文研ブログ

2023年1月23日

メディアの動き 2023年01月23日 (月)

#445 これからの"放送"はどこに向かうのか? ~2023年1月のNHKを巡る動き~

メディア研究部(メディア動向) 村上圭子

 毎年1月、NHKは新年度の「収支予算、事業計画及び資金計画(以下、事業計画等)」を公表します。これは、新年度にNHKは何を目指し、どういう分野に力を入れていくのか、そのためにどのくらいの予算を組み、どうやってその資金を使っていくのかについて、受信料を負担する視聴者・国民、そして社会に示す極めて重要なものです。この事業計画等は経営委員会(以下、経営委)で議決後、公表すると共に、NHKは総務大臣に提出します。その後、内閣を経て国会に提出され、審議・承認を受けるという流れになっています。
 令和5年度の事業計画等1は1月10日に公表されました。国内放送費、国際放送費、契約収納費、広報費等、業務別に具体的な内容が示されており、文研の業務は調査研究費という項目の中に示されています。図1に文研の主な業務、図2に業務別予算の全体像を抜粋しておきます。

(図1)

(図2)

 この事業計画等の発表の他、今月は例年以上にNHKを巡る動きが多い月となりました。いずれもこれからのNHKがどこに向かうのかを考える上で重要な内容だと思いましたので、本ブログでは3つの動きに分けてまとめておきたいと思います。

① 1月10日 「"スリム"で"強靱"な新しいNHKの3年目は?」 修正経営計画 経営委員会で議決

 1月10日、事業計画等と共に経営委で議決されたのが、「経営計画(2021-2023年度)」の修正2(以下、修正計画)です。この内容については、修正案が意見募集されている時に書いたブログ3でも少し触れましたが、改めてポイントを引用しておきます(図3)。

(図3)

 NHKはこの3年間、前田会長のもとで、"スリムで強靱な新しいNHK"への変革を目指してきました。今回の修正計画も、衛星波(BS2K)の1波削減と地上・衛星契約料金のそれぞれ1割の値下げという、"スリム"化が強く打ち出された内容となっています。前田会長は経営委議決後に行われた10日の会見4で、「2024年度以降も収入が大きく減少することとなり、最終的には事業規模は6000億円を下回る形で全体のスリム化も進む予定」としています。ちなみに、1つ前の経営計画(2018-2020年度)のもとで策定された2020年度の事業収入は約7200億円でした。
 では、もう一つの柱である"強靱"さはどこに示されているのでしょうか。修正計画では、「"安全・安心"の追求」「"あまねく"の追求」の2つの重点項目を強化するとしています(図4)。ただ、重点項目は取り組みの大枠を示すものであるため、より具体的に内容が示されているものとして、前述した令和5年度の事業計画も参照しておきたいと思います(図5)。

(図4)

(図5)

 修正計画の重点項目(図4)と事業計画の重点事項(図5)には直接の対応関係がないので、並列すると少し混乱を招くかもしれませんが、詳細は、修正経営計画と事業計画をごらんいただければと思います。NHKは事業計画において、新年度、「経費の削減等で生み出した原資の一部を、事業計画の重点事項に配分」するとしており、図5に示された4つは、強靱なNHKを目指すための具体的な取り組みの1つと考えてもいいと思います。
 この中で私が最も注目しておきたいと思うのは、1つ目にあげられている「デジタル時代に新たな公共性を確立」です。なぜ注目しておきたいかというと、一昨年に開始した総務省の「デジタル時代における放送制度の在り方に関する検討会5(以下、在り方検)」や、そこに設けられた公共放送ワーキンググループ(以下、公共放送WG)の議論の中で、NHKはこれまで以上に、情報空間において公共性を発揮していくべきではないかという趣旨の指摘がくりかえしなされているからです。そのためこの事項は、これらの発言に対するNHKの応答として見ることもできると思います。事業計画には、この事項に関する詳細な記載もあるのでこちらも紹介しておきます(図6)。

(図6)

