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放送ヒストリー

放送ヒストリー 2020年07月24日 (金)

#261 『おかあさんといっしょ』の60年① ~"婦人課"の女性職員たち~

メディア研究部(番組研究) 高橋浩一郎


 昨年、『おかあさんといっしょ』が放送開始60年を迎えました。NHK放送博物館ではこれを期に、7月4日~9月27日にかけ企画展『~パパもママもみていた!~おかあさんといっしょ』を開催しています。また「NHK放送文化研究所年報2020」では、幼児と保護者から根強い支持を得続けている同番組の歴史をまとめた論考「NHK幼児向けテレビ番組の変遷」を掲載しています。
 文研ブログでは、『おかあさんといっしょ』に関わるテーマについて、3回にわたって紹介したいと思います。1回目は、『おかあさんといっしょ』を開発した女性職員たちについてです。

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ラジオ番組『若い女性』

 これは、ラジオ番組『若い女性』のスタジオの様子を撮影した写真です。『NHK年鑑1950』によると、『若い女性』は、1950年から週1回日曜日に放送された、「いわゆるティーンエイジャーと呼ばれる年齢層」に向けた教養番組で、「情操を養うもの、思考力を養うもの、実際生活に役立つもの」など、世の中のさまざまな話題をマガジン形式で紹介していくという内容でした。

 番組開始時の出演者は、編集長役が「小川やよい(写真左)」、助手役が「真木陽子(写真右)」。どちらも番組用の架空の名前で、「小川」は放送劇団の尾崎勝子さんが、「真木」は当時高校2年生だった小森美巳さんが演じていました。小森さんは後にNHKに入局し『おかあさんといっしょ』の立ち上げに関わられた方で、今回お話を伺いました。
 『若い女性』は、ディレクターが作成した台本を元に進行しますが、視聴者と同世代のリアルな声を番組に反映させるために、わざわざ一般の高校生から出演者を募ったようです。小森さんが出演することになった経緯は、所属していた高校の演劇部にオーディションの話があり、誰も受ける者がいないので、しょうがなく足を運ぶことになったのだといいます。

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小森
美巳さん

小森 きれいなお姉さんばっかり、新劇の研究生だったんじゃないですか、
ずらっといらして。私はほこりくさいセーラー服に運動靴で、こんな髪の毛ぎゅーって縛って、そんな人一人もいなかったですよ。何か読んだと思うんだけど、全然覚えていなくて、それで帰ってきちゃったんですね。そしたら、学校から「あなたになったそうよ」と小谷さんのところに行くように言われて、聞いてみたら「一番元気がよかったからね」とおっしゃったんで、もうびっくりしたんですけど。

 “小谷さん”というのは、『若い女性』を担当していた“婦人課”のプロデューサー小谷節子さんのことです。小森さんはその後、1955年に入局、ディレクターとして“婦人課”で小谷プロデューサーと再会します。そして1959年『おかあさんといっしょ』を共に立ち上げることになったのです。(番組立ち上げ当時の部署名は“婦人少年部”。)

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小谷節子さん(故人)

 最初の写真ですが、スタジオの壁に書かれた「CI&E(連合軍民間情報教育局、以下CIE)」の文字から、まだ占領下の放送であったことが伺えます。連合軍総司令部(GHQ)が発した日本民主化の五大指令のうち、最初に掲げられた項目が「婦人の解放」です。初期のCIEの中には、進歩的な考えを持つ人材が多数いて、“理想的な民主主義国家”を日本に作ろうとしたと言われていますが、その実現に「婦人の解放」は欠かすことができない要件だったのです。
 女性を差別する風潮が色濃く残る日本で、放送を通じて、民主化を担う女性を教育するという役割を負ったのが“婦人課”でした。婦人課が誕生したのは1948年。初代課長・江上フジはNHK初の女性管理職で、協会内の女性の地位向上に尽力。翌年には、課の9割を女性が占めるようになり、女性自身の手によって『婦人の時間』『主婦日記』『勤労婦人の時間』など数多くの女性向け番組が作られました。
 『おかあさんといっしょ』も「婦人の解放」実現に取り組んだ、“婦人課”の女性職員たちの手によって生まれた番組の一つなのです。


