文研ブログ

2020年2月 6日

文研フォーラム 2020年02月06日 (木)

#233 地方局が集めた4,900枚の「戦争体験画」

メディア研究部(放送用語・表現)井上裕之

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この絵は、沖縄戦の体験を描いた「戦争体験画」の1枚です。砲弾を浴びて倒れた一家の姿が描かれています。
絵を描いた豊永スミ子さんは当時6歳。家族で砲火をくぐり抜けて避難していましたが、1発の砲弾が近くでさく裂。父親と幼い弟を失いました。絵の右側には、弟を抱き上げて泣きながら取り乱す母親。絵の左側には、砲弾を腹に受けて苦しむ父親と、父親にしがみつく豊永さん自身が描かれています。描いているうちに、豊永さんは、着の身着のままで亡くなった家族の姿をきれいに彩ってあげたいと思い、クレヨンで色を塗ることにしました。

沖縄戦の、住民側から見た視覚的な記録を――
そんなねらいで、沖縄放送局でニュースデスクをしていた2005年、局を挙げて「戦争体験画」を集めました。ローカル放送で戦争体験者に呼びかけたところ、500枚以上の絵が寄せられました。沖縄戦は、米軍側が撮影した映像の記録が残っている戦闘です。しかし、寄せられた絵には、そこに記録されなかった、住民側から見た多様で凄惨な地上戦の姿がありました。豊永さんの絵もその1枚です。沖縄のローカル放送で1年以上にわたり、毎日ニュースで紹介し続けました。

それから時を経た2018年、こんどは札幌放送局が、北の地上戦の絵を集めました。樺太(今のサハリン)や千島列島での戦争体験の絵を描いてほしいと呼びかけたところ、短期間ですが、100枚以上の絵が集まりました。札幌局で中心となったのは、十数年前に沖縄戦の絵をいっしょに集めた同僚でした。一見、場所も離れ、別々に行われたように見えるプロジェクトですが、つなげてみると、息の長いプロジェクトのようにも見えます。

NHKで最初に「戦争体験画」の募集を呼びかけたプロジェクトは、1974年にさかのぼります。原爆のショックで記憶を失った戦災孤児の少女を描いた朝ドラ『鳩子の海』をテレビで見た、という男性が、自分で描いた1枚の絵を当時の広島放送局に持ち込みました。その絵を放送で紹介したところ、たいへんな反響があり、こうした絵を集めることになったと言います。その影響を受けた長崎放送局でも絵の募集を実施。全国放送の番組でも紹介されました。

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   1974年に広島放送局に届けられた絵。小林岩吉さんが原爆投下直後に見た光景を描いた。
   けがややけどをして水を求める大勢の人や,舟から肉親をさがす人などが描かれている。

それから、NHKが行ってきた「戦争体験画」募集のプロジェクトは合計6回。実施したのは、いずれも地方局です。集まった絵は、合わせて4,900枚余りに上りました。こうした絵は、カメラが普及していない時代のできごとを伝える貴重な記録です。そこには、描いた人の気持ちも込められています。それは、プロの画家が描いた戦争画などとも異なります。戦争体験画とはいったい何なのか?私たち自身も、それを知りたいと思っています。

終戦からことしで75年。これまでの戦争体験画のプロジェクトを整理し、戦争体験画の意味と可能性をさぐるワークショップを、文研フォーラム2020で開くことになりました。専門家をパネリストにお招きし、歴史、文化、美術などの視点で議論します。また、これまでの戦争体験画のプロジェクトの担当者たちも集まります。みなさんもぜひご参加ください。

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