 NHKには、公共的な番組・コンテンツ・ネットサービスとは何かについて、日々模索し続けている現場があります。こうした現場の取り組み1つ1つについて、なぜNHKでなければ手がけられないのか、なぜNHKが今それをやる意義があるのかを問い直し、その結果を積み上げ、体系化した上で真摯に問いかけていく、そのことによってしか、国民・視聴者の理解、他のメディア事業者の納得を得ていくことはできないのではないかと私は考えています。
 総務省の検討会のような憲法学者や経済学者、弁護士等の有識者が数多く名を連ねる場は、とかく抽象度の高い議論になりがちです。その場において、NHKはジャーナリズムやコンテンツ制作の担い手として、"新たなNHK"が確立したいと考える"新たな公共性"をどのように示していくのか・・・・・・。こちらについては回を改めて詳細にリポートしたいと思います。

② 1月18日「"割増金"制度導入へ」 放送受信規約の変更 総務省が認可

 2つ目は制度改正についてです。割増金という少し耳慣れないキーワードがメディアに頻出しましたので、既に内容をご存じの方も少なくないかもしれません。ここでは、なぜこの制度が誕生したのか、そもそものところから少し整理しておきたいと思います。
 日本の受信料制度は、テレビを受信できる受信設備を設置した者が、NHKにそのことを届け出てNHKと受信契約を締結する義務(放送法64条1項)と、受信契約後にNHKに対して受信料を支払う義務(受信規約)の、いわば"2つの義務"によって構成されています。今回、総務省が認可した割増金の制度は、受信設備を設置したにもかかわらず、正当な理由なくNHKに受信契約の申込みをしなかった場合、もしくは不正な手段により受信料の支払いを免れた場合、NHKは所定の受信料に加えて、その2倍に相当する額を設置者に請求することができるというものです(図76)。また、これまでは受信契約の申込みの期限を「遅延なく」としか示していなかったものを、「受信機の設置の翌々月の末日まで」と明確化したのも大きな変更点です。
 これらの内容は、2022年10月に施行された改正放送法7を踏まえた「日本放送協会放送受信規約」の変更8にあたります。NHKの申請を受けて1月18日に総務省が認可し9、2023年4月から施行されることになっています。

(図7)

 この制度を巡り、メディアの記事やSNS上では、NHKに対する批判が散見されます。しかしこの制度、NHKの要望がきっかけでできたわけではないということをご存じでしょうか。詳細は、「これからの放送はどこに向かうのか?Vol.6~公共放送・受信料制度議論10」で経緯をまとめているので関心があればお読みいただけばと思いますが、本ブログでも振り返りを兼ねて、少し紹介しておきたいと思います。
 割増金制度が誕生した舞台は、在り方検の前身である「放送を巡る諸課題に関する検討会11」に設けられた「公共放送の在り方に関する検討分科会」です。分科会では主要テーマとして、受信料の公平負担の徹底の方策が議論されることになり、NHKは2つの制度の設置を要望しました。1つは受信設備を設置した際にそれをNHKに届け出る、もしくは設置しない場合は未設置であることを届け出ることを義務づける制度、もう1つは受信料未契約者の氏名・居住地情報の照会ができる制度です。2つをワンセットで導入することで、当時、問題となっていた訪問営業によるトラブルを防止できると共に、公平負担も徹底していけるというのがNHKの主張でした。しかし、後者の要望については、NHKが個人情報を取得することに対して構成員から相次いで懸念が寄せられ、NHKは要望を撤回せざるを得ませんでした。
 一方、総務省の事務局側は分科会に対し、受信設備を設置した段階で直ちに受信料の支払い義務が発生するという法的枠組みの方向性を議論してほしい、と提起しました。ちなみに、受信料制度が存在する大半の国では、日本のような"2つの義務"のような方法はとられておらず、受信設備設置=支払い義務となっています。そして、支払率は日本よりはるかに高いという状況もありました。事務局側からは、こうした海外の受信料制度に関する資料も提示されました。私は長らく国の検討会の取材や傍聴をしていますが、事務局側がこのように明確な意志を持って問題提起するケースは珍しく、当時、このテーマに対する総務省の強い意気込みを感じていました。
 しかし、この事務局側の提起に対して、一部の構成員たちから猛反発の声があがりました。構成員たちの主張はこうです。受信者とNHKの関係の構築が日本の受信料制度の根幹であり、それは2017年の最高裁大法廷判決12でも確認されている、それを変更するということは放送制度全体に関わる大きな議論になるのではないかー。そして、現行法より強力な手段をNHKに求めるということになれば、それによって受信者とNHKの絆が弱くなってしまうのではないかー。そして、反発した構成員の側から提案されたのが、今回の割増金という制度だったのです。制度の趣旨としては、本来契約すべき受信料契約をしなかったことによって、NHKあるいはほかの受信者に一種の損害を与えている、その損害の部分を補てんする、という考え方が示されました。議論の結果、この提案が採択され、制度化に至ったのです。
 つまり、この割増金という制度は、受信料の公平負担の徹底と、NHKと視聴者・国民との信頼関係の構築、この2つを両立させていくための制度だといっても過言ではないと思います。NHKは制度導入にあたり、「割増金が導入されても、NHKの「価値や受信料制度の意義をご理解いただき、納得してお手続きやお支払いをいただくという、これまでのNHKの方針に変わりはありません」と説明しています。また松野博一官房長官も1月19日の記者会見で、NHKに対して、受信料制度の丁寧な説明と支払いを要請する努力を重ねるよう求めています。制度の実効性はどうなのか、スタートする4月以降、見ていきたいと思います。
 また、前述した在り方検の公共放送WGでは、ネット経由のみで放送コンテンツを視聴する人に対して受信料制度をどのように考えていくのかという、新たな局面の議論も開始されています。こちらの議論についても、また回を改めて触れていきたいと思います。