参考資料
飯森彬彦「『婦人の時間』の復活」『放送研究と調査』(1990.11)
飯森彬彦「『婦人課』の誕生」『放送研究と調査』(1990.12)
武井照子『あの日を刻むラジオ』(2019)集英社
広谷鏡子「「放送ウーマン」が見てきた戦中・戦後」(2015.7)

放送ヒストリー 2020年06月09日 (火)

#253 資料で振り返る番組制作者 吉田直哉

メディア研究部(メディア史研究)村上聖一

 

 今となっては「懐かしの番組」になってしまうかもしれませんが、1970年代から80年代にかけて放送された『未来への遺産』(1974~75年)や、『NHK特集』の「ポロロッカ アマゾンの大逆流」(1978年)、「21世紀は警告する」(1984~85年)といった番組をご記憶の方もいらっしゃるかもしれません。
 これらを含め、20世紀後半のNHKを代表する数々の番組を生み出した吉田直哉(1931~2008)の遺した番組関連資料が、調査・研究での活用に向けて、このほど文研に移されました。

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吉田直哉(2006年、武蔵野美術大学での特別講義から)
提供:武蔵野美術大学 撮影:三本松淳

  数千点に上る資料は、東京都内の吉田の自宅やNHK退職後に教授を務めていた武蔵野美術大学に残されていました。内容は、番組の台本や企画書、セット図面、楽譜、写真など多種多様で、当時の番組制作の実態を浮き彫りにするものです。武蔵野美術大学が2017年に資料を用いた展覧会を開催したのち、今後の活用と保管の方法について遺族と大学、NHKの3者で協議し、番組に関連した資料は文研に移すことになったものです。

 吉田直哉がNHKに入ったのは、ラジオ放送最盛期の1953年(この年、日本でテレビ放送が始まりました)のことで、最初に担当したのもラジオ番組でした。
 写真は、今回の資料の中で最も古いものの一つ、放送開始30年記念番組『音の四季』(1955年)の制作資料です。このラジオ番組は、季節ごとに鳥や虫の声、祭り、物売りなどの音と伴奏音楽を組み合わせて1つの楽章とし、全4楽章で日本の春夏秋冬を描いたものです。こうした音の組み合わせは、このあとの資料でも多く確認でき、吉田が好んで用いた手法のようです。

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『音の四季』(1955年3月20日19:30~20:00・ラジオ第2)関連資料

 番組では日本を代表する現代音楽家、武満徹(1930~1996)らのグループが作曲を担当しました。このとき武満は24歳、吉田は23歳。共に無名の時代から協力しつつ番組制作に当たっていたこともわかります。

 テレビ時代の資料としては、1962年に放送された『日本の文様』の資料を見てみましょう。『日本の文様』は、実験的なコマ撮りアニメーションを取り入れながら、日本で古くから使われている和柄の文様を紹介した番組で、映像と音楽で構成されています。写真は、撮影のようすと、そこで使用された文様です。文様は、黒字の紙に白の「きりぬき紋」を組み合わせて作られています。

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『日本の文様』(1962年6月9日22:00~22:30・教育テレビ)の制作風景と撮影で使われた文様

   この番組でも武満徹が音楽を担当しました。映像の編集が完成すると、武満は、それを秒単位で巻紙に表示してほしいと求めたことから、吉田は、地震計用グラフ用紙に0.5秒単位で映像の変化を書き込んで渡したということです。それをもとに武満が音の流れを書き込んだ用紙も残されていました。

