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放送ヒストリー

放送ヒストリー 2017年12月15日 (金)

#106 『NHK年鑑2017』を発行しました

メディア研究部(メディア史研究) 三矢惠子

『NHK年鑑』
の編集長をしています。ブログへの登場は1年ぶりとなります。
『NHK年鑑』はその名のとおり、1年に1度発行する、NHKを中心とした放送界の動きを記録した刊行物です。

2016年度の動きをまとめた『2017』版を11月10日に発行し、12月12日から、その中のNHKに関連した情報をこのホームページ上で公開しています

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『年鑑2017』

2016年度の放送界の大きなトピック、4K・8K試験放送の開始については、第2章第1節で丁寧にとりあげたほか、各部局のページでも、関連するそれぞれの取り組みを紹介しています。また、当然のことながら、番組解説でも資料編の番組時刻表でも、「スーパーハイビジョン試験放送」という項目が新たに加わっています。
ところで、社会のデジタル化が進んで便利になっても、世の中から紙の本が消える、という状況にはなっていません。電子化されたデータにはない、本ならではの使いやすさや本だからわかることがあるからでしょう。

今回の『NHK年鑑2017』では、そんな本としての使い勝手をよくする、ささやかな改善を2つ施しました。1つは、目次のレイアウトをわかりやすく変えたこと、もう1つは「年鑑」のキラーコンテンツとも言える「番組解説」を第4部として独立させ、資料編の直前に配置して探しやすくしたことです。
もっぱらネットで「年鑑」を利用してくださっている方にはピンと来ない改善かもしれませんが、本を使い慣れている方には、きっと使い勝手がよくなったと思います。

もちろん、内容的にも、『NHK年鑑』には、次のような高い資料価値があります。
 ◇創刊は1931年(当時は『ラヂオ年鑑』)と歴史が長いこと
 ◇これ1冊で放送、技術、経営、その他、NHKの全体がわかること
 ◇「番組解説」という、この本でしかわからない情報があること

『NHK年鑑』が本当に役に立つのは、刊行してすぐというよりは、少し時間が経ってからのことでしょう。“その時”に思いを馳せながら、今年も編集作業を進めました。

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(校正・編集作業風景)

放送ヒストリー 2017年11月24日 (金)

#103 「オーラル・ヒストリー」は、対話を通して歴史を紡ぐ

メディア研究部(メディア史研究) 広谷鏡子

「オーラル・ヒストリー」
と聞くと、「ん? オーラルケア? 歯磨き? そのヒストリーって何?」なんて思うのが、まず一般的な反応でしょうか。耳にしたことがあるぞ、という方は、ずばり『オーラル・ヒストリー』という著書のある、御厨貴(みくりやたかし)・東大名誉教授の名前を思い浮かべられるかもしれません。

私たちは、2025年に100年を迎える日本の「放送」の歴史を研究しています。数年前から、放送史を「オーラル」、つまり、実際に歴史の中で生きてきた人々の「口述」(=「証言」)によって記録するという研究方法に取り組んでいます。

歴史という大層なものを「口述」によって書き起こす? 実はこの研究方法は批判も受けてきました。それは、「人間の記憶なんて信用できるの? そんな曖昧なもので客観性を保てるの?」というものです。おっしゃるとおりですね。でも考えてみてください。「口述」と相対するものに「文書」がありますが、文書資料なら信用できるのでしょうか。文書資料も当時の作成者の意思によって「作られたもの」です。完全に「客観的なもの」と断じることはできませんよね。たとえば公文書なら当局の、日記であれば著者の意図や主観が入っています(私も日記をつけていますが、生意気にも後世の人々が読むことを期待して、都合の悪いことは書かなかったりします)。重要なことは、文書資料が「真実」であり、口述資料が「正しくない」と片付けてしまうべきではない、ということです。

私たちは、「歴史上の事実」だけを明らかにしたいのではありません。放送と関わった人たちが、当時何を思い、どのような未来を目指したのか、その足跡は「放送史」という大きな流れの中で、どんな役割を果たしたことになるのか。それらを知ることで、私たちは歴史には別の側面があることを発見し、歴史の実相を手繰り寄せることができるのではないでしょうか。一人ひとりの証言の蓄積が、支流をつくり、やがて注ぎ込むべき大河を壮大なものにしていくと私たちは確信しています。「オーラル・ヒストリー」によって、文書資料にはこれまで記載されてこなかった、人々の語りでしか知ることのできない豊饒な世界に、ぐっと近づけるような気がしています。