③ 1月24日「前田会長退任」 稲葉延雄会長体制スタートへ

 3つ目は前田会長の退任です。1月24日に3年の任期が終了し、NHKは稲葉延雄会長の新体制がスタートします。"スリムで強靱な新しいNHK"を標榜した前田会長のもとでの3年間は、NHKにとって、またメディア業界全体にとってどのような意味を持つものだったのでしょうか。メディアの最新動向を取材、分析、記録する立場として、もう少し時間をおいてからしっかりと検証したいと思いますが、ここでは1月10日の最後の会長会見の中から、NHKの今後、放送の今後を考える上で示唆的だと私が感じた発言内容を5つ抜粋し、それぞれに少し論じておきたいと思います。

 1つ目の発言はNHKのデジタル展開についてです。「率直にいって、NHKは相当出遅れたと思います。どうしても放送を中心でやってきましたので、放送のおまけみたいな形でデジタルを発信するという形になっていました。今やデジタルファーストの時代になりましたので、(中略)そちらに合わせないと情報が届かないという現実があるわけですから、そこも大胆なシフトをしました」
 NHKのインターネット活用業務は、放送法上、任意業務という位置づけであり、業務内容や予算規模については、NHKは毎年、実施基準及び実施計画を策定し、総務大臣の認可を得て実施しています。前田会長が就任してほどなく、NHKは地上波の同時・見逃し配信サービス「NHKプラス」を開始。その後、ネット活用業務の予算規模について、前田会長はこれまで設定していた「受信料収入の2.5%以内」とするという上限を撤廃します。この2.5%を巡っては、上田良一元会長の時代に、民放連・新聞協会とNHKの間で長年にわたり攻防が続いていた案件だっただけに、スピーディーな決断に驚いた記憶があります。現在は、NHKが実施基準を策定する際、NHK自らが上限額を設定することになっており、新年度は今年度同様、200億円を上限としています。
 では、今後のNHKには何が待ち受けているのでしょうか。まず、テレビを持たない人たち(NHKと受信契約をしていない人たち)を対象とした「社会実証13」の第2期です。こちらは当初2022年中に実施する予定でしたが、まだ実施されていません。また、総務省の公共放送WGでは、ネット活用業務を本来業務とするかどうかの議論、つまり"放送のおまけ"ではない形でのデジタル発信を認めるかどうかの議論が行われています。もしもこれが変更となれば、NHKがネット活用業務を開始して以来の大転換点となり、より"大胆なシフト"になります。公共放送WGは2月末に議論が再開されます。

