文研ブログ

調査あれこれ 2021年01月22日 (金)

#294 江川と銚子商業と、親父の1973夏

メディア研究部(メディア動向) 大髙 崇


現在、コロナ禍を契機として昨年春から激増した再放送(総集編なども含むアーカイブ番組の再利用)についての調査研究を行っています。
(※昨年の11月25日12月25日のブログもご参照ください)
今回は、この研究をしようと思った動機のひとつについて書きたいと思います。ただ、とてもローカルでプライベートな話なのでお目汚しにならないといいのですが・・・。

「きょうの、BSの、江川と銚子商業。見たか?」
昨年(2020年)、6月14日の午後。
実家を訪ねた私に、82歳になる父親が興奮気味に話しかけてきました。

その日の午前中にNHK・BS1で放送されたこの番組のことです。
『あの試合をもう一度!スポーツ名勝負 1973夏 銚子商×作新学院 “怪物江川 最後の一球”』

のちに読売ジャイアンツのエースとして活躍した江川卓選手。1973年、作新学院(栃木県)の投手だった頃は、豪速球で三振の山を築き、高校野球界で「怪物」の異名を轟かせていました。
その江川投手の、夏の甲子園最後の試合が、2回戦での銚子商業(千葉県)との一戦。
0対0で迎えた延長12回裏、満塁のピンチでフォアボールを与え、押し出しサヨナラで作新学院は敗退したのです。

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番組は、当時の試合の中継映像(しかもモノクロ!)を、初回から試合終了まで、ほぼ全編放送していました。

千葉県銚子市に近い街に住む父親は、この試合をリアルタイムで見ていました(47年前、父・35歳の夏)。
父親にとって、「黒潮打線」で鳴らす銚子商業は地元の誇りであり、怪物・江川を攻略したこの一戦は、数え切れないほど見た高校野球の中でも最も印象深い思い出のひとつでした。

その前年(1972年)、銚子市の球場で銚子商業と作新学院の試合が行われ、父親は観戦に行ったそうです。黒潮打線は江川の豪速球にまるで歯が立たず、次々と三振を重ね、満員の観客席で呆気にとられたとか。その日の銚子の海風の酷さも手伝って、途中で帰りたくなったと言います。
その悔しさもあって、翌年の甲子園で、ついに宿敵・江川に勝利した試合をテレビで見ていた時の緊張と興奮の記憶が、47年ぶりに蘇ったようでした。

さらに、銚子商業を率いた名将・斎藤一之監督が地元の人々にどれほど尊敬されていたか、漁師町・銚子のあの頃の活気、仲間たちとの思い出・・・。父親は実に機嫌よく、饒舌に語りました。
挙句の果てに、「いいもの見せてもらった。ありがとう」と私に礼まで言う始末。この番組の放送に私は何ら関わっていないのですが、そこはまぁ、これも一つの親孝行ということにして、曖昧に照れ笑い、といたしました。

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でも私はつい、「結果がわかっている試合を、最初からずっと見せられるのでは途中で飽きてしまうだろう。延々と0対0のままだし」と水を差してしまいました。

コンパクトに編集したダイジェスト版のほうが見やすいのではないか
、と思ったのです。

しかし、これを父親はきっぱり否定しました。
「いや違う。あの時、俺が見ていた『そのまま』がいい。その時の気分に浸れるからいいんだ。あれやこれや、じわじわ蘇ってくるのがいいんだよ。短くされちゃこうはいかない。気分が乗らないよ」

そう言われた私は、再度この番組を全編見直してみました。すると、いろいろと発見があって面白いことに気づきました。

平日で天気が悪く、2回戦であるにも関わらず、球場は56,000人の超満員。外野席、センターのバックスクリーンにも観客があふれて、当時の江川人気が実感できます。
この日、江川の調子は万全ではなく、たびたびピンチに陥ります。ただ、ここぞという時にはギアチェンジして剛速球を投げ、ピンチをしのいでいました。銚子商業の粘り強い攻撃と、雨。江川は明らかに消耗し、敗戦に至ったことがわかります。

再編集によるダイジェスト版では伝わらない時間の流れや細部は、リアルタイムで見ていた父親には臨場感とともに記憶を生き生きと蘇らせ、私には新鮮な発見をもたらしました。
結果がわかっているスポーツ中継であっても、あえて編集しない良さに気づきました。
昔の番組を放送で再利用する場合、「本編そのまま」「再編集・ダイジェスト」など、どのような作り方が望まれるのか。この時の父親とのやりとりも、再放送の調査研究に取り組む動機になった、という次第です。お粗末様でした。

再放送に関する調査研究の内容は、「文研フォーラム2021」で、また、まもなく発行の『放送研究と調査』2月号でもお伝えする予定です。どうぞお楽しみに!