103-1124-11.jpg「証言をとる」と言うと、堅苦しい、重々しいイメージですが、インタビューでは、証言者との「対話」を重視します。準備も大変ですし、緊張もしますが、自分たちが歴史の新しい一幕を開いているのかもしれないのですから、楽しいひとときでもあります。

もうひとつ。貴重な証言ですから、「とりっ放し」にしたくありません。今後、別のテーマの研究にも活用できるよう、オリジナル音声(映像)データを「保存」するシステムも、大急ぎ整備中です。2016年度に当研究所のメンバーで作成した「『オーラル・ヒストリー』方法論・試案」『放送研究と調査』11月号に掲載していますので、合わせてご覧ください(12月1日に全文公開されます)。

100年後の人たちが、「放送」を血の通った歴史として振り返ることができますよう!

放送ヒストリー 2017年08月25日 (金)

#91 「仕方がなかった史観」を乗り越えて

メディア研究部(メディア史研究) 大森 淳郎

10年ほど前のことです。私は、あるレコード会社の倉庫に保管されていた金属マスター(レコードの原盤)を借り受け、専門業者に持ち込んで再生してもらいました。中心に穴がないので、ターンテーブルに固定するのに苦労しましたが、なんとかうまくいきました。聞こえてきたのは次のような音声でした。

今こそ、真実のお話ができます。これは、全日本国民に戦争の真相を明かす初めての番組です。これは、皆さんに直接関係のある話であり、皆さんを暗闇の世界から明るい世界に連れ戻すための話です


金属マスターに納められていたのは敗戦の4か月後、1945年12月から放送された10回シリーズのラジオ番組『真相はこうだ』でした。
GHQの手によるこの番組は、日本が敗戦にいたるまでの歴史を対話形式で描くものでした。力作と言っていいのですが、実は当時の評判は散々でした。作家、宮本百合子は、こう述べています。

「日本人は今まで発表なら発表というものを信じさせられてきました。それなのに今度は同じ信じさせたマイクそのものがけろっとして、その声で逆なことを言うということに対する不真実な感じ、事態の真実を知るということよりも同じ放送局がよくもこういうことをまあ平気で放送するというその感じですね。(中略)同じ放送局があんなちゃんぽんなことを言えるという感じがパッとくると非常に浅いところで反発するのです。そして、その反発する感じは真実の感情なのです」(「鼎談 近頃の放送に対する批判と提言」『放送文化』1946年6月号)

戦時中、日本放送協会は国民の戦意昂揚を目的とした放送を出し続けました。その「戦時ラジオ放送」を棚に上げて軍・政府を批判しても、説得力のあろうはずはなかったのです。
日本放送協会は、「戦時ラジオ放送」について自らけじめをつけようとはしませんでした。そして1950年に放送法に基づいて再出発してからも、NHKが戦時下の放送の検証に積極的にとり組んできたとは言えません。なぜなのでしょう。
おそらくその理由は、1925(大正14)年に日本のラジオ放送が、政府管理の下に出発した時まで遡ります。政府の管理下に置かれていたのだから、国が戦争に向かえば、ラジオもその国策に沿って放送するのは仕方がないことだった、というわけです。でも、本当にそうなのでしようか。


『放送研究と調査』8月号から、シリーズ「戦争とラジオ」を始めます。「仕方がなかった史観」を乗り越えて、「戦時ラジオ放送」を検証してゆきたいと思っています。
第1回は、8月(前編)・9月(後編)の2号に渡って戦時下のニュ-ス放送に焦点を当てます。戦時下のニュースは同盟通信の記事を「話し言葉」に書き換えていただけだと思われてきましたが、決してそうとは言い切れない実体が浮かび上がってきました。どうすればより国策に沿ったニュースになるか、報道部員たちは懸命に考え、同盟通信の原稿を書き換えていたのです。

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放送ヒストリー 2017年05月19日 (金)