 2つめの発言は受信料制度についてです。「スマホだけで見ている人から受信料を取った方がいいとか、そういうことにいきなり飛びつくのはやめた方がいいと思います。今のところは、テレビを持っている人が受信料を払っていただくというシステムで、約8割の方が払っていただいているわけですから(中略)。ただ、時代がずっと進んで、そのまま維持できるかというとそれはちょっと分からない」「機が熟したら、私は総合受信料のほうがいいと思います」
 NHKは既に現在の経営計画で、「衛星付加受信料の見直しを含めた総合的な受信料のあり方について導入の検討を進めます」としています。2020年9月からは会長の諮問会議のNHK受信料制度等検討委員会の中に「次世代NHKに関する専門小委員会14」を設け、様々な角度から議論を進めています。
 公共放送WGで受信料制度に関する議論は本格化していませんが、テレビを持たない人がNHKプラスを利用したい場合にどうするかについては論点の1つとなっています。また、民放連や新聞協会からは、ネット活用業務のあり方の検討と財源の問題、つまり受信料制度の議論は切り離せないという意見も出ています。どのタイミングで本格的な議論が始まるのか、注視していきたいと思います。

 3つ目の発言は人事制度と組織改革についてです。「今まで誰も手を付けなかったところに全部着手しようと考え(中略)今までのNHKの非常に強烈な縦型、年功序列型のところを縦と横を両方組み合わせて、フラットな組織」にしました。「フラットにして意志決定を早くしないと世の中についていけないと思います」。このほかにも、この改革に最も力を入れてきた前田会長ならではの発言が相次ぎました。
 私は昨年開催した「文研フォーラム2022」で、前田会長の下で行われた人事制度改革の1つ、若手への権限委譲を議論のテーマとして取り上げました15。改革の目玉の1つに、社内公募で40代の地域局長を誕生させるというものがあり、その1人であるNHK富山放送局の葛城豪局長に登壇してもらいました。葛城局長は、着任早々、若手職員に権限を与えて新企画を次々と始めたり、自ら地域に飛びこんで様々なつながりを積極的に作ったりと、意欲的な活動をしていました。ただ、ディスカッションでは、世代交代や権限委譲のような人事改革は進め方によっては世代間の分断を引き起こしかねないといった懸念や、行うべき人事改革は"意識交代"ではないか、時代の変化に対応できない意識の人こそ交代すべきであり世代のみで判断されるものではない、といった意見が出ました。
 前田会長は人事制度改革の今後について、「制度を作れば運用の問題ですから、十分いけると私は思っております」と語っています。ディスカッション時の発言に呼応しますが、時代の変化に対応したいと考える意欲的な中高年層のモチベーションが上がるような施策や、世代交代にとどまらない、より多様性が生かされる施策を期待したいと思います。

 4つ目の発言は、コストとクオリティーとの関係です。「品質管理をするときに8割まで品質を管理するのと、99パーセントまで管理するのでは、原価コストが、ものすごく変わります。(中略)完璧なものを作るには、コストは多分めちゃくちゃ上がっていきますよね。それでは過剰品質なので、許容できるところまで落としていいよと。そこは具体的にこのレベルまでで良いという基準を内部で作るしかないんです」
 この発言は番組制作の文脈で出てきたものですが、私はこの内容から今後の放送インフラのあり方を想起しました。
 現在、地上放送はユニバーサルサービスとして全国津々浦々に放送を届ける義務があり、そのために数多くの小規模中継局やミニサテライト局、NHK共聴施設を設置しています。しかし、それらの施設の維持・更新にかかるコストは、スカイツリーなどの大規模局に比べて極めて高く、それが放送局の経営をじわじわと圧迫してきています。このコストをいかに減らしていくかが、大きな課題となっています。そのため、こうしたエリアでは、これまで整備していた放送波の仕組みではなく、ブロードバンド、それも汎用性の高いIPユニキャストでその仕組みを代替することでコストを減らしていけないかという検討が総務省で開始されています。
 ただし、ブロードバンドで代替する場合、これまで放送波で届けていたクオリティーを100%保証することはなかなか難しいという問題があります。では、視聴者はどこまでなら受容してくれるのか、放送事業者はどこまでクオリティーを下げることが許されるのか。それは99%なのか、それとも90%なのか・・・・・・。もちろん、視聴者の意向をなおざりにするという判断は決してあってはなりませんし、IP化したからこその付加サービスも検討していくことになると思いますが、今後一層、IP化が進んでいく中、そしてNHKも民放も財源が限られる中で、コストとクオリティーのバランスを考える議論は避けて通れないテーマになるのではないでしょうか。

