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放送ヒストリー 2024年06月03日 (月)

劇作家・飯沢匡と戦後日本 その1 ~『放送研究と調査』6月号・調査研究ノートに関連して~【研究員の視点】#543

メディア研究部 高橋浩一郎

 『放送研究と調査』6月号では、劇作家の飯沢匡(ただす)さん(1909~1994)が執筆した『おかあさんといっしょ』の人形劇台本を分析し、そこから明らかになったことを調査研究ノートにまとめています。ブログではNHKアーカイブスに保管されている資料などを通し、飯沢匡さんと戦後のラジオドラマを振り返ります。

"飯沢匡"を生み出したラジオドラマ
 戦前、戦後にかけ新聞社に勤めていた飯沢さんが放送にかかわるようになったのはラジオドラマがきっかけでした。飯沢さんの本名は「伊澤紀(いざわただす)」で、「飯沢匡」はペンネームですが、この名前も実は放送をめぐって生まれました。
 自伝『権力と笑のはざ間で』によれば、1941年に太平洋戦争が始まると新聞に対する言論統制はますます厳しくなり、飯沢さんの勤務先の朝日新聞社では、個人の考えが社の方針だと思われることを懸念して、社外で文章を発表する際、当時の編集局長から「発表する前に原稿に目を通させてほしい」と言われます。それに対し放送劇の脚本執筆を依頼された飯沢さんは「自分の書く生活スケッチのようなものをわざわざ見てもらう必要はあるまい」と判断しますが、本名だとばれてしまうため、筆名を考える必要に迫られました。いい筆名が思い浮かばずそのままにしていると、NHKから放送に際して名前をどうするか尋ねられます。そこで「印刷しては別人に見え、アナウンサーが発音すると本名のように聞こえる名を考えて下さい」と伝えたところ、放送当日の新聞に「飯沢匡」という名が印刷されていました。ペンネーム「飯沢匡」は、当時のNHKによって生まれたのです。
 NHK、民放含め、飯沢さんが手がけたラジオドラマの正確な作品数は明らかになっていませんが、戦前に少なくとも7本、戦後は1950年代だけで最低21本の作品(『ヤン坊・ニン坊・トン坊』など幼児・子ども向け番組を除く)を残しています。当時の作品をまとめた脚本集を確認すると、実にバラエティーに富んでおり、中には桃太郎を占領軍に、日本人を鬼に置き換え、GIベビーの問題を暗に批判した『昔話桃太郎』(1952)や、突如、日本列島が沈んでしまう仮想の世界を描き、核兵器の開発競争が激化した不穏な世相を反映させた『日本陥没』(1953)など、政治的な寓話(ぐうわ)やSFといえるような作品もあります。
 テレビが登場する以前、飯沢さんは聴覚に訴えることで受け手の想像力を刺激するラジオドラマに可能性を見いだし、映像を必要としないメディアの特性を生かして、時代を鋭く描いた作品を数多く世に送り出しました。そのことが評価され、1958年に放送文化賞を受賞しています。

放送文化賞授賞式での飯沢匡さん(1958年)放送文化賞授賞式での飯沢匡さん(1958年)

『数寄屋橋の蜃気楼(しんきろう)』
 放送は多くの人に同時に届けられる一方、送り手側にその反応が届きにくく、また記録として残されることも少ないため、飯沢さんのドラマが当時の視聴者にどのように受け止められたか十分わかっていません。その中で、1949年に放送された飯沢さんのラジオドラマを聞いて、後年、次のようなコメントを寄せた人がいます。連続人形劇『ひょっこりひょうたん島』の生みの親の一人、作家の井上ひさしさんです。

