戦前・戦時期日本の放送規制

―検閲・番組指導・組織統制―

公開:2020年1月30日

戦前・戦時期の放送規制をめぐっては、社団法人・日本放送協会が人事や予算面で政府の統制下に置かれ、さらに、検閲によって番組内容についても厳しく統制されたといった形で整理がなされることが多い。しかし、この間、政府と放送協会との関係は一定ではなく、検閲の実態も時期による差異が見られる。このため本稿では、放送開始から太平洋戦争終結までを、▽1925年~1934年、▽1934年~1937年、▽1937年~1945年の3期に分け、監督官庁(逓信省、情報局)や放送協会の文書などに拠りつつ、放送規制の変化とその要因について検討した。
まず、1930年代初めまでは、各地に置かれた放送協会の支部の独立性の高さもあって、中央からの統制が効きにくい状態にあった。規制は、逓信省の出先機関(逓信局)によるニュース原稿や台本の検閲が中心だったが、地方では体制が手薄で、指摘事項に反した放送が行われた際の遮断措置も不完全だった。
このため、1934年に逓信省主導で放送協会の機構改革が図られ、支部制が廃止されるなど組織面の中央集権化が図られた。さらに全国向け番組の決定に逓信省が関与する仕組みが設けられ、国策に沿った番組編成が可能となった。他方、放送現場に近い場所で行われる検閲は、風俗壊乱の防止や不偏不党の維持といった消極的規制にとどまった。
しかし、1937年に日中戦争が始まり、総力戦体制が進展すると、監督当局からは積極的に番組指導を行うべきとする見解が示されるようになり、監督当局と放送協会の関係も、監督・被監督の関係から、両者が協力して国策に合致する情報を発信していくものに変化した。あわせて内容規制の重点は、検閲による風俗壊乱などの取締りから、戦争目的に沿った番組指導に置かれるようになった。
こうした経緯からは、放送規制は、検閲のみによるのではなく、組織面に対する統制と組み合わされて機能してきたことがわかる。とりわけ放送協会の中央集権化や、監督当局と放送協会との関係の変化は、規制の実質的な内容に影響を及ぼした。戦時下、国策に沿った放送がなされた要因を考える上では、検閲に代表される内容規制にとどまらず、それ以外の間接的な規制も考慮に入れる必要がある。

メディア研究部 村上聖一

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