 最後の発言はNHKらしさについてです。「NHKは戦う相手、公共放送がほかにないんです。これは、悪くすると完全に自己中心的になりやすいですよね。」「NHKは民放とどう違うのか、同じ事をやっていたら何もNHKらしくないじゃないか、何が違うんだと」「要するに毎日の実績がNHKらしさかどうかということを自問自答すると。時代の要請でたぶん変わると思いますが、それを含めてやっていただくということです。だから、らしさの定義はしない方がいっていいと言っているんですよ」
 NHKらしさとは何かということは、私もNHKの職員の一人として日々考えています。しかしそれ以上に考えているのが、公共放送らしさとは何か、ネットも活用する時代の"公共メディア"らしさとは何かです。これについては、らしさの定義をしっかりとしていく必要があると考えており、その上に初めてNHKらしさがあるのではないかと考えています。
 最初にも触れましたが、NHKは新年度の事業計画で、「デジタル時代における新たな公共性を確立」するということを重点事項に掲げています。私は、公共放送らしさ・公共メディアらしさとは何か、というアプローチから、このテーマに向き合っていきたいと思います。


メディアの動き 2023年01月23日 (月)

#444 シリーズ「深刻化するネット上の誹謗中傷・いま何が必要なのか」(2) ~「匿名表現の自由」にどう向き合うべきか

放送文化研究所 渡辺健策

 シリーズ第2回は、社会のデジタル化が進む中で論議を呼んでいる「匿名表現の自由」について考えます。
 3年前の2020年4月に設置された総務省の「発信者情報開示の在り方に関する研究会」では、ネット上の誹謗(ひぼう)中傷被害が深刻化している中、従来の制度では被害者の法的救済に時間と費用がかかりすぎるという観点から、有識者による見直しの議論が行われました。最も重要な論点になったのはバランスの確保、「被害者救済」を進めると同時に、正当な投稿をしている人の「匿名表現の自由」をどう守るか1という問題でした。

<匿名表現の自由とは>

 日本国憲法21条が保障する「表現の自由」には、氏名を隠した状態や偽名・仮名による表現も含まれるのか?日本では従来、この問いに対する詳細な研究は展開されてこなかったと指摘されていますが2、憲法学者らによると、何らかの事情により匿名でしか発信できないことがあり、それによって国民が知ることのできなかった事実を知ることができる、とりわけネットでは匿名性を担保することで活発な議論が可能になる、それらをふまえると匿名表現の自由は憲法21条によって保障される3という理解が一般的です。国内の裁判例としては、2020年に大阪市のヘイトスピーチ対処条例の合憲性などが争点となった裁判の1審判決で「匿名による表現活動を行う自由は、憲法21条1項により保障されているものと解される」という判断が示された例があります。4(2022年2月に最高裁判決も合憲判断)

「大阪ヘイトスピーチ 市の条例は合憲の判断示す」NHKニュース映像より(2020年1月17日放送) 「大阪ヘイトスピーチ 市の条例は合憲の判断示す」NHKニュース映像より(2020年1月17日放送)

大阪市のホームぺージより 大阪市のホームぺージより

 「匿名表現の自由」を考える上で重要なのは、匿名性が担保されないことが表現活動を行おうとする人に対する萎縮効果を与えないかどうか、という点です。立命館大学の市川正人教授は、「政府や多数者から見て好ましくないと思われるような内容の表現活動を行う者は、素性を明らかにすることによって『経済的報復、失職、肉体的強制の脅威、およびその他の公衆の敵意の表明』にさらされる可能性が高いのであるから、素性を明らかにしての表現活動しか認めないことはそのような表現活動を行おうとする者に対して大きな萎縮効果を与えるであろう」と指摘しています。5また、京都大学の曽我部真裕教授は、「表現の自由の歴史を振り返ってみても厳しい検閲に対抗する手段として、匿名での出版物が大きな役割を担ったのであって、そこからも、匿名表現の自由の重要性を認識することができる」と記しています。6

