「南方放送史」再考③

激戦地における放送工作とその潰散~フィリピンとビルマを例に

公開:2021年5月1日

太平洋戦争下、南方の占領地で日本軍が行った放送について検証する本シリーズ。今回は、フィリピン(比島)とビルマ(緬甸、現ミャンマー)で行われた放送工作の実態を考察した。
日本軍が1942年1月にフィリピンのマニラを、3月にビルマのラングーンを占領して以降、放送工作のために次々に日本放送協会から職員たちが派遣された。フィリピンでは「比島放送管理局」のもとに、1942年1月14日にマニラ放送局、1943年11月1日にセブ放送局、同年12月20日にダバオ放送局が開局し、ビルマでは「緬甸放送管理局」のもとに、1943年1月25日にラングーン放送局が開局した。欧米植民地体制の打破とアジア解放を旗印に、両地域では「現地住民の宣撫」と「対敵宣伝」に注力していくことになる。フィリピンでは音楽を中心とした現地住民向けの放送と米比軍への対敵放送、ビルマでは日本文化の浸透を狙った現地住民向けの放送とインドへの対敵放送が行われた。
しかし、両地域はとくに激戦地で、比島放送管理局でも緬甸放送管理局でも終戦の詔勅を放送することができていない。しだいに戦況が悪化するなかで、日本放送協会の職員たちは山中に逃げまどい、あるいは戦闘要員となって、その多くが殉職した。大東亜共栄圏構想の浸透のため文化工作に加担した南方占領地の放送局は、その目的を果たすことなく多くの犠牲者を出して、潰散したのである。

メディア研究部 松山秀明

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