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メディアの動き 2023年01月23日 (月)

#444 シリーズ「深刻化するネット上の誹謗中傷・いま何が必要なのか」(2) ~「匿名表現の自由」にどう向き合うべきか

放送文化研究所 渡辺健策

 シリーズ第2回は、社会のデジタル化が進む中で論議を呼んでいる「匿名表現の自由」について考えます。
 3年前の2020年4月に設置された総務省の「発信者情報開示の在り方に関する研究会」では、ネット上の誹謗(ひぼう)中傷被害が深刻化している中、従来の制度では被害者の法的救済に時間と費用がかかりすぎるという観点から、有識者による見直しの議論が行われました。最も重要な論点になったのはバランスの確保、「被害者救済」を進めると同時に、正当な投稿をしている人の「匿名表現の自由」をどう守るか1という問題でした。

<匿名表現の自由とは>

 日本国憲法21条が保障する「表現の自由」には、氏名を隠した状態や偽名・仮名による表現も含まれるのか?日本では従来、この問いに対する詳細な研究は展開されてこなかったと指摘されていますが2、憲法学者らによると、何らかの事情により匿名でしか発信できないことがあり、それによって国民が知ることのできなかった事実を知ることができる、とりわけネットでは匿名性を担保することで活発な議論が可能になる、それらをふまえると匿名表現の自由は憲法21条によって保障される3という理解が一般的です。国内の裁判例としては、2020年に大阪市のヘイトスピーチ対処条例の合憲性などが争点となった裁判の1審判決で「匿名による表現活動を行う自由は、憲法21条1項により保障されているものと解される」という判断が示された例があります。4(2022年2月に最高裁判決も合憲判断)

「大阪ヘイトスピーチ 市の条例は合憲の判断示す」NHKニュース映像より(2020年1月17日放送) 「大阪ヘイトスピーチ 市の条例は合憲の判断示す」NHKニュース映像より(2020年1月17日放送)

大阪市のホームぺージより 大阪市のホームぺージより

 「匿名表現の自由」を考える上で重要なのは、匿名性が担保されないことが表現活動を行おうとする人に対する萎縮効果を与えないかどうか、という点です。立命館大学の市川正人教授は、「政府や多数者から見て好ましくないと思われるような内容の表現活動を行う者は、素性を明らかにすることによって『経済的報復、失職、肉体的強制の脅威、およびその他の公衆の敵意の表明』にさらされる可能性が高いのであるから、素性を明らかにしての表現活動しか認めないことはそのような表現活動を行おうとする者に対して大きな萎縮効果を与えるであろう」と指摘しています。5また、京都大学の曽我部真裕教授は、「表現の自由の歴史を振り返ってみても厳しい検閲に対抗する手段として、匿名での出版物が大きな役割を担ったのであって、そこからも、匿名表現の自由の重要性を認識することができる」と記しています。6

 冒頭で触れた総務省の「発信者情報開示の在り方に関する研究会(以下、研究会)」でも、最近起きている具体的な事例を挙げて、匿名表現の自由の重要性が議論されました。例えば、消費者被害を訴える匿名のネット投稿に対し、販売方法などに問題のある企業側が投稿者の発信者情報の開示請求をして消費者側の発信を萎縮させるといった"制度の悪用例"が 目立っていることが指摘されています。7投稿内容が悪意による誹謗中傷なのか、それとも事実に基づく正当な批判なのかは、最終的には裁判所が開示命令を出すか否かの形で判断することになるわけですが、立場の弱い一個人にとっては、身元をさぐる開示請求が行われること自体がプレッシャーになります。発信者が誰なのかが簡易・迅速な手続で判明するようになることは、誹謗中傷被害の早期救済に役立つ一方で、正当な批判をする人を萎縮させることにもつながる恐れがあるのです。

<「匿名表現の自由」をめぐる議論の歴史>

 日本の発信者情報開示制度は、欧米の制度を参考に2001年に導入されました。とりわけアメリカでの匿名表現の自由論に大きな影響を受けていることが指摘されています。8
 アメリカでは匿名表現(=匿名言論:Anonymous Speech)の自由をめぐって争われた裁判が数多くあり、連邦最高裁がたびたび合憲・違憲の判断を示してきました。このうち1960年のTalley v. California事件では、人種差別問題に関して作成者の氏名を記載していないビラを配布した人が逮捕されたことの是非が争点となり、連邦最高裁は、匿名の冊子の配布を禁止していた市条例を「違憲」としました。判決では、古くは独立戦争後、各州に合衆国憲法の批准を促した「フェデラリスト・ペーパーズ」という文書も「パブリウス」という仮名で書かれていたことに言及し、「匿名言論は歴史上、自由を擁護する際の武器であった」と位置づけています。9その根底には、匿名の言論を長く保護してきたアメリカ合衆国の伝統があり、匿名であることは少数者の言論を守り、多数者の専制を抑制するために必要だという理念があると評価されています。10

アメリカ連邦最高裁(資料画像) アメリカ連邦最高裁(資料画像)