 冒頭で触れた総務省の「発信者情報開示の在り方に関する研究会(以下、研究会)」でも、最近起きている具体的な事例を挙げて、匿名表現の自由の重要性が議論されました。例えば、消費者被害を訴える匿名のネット投稿に対し、販売方法などに問題のある企業側が投稿者の発信者情報の開示請求をして消費者側の発信を萎縮させるといった"制度の悪用例"が 目立っていることが指摘されています。7投稿内容が悪意による誹謗中傷なのか、それとも事実に基づく正当な批判なのかは、最終的には裁判所が開示命令を出すか否かの形で判断することになるわけですが、立場の弱い一個人にとっては、身元をさぐる開示請求が行われること自体がプレッシャーになります。発信者が誰なのかが簡易・迅速な手続で判明するようになることは、誹謗中傷被害の早期救済に役立つ一方で、正当な批判をする人を萎縮させることにもつながる恐れがあるのです。

<「匿名表現の自由」をめぐる議論の歴史>

 日本の発信者情報開示制度は、欧米の制度を参考に2001年に導入されました。とりわけアメリカでの匿名表現の自由論に大きな影響を受けていることが指摘されています。8
 アメリカでは匿名表現(=匿名言論:Anonymous Speech)の自由をめぐって争われた裁判が数多くあり、連邦最高裁がたびたび合憲・違憲の判断を示してきました。このうち1960年のTalley v. California事件では、人種差別問題に関して作成者の氏名を記載していないビラを配布した人が逮捕されたことの是非が争点となり、連邦最高裁は、匿名の冊子の配布を禁止していた市条例を「違憲」としました。判決では、古くは独立戦争後、各州に合衆国憲法の批准を促した「フェデラリスト・ペーパーズ」という文書も「パブリウス」という仮名で書かれていたことに言及し、「匿名言論は歴史上、自由を擁護する際の武器であった」と位置づけています。9その根底には、匿名の言論を長く保護してきたアメリカ合衆国の伝統があり、匿名であることは少数者の言論を守り、多数者の専制を抑制するために必要だという理念があると評価されています。10

アメリカ連邦最高裁(資料画像) アメリカ連邦最高裁(資料画像)

 また、この分野で特に著名な判例とされているのが、1995年のMcIntyre v. Ohio Elections Commission 事件の判決です。選挙や住民投票に関するビラに責任者の氏名・住所を記載するよう義務づけたオハイオ州の法律を「違憲」としました。連邦最高裁は、その判決の中で、マーク・トウェインやO・ヘンリーのように偉大な文学者の作品が匿名(ペンネーム)で書かれていることに触れ、「著者の匿名を維持するという決断は合衆国憲法修正1条により保護される言論の自由の一側面である」とした上で、匿名で出版する自由は文学の領域を超えて政治的主張にも及び、特に受けの悪い主張をしようとする者にとって匿名性は必要とされてきた伝統である、としました。11,12
 では果たして「匿名言論の自由」の保障はインターネット上の誹謗中傷にまで及ぶのでしょうか。
 McIntyre 裁判などでは表現内容に対する事前の規制が問題になっていたのに対して、ネット上の誹謗中傷のケースでは既に行われた投稿に対する事後的対応が争点であり、その内容も政治的主張ではなく誹謗中傷という違いがあります。このためMcIntyre判決で示された匿名言論者の権利がそのまま認められるわけではないという考え方がある一方、発信者情報が強制的に開示されれば匿名言論の保護が形骸化しまうという指摘13もあります。結局は、「発信者の匿名言論の自由」と「誹謗中傷を受けた人の救済を受ける利益」との比較衡量がポイントになるわけです。
 アメリカでは、被告が匿名のままでも訴訟を起こすことができます。インターネット上の匿名投稿をめぐって権利侵害の救済を求める場合もその方法が取られ、裁判所からプロバイダーに対し被告を特定するための文書提出命令を出してもらう「ディスカバリー」という手続きが行われます。その際には、とりわけ厳格な基準に基づいて裁判所が可否を判断することになります。匿名を前提に投稿した発信者の実名を明かすことは匿名言論の権利を否定することになるからです。その背景には、原則として匿名表現を保護する判例が積み重ねられてきた伝統があり、例外をどこまで認めるか、慎重な判断がなされているのです。14,15