#79 その伝説を知っていますか? オリンピック「実感放送」

メディア研究部(メディア史研究) 小林利行

“災い転じて福となす”
ことわざというのは、本当にあることだから言葉として残っているんだなぁ~としみじみ思いました。

1932(昭和7)年のロサンゼルス五輪。日本で初めてオリンピックを実況しようと、日本放送協会はアナウンサーなど4人の職員を派遣しました。

しかし、主催者とアメリカの放送局の間で放送権料をめぐるトラブルが発生し、開催直前になって実況することができなくなってしまいました。そこで、競技を観戦したアナウンサーがその場でメモを取って、競技場の近くのスタジオに移動してから、海を越えた日本に向けてあたかも実況しているように放送したのです。(ちなみにアメリカの放送局は、ニュース形式で競技の結果などを伝えただけでした)

これは「実感放送」と呼ばれたもので、当時の聴取者に大好評だった上に、その職人芸的な手法から放送史上の一種の伝説となって語り継がれています。もし、普通に実況できていたとしたら、このような伝説は生まれなかったでしょう。
まさに“災い転じて福となす”ですね。

79-0519-2.jpegラジオの前に群がる人々

有名な出来事なのでこれまでも多くの書籍や論文に取り上げられていますが、これらを読んでいるうちに、ちょっと気づいたことがあります。それは、「実感放送」に至る“経緯”の話が中心となっていて、それが生まれた“背景”にはほとんど触れられていないということです。そして、「実感放送」はこのとき初めて生まれたという意味合いで語られているのです。

へそ曲がりの私は、「実況できない状況で実況のように伝える」という行為そのものに着目して、史料を調べなおしてみました。そこには、「派遣された人たちは、本当に都合よくこんなことをその場で考えついたのかな?」という疑問もありました。(大先輩の方々、すみません・・・)

調べてみると、ロス五輪以前にもいくつかの“疑似的実況”が行われていたというではありませんか。しかもその一つには、ロス五輪に派遣されていたアナウンサーも関わっていたのです。これらのことから、ロス五輪の「実感放送」は、それまでに積み上げられてきた試行錯誤の一つの結実点だったと捉えるべきではないか、と考えました。
ロス五輪の「実感放送」では、“災い”が“福”に転じたのですが、それまでの下地があったからこそ“福”をつかめたのだと私は思います。

では、その“下地”とは、具体的にどんな出来事だったのでしょうか?
放送史の研究歴が浅い私は、それらを見つけたときに「え! こんなことやっていたの!! 」と驚いてばかりいました。
例えば、昭和天皇の即位式は、アナウンサーもその様子を直視することが許されなかったというのです。では、そのときどう“実況”したのか・・・・。

気になる方は『放送研究と調査』5月号をご覧ください。
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放送ヒストリー 2017年01月13日 (金)

#60 今とは違った戦前の地域放送

メディア研究部(メディア史研究) 村上聖一

年末年始、帰省先や旅行先でテレビをご覧になり、その土地でしか見られない地域ニュースや番組に触れられた方も多いのではないでしょうか。そうした地域放送の変遷についてまとめた論考を『放送研究と調査』1月号に掲載しましたので、そのご紹介です。

ただ、地域放送といっても、テレビではなく戦前のラジオについてです。なぜ戦前かと言いますと、当時は放送エリアなどが今とはかなり異なっていることから、放送の地域性を考える上で、今とはまったく違った視点が得られるのではないかと考えたためです。

日本でラジオ放送が始まったのは、1925(大正14)年ですが、全国向け放送が多い今のテレビとは違って、ラジオは地域色が強いメディアでした。また、放送エリアも必ずしも県単位ではありませんでした。以下の地図は、1931年時点で、鉱石ラジオで放送が聞けた範囲を示したものです。当時は社団法人日本放送協会が、北海道・東北・関東・東海・関西・中国・九州の7つの支部ごとに、独自性の強い放送を行っていました。

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(『ラヂオ年鑑』(1932年) ※地図は当時の日本の領土とは異なります)

地域放送の多さがわかるのが、次のグラフです。「自局編成」は、各放送局が独自に番組を放送していたもの、「入中継」(いりちゅうけい)は他の放送局からの番組を受けて放送していたものです。

例えば、大阪中央放送局の場合、7割の番組は独自制作で、東京などの番組を放送していた割合は3割程度でした。自局編成といっても、大阪発の全国向け番組もありますので、赤い部分がすべて地域放送というわけではありませんが、全国向けの番組が放送の大半を占めていたわけではなかったことがわかります。

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(『ラヂオ年鑑』1931年)

しかし、こうした状況は長くは続きませんでした。次のグラフは10年後の状況です。1930年代後半、日本放送協会の方針転換や国の統制強化もあり、ラジオ放送は急速に中央集権的なメディアへと変化していきました。