  ここでは、やや古めのものを紹介しましたが、資料には、大河ドラマ 『太閤記』(1965年)や『NHK特集』の「21世紀は警告する」(1984~1985年)、「ミツコ 二つの世紀末」(1987年)といった番組の台本やメモなども多数残されていました。詳しくは、『放送研究と調査』2020年5月号をご覧ください。

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 文研の資料庫(NHK放送博物館内に所在)に保管されている資料

 

 文研に移された資料は、劣化が進まないよう対策を施すとともに、詳細な目録の作成を進めています。資料を眠らせることなく、放送に関する調査・研究、さらには今後の番組制作に向けた活用がなされるよう取り組みを続けていくことが、我々の責務と考えています。

 

放送ヒストリー 2020年05月13日 (水)

#248 テレビドキュメンタリーの技法研究など無意味だとささやく悪魔A,B,Cへの反駁

メディア研究部(メディア史研究) 宮田章

 

『放送研究と調査』4月号5月号では、NHKのテレビドキュメンタリー(TD)の基礎を築いた『日本の素顔』(1957~64の制作技法について論じた。「三つ子の魂百までも」と言うが、『日本の素顔』という初期TDの展開の中で、TD制作の基本的な技法が、すでにかなりの程度出揃っていることがわかる。興味のある方は一読されたい。

 研究と執筆は基本的に孤独な作業なので、心が弱っている時には、TDの技法研究など無意味だと悪魔がささやきかけてくることがある。彼らのささやきと、それに対して筆者が行った反駁をここに記しておきたい。

 

 悪魔Aのささやき:「テレビはメディアだろう。メディアとは「仲立ち」で、自分の関与なしで発生した情報を視聴者に伝えるパイプのようなものだ。テレビ自身が情報を作ってはならん、まして「制作技法」なんぞあってはならん」。 悪魔Aへの反駁:「テレビは確かにメディアの一つだ。しかし歴史的な事実としてテレビ局の中には制作部門がずっと存在しており、そこでは番組制作という情報の生産行為がずっと行われてきた。そこには作り手がいて、様々な制作技法がある。おれはそれを研究しているだけだ。「制作技法などあってはならん」というのはおまえの意見で、「ある」というのは事実だ」。

 悪魔Bのささやき:「テレビは視聴者あってのものだろう。視聴者が求める番組を作ればいいんだ。テレビに主体的な作り手など不要だ」。 悪魔Bへの反駁:「自分に迎合してくるだけの相手を尊敬できるか?テレビ番組の作り手が視聴者には真似のできないアイデアや技法をまだ少しは持っているからこそ、テレビはまだ少しは見られているのではないか?制作技法研究は、テレビ局がまだ少しは持っている「強み」の研究だ」。

 悪魔Cのささやき:「おまえのような制作現場を離れた人間に、ドキュメンタリーの作り方についてあれこれ言われたくない。大学教授や研究者が書いたものが実際の番組制作に役立ったことは一度もない」。 悪魔Cへの反駁:「現場を離れた人間に言われたくないという気持ちは元作り手として理解できる。大学教授や研究者が書いたものが実際のドキュメンタリー制作に役立ったことはないと言いたい気持ちもわかる。しかしそれは日本において特にそうなのであって、海外では、制作現場と研究者をつなぐ客観的な制作技法論が90年代以降盛んだ。日本にもあっていいだろう。「やはり無益だ」と言うのは勝手だが、読んでから言ってくれ」

 

特に眠れぬ夜など、彼らは繰り返しささやきかけてくる。このように言語化することで悪魔祓いとするのである。


放送ヒストリー 2019年12月10日 (火)

#223 カーラジオから聞こえてきたのは・・・

メディア研究部(メディア史)大森淳郎

初任地、富山での思い出です。
ある冬の嵐の日、富山湾岸を雨漏りのする中古のスズキジムニーで飛ばしていました。
何の取材だったか思い出せないのですが、うまく取材が進んでいなかったことだけは確かです。暗い空とうねる波。冬の日本海は、眺めているだけで気持ちが塞ぎますが、仕事もうまくいっていないとなればなおさらです。そんなときでした、付けっぱなしにしていたカーラジオから突然、不思議な女性の声が聞こえてきたのは。