 また、この分野で特に著名な判例とされているのが、1995年のMcIntyre v. Ohio Elections Commission 事件の判決です。選挙や住民投票に関するビラに責任者の氏名・住所を記載するよう義務づけたオハイオ州の法律を「違憲」としました。連邦最高裁は、その判決の中で、マーク・トウェインやO・ヘンリーのように偉大な文学者の作品が匿名(ペンネーム)で書かれていることに触れ、「著者の匿名を維持するという決断は合衆国憲法修正1条により保護される言論の自由の一側面である」とした上で、匿名で出版する自由は文学の領域を超えて政治的主張にも及び、特に受けの悪い主張をしようとする者にとって匿名性は必要とされてきた伝統である、としました。11,12
 では果たして「匿名言論の自由」の保障はインターネット上の誹謗中傷にまで及ぶのでしょうか。
 McIntyre 裁判などでは表現内容に対する事前の規制が問題になっていたのに対して、ネット上の誹謗中傷のケースでは既に行われた投稿に対する事後的対応が争点であり、その内容も政治的主張ではなく誹謗中傷という違いがあります。このためMcIntyre判決で示された匿名言論者の権利がそのまま認められるわけではないという考え方がある一方、発信者情報が強制的に開示されれば匿名言論の保護が形骸化しまうという指摘13もあります。結局は、「発信者の匿名言論の自由」と「誹謗中傷を受けた人の救済を受ける利益」との比較衡量がポイントになるわけです。
 アメリカでは、被告が匿名のままでも訴訟を起こすことができます。インターネット上の匿名投稿をめぐって権利侵害の救済を求める場合もその方法が取られ、裁判所からプロバイダーに対し被告を特定するための文書提出命令を出してもらう「ディスカバリー」という手続きが行われます。その際には、とりわけ厳格な基準に基づいて裁判所が可否を判断することになります。匿名を前提に投稿した発信者の実名を明かすことは匿名言論の権利を否定することになるからです。その背景には、原則として匿名表現を保護する判例が積み重ねられてきた伝統があり、例外をどこまで認めるか、慎重な判断がなされているのです。14,15

<日本の制度改正をめぐる議論の焦点>

 アメリカでも長く議論となってきた「匿名表現の自由」と「権利侵害の救済」との関係。これらの両立は、総務省の研究会でも重要な論点になっていたことを冒頭お伝えしました。ここからは、11回に渡って繰り広げられた研究会での議論を議事録や資料からたどります。

meihakusei.gif日弁連の意見書(一部)

 発信者情報開示制度をめぐっては、以前から不備を指摘する声が実務を担う弁護士たちから上がっていました16。2011年6月には、日弁連=日本弁護士連合会が制度の抜本的な見直しを求める意見書をまとめています17。この中では、制度の手続き上の課題に加えて、裁判所が発信者情報の開示を命じるか否か判断する際の要件の1つである「権利侵害の明白性」を重要なポイントとして言及しています。「明白性」とは、匿名投稿の流通(拡散)によって原告(被害者)の権利が侵害されたことが明らかである場合、という要件の規定ですが、日弁連は、「明らか」という文言の意味があいまいである上、厳格かつ抽象的で、「被害救済のみちを閉ざすものと言わざるを得ない」と批判していました。その後、インターネットの普及に伴って誹謗中傷被害が増加したこともあり、有識者で作る総務省の研究会が 制度の見直しにどこまで踏み込むか注目されていました。

「SNS上のひぼう中傷 新たな制度創設へ」NHKニュース映像(2020年10月26日放送) 「SNS上のひぼう中傷 新たな制度創設へ」NHKニュース映像(2020年10月26日放送)

 研究会の議事録をたどると、権利侵害の「明白性」要件は、手続きの簡易・迅速化と並ぶ主要な論点として検討されていたことが分かります。そこから見えてくるのは、この要件が課す高いハードルを安易に下げてしまうと、匿名を前提に投稿をした人の権利が不当に侵害される恐れがあるという「匿名表現の自由」とのバランスの確保への配慮でした。18
 研究会では、企業の不正を内部告発する従業員の身元が特定されてしまえば、公益通報者を守ることができず、企業への批判や告発をすることは難しくなる、自分の体験や感想を口コミサイトに書き込んだだけなのに、『この商品は私には合いませんでした』と投稿しただけで誰が書いたのか突きとめられトラブルに巻き込まれる恐れが生じる―――そんな濫用を可能にしてしまっていいのか、という熱を帯びた議論が交わされていました。19
 そこからは、今の時代の私たちが「匿名表現」の"可能性"と"危険性"にどう向き合うべきか、という根源的な問いが見えてきます。

最終とりまとめの主な内容(筆者作成) 最終とりまとめの主な内容(筆者作成)