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(『ラジオ年鑑』1941年)

そして、このあと太平洋戦争が始まると、地域向け番組は大幅に縮小され、地域放送は受難の時代を迎えることになりました。

戦後、地域放送は再び拡充されていきますが、県単位で開局した民放ラジオ局の影響もあって、NHKの地域放送も、戦前のような東北、九州といった地方ブロック向けではなく、県域向けの番組が主体となります。放送の地域性は、1930年ごろとは性格が異なるものになったのです。

ここまで、簡単にラジオ時代の地域放送の変化をまとめましたが、経緯はかなり複雑なものでした。詳しくは、『放送研究と調査』1月号にまとめましたので、ぜひご一読ください。

放送ヒストリー 2016年12月16日 (金)

#58 『NHK年鑑2016』を発行しました!

メディア研究部(メディア史研究) 三矢惠子

今回は、ブログに初登場、『NHK年鑑』の紹介です。
2015年度の動きをまとめた『2016』版を11月11日に発行し、今週13日から、その中のNHKに関連した情報をこのホームページ上で公開しています。

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『NHK年鑑2016』

『NHK年鑑』はその名のとおり、1年に1度発行する、NHKを中心とした放送界の動きを記録した刊行物です。
とても歴史が長く、1931年に『ラヂオ年鑑』として創刊されて以来、名称はテレビ放送の始まった翌年の1954年に『NHK年鑑』に変えていますが、戦時中と終戦直後の3年間(1944~1946年)を休刊したほかは毎年発行して、NHKの歩みを記録し続けています。
(1944~1946年の内容も1947年版でまとめて掲載しています。)

 
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『ラヂオ年鑑』の創刊号


私は、1年前に編集に携わるようになりましたが、掲載している内容や執筆・編集の工程の全容を知って、あらためて『NHK年鑑』の資料価値の高さを感じています。

 ◇歴史が長いことは、すでに述べた通りです。
 ◇これ1冊で放送、技術、経営、その他、NHKのことが何でもわかります。
 ◇「番組解説」というこの本でしかわからない情報があります。

最新刊『年鑑2016』の「番組解説」では、テレビ(地上、衛星)とラジオの定時番組約650、特集番組約300、合わせて1000に近い番組について、放送日時、波、番組の内容、出演者等を紹介しています。
定時番組については、その番組の第1回の放送年月日が記録されています。番組が終了した場合は最終放送日も記録しています。この情報は、ほかでは見ることはできません。

「番組解説」からは、例えば「『きょうの料理』の初回放送日は1957年11月4日、『きょうの料理ビギナーズ』は、『きょうの料理』放送50年を記念して2007年4月2日から始まったこと」などがわかります。

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(校正段階の「番組解説」)

『年鑑2016』では、「放送90年」と「戦後70年」の節目にあたって放送した番組を一覧表にまとめて、「放送界の動き」に掲載しました。

外部の研究者や番組批評家の方などからは、「過去の番組や放送のことを調べるのにいつも使っている」という声をいただきます。
こうした資料が何十年か先の研究に役立つのかもしれないと思うと、ちょっとわくわくします。

 

放送ヒストリー 2016年07月26日 (火)

#37 ポジティブでしなやか:女性テレビ美術デザイナー

メディア研究部(メディア史研究) 廣谷鏡子
 
   放送のオーラル・ヒストリー「放送ウーマン」史(2)
   國嶋芳子さん(テレビ美術デザイナー) ~しなやかに「男社会」を駆け抜ける~ 『放送研究と調査』7月号 


この椅子に、見覚えありませんか?
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『あさイチ』のプレミアムトークにも登場した、40年以上にわたって桂文枝とコケ続けてきた名物椅子です。ギネスにも認定された長寿番組『新婚さんいらっしゃい!』1971~、朝日放送)のセットデザインを、スタート時からずっと担当してきた人が、今回紹介する「放送ウーマン」國嶋芳子さん。この椅子も、プロデューサーの命を受けて彼女が探してきたもので、いまも修理を重ねながら使われています。
美人女性キャスターが闊歩(かっぽ)する華やかな業界のようだけれど、昔も今も圧倒的な男社会である放送業界。テレビ大好き、美術大好きで美大に進み、「テレビ美術デザイナー」という職業があることを知って、この仕事に挑んだ國嶋さんですが、当時、放送局で女子正社員の採用はなく、「よそで仕事をしていい、給料は社員並み、人事異動なし」という契約で嘱託のデザイナーに。結果的にはそのことが、彼女に自由な翼を広げさせ、デザイナー人生を幅広いものにしました。放送局も、70年代に全盛期を迎えるカラー放送に向けて実はてんてこ舞い。美大出のデザイナーもいないなか、國嶋さんはこの業界にピタッとはまったのです!

