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東日本大震災から10年【1/3】住民主体の話し合いによる集団移転(宮城県・岩沼市)

東日本大震災から10年【1/3】住民主体の話し合いによる集団移転(宮城県・岩沼市)

2018年6月14日更新

東日本大震災の後、被災地では、若者の流出、人口減少、孤独死など、従来あった課題が加速。同時に新たな問題も浮かび上がってきました。これらは、日本全国の地域社会が抱える問題でもあります。震災からの10年、課題に正面から向き合い解決に取り組んできた住民の方々、アドバイスを送ってきた専門家の方々とともにこの10年を振り返り、これからの日本社会が進むべき道を探っていきます。

パネリスト

  • 石川幹子さん中央大学教授
  • 勝部麗子さん豊中市社会福祉協議会コミュニティーソーシャルワーカー
  • 結城登美雄さん民俗研究家
  • 内橋克人さん経済評論家

司会:山本哲也(NHKアナウンサー)

内橋さん:この10年、長かったですね。あるいは あっという間でしたね。この巨大複合災害は、働く場と暮らしている場所、人々の生きる・働く・暮らす、すべてを苦しいものに追い詰めてしまったなあと思います。たとえば被災地で加速した、孤独死の問題にしても、過疎の問題にしても、いずれも先進国であるがゆえに襲われる課題ですよね。日本は、 課題先進国です。そうした仲で、さまざまな課題を解決していくモデルを示す。これはとても大切なことですし、私たちの社会が突きつけられている宿命でもあると考えます。


司会:ではまず、被災地の一つ、宮城県岩沼市が抱えた課題を見ていきます。ここでは、津波で被災した沿岸部の集落の人たちが、内陸部に集団移転することになりました。

東日本大震災の被災地では100戸以上の大規模な集団移転が32か所計画されました。 その際どこに移転するのか、どんな町にするのかなどをめぐって、多くの混乱や対立が各地に生まれました。 その中で岩沼は「集団移転のトップランナー」と呼ばれました。岩沼市の集団移転事業を支援してこられた中央大学の石川さん、支援にあたってどんなことを大切にされたんでしょうか。


石川さん:いちばん大事にしたことは、おひとりおひとりの思い、考えていること、心の中にあるものを、まず出してみようと。 そしてとことん話し合ってみようと。その時に一つだけみんなで約束をしました。 決して相手のことを批判しないということです。 そうすることによって気持ちが一つになるんですね。これがいちばん大事なスタートだったというふうに思います。

住民が主体となって実現した集団移転(宮城県岩沼市)

2011年3月11日。8mの津波が岩沼市の沿岸部を襲いました。海岸沿いにあった6つの集落は壊滅。死者・行方不明者は181人にのぼりました。6つの集落に住んでいた人々は、ここに住み続けることはできないと、話し合いの末、海岸から3キロほど離れた内陸部に集団移転することに決めました。移転先として岩沼市が確保したのは、住宅地に隣接する、およそ20ヘクタールの農地。新しいまちづくりの議論が始まりました。


震災から8ヶ月後。どんな新しい町を作るかイメージを共有するため、住民たちは、移転先の周辺の地域を歩いて回ることにしました。呼びかけたのは、岩沼市出身の都市計画の専門家・石川幹子さんでした。
参加者の注意を引くものがありました。この地方でイグネと呼ばれる防風林です。イグネは、江戸時代以来、家々を北西の冷たい風から守ってきました。こうしたふるさとの景観を新しい町にどう残すかも、課題として浮かび上がっていました。

次に、どんな町にしたいか、住民たちはグループに分かれて自由にアイデアを出し合いました。ユニークな意見が飛び出します。


参加者: 「やっぱり観光というものを考えていかなくちゃ。せっかくかさ上げ工事して高台を作るんだから、たとえばピラミッドを作って欲しい。もしピラミッドが見えたら、人が必ず寄ってきますよ」

参加者: 「将来的に金を生むもの。日本一のゴミ焼却場持ってくるとか」

石川さん: 「みんな好きなことを自由に言う。たとえ支離滅裂でもなんでもいいんですよ。まず出さない限り見えてこない」

実はこのやり方、ほかの集団移転とは大きく異なるものでした。多くの地域では自治体が町作りの青写真を作り、住民に意見を求めます。一方、岩沼では白紙からスタート。しかも自治体は初め話し合いに加わらず、住民同士の議論にゆだねたのです。
石川さんは、さらに様々な立場の住民の声を集めるため、仮設住宅を回りました。特に、ふだん声を上げにくい女性や若い世代の意見を聞くようにしました。
さまざまな立場の人達と話し合いを重ねた末、新しい町のイメージを建設予定地の地図の上に描いてみることにしました。


参加者: 「子どもは自分で発想して遊ぶので、広場」

参加者: 「ベンチとかあればみんなで子どもたちを見守れるし、みんなで一つの場所にいるというのはすごく理想的な感じかな」

参加者: 「その周りにイグネを、その中に散歩道路も作って。子どもたちも寝転んで遊べるような芝生がある。そういう公園になってほしいな」


イメージが膨らんでいきます。みんなの憩いの場となる芝生の公園に広場。そして町を取り囲むイグネ。ついに、緑豊かな町のイメージができあがりました。

話し合いの場で、芝生の公園を提案していた中川さんには、ある考えがありました。震災後、多くの若い世代が町を出て行きました。再び町に子育て世代を呼び込むためにも、中川さんは、新しい町に子どもが遊べる芝生の公園を作りたいと願っていました。