<日本の制度改正をめぐる議論の焦点>

 アメリカでも長く議論となってきた「匿名表現の自由」と「権利侵害の救済」との関係。これらの両立は、総務省の研究会でも重要な論点になっていたことを冒頭お伝えしました。ここからは、11回に渡って繰り広げられた研究会での議論を議事録や資料からたどります。

meihakusei.gif日弁連の意見書(一部)

 発信者情報開示制度をめぐっては、以前から不備を指摘する声が実務を担う弁護士たちから上がっていました16。2011年6月には、日弁連=日本弁護士連合会が制度の抜本的な見直しを求める意見書をまとめています17。この中では、制度の手続き上の課題に加えて、裁判所が発信者情報の開示を命じるか否か判断する際の要件の1つである「権利侵害の明白性」を重要なポイントとして言及しています。「明白性」とは、匿名投稿の流通(拡散)によって原告(被害者)の権利が侵害されたことが明らかである場合、という要件の規定ですが、日弁連は、「明らか」という文言の意味があいまいである上、厳格かつ抽象的で、「被害救済のみちを閉ざすものと言わざるを得ない」と批判していました。その後、インターネットの普及に伴って誹謗中傷被害が増加したこともあり、有識者で作る総務省の研究会が 制度の見直しにどこまで踏み込むか注目されていました。

「SNS上のひぼう中傷 新たな制度創設へ」NHKニュース映像(2020年10月26日放送) 「SNS上のひぼう中傷 新たな制度創設へ」NHKニュース映像(2020年10月26日放送)

 研究会の議事録をたどると、権利侵害の「明白性」要件は、手続きの簡易・迅速化と並ぶ主要な論点として検討されていたことが分かります。そこから見えてくるのは、この要件が課す高いハードルを安易に下げてしまうと、匿名を前提に投稿をした人の権利が不当に侵害される恐れがあるという「匿名表現の自由」とのバランスの確保への配慮でした。18
 研究会では、企業の不正を内部告発する従業員の身元が特定されてしまえば、公益通報者を守ることができず、企業への批判や告発をすることは難しくなる、自分の体験や感想を口コミサイトに書き込んだだけなのに、『この商品は私には合いませんでした』と投稿しただけで誰が書いたのか突きとめられトラブルに巻き込まれる恐れが生じる―――そんな濫用を可能にしてしまっていいのか、という熱を帯びた議論が交わされていました。19
 そこからは、今の時代の私たちが「匿名表現」の"可能性"と"危険性"にどう向き合うべきか、という根源的な問いが見えてきます。

最終とりまとめの主な内容(筆者作成) 最終とりまとめの主な内容(筆者作成)

 研究会は、2020年12月の『最終とりまとめ』で、発信者情報を特定するために必要な通信ログを迅速に特定・保存するため、簡易な非訟手続でログの特定や保存を命じる「提供命令」「消去禁止命令」を新設し、これまでの要件より一定程度緩やかな基準で判断することが適当であると提言しました。その一方で、発信者の身元を明らかにする「開示命令」の可否を判断する際は、表現行為に対する萎縮効果を生じさせないよう、現在と同様の厳格な要件を維持することを求めました。20
 曽我部真裕座長は、「攻撃されやすい人々がしばしばいわれのない誹謗中傷を受ける、その痛み、苦しみを思うとき、迅速な救済のために多様で実効的な手段が用意されることの不可欠性というのを痛感するところです。活力のある自由で民主的な社会を維持するためには表現の自由が極めて重要なことは言うまでもなく、とりわけ一般市民が声を上げることのできるSNSにおいては、匿名表現の自由というのは重要です。本研究会では、被害者保護と表現の自由とのぎりぎりのバランスを確保すべく真剣な議論が行われ、現時点で可能なベストな提案ができたと思っております」(一部抜粋)と述べ、一連の議論を総括しました。21
 自由で活発な意見交換を促し、表立っては言いにくい本音や真実を伝えることができるデジタル時代の「匿名表現」。無責任で攻撃的になりやすいという問題点に向き合いながら、その新たな可能性をどういかしていくかが、私たちに問われているように思います。
 シリーズ最終回の次回は、ネット上の誹謗中傷被害に向き合う上でマスメディアに期待される役割とは何かを考えます。


