人達は、僕の障害のことを笑ったりする人はいない。逆に僕が困っていると一緒に作業してくれたり教えてくれたりする。確かに失ったものはあったが障害があったからこそ得たものがたくさんあると思う。僕はそう思って生きている。僕以外の世の中の障害者の人もきっとそうだ。そうであってほしい。

昨年の相模原でおきた障害者施設事件のひこくが「障害者は不幸しか作らない。」「障害者はいなくなればいい。」といっていたがそれは決して違う。障害者も一人の人間である。健常者と平等であるべきだ。平等の健利がある。まだ障害者に特別意識をもった人がいる。でもあきらめないで差別意識をもった人と向き合っていく必要がある。僕も常にポジティブな方向にエネルギーを費やしていきたいと思っている。障害のある人の魅力を発信していきたと思っている。そうしていくことで「障害者」「健常者」の2つの円の重なる部分が多くなっていくと思う。そして社会が変わっていくと思う。

2020年江の島で五輪がある。僕は高校三年生だ。その時の僕に何が出来るか?考えただけでもワクワクする。少なくとも一つは決まっている。それは障害者のためにボランティアとして活躍することだ。

黒岩祐治知事
2017年07月 更新

2017年7月に相模原市で行われた追悼式で、事件を受けて神奈川県が定めた「ともに生きる社会かながわ憲章」を黒岩祐治知事が朗読する際に述べたメッセージです。19人の生前のエピソードが、黒岩知事が亡くなった人たち1人1人に呼びかける形で伝えられました。

私は、本日の追悼式の開式に先立ち、ご参列くださったご遺族の皆様にお会いしました。そして、園の職員から、お亡くなりになった方々の様子をお聞きしました。いろいろな個性を持った人生がそこにありました。

新年会で和太鼓演奏を楽しんでいたあなた
風邪を引かないよう気をつけていたあなた
寒い冬のラーメンを楽しみにしていたあなた
家族と一緒に美味しそうにお寿司を食べていたあなた
満開の桜の中で甘酒を楽しんでいたあなた
お天気がよい日の日向ぼっこが好きだったあなた
さくらんぼ狩りを楽しんでいたあなた
行事でご家族と一緒に美味しいお弁当を食べていたあなた
小学生と二人三脚をがんばったあなた
素敵な作品作りをしていたあなた
お母様から素敵な水着をもらって喜んでいたあなた
とても我慢強くて笑顔が素敵なあなた
ジャガイモ掘りをがんばっていたあなた
夜空を彩る花火を仲間と一緒に見上げていたあなた
盆踊りの炭坑節が好きだったあなた
家族からの誕生日プレゼントを楽しみにしていたあなた
お祭りの屋台が大好きだったあなた
大晦日の年越しそばを楽しみにしていたあなた
いつもご家族と新年を迎えていたあなた

あなた方のことを、私たちは決して忘れません。

イラストレーター ヨネヤマ タカノリさん

イラストレーター
ヨネヤマ タカノリさん

2017年02月 更新

NHKが取材した19人の方々のエピソードなどを元に思い出の品をイラストにしました。ご遺族から承諾を得られた方については、似顔絵を描きました。
幼いころから母親が働いていた障害者施設をよく遊びに訪れ、障害のある人たちとふれあってきました。
亡くなった方々のエピソードを元に、障害のある人たちが見せるこまかな表情や雰囲気を大切に描きました。被害に遭われた方は私たちと同じように怖い思いもするし、痛くも感じるはずです。容疑者の言葉は、本人や遺族にとって、今までの人生や一緒に過ごしてきた時間までが否定されているように感じます。19人の方々が生きていた時間やストーリーを少しでも絵で表現したいと考えました。

津久井やまゆり園 家族会「みどり会」会長 大月和真さん

津久井やまゆり園
家族会「みどり会」会長
大月和真さん

2017年02月 更新

事件後、亡くなられた19人のうち、13人の葬儀に参列させていただき、ご遺族ともお話をさせていただいてきました。
何でこんなことになってしまったのか、なすすべもなく命を奪われ、傷つけられた方々の無念さを思うと、本当に悔しくてなりません。
10月に園で開催したお別れ会では、あるご遺族から、「これまで家族全員で姉を守ってきました。守っていたようで、実は、姉に我々家族が支えられていました。ハンディキャップのある姉でしたが、私たちにとって、かけがえのない大切な家族でした」というメッセージをいただきました。
また、ある方からは、「おばあちゃんから、この子は宝だから大事にしろと言われてきて、ずっとこれまでやってきたんですよ」というお話を伺いました。一方で、中には事件のことを思い出してしまうので、「津久井やまゆり園」という言葉を聞きたくない、電話もしないで欲しいという方もいらっしゃいます。
私自身は、ご遺族おひとりおひとりからお話を伺ったことで、ご遺族とも、ある意味で心がつながっているように感じています。

ご遺族が匿名での発表を希望されたことについては、理由は様々あると思いますが、亡くなられた19人のご遺族、それぞれが皆、かけがえのない家族を失い、まだ心の整理もついていない状態です。そうした中で、静かに暮らしたい、騒がれたくないという思いも強いのではないでしょうか。また、知的障害について世間の理解が広がっていない中で、何を語ったらいいのかわからないという難しさが、語ることをためらわせている部分もあるかも知れません。私の息子は、被害に遭いませんでしたが、もし息子が同じようなことになっていたらと思うと、ご遺族の心情はよく理解できます。
ご遺族もいずれは語ってくださるときが来るかもしれませんが、それには、まだ時間が必要だということもご理解いただけたらと思います。

ご意見をお寄せください

相模原障害者殺傷事件についてのご意見や、
亡くなられた方へのメッセージを募集しています

PAGE TOP