あなたたちは騙されているのです・・・・。

北朝鮮の謀略放送でした。もっと色々なこと(アメリカ帝国主義がどうだとか、日本はその傀儡であるとか)を聴いたはずですが、今でも鮮明に覚えているのは「あなたたちは騙されているのです」という印象的なフレーズだけです。普通なら、笑い飛ばすか、面白い経験を誰に話そうかとニンマリするところですが、そのときはこう思いました。「騙されている?なるほど、そうかもしれないな」。きっと心身ともに疲弊しきっていたのです。
でも、今でもこうは思います。私たちは、北朝鮮の人々(全部ではありません)が騙されていると考えるけど、あちらから見ればその逆なんだろうな。私は北朝鮮の社会がよいものとは思いませんが、価値の体系はいつも相対的なものです。

さて、なぜ、こんな遠い昔の出来事を思い出したかといえば、『放送研究と調査』11.12月号に掲載したシリーズ戦争とラジオ第5回「“慰安”と“指導” ~放送人・奥屋熊郎の闘い~」を書くにあたって、同じようなことを考えたからです。
奥屋熊郎は日本の放送の基礎を築いた1人です。ラジオ体操、野球中継、国民歌謡・・・。奥屋が開拓した放送分野は枚挙に暇がありません。希有な構想力と実行力を兼ね備えた大プロデューサーでした。そしてリルケやベートーベンを愛する芸術肌の人物でした。奥屋は、太平洋戦争の真っ只中の1943年、大阪中央放送局(BK)放送部長の地位を棄てて日本放送協会を去っています。ファナティックな軍国主義に染め上げられたラジオ放送に堪えられなくなったからでした。でも、そんな奥屋ですが、日中戦争から太平洋戦争初期にかけては、BKで戦争の旗振り役を積極的に担っていました。おそらく、日本の社会全体が右に向かって地滑りを起こした1930年代、奥屋自身も、ごく普通の国を愛する1人として社会の地盤もろともに右に転がり落ちたのだと思います、そのことは、奥屋自身には見えない。彼もまた日本という1つの価値体系の住人だからです。でも、だからといって奥屋が免責されるわけではない。彼は社会に大きな影響力をもつメディアの人間でした。大衆に働きかけて、社会の地盤をまるごと右に地滑りさせた1人でもあるのです。

メディアで働く人間も社会の地盤に立っている。でも、ときにはその地盤そのものをメディアが動かす場合もある・・・。そんなことを考えているとき、ふと遠い昔の思い出が蘇ったしだいです。
冬の日本海、なんだか悪く書いてしまいましたが、天気が良ければ海越しに立山連峰を望む絶景です。そして、魚がうまい!


放送ヒストリー 2019年11月15日 (金)

#219 教育テレビ60年を番組のグループごとに振り返る

メディア研究部(番組研究)宇治橋祐之

1959年1月、日本初の教育専門テレビ局として開局したNHK教育テレビは、2019年で開局60年を迎えました。現在は唯一の教育専門局として「教育番組75%以上、教養番組15%以上」という編成比率で放送を続けています。こうした編成の変遷の全体像については『放送研究と調査』2019年1月号「教育テレビ60年 生涯学習波への広がりとインターネット展開」をご覧ください。

教育番組の比率が高いのが教育テレビの大きな特徴ですが、番組の内容をグループに分けてみると、高校講座などの講座番組や語学番組、幼児向けや青少年向けの番組だけでなく、趣味・実用番組、芸術・芸能番組、科学・健康番組、産業・経済番組など、さまざまなジャンルの番組を放送してきました。