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國嶋芳子さん

『プロポーズ大作戦』1973~85)の人気コーナー「フィーリングカップル5対5」のテーブルを考案したのも彼女と聞いて、この番組をかじりついて見ていた筆者は、思わずテーマ曲を口ずさんでいました。朝日放送お得意の「視聴者参加公開番組」のセットも、美大で舞台装置を学んできた大胆な発想で立ち上げ、周囲の度肝(どぎも)を抜きます。

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國嶋さんはまず模型を作ります。空間イメージが番組スタッフに一目で伝わります。
そしてこれが、実際のセットになると…こちら。

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2012年から現在までの『新婚さんいらっしゃい!』のセットです。
テーマは「蜂の巣、愛の巣、蜜の味」。

かつては「最近の女子アナはたばこ一つ買いに行かなくなった」などというトンデモ発言が飛び交うセクハラ職場でしたが、國嶋さんはその発想力とスキルで、実績をあげていきます。現在のほんわかした雰囲気の彼女からは、ガチガチの「キャリアウーマン」といったイメージはうかがえません。むしろ、クリエイターとしてのこんな言葉に、著者は共感するのです。
「迷ったときとか何も出てこないときは、そこはテレビのいいところで、流す。ディレクター、プロデューサーにこびる。こびるというか、よかったよかったと言ってもらう」
そうそう! 困難にぶつかったら、無理はせずにさっぱりあきらめる。でも褒めてもらいたいから、次は頑張る。そうやってテレビというメディアの現場は、ある時は健やかな、時にはしたたかな精神を育んできたんじゃないでしょうか。永さんや巨泉さんが生きていたら、きっと共感してくれたに違いない、と思うのですが…。
2011年に朝日放送を退職後、國嶋さんはいまも舞台装置家として活躍中。2013年、ようやく朝日放送2代目女性デザイナーが入社しました。彼女もまた、大先輩が「しなやかに」切り開いてきた道を、彼女ならではの軽やかさで、歩いていくことでしょう。
國嶋さんの切り開いてきた道がどんなだったかは、ぜひ、本文で!(概要はこちら

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語らう新旧女性デザイナー@朝日放送


放送ヒストリー 2016年04月15日 (金)

#22 「生態放送」って聞いたことありますか?

メディア研究部(メディア史研究) 小林利行

「え!昭和初期、ラジオ放送の開始からわずか8年後に野生動物の生中継番組が始まっていた!?」
このリポートを書くきっかけになった率直な驚きです。

今でも番組制作の中で「生中継」や「野生動物」という言葉が出ると、制作者は少なからず緊張すると言います。この2つが重なった番組を、放送初期の1933年に成し遂げた人たちがいます。東京ではありません。人も機材も少ない長野局でした。長野局は、野鳥の鳴き声の生中継に全国で初めて成功したのです。当時「生態放送」と呼ばれていました。「生態放送」はその後、名古屋局(野鳥「仏法僧」)・前橋局(かえる)・仙台局(うみねこ)・静岡局(野鳥)などでも行われ、聴取者の評判もよく、地方の放送局の重要なコンテンツに成長します。

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全国で初めて「生態放送」に成功した長野局の面々

史料の中からこの番組の存在を知った時、私の頭には驚きと同時に次々と疑問がわいてきました。▼なぜ、野生動物相手の生中継という「冒険」に踏み切ったのか?▼失敗の可能性もあるこのような企画が、どういった経緯で承認されたのか?▼現在に比べて機材も貧弱な中で、現場ではどう対応したのか?・・・