―― 僕はこの放送を仙台の孤児院で聞き、仲間と顔を見合わせてぼろぼろ涙を澪したことがある。飯沢さんのドラマとは最初の遭遇であった。

  井上ひさしさんが涙したラジオドラマは『数寄屋橋の蜃気楼(しんきろう)』という作品です。物語の舞台は今も有楽町の地名として残り、首都高速ができる前に実際に外堀にかかっていた数寄屋橋。そこにたむろする浮浪児と、彼らが見るという不思議な蜃気楼のうわさに関心を寄せる、アニメーション作家志望の若者との交流を描いた作品で、誰もが心の中に持つ夢の切実さを描いています。
 演出面でこの作品がユニークなのは、『話の泉』『社会探訪』『のど自慢』など、当時人気だったラジオ番組と出演者を物語の中に取り入れることで、現実とドラマの世界を地続きにしている点です。そのことによって、生き別れた母親が子守歌を口ずさむ姿を蜃気楼に見てしまう浮浪児や、彼を支援する若者も実在する人物のように感じられます。戦後の混乱が続いていた1949年当時の状況からすれば、ラジオドラマ自体が夢物語であり、蜃気楼そのものだったのかもしれません。しかし、だからこそ物語にリアリティーを持たせることで、はかない夢を信じることの切実さを、現実の問題として聞き手に感じ取ってもらいたいと飯沢さんは考えたのではないでしょうか。
 当時飯沢さんが勤めていた朝日新聞社は数寄屋橋のほとりにありました。また後年実現することになるのですが、ご本人がアニメーション制作を夢見ていたことも作品に反映されていると思われます。1949年当時の『数寄屋橋の蜃気楼』の音源は保管されていないものの、1965年に再制作された音源がNHKアーカイブスに残されており、そこには執筆のきっかけを振り返る飯沢さんのインタビューが収録されています。

――やっぱり占領中のわれわれの目からすると、ちょっと不愉快な象徴が数寄屋橋だったわけです。クリスマスの時に進駐軍が酒飲んで、いわゆるポン引きというやつを川の中に放り込んで溺死させちゃったり、嫌な事件がありましてね。 数寄屋橋ってのはあんまり感じがよくなかったんですね。だけどその時、僕がいつも見下ろしている数寄屋橋公園に、よく浮浪児が来てね、ベンチに昼寝なんかしたり、かわいそうな姿が見えてました。何かもう少し数寄屋橋を詩的に扱ってみたらどんなものかと思ったりしてたんです。

飯沢匡ラジオ・ドラマ選集『数寄屋橋の蜃気楼』を収録した『飯沢匡ラジオ・ドラマ選集』(1951)宝文館

戦争孤児たちの戦後
 「全国孤児一斉調査」(厚生省児童局企画課、1948年)によると、空襲によって親や家族が死亡した戦災孤児だけでも28,248人、ほかにも親と離ればなれになったり、親が行方不明になったり、戦争の影響で孤児になった子どもたちは数多くいます。少なくともこれだけの数の子どもが社会から手を差し伸べられることなく、過酷な戦後を生きることを強いられました。『戦争孤児たちの戦後史1』(2020・吉川弘文館)の編者の一人である浅井春夫さん(立教大学名誉教授)は「兵士や看護などに従事したなどの戦場体験だけではなく、空襲被害体験、さらに"戦中・戦後の生活体験に付随するトラウマ"を戦争孤児が抱えている」ことを指摘しています。戦争孤児だった過去を明かしにくいということも含めて、当事者にとって戦争の被害はさまざまな形で今も続いています。
 戦争に関わる施策や方針の決定に子どもは関与することができません。しかし、そこからもたらされる結果と無関係でいることもできません。当人の意思にかかわらず巻き込まれ、生涯にわたってその影響を被ります。長年、沖縄の戦争体験などを研究してきた石原昌家さん(沖縄国際大学名誉教授)は「戦争孤児は人間のみにくさの極限をみてきている可能性が高い。したがって、心の傷を負っているであろうと相手をおもんぱかりがちだが、「人間とはなにか」という問いの深淵(しんえん)をのぞいてきた体験者で貴重な存在だと評すべきだろう」と指摘します。
 飯沢さんは『数寄屋橋の蜃気楼』において、現実ではありえない戦争孤児たちの夢を蜃気楼に託しました。それは親や家族を失い、国からも社会からも救ってもらえない戦争孤児たちの姿を目にしながら、多くの場合、何もすることができない大人の後ろめたさの表れなのかもしれません。他方で、少年時代の井上ひさしさんが涙を流したのは、物語の中で蜃気楼を見た孤児が、生き別れた母親と再会できた結末だけによるのではなく、現実では望みながらも叶(かな)えることができない夢を、それでも子どもたちに向けて語ろうとする飯沢匡という大人が、この世の中にいるのを知ったことにもよるように思えます。

現在の数寄屋橋交差点現在の数寄屋橋交差点
首都高速の下には、1950年代後半まで外堀にかかる橋があり、
菊田一夫氏のラジオドラマ『君の名は』の舞台ともなった

参考文献
浅井春夫・川満彰編(2020)『戦争孤児たちの戦後史1』吉川弘文館
井上ひさし(1979)「枠、あるいは制約について」『悲劇喜劇』早川書房
ジョン・ダワー(2004)『敗北を抱きしめて』(三浦陽一・高杉忠明 訳)岩波書店

【高橋浩一郎】
1997年、番組制作ディレクターとして入局。
2017年より文研に在籍。