また、かつては番組を家庭で見るだけでなく、学校の授業のように集団で視聴する「テレビ市民セミナー」や「市民大学講座」が各地で開かれていたのも、教育テレビならではの特色でした。

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テレビ利用の市民大学講座(1970年代)

放送文化研究所では、教育テレビ40年の際に番組を16のグループに分類して、その変遷をまとめました。それを引き継ぐ形で60年の変遷を『放送研究と調査』10月号から、3回シリーズで連載しています。

それぞれの番組グループごとに60年の番組の変遷を表にまとめてみると、前半の30年と後半の30年では大きな違いが見られました。例えば最初の30年は番組のタイトルが変わらず10年以上続くことも多かったのですが、後半の30年は3~5年ごとに変わることが増えてきました。

タイトルそのものも開局初期の『技能講座』が趣味どきっ!、『日曜大学』が『知る楽』、『婦人学級』が『すくすく子育て』、『社会福祉の時間』がハートネットTVというように、「講座」「大学」「学級」「時間」という、学校の授業や指導をイメージさせるタイトルから、カタカナや擬音を入れた、視聴者の感情に寄り添うものに変化してきています。

近年は「Eテレ」の愛称が定着し知的エンターテインメントを目指す番組が増えてきましたが、教育テレビの60年の変化を知っておくことは、この先の教育メディアで変えるべきものと守るべきもの、「不易流行」を考える上で大切だと思います。


放送ヒストリー 2019年10月11日 (金)

#212 「外地」で行われた放送の記録

メディア研究部(メディア史)村上聖一


戦前から戦時中にかけて、中国大陸や台湾、南洋諸島といったさまざまな場所で、日本語のラジオ放送が行われていました。
NHK放送文化研究所では、1960年代以降、いわゆる「外地」と呼ばれた地域を中心に、放送に関する文書や証言の収集を進め、史料集を編纂してきました(写真)。史料集はNHK放送博物館や国立国会図書館で手にすることができますが、その存在はあまり知られていませんので、現在、『放送研究と調査』「放送史料探訪」のコーナーで概要の紹介を行っています。

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左上から、『放送史料集 豊原放送局』(1971年)、『放送史料集 パラオ放送局』(1972年)、
『外地放送史資料 満州編(Ⅰ)(Ⅱ)(Ⅲ)』(1979年~1980年)
『放送史料集 台湾
放送協会』(1998年)



このうち、『放送史料集 パラオ放送局』は、南洋諸島のコロール島(現・パラオ共和国)に設けられたパラオ放送局(1941年9月~1944年8月)の史料をまとめたものです。今ではリゾート地としてのイメージも強いパラオですが、当時は、日本放送協会による海外向け放送の一大中継拠点であり、宣伝戦の最前線でした。


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開局記念の絵はがき入れ(『放送史料集 パラオ放送局』口絵ページから)


ただ、史料集を見ますと、パラオ放送局では、島民向けのニュースや、島の子どもたちが出演して唱歌を歌う番組など、地元向けの放送も行われていたこともわかります。パラオ放送局は、1944年7月末のアメリカ軍の空襲によって放送停止に追い込まれましたが、それまで南洋諸島に新たな文化を普及させようと、多様な取り組みをしていたことが史料集からは浮かび上がります。

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パラオ放送局の外観(『放送史料集 パラオ放送局』口絵ページから)

一方で、史料集を編纂できるだけの文書が残された放送局は多くはありません。戦時中には、フィリピンやビルマ(現・ミャンマー)でも放送が行われていましたが、激しい戦闘を経て、残された記録は限られています。朝鮮放送協会(1932年~1945年)に関する史料も、収集できたものは少なく、放送文化研究所では史料集編纂には至っていません。
しかし、戦前・戦時中に日本が関係した放送の記録は、さまざまな国・地域の文書館や図書館などに残されている可能性はあります。放送が果たした歴史的な役割を検証するためにも、残された史料の収集は今なお重要な課題になっています。

