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おススメの1本 2023年03月08日 (水)

#460 東日本大震災12年 「何が変わり、何が変わらないのか」~現地より~

 メディア研究部(メディア動向)中丸憲一

 東日本大震災の発生後、災害担当記者だった私も現地に入り、さまざまな取材をした。特に力を入れたのが、「消防団員の安全確保」の問題だった。

teikyogazou.jpg活動する消防団員(震災前) 提供:田中和七さん

 あれから12年。「何が変わり、何が変わらないのか」「メディアに何ができるのか」。今回は研究員になった私が現地を再び訪れ、感じたことを書いてゆく。

【始まりは“1本の電話”】
 まもなく新しい年に変わろうとしていた去年(2022年)暮れ。突然、携帯電話が鳴った。「今のままでは、消防団などの地域の守り手が危ない。あのとき(東日本大震災)の課題が今も残っている。『南海トラフ』や、『千島海溝・日本海溝』の巨大地震が切迫している。今課題を解決しないとまた犠牲者が出る。どうだ、また一緒にやらないか?」連絡をくれたのは、東京大学大学院情報学環総合防災情報研究センターの松尾一郎客員教授(67)。東日本大震災の直後、私は、松尾客員教授と一緒に被災地を駆け回り課題を探った。中でも最も力を入れたのが「消防団員の安全確保」だった。これを再度、検証しようという提案だった。

matsuo1.jpg東大 松尾一郎客員教授

 当時取材し放送したリポートを見返してみた。取材したのは、岩手県宮古市田老地区の男性。ふだんは食料品店を経営し、災害発生時にはすぐに消防団員として出動する。震災が起きたあの日、男性は防潮堤にある門に向かった。防潮堤には「水門」と「陸閘(りくこう)」(=漁港と市街地を車などが行き来するために防潮堤に設けられた門)がある。いずれも、津波が流れ込まないよう、到達前に閉めなければならない。このうち男性が向かったのは「陸閘」だった。

kakudaigazou.jpg男性と陸閘(震災直後)

到着すると、別の団員がすでに門を閉めていた。しかし、男性は近くにいた人から声をかけられる。「港に置いてきた車を取りに行きたいので、門を開けてくれないか」。男性は仕方なく再び門を開けた。すると、逃げ遅れて門の外側に取り残されていた車が次々と通り始めた。「もう早く通ってくれ、早く閉めたい」。最後の車が通過した後、急いで門を閉め、男性も車で急いで避難。そのおよそ5分後に田老地区に津波が襲来。男性は、すぐ後ろに津波が迫る中、ぎりぎりで高台にたどりつくことができた。しかし、男性の所属する分団では、一緒に門を閉めた団員など3人が犠牲になった。当時のインタビューで男性は絞り出すように語っている。「これほど危険な目にあってまで(門を)閉めに来なければならないという部分があるので、変えられるものであれば少しずつでも変えてほしい」。

【再び現地へ】
 このリポートの放送後の2011年11月、総務省消防庁は「東日本大震災を踏まえた大規模災害時における消防団活動のあり方等に関する検討会」を設置。その報告書によると、被災地では、田老地区以外でも消防団員の被災が相次ぎ、犠牲になった団員は254人にのぼった。その多くが水門等の閉鎖や住民の避難誘導、救助などにあたった人たちだった。検討会の委員には松尾客員教授(当時はNPO法人理事)が選出。ワーキングチームの構成員には、リポートで取材した男性の先輩消防団員の田中和七さん(68)が選ばれ、消防団員の安全をいかに確保するか議論を交わし対策案を示した。
 あれから何が変わり、何が変わらないのか。課題は残っているのか。
今年(2023年)2月初旬、松尾客員教授と再び田老地区を訪問。田中さんらと合流し現地をまわった。

matsuo2shot.jpg田中和七さん(左)と松尾客員教授(右)

 岩手県宮古市田老地区。私は初任地が盛岡放送局で、まだ3年目の駆け出しの頃、宮古報道室(現在は支局)の記者として何度も取材で足を運んだ。(当時は合併前で「田老町」だった)
地区中心部にあった高さ10m、総延長2,433mの巨大防潮堤。壊滅的な被害を受けた昭和8年(1933年)の「昭和三陸津波」を教訓に作られ、「万里の長城」と呼ばれた。これに加え、真剣な表情で避難訓練を繰り返す住民たち。まさに「津波防災の先進地」だった。そこを再び巨大津波が襲った。防潮堤は一定時間、津波を食い止めたものの、巨大津波は防潮堤を乗り越え、地区内に一気に流れ込んだ。立ち並んでいた住宅は流され、防潮堤もかなりの部分が破壊された。震災直後に取材に入り目にした、以前とは変わり果てたすさまじい光景は、今も脳裏に焼き付いて離れない。

banrino_edited.jpg津波で破壊され一部が残る「万里の長城」

【何が変わり、何が変わらないのか】
 震災後、新しい防潮堤が、かつての「万里の長城」よりもさらに海側に作られた。以前より高い14.7m。また防潮堤の裏側(陸側)を「災害危険区域」に指定し、住宅の建築を制限した。かつて防潮堤のすぐそばまであった住宅はなくなり、高台に移転。代わりに野球場や道の駅などが作られ、すぐに避難できるよう工夫がなされた。