 研究会は、2020年12月の『最終とりまとめ』で、発信者情報を特定するために必要な通信ログを迅速に特定・保存するため、簡易な非訟手続でログの特定や保存を命じる「提供命令」「消去禁止命令」を新設し、これまでの要件より一定程度緩やかな基準で判断することが適当であると提言しました。その一方で、発信者の身元を明らかにする「開示命令」の可否を判断する際は、表現行為に対する萎縮効果を生じさせないよう、現在と同様の厳格な要件を維持することを求めました。20
 曽我部真裕座長は、「攻撃されやすい人々がしばしばいわれのない誹謗中傷を受ける、その痛み、苦しみを思うとき、迅速な救済のために多様で実効的な手段が用意されることの不可欠性というのを痛感するところです。活力のある自由で民主的な社会を維持するためには表現の自由が極めて重要なことは言うまでもなく、とりわけ一般市民が声を上げることのできるSNSにおいては、匿名表現の自由というのは重要です。本研究会では、被害者保護と表現の自由とのぎりぎりのバランスを確保すべく真剣な議論が行われ、現時点で可能なベストな提案ができたと思っております」(一部抜粋)と述べ、一連の議論を総括しました。21
 自由で活発な意見交換を促し、表立っては言いにくい本音や真実を伝えることができるデジタル時代の「匿名表現」。無責任で攻撃的になりやすいという問題点に向き合いながら、その新たな可能性をどういかしていくかが、私たちに問われているように思います。
 シリーズ最終回の次回は、ネット上の誹謗中傷被害に向き合う上でマスメディアに期待される役割とは何かを考えます。


【注釈および引用出典・参考文献】
  • 総務省「発信者情報開示の在り方に関する研究会」最終とりまとめ(令和2年12月)5頁
  • 海野敦史「匿名表現の自由の保障の程度-米国法上の議論を手がかりとして-」(情報通信学会誌37巻1号,2019年)2,5頁、曽我部真裕「匿名表現の自由」(ジュリスト2021年2月#1554)44頁
  • 松井茂記『インターネットの憲法学(新版)』(岩波書店,2014年)384頁、毛利透「インターネット上の匿名表現の要保護性について-表現者特定を認める要件についてのアメリカの裁判例の分析」 樋口陽一ほか編『憲法の尊厳』(日本評論社,2017)212頁、
    曽我部真裕ほか『情報法概説(第2版)』(弘文堂,2019年)15~16頁
  • 大阪地判2020.1.17 裁判所WEB判決文34頁、曽我部真裕 前掲2「匿名表現の自由」46頁
  • 市川正人『表現の自由の法理』(日本評論社,2003年)380頁
  • 曽我部真裕 前掲2「匿名表現の自由」46頁
  • 「発信者情報開示の在り方に関する研究会」第1回議事録37-38頁、第2回22-23頁、31-32頁
  • 丸橋透「媒介者の責任-責任制限法制の変容」(ジュリスト2021年2月#1554)19頁、大島義則「匿名言論の自由と発信者情報開示制度――日米の制度比較」(情報ネットワーク・ローレビュー14巻,2016年)24頁
  • Talley v. Californiaアメリカ合衆国連邦最高裁判決(1960年)、毛利透 前掲3「インターネット上の匿名表現の要保護性について」196頁、岩倉秀樹「アメリカの匿名言論の法理と情報開示の法理」(高知県立大学文化論叢4号,2016年)42頁
  • 高橋義人「パブリック・フォーラムにおける匿名性と情報テクノロジー」(琉大法學87号,2012年)24頁、岩倉秀樹 前掲9「アメリカの匿名言論の法理と情報開示の法理」44頁
  • McIntyre判決には、匿名言論の権利保障に批判的なスカリア裁判官らの反対意見が付されている
  • 毛利透 前掲9「インターネット上の匿名表現の要保護性について」196-197頁、
    岩倉秀樹 前掲9「アメリカの匿名言論の法理」45頁、
    大島義則 前掲8「匿名言論の自由と発信者情報開示制度――日米の制度比較」25頁
  • 大島義則 前掲8「匿名言論の自由と発信者情報開示制度――日米の制度比較」26頁
  • 毛利透 前掲9「インターネット上の匿名表現の要保護性について」195-196頁、
    大島義則 前掲8「匿名言論の自由と発信者情報開示制度――日米の制度比較」28-29頁
  • 最近では有害コンテンツ対策の観点から、プロバイダーの広範な免責を認めた通信品位法230条の 見直しをめぐる議論も出てきている。詳しくは、山口真一『ソーシャルメディア解体全書 フェイクニュース・ネット炎上・情報の偏り』勁草書房(2022年)258-261頁、丸橋透 前掲8「媒介者の責任~責任制限法制の変容」21-22頁を参照。
  • 壇俊光・森拓也・今村昭悟「発信者情報開示請求訴訟における『対抗言論の法理』と『権利侵害の明白性』の要件事実的な問題について」(情報ネットワーク・ローレビュー12巻,2013年)
    山本隆司「プロバイダ責任制限法の機能と問題点-比較法の視点から-」コピライト495号(2002年)18頁
  • 日本弁護士連合会「プロバイダ責任制限法検証に関する提言(案)」に対する意見書(2011年6月30日)
  • 「発信者情報開示の在り方に関する研究会」第1回議事録40頁、第2回議事録24-28頁、
    第3回議事録31-34頁、第4回議事録22-23頁ほか
  • 同上 第2回議事録25頁、第3回議事録31-34頁ほか
  • 同上 『最終とりまとめ(令和2年12月)』21,28頁
  • 同上 第10回議事録23頁