 『放送研究と調査』に掲載した「放送史料探訪」は、以下からご覧いただけます。

【NHK放送文化研究所 放送史研究】
https://www.nhk.or.jp/bunken/research/history/index.html



放送ヒストリー 2019年05月10日 (金)

#185 「現実に負けに行く」精神

メディア研究部(メディア史研究) 宮田 章

ネット時代の昨今、人々は見たいものだけを見て、聞きたいことだけを聞いていると言われる。自分の好みや信念に合う情報なら、それがフェイクでも現実と信じ込み、逆に自分の好みや信念に合わない現実を「そんなことあるわけがない」と否認する人も多くなっているようである。

筆者はかつてテレビドキュメンタリー(以下「ドキュメンタリー」と記す)の実作者であり、今はその制作技法の経年的な展開を研究している[i]。この小文では、多くの優れたドキュメンタリーが、その作り手の好みや信念が、現実に裏切られることをむしろ喜び、歓迎するタイプの精神から生まれたことを指摘したい思う。

優れたドキュメンタリーの作り手の多くは自己否定の達人である。ある現実についての自分の考えが、現実自体によって裏切られることを喜ぶ性格を持ち合わせている。そうでないと、その作り手は、自分の考えとは違う現実が持つ魅力を、自分の番組に取り込みにくいからである。優れたドキュメンタリーの作り手の多くは、いわば「現実に負けに行く」という気概を持っている。

「現実に負ける」ためには、「負ける」に値するだけの自分の考えを持たなければならない。優れたドキュメンタリーの作り手の多くは調べ魔である。徹底的にリサーチしてそのテーマについて自分の考えを養い、それをロケ前の番組構成案にまとめる。「どうせ負けに行くのだから」などと手を抜くことはない。構成案が的確であればあるほど、より高いレベルで現実に「負ける」ことができる。

ロケ現場についたら構成案の細かい部分は忘れる。なるべく相手のペースに合わせて、その時その場のヒト、コト、モノに接する。運良く、自分では思いもよらなかった現実の豊かさ・複雑さ・割り切れなさ・・・に触れられたなら、めでたく「負け決定」である。優れた作り手はこれを発見として歓迎する。ロケだけではない。ロケ後の編集室でも多くの発見がある。収録してきた映像と音声を多種多様に組み合わせる中で、たくさんの未知のものが生まれるからである。ドキュメンタリーの企画時を入口、放送時を出口とすれば、入口と出口で作り手の考えは変わっていなければならない。入口と出口が同じなら、わざわざドキュメンタリーなど作る必要はない。作り手が入り口で知っている程度のことは、そのテーマに関心がある者なら、大抵知っているからである。

フェイクを現実と信じ込み、現実をフェイクと否認する傾向をネットが固定・強化するばかりなら、この社会は危うい。自分の好みや信念が、現実に裏切られることをむしろ喜び、歓迎するという精神現実に負けに行く」ドキュメンタリー制作の精神は、現代において重要な意味を持っているのではないだろうか。


[i] 『放送研究と調査』2019年4月号に、NHKドキュメンタリーの制作技法の中長期的な展開」という論文を掲載しました。NHKのテレビドキュメンタリーを対象にした初めての通史です。興味のある方はご一読下さい。

放送ヒストリー 2019年04月22日 (月)

#182 公共放送の内側から見た「放送制度」

メディア研究部(メディア動向) 山田 潔


「放送法の一部を改正する法律案」が3月5日、国会に提出されました。この改正案は、NHKのテレビ放送をインターネットで常時同時に配信できるようにNHKのインターネット活用業務の対象を拡大すること、また、関連団体も含めたNHKグループの経営の適正性を確保することなどに向けた制度整備を図るものです。電波による無線放送を行ってきた公共放送NHKを、インターネット動画配信が一般化したこの時代に、どのように対応させるべきか、現時点での「放送制度」が審議されています。