fukkoupanel_edited.jpg新防潮堤や災害危険区域を示したパネル

 また、防潮堤の水門や陸閘は、津波注意報や津波警報、大津波警報が発表された場合、衛星回線を使って遠隔操作で自動的に閉まるように改善された。陸閘のゲートにはセンサーがついていて、もし車が通過中だった場合には、いったん開き、通過後に閉まるという動作も自動的に行う。リポートで取材した男性が、取り残された車が通過するまで門を開け続け、その後閉めたというような非常に危険な作業はしなくてよいことになった。

rikukou.jpg新しくつくられた陸閘

tsunamichui_edited.jpg陸閘の自動閉鎖を示すパネル

 また、松尾客員教授や田中さんが委員などとして参加した、総務省消防庁の検討会の報告書(2012年8月最終報告)では、市町村に津波発生が予想される場合の消防団の活動・安全管理マニュアルを整備するとともに「退避ルール」を確立するよう求めた。これを受けて宮古市も地域防災計画などに「退避ルール」を明記。「消防団は津波の到達予想時刻の10分前には高台に避難していなければならない(消防団の退避10分ルール)」を定めるとともに、避難を完了するために「20分前には防災行政無線により、消防団の避難を呼びかける(消防団退避指示)」とした。

shobodanshiji.png宮古市資料より

ここまで見てくると、大幅に改善されたと感じる。ただ、松尾客員教授とともに田中さんに聞き取りをしたところ、「まだ不安な点がある」ということだった。


talk2shot_edited.jpg調査する松尾客員教授(手前)と田中さん(奥)

例えば、「もしも門が閉まらなかったとしたら」。遠隔操作で自動閉鎖するとはいえ、機械なので「絶対」はないのではないか。その場合、近くにいる消防団員が閉めに行かざるを得ないのではないか。その不安はあるという。
さらに田中さんは、トンガの海底火山で発生した大規模な噴火により、去年1月16日、岩手県沿岸に津波警報が発表された際の出来事が忘れられないという。警報がまだ発表中だった16日朝、釣り客とみられる人が乗った車が港の方に入っていくのを、高台で警戒監視中の消防団員が発見。危険なのですぐに海から離れ避難するよう伝えに行った。結果的に、津波警報が出ているさなかに危険な海岸近くの低地で消防団員が活動せざるを得ない状況となったのだ。

【地域を守る責任感、使命感】
総務省消防庁の検討会の報告書の冒頭には、次のように書いてある。(一部中略)
「消防団は、自らも被災者であったにもかかわらず、だれよりも真っ先に災害現場へかけつけ、その活動は、住民の生命、安全を守るため、実に様々なものであった。東日本大震災における消防団の活動は地域住民に勇気を与え、改めて地域の絆・コミュニティの大切さ、そのために消防団が果たしている役割の大きさを教えてくれた。一方で、活動中の消防団員の安全をいかに確保するかという大きな課題を我々に突きつけた」
消防団員は、地域住民であり、被災者でもあった。地域住民ならば、本来はすぐに避難して、まずは自分や家族の命を守るはず。でも団員たちはあえて危険な任務を担った。田中さんは言う。


tanaka_edited.jpg田中和七さん

「消防団員は『見捨てられない、無視できない』という責任感や使命感を持っている人たちばかりなんです

「地域を守る」という責任感・使命感から、危険な任務にあたり、震災で多くの消防団員が命を落とした。しかし、今も多くの団員たちがその強い責任感・使命感を持ち続けている。だからこそ、また次の大災害で、消防団員が危険にさらされる可能性は残されていると思う。12年が経過しても変わっていない部分だと強く感じた。

松尾客員教授は、今後、田老地区と宮古市のもう一つの地区をモデル地区として消防団員や民生委員、町内会長など、地域の「守り手」の安全確保などについて調査することにしている。

matsuolast_edited.jpg松尾客員教授

「これ以上、『守り手』が犠牲になるのは防がなければならない。宮古市で調査した結果を、南海トラフや千島海溝・日本海溝沿いで発生する巨大地震で被災する可能性がある地域など、各地に広げていきたい」と話していた。
私も今回、田老地区を訪れ、さまざまな話を聞く中で、国の検討会が作成を求めた「消防団の退避ルール」などが全国各地でどのくらい徹底されているのか、また、防潮堤の門の自動閉鎖などのハード面の安全対策がどれだけ進み、機能しているのかなどを調べたいと思った。そのために、まずは松尾客員教授が行う調査に微力ながらできる限りお手伝いしたいと思っている。その上で、消防団を対象にした避難の呼びかけのあり方など、メディアにできることはないか、考えていきたいと思っている。

【もう一つの「変わっていないこと」】
今回の田老地区の訪問では、うれしい出来事があった。冒頭に紹介したリポートで取材した男性と再会したのだ。男性は経営していた食料品店が津波で流されたが、地区の別の場所に店を再建した。そして今も消防団員を続けているという。このとき思った。
「消防団員の安全は確保されなければならない。震災を生き延びて、その後の復興の担い手として活躍してもらうために」。
これは震災が起きたあのときから変わっていないし、今後も変わらない。
東日本大震災から12年。現地を訪れ、強く感じたことである。


nakamaru2.jpg

【中丸憲一】
1998年NHK入局。盛岡局、仙台局、高知局、報道局社会部、災害・気象センターで主に災害や環境の取材・デスク業務を担当。2022年から放送文化研究所で主任研究員として災害や環境をテーマに研究。

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