ことばウラ・オモテ

冬将軍

暑いさなかに、「冬将軍」の話はいかがなものかと思いますが、少し気になることがあって取り上げます。

冬の厳しい寒さを「冬将軍到来」「冬将軍きたる」「冬将軍の訪れ」などと表現することがあります。これは、いわば直訳的な表現の一つです。英語で言うと「General Frost」(霜将軍)になります。

ところが、これがイギリスのことかというと、フランスのナポレオンにまつわる話なのですから、少しややこしいわけです。

1812年といいますから、日本では文化9年、幕末の江戸文化が花開いていた頃です。ナポレオンがロシアに攻め込もうとして、夏になる前に軍を進めました。ロシアは、フランスのナポレオンの攻撃をかわし、モスクワが占領されても合戦には持ち込みませんでした。その年は、冬の訪れが早く、夏装備のナポレオン軍は、10月には撤退を余儀なくされます。兵站(へいたん)線が伸びきって、防寒服や食料、弾薬の供給が間に合わず、大軍を維持することができなくなってしまったのです。ロシアは、みずからの兵力は温存し、ナポレオンを撃退したことになります。実際は、ロシア軍の焦土作戦を主とした、撤退するナポレオン軍への追い打ちが勝因だったのかもしれません。この様子をイギリスの新聞記者が、ロシアの「厳しい冬」、つまり「冬将軍」にナポレオン軍は敗れたと、たいそう文学的に表現したのが語源です。

「霜将軍」を「冬将軍」としたのが誰かは定かではないのですが、名訳の一つと言えましょう。日本では、元寇(げんこう)の「神風」とよく似ていますが、擬人化したところに命名の妙があります。

余談ですが、チャイコフスキーの「大序曲1812年」は、ロシアにとっての「大祖国戦争」をうたった名曲です。

「冬将軍」はナポレオンだけでなく、ナポレオンの敗退からおよそ130年後、第二次世界大戦のヒトラーによるソビエト攻撃のときも活躍しました。バルバロッサ作戦、タイフーン作戦と続く、ナチスドイツのソビエト攻撃は、当時のソビエト軍の強力な反撃と、ドイツ軍の冬装備が間に合わなかったほどの急激な寒さで、頓挫します。

自然の力には、強力な軍隊でもかなわないということで、「冬将軍」は再び有名になります。非人道的な戦いぶりで悪名高い「武装SS」も冬将軍には勝てなかったというわけです。

「冬将軍」はこのような血なまぐさい戦争の時代に生まれ、多くの命を奪ったこともあるということが徐々に忘れられ、俳句の季語にも採用されるようになりました。

ヨーロッパの地理と歴史に根ざしたことばであり、あまたの人の命を奪った軍隊指揮官に匹敵する「冬」を想像できないということが、日本語の中で「冬将軍」をいっそう抽象的なことばにしてしまったのではないでしょうか。

「冬将軍」があるなら、「夏将軍」もというのは、しゃれの世界では上出来です。しかし、ちょっと抵抗があるかもしれません。

太平洋戦争では、日本軍はインパール作戦、ポートモレスビー攻略、バターン半島などで多くの兵士が倒れ、現地の人々にも多くの犠牲を強いました。

南方の「夏将軍」に日本軍は敗れたというのは聞かない表現ですが、本来の「冬将軍」に対する語として考えるなら、南方戦線の日本軍の状況が思い浮かびます。

ことばが生まれたもともとの状況が忘れられて、意味や使い方が別のものに変わることは珍しくありません。

「作戦」「戦略」「将軍」「攻撃」「有事」「兵卒」などの軍事用語が本来のものから、別の使い方に変わることは世の中がそれだけ平和になったと言うこともできますが、また巡ってくる終戦の日に、これらの軍事用語がどのような背景を持っていたかと、もう一度考え直してみるのはいかがでしょうか。

法律を超えた「戦陣訓」の中の「生キテ虜囚ノ辱メヲ受ケズ」というひと言のために、どれだけの命がむだに失われたのかという苦い思い出があります。「ことばが命を奪う」こともあった過去を思わずにはいられません。

(メディア研究部・放送用語 柴田 実)