私たちは『放送研究と調査』2019年2月号から「シリーズ 証言を基に読みとく放送制度」の掲載を開始しています。これまでに何度も修正され、作り上げられてきた「放送制度」の形成過程を、学識経験者や、放送事業者、行政機関の関係者などからの聞き取りを基に検証するシリーズです。

初回は、行政法学者である塩野宏・東大名誉教授の証言でした。第2回は、NHKの経営企画部門で放送制度の見直しなどに関わった元NHK監事・黒川次郎氏の証言(『放送研究と調査』2019年3月号)です。

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証言する黒川次郎氏

黒川氏は、1960年代前半の放送法改正の動きに対応してNHKが設置した放送法制研究会の若手事務局員として、同じく若手研究員だった塩野氏を含む外部有識者による制度検討を間近で経験。その後も受信料体系の見直しや衛星放送開始に伴う制度的対応など放送制度に関する幅広い業務をNHKの中心として担いました。塩野氏とほぼ同時代に、放送制度の形成過程をNHKの内側から見てきた人です。黒川氏の証言は多岐にわたりましたが、今回は1970年代半ばまでを取りまとめました。

カラー放送や衛星放送が放送制度と関係が深いのはもちろんですが、証言を聞くと、一見あまり関係がなさそうな沖縄返還、地価高騰といった事象もNHKの経営にとって大きな影響があったようです。放送制度が技術や社会情勢と密接に絡んでいることがわかります。

「平成」から「令和」へ、いよいよカウントダウンが始まっています。新しい時代、放送はどのように役割を果たしていくのでしょうか。放送制度形成の経緯を、証言を通して立体的に知ることが、今後を考える一助となればいいのですが。

少し間をあけながら、シリーズは今後も続けていきます。
当研究所が届けるアナザー・ストーリー、ぜひ楽しんでください。

放送ヒストリー 2019年03月15日 (金)

#175 シリーズ「証言を基に読み解く放送制度」 スタート ~文研が届けるアナザー・ストーリー~

メディア研究部(メディア動向) 山田 潔


平成が終わり、1つの区切りを迎えようとする中で、いろいろな角度から「昭和そして平成がどういう時代だったのか」の振り返りがなされています。

戦後の昭和から平成にかけて、表現の自由と技術革新を反映しながら大きく成長し、人々にさまざまな情報を届けてきたメディア「放送」。戦後の焼け野原で流れたNHKのラジオ放送だけから、民放ができ、テレビジョン放送開始、それがカラー化し、BS、ハイビジョン、デジタル化、4K・8K、そして今、電波による放送に加えたインターネットの本格活用が模索されています。

日本の放送は、戦前の反省に立ち、豊かで多様な番組をあまねく届ける民主的な放送を目指して、受信料による公共放送NHKと、広告収入による多くの民放という財源を異にする二元体制を中心に互いに切磋琢磨しながら自律的に進んできました。一方で、放送を行うには、電波免許が必要なことや、番組内容についての政治的公平性確保といった規律が設けられるなど、他のメディアと少し異なった制度が設けられています。また、電波や受信機に関する技術規格、放送事業者の経営のあり方などの面でもこれらの要請を前提として考えられてきました。

今回はじめたシリーズは、こうした日本の「放送制度」がどのような過程を経て形成されてきたのかまた、関係者はどのように関与したのかこれまで必ずしも明らかになっていない点を、放送制度の検討に関わった方々の証言を基に読み解こうというものです。


シリーズ第1回(『放送研究と調査』2019年2月号に掲載)は、放送制度の根幹とも言える放送法についてです。放送法は1950年の制定後、改正規模は大小さまざまですが、2018年末までに実に60回も改正され現在に至っています。改正には、所管官庁、放送事業者の担当者、国会議員、放送制度に詳しい有識者など多くの関係者がそれぞれの立場であるべき放送の姿を求めて、関与してきました。