【注釈および引用出典・参考文献】
  • 総務省「発信者情報開示の在り方に関する研究会」最終とりまとめ(令和2年12月)5頁
  • 海野敦史「匿名表現の自由の保障の程度-米国法上の議論を手がかりとして-」(情報通信学会誌37巻1号,2019年)2,5頁、曽我部真裕「匿名表現の自由」(ジュリスト2021年2月#1554)44頁
  • 松井茂記『インターネットの憲法学(新版)』(岩波書店,2014年)384頁、毛利透「インターネット上の匿名表現の要保護性について-表現者特定を認める要件についてのアメリカの裁判例の分析」 樋口陽一ほか編『憲法の尊厳』(日本評論社,2017)212頁、
    曽我部真裕ほか『情報法概説(第2版)』(弘文堂,2019年)15~16頁
  • 大阪地判2020.1.17 裁判所WEB判決文34頁、曽我部真裕 前掲2「匿名表現の自由」46頁
  • 市川正人『表現の自由の法理』(日本評論社,2003年)380頁
  • 曽我部真裕 前掲2「匿名表現の自由」46頁
  • 「発信者情報開示の在り方に関する研究会」第1回議事録37-38頁、第2回22-23頁、31-32頁
  • 丸橋透「媒介者の責任-責任制限法制の変容」(ジュリスト2021年2月#1554)19頁、大島義則「匿名言論の自由と発信者情報開示制度――日米の制度比較」(情報ネットワーク・ローレビュー14巻,2016年)24頁
  • Talley v. Californiaアメリカ合衆国連邦最高裁判決(1960年)、毛利透 前掲3「インターネット上の匿名表現の要保護性について」196頁、岩倉秀樹「アメリカの匿名言論の法理と情報開示の法理」(高知県立大学文化論叢4号,2016年)42頁
  • 高橋義人「パブリック・フォーラムにおける匿名性と情報テクノロジー」(琉大法學87号,2012年)24頁、岩倉秀樹 前掲9「アメリカの匿名言論の法理と情報開示の法理」44頁
  • McIntyre判決には、匿名言論の権利保障に批判的なスカリア裁判官らの反対意見が付されている
  • 毛利透 前掲9「インターネット上の匿名表現の要保護性について」196-197頁、
    岩倉秀樹 前掲9「アメリカの匿名言論の法理」45頁、
    大島義則 前掲8「匿名言論の自由と発信者情報開示制度――日米の制度比較」25頁
  • 大島義則 前掲8「匿名言論の自由と発信者情報開示制度――日米の制度比較」26頁
  • 毛利透 前掲9「インターネット上の匿名表現の要保護性について」195-196頁、
    大島義則 前掲8「匿名言論の自由と発信者情報開示制度――日米の制度比較」28-29頁
  • 最近では有害コンテンツ対策の観点から、プロバイダーの広範な免責を認めた通信品位法230条の 見直しをめぐる議論も出てきている。詳しくは、山口真一『ソーシャルメディア解体全書 フェイクニュース・ネット炎上・情報の偏り』勁草書房(2022年)258-261頁、丸橋透 前掲8「媒介者の責任~責任制限法制の変容」21-22頁を参照。
  • 壇俊光・森拓也・今村昭悟「発信者情報開示請求訴訟における『対抗言論の法理』と『権利侵害の明白性』の要件事実的な問題について」(情報ネットワーク・ローレビュー12巻,2013年)
    山本隆司「プロバイダ責任制限法の機能と問題点-比較法の視点から-」コピライト495号(2002年)18頁
  • 日本弁護士連合会「プロバイダ責任制限法検証に関する提言(案)」に対する意見書(2011年6月30日)
  • 「発信者情報開示の在り方に関する研究会」第1回議事録40頁、第2回議事録24-28頁、
    第3回議事録31-34頁、第4回議事録22-23頁ほか
  • 同上 第2回議事録25頁、第3回議事録31-34頁ほか
  • 同上 『最終とりまとめ(令和2年12月)』21,28頁
  • 同上 第10回議事録23頁