こうした疑問は、史料を集めていく中で少しずつ明らかになっていきます。詳しいことは月報(「放送研究と調査」4月号)を見ていただきたいのですが、ここではポイントとなる「『冒険』に踏み切った理由」について、ちょっとだけ説明します。ざっくりと言ってしまえば
「地方局の意地」です。
当時の放送は、「地方文化の水準を中央のそれに引き上げること」が主な目的とされていて、基本的な流れは「中央→地方」でした。そこで地方局としてこの状況に一矢報いるために、その地域でしかできない放送を行おうと、重い機材を背負って山奥に分け入り、うまく鳴いてくれるかどうかわからない中で、固唾をのんで放送時間を待っていたのです。

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名古屋局は「秘密兵器」を使用

では、その「意地」を通すために、関係者はどんなハードルをクリアしてきたのでしょうか。今月号では、「クスッ」と笑えるようなことから「プロジェクトX」(覚えていますか?)ばりの話まで数々のエピソードを紹介しています。

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木につり下げられたマイク(これも工夫の一つ)

最後に一つだけ。「失敗の可能性もある企画が承認された経緯」についてなのですが、そこにはある「偶然」が絡んでいました。なんと、火山の噴火が関係していたというのです・・・ 気になる方は月報の本文をお読みください。

『放送研究と調査』4月号 野鳥の鳴き声を生放送で全国へ~戦前のラジオ「生態放送」への取り組み~


放送ヒストリー 2016年03月15日 (火)

#16 月報3月号紹介②「テレビ美術」を知っていますか?

メディア研究部(メディア史研究) 廣谷鏡子

テレビがスタートしたのは63年前。そのとき同時に生まれたものがあります。さて何でしょう。ヒントはそれまでのラジオ(音だけの世界)になかったもの。そう、「ビジュアル」(目に見えるもの)ですね。理屈っぽく言えば、テレビによって「情報」は「視覚化」された。その視覚化によって生まれたのが、
「テレビ美術」です。
では、いちばん最初のテレビ美術は何だと思いますか。もう一度ラジオを思い出してください。ラジオになかったのは番組の“表紙”、つまり「タイトル(文字)」でした。

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これは“裏表紙”、ですね(手書きのテロップカード、1961~3年頃)

こうして「文字」に始まったテレビ美術は、63年をかけて成長、変貌を遂げていきました。

ドラマを見るとき、あなたの視線はまずどこに行きますか。主人公がイケメンかどうかが重要だったりもするわけですが、ちょっと目をずらしてみてください。彼が着ている服、演技をする部屋、置いてあるテーブル、その上の料理、壁の絵画、時代劇なら侍のかつらにその時代のメイク。そればかりか、窓の外を吹く風、雨に打たれる樹木、降り積もる雪にいたるまで、ぜーんぶ「テレビ美術」なんですね。言ってみれば、目に見える(素っ裸の)人間以外のものすべて。

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こちらは大河ドラマ第1作『花の生涯』(1963年)のオープンセット

実はいままで、この職種についてあまり詳しくは語られて来ませんでした。演出家やプロデューサーのように、番組の意図や内容をカッコ良く語ろうとした人がいなかったみたいです。だってテレビである限り、美術は当然ついてくる。当然のことをしていたまでさ…。
と思っていたかどうかは知りませんが、きっと職人気質の無口で謙虚な人が多かったのだろうと、筆者は2年前から美術の担当者に聞き取りをし、5回に渡って掲載してきました。月報3月号はその総集編です。「証言」によって放送の歴史に別の角度から光を当てる、「オーラル・ヒストリー」研究の新たな試みでもあります。
テレビ美術を際立たせるキーワードは「時間」と「本物らしさ」。それって何?と思った方はぜひご一読を。そしてこれからテレビを見るとき、少しだけ、「人以外」にも注目してみてください。

放送のオーラル・ヒストリー
シリーズ「テレビ美術」の成立と変容
3月号の総集編をお読みになって興味をもたれた方は、バックナンバーもご覧ください。
(こちらの5回はPDFで全文掲載しています)
(1)  文字のデザイン
http://www.nhk.or.jp/bunken/summary/research/report/2014_01/20140103.pdf
(2)  ドラマのセットデザイン
http://www.nhk.or.jp/bunken/summary/research/report/2014_04/20140402.pdf
(3)  メイク・かつら・衣装
http://www.nhk.or.jp/bunken/summary/research/report/2015_01/20150103.pdf
(4)  時代劇スタジオをつくる人たち
 前編http://www.nhk.or.jp/bunken/summary/research/report/2015_12/20151204.pdf
 後編http://www.nhk.or.jp/bunken/research/history/pdf/20160101_5.pdf