その中でも、理論的・体系的な法制度検討における法学研究者の存在は大きいです。今回は行政法学者として長年にわたり放送法制の研究に携わり、法改正に向けた有識者会議の座長を務めるなど検討の中心となってリードされた東京大学名誉教授・塩野宏氏に、ご自身が放送法に関わり始めた1960年代を中心に伺いました。

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証言する塩野宏氏

当時、民放の成長、テレビの普及という状況を受け、政府の「臨時放送関係法制調査会」に対応するため、NHKが独自に理論的検討を行った「NHK放送法制研究会」に若き研究者として参加された塩野氏。新憲法の下、放送の重要性に鑑み、勢い込んで参加されたかと思いきや……。話は聞いてみないと分らないものです。
歩く知性のような塩野氏ですが、私たちにも分かりやすくお話してくださいました。

当研究所が届けるアナザー・ストーリー 是非のぞいてみてください。
シリーズ第2回も『放送研究と調査』2019年3月号に掲載しました。4月に当ホームページでも全文公開されます。)

放送ヒストリー 2019年01月25日 (金)

#165 組織ジャーナリズムで働くということ

メディア研究部メディア史研究) 大森淳郎


朝日新聞が2008年に出した『新聞と戦争』という本(1年間にわたる同タイトルの新聞連載をまとめたもの)があります。「時代の軋みと記者たちの身悶え」(「はじめに」より)に光をあてた力作ですが、取材班は満州事変後の日本軍の中国侵攻を追認した事実を踏まえてこう書いています。「ペンを取るか生活を取るかは、ジャーナリズムとしての覚悟の問題に帰する」。あんな新聞を出すぐらいなら、なぜ先輩たちは会社を去るという選択をしなかったのかと言っているわけです。

これに対して、作家・井上ひさしは連載を高く評価したうえで、「だが私は、個々の記者は「生活」を取らざるを得ないと思う」と書いています。軍部が社会の実権を握ってからでは、個々の記者の抵抗も、いわんや新聞社としての抵抗も事実上不可能だったのであり、そういう中で「生活」を取った記者たちを、現在の視点から簡単に批判は出来ないだろうと井上は言っています。

 さてシリーズ 戦争とラジオ〈第4回〉では、戦時中の講演放送、学校放送を牽引した2人の人物に焦点をあてました。2人は、日本放送協会に入局する前は、片や詩人として日本の帝国主義を批判し、片や教育学者として国際平和を訴えていました。しかし、入局後は、満州事変、日中戦争、太平洋戦争と続く戦争の時代、放送によって国民を戦争に動員することこそを自らの使命として語るようになってゆきます。でもそれは、丁寧に見てゆけば、やはり「身悶え」しながらのことだった。彼らにも「生活」があった。組織人として生きてゆくために彼らは、妥協し、信念を曲げ、「身悶え」しながら、流されてゆきました。そういう彼らを批判することは容易です。でも歴史から学ぶために本当に必要なことは、彼らの苦悩や葛藤を知ることのはずです。そして自分だったらどうしていたのか考えてみることだと思います。

 まるごと国家権力に取り込まれてしまった組織ジャーナリズムに身を置きながら、個々の記者が抵抗することなど不可能だった、そう言う井上ひさしは、「そうなってしまう以前、まだ批判を書けた時代にもっと頑張れなかったか、がポイントだろう」と記しています。私たちは今、どこにいるのでしょうか。戦争直前などと言うつもりは毛頭ありませんが、でも、沖縄、原発、そして憲法、大きな課題に直面していることは間違いありません。そして私のような放送現場の第一線から退いた人間の耳にも、そういう課題に取り組もうとしている後輩たちが組織とぶつかり葛藤する声が聞こえてこないわけではありません。組織ジャーナリズム(もちろんそれはなくてはならないものです)で働くとはどういうことなのか、時代を超えた問いです。