中川さん: 「子どもがたくさんいて、たくさんにぎやかな声が聴こえればいいな。そうなるように、町をつくんないとね」


震災の翌年の2012年6月から、岩沼市は、正式に新しい町について議論する「まちづくり検討委員会」を発足させました。6つの集落から、若者や女性を含む住民代表が参加し、どんな町にするか、行政と具体的に計画を詰めていきます。石川さんなど有識者も議論に参加しました。ずっと話し合いを続けてきた住民たちは、町作りに対して、既に自分たちの意見を持っていました。

話し合いを重ねた後、岩沼市は、議論の成果を模型にまとめました。町の4カ所に、住民たちが希望した芝生の公園が配置されました。町を取り囲むように防風林のイグネも作られていました。


中川さん: 「回を重ねていくと、自分たちで町をイメージするようになった。あ、これは俺たちが作る町でねえかな、俺たちが作り上げる町でねえかな。そう思ってきたのね。」


しかし、新しいまちの計画づくりが最終盤を迎えた翌年、市は計画の一部を突如変更しました。芝生にするはずだった公園の大半が土に変わっていました。町を取り囲むはずだったイグネは、防風林としては機能しない街路樹になっていました。市の見解は、「住民の思いは理解するが、市内に芝生の公園はほとんどなく、税金で整備する以上、ここだけ特別扱いにはできない」というものでした。


中川さん: 「ここ違うじゃん。ここで子どもたちに遊んでもらいたいのよ。ボール蹴ったりなんかして。長い目で見てさ、こんな土の硬いものにしたら、ホントに後で失敗したなあってなるよ。」

市職員: 「このお金自体が増税で賄われてるんで、そこも理解して欲しいんです」


結局、市は、「公園の全てを芝生にしたり、イグネを設けたりしたいのなら、住民自身で芝や木を植えて管理もしてほしい」と住民に伝えました。
市の方針は、仮設住宅に暮らす住民の間で議論を呼びました。自分たちで芝やイグネを植えて管理することが、本当にできるのか。
住民たちは結局、負担を覚悟で、自分たちで芝やイグネを植えることを決めました。

新しい町の姿が見え始めた2014年8月、造成された公園に芝生を植える作業が、住民総出で行われました。芝生の苗は、支援団体の寄付を受けました。風の強い町の西側では、住民たちがイグネを植えていました。住民たちが責任をもって、これから芝生とイグネの管理をしていきます。
岩沼市の集団移転事業で生まれた、新しい町への住民の入居が完了したのは2015年9月。大規模な集団移転としては  被災地の先陣を切って、人口1,000人の町が誕生しました。
震災から10年が経とうとしていた2020年末。新しい町で、イグネの枝打ち作業が初めて行われました。大きく育ったイグネの枝打ちを、住民たちが共同作業で行います。新型コロナの影響で集まる機会が少ない中、久々の共同作業です。

森博さん(玉浦西まちづくり住民協議会会長): 「コミュニケーションが楽しみ。みんなでいろいろ話し合って近況を話しあったりするのが。みんなで希望してイグネ作ったんだから、維持していかないと。いつまでもね。」


芝生の管理も中川さんたち住民が担い続けています。


中川さん: 「やっぱり子どもたち喜んでるわ。行政主導じゃなくて我々住民が中心に真剣になって話し合いして進めていったから、できるだけいい町にしようという愛着があるんですよ」

司会:いち早く集団移転が実現した理由は何だったんでしょうか。


石川さん: コミュニティがしっかりしてたのが一番だったと思います。 ていねいにていねいに話し合って、 もう120回とか(話し合いを)やってると思いますよ。「急がば回れ」ではないですが、それに尽きると思います。


玉浦西まちづくり住民協議会の方たち:もう10年になったかなあと思ってます。イグネ、芝刈り、芝の管理を通して共同で同じ作業をする。そんな中からお互いに会話が生まれ、コミュニティが生まれ、つながっていくのかなあと思います。 ですからこの共同作業っちゅうのがね、なくてはならない作業だなあと思っております。

石川さん: イグネ、すごいですよね。やっぱり昔からあったので、当たり前の風景だったんです。それがふるさとの持っている文化だったと、みんなが気付いたと思うんです。ご先祖様から受け継いできた文化を未来につないでいくという。今そういうところに皆さんが誇りを持ってらっしゃるんじゃないかなって気がいたします。


内橋さん:人々が決してお互いに非難をしない。そして次の段階へと足を進めていく。やれる人がやれることをやれる時にやる。これが住民参加の一番大きな可能性を開く道だと思うんです。 そういう人々の営み、努力。涙ぐましいその一つ一つの積み重ね、それが「自治」であると思います。公というのは、主導して引っ張るんではなく、サポートしていくのが役割ではないかと思うんです。政府や行政が公として担うべき役割、使命を本当に果たしているのか。 いつも問い直す、問い続ける。それが大切ではないかと思うんです。