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東日本大震災 若者たちがいま語る11年

東日本大震災から11年半。 NHKが震災直後から今も東北地方で放送を続けている番組があります。被災地を訪ね歩き、そこに暮らす人々の声を聞く『被災地からの声』です。これまで出演いただいた方々は5000人以上。中には多くの子どもたちも含まれています。当時幼かった子どもたちは、震災からの11年間何を思い、過ごしてきたのでしょうか?そのリアルな声に耳を傾けます。

この記事は、明日をまもるナビ「東日本大震災~若者たちが いま語る11年~」(2022年9月11日 NHK総合テレビ放送)の内容をもとに制作しています。


11年半続く番組「被災地からの声」

NHK仙台放送局では、東日本大震災の9日後から「被災地からの声」という番組がスタート。岩手、宮城、福島の津波の被災地や、原発事故の影響を受けた自治体に最少人数のスタッフで足を運び、出会った人たちを取材してきました。

「被災者からの声」タイトル
「被災者からの声」タイトル

11年半が経過した今、かつて番組に出演してくれた子どもたちにこれまでの歳月を振り返ってもらい、その思いを聞こうという企画が持ち上がりました。

番組開始から現在までキャスターをつとめるNHK仙台放送局の津田喜章アナウンサーは、企画の意図をこう説明してくれました。

「今まで子どもたちは、取材者である大人のわれわれに、いろいろ語ってくれました。でも、もし同年代の人に向かって話すとしたら、違う本音が話せるんじゃないかと以前から思っていました。そのチャンスがちょうど今頃かなと考え、子どもたち同士で話をしてもらう座談会を開きました」

NHK仙台放送局の津田喜章アナウンサー
NHK仙台放送局の津田喜章アナウンサー

ゲストには、震災の復興に縁のあるお二人をお迎えしました。

小山慶一郎さん(男性アイドルグループNEWS)

東北の被災地を100回以上取材 防災士の資格を持つ

11年をどう捉えるかはすごく難しいんですが、その中で見てきたのは「人の変化」です。震災当時に会ったある女性は、自分の営んでいた料理店が津波で流されてしまって、目の力がない様子でした。でも4、5年目ぐらいの時に「もう一回お店をやりたい」と目標を持った時に目が輝いて、笑ったんですよ。僕はその人が笑った表情を初めて見たとき、人間って強いなと思いました。僕がこの11年見てきた中で、一番驚いたことですね。

秋吉久美子さん(俳優)

高校まで福島県いわき市で過ごす 風評被害の払拭に取り組む

秋吉久美子さん

私は父が仙台出身の家系で、自分は体の半分が東北人だなとしみじみと思いながら、(被災者の)皆さんの前に笑顔で出ることが大事なのか、それとも一緒に泣くことが大事なのか、何をすれば良いのかと考えてきました。6歳から18歳までのアイデンティティーを作ったいわきと改めて歩んで、大人としてのアイデンティティーを試されている気がしました。


【座談会】震災直後、子どもたちは…

今回の座談会は、11年前、津波で大きな被害を受けた仙台市の沿岸部に建つ「荒浜小学校」で開かれました。津波は校舎の2階まで押し寄せましたが、避難していた児童や住民は全員無事でした。現在は、津波の脅威や教訓を伝える「震災遺構」として公開されています。

荒浜小学校で行われた座談会
荒浜小学校で行われた座談会

かつて『被災地からの声』に出演した子どもたちのうち、岩手、宮城、福島から5人が集まってくれました。全員がこの日、初対面です。

座談会の参加者

参加者は、震災当時7歳から15歳。それぞれに参加の動機がありました。

武田慎之介さん(19)

大学1年生の武田慎之介さん。
震災当時は7歳。岩手県大船渡市で津波に遭いました。自宅と家族が営むガソリンスタンドを失いました。

「震災の後の状況に暗いイメージを持っている人がいっぱいいると思っていて、震災後でも明るい出来事があったんだよと伝えたい」

渋谷美音子さん(18)

同じく大学1年生の渋谷美音子さん。
震災当時は7歳。宮城県南部の山元町で津波に遭い自宅を失いました。

「私の周りには、例えば『震災のときに消防の人に助けてもらったからそこを目指しているんだ』とか、そんななかで自分は何もできていないなっていう葛藤があり、被災者体験を生かすことができるのか、答えが見つかるんじゃないかなと思って参加しました」

津田アナ
震災直後はどんなことを考えて生活していたんですか?

渋谷美音子さん

渋谷美音子さん(18)

大学生/宮城県山元町
小1で被災、家族5人で暮らす自宅が全壊。一家で町内陸部に移住

家は見に行きました。一階部分は全部壊れていて、泥だらけでしかも倉庫が突っ込んでいたり、もうぐちゃぐちゃっていう状態だったりしたんですけど。ただやっぱりどこか他人事で、なんかだんだんじっくりじっくり大変だったのかもしれないっていう気持だけだったと思う。

芳賀希実さん

芳賀希実さん(19)

看護学校生/岩手県大槌町
小2で被災、家族4人で暮らす自宅が流失。被災して隣町に移住。
民謡を習って6年後にNHK東北民謡コンクール優勝

玄関のタイルくらいしかわからないって感じで。実感したのは、半壊の人たちが、昼間、掃除しに行ってくるとか家を直しに行ってくるという感じで出かけて行くのを見て、自分は直す家が無いんだなとか、これから自分たちどこに住むんだろうとか、こんな生活一生続くのかなとか、そういうことばかり考えてました。

武田慎之介さん

武田慎之介さん(19)

大学生/岩手県大船渡市
小1で被災、家族6人で暮らす自宅が流失

自衛隊の方がこの母子手帳と大きなぬいぐるみを届けてくれたのかな。母子手帳は洗ってくださったからなのか、今でも字は見られたりするんですけど。当時は母子手帳よりも、ぬいぐるみが来たーって。クマの大きいぬいぐるみで、かわいくて好きだったのが戻ってきました。

髙橋穂南さん

髙橋穂南さん(26)

市職員/宮城県名取市
中3で被災 避難所で半月ほど過ごした

近所の年の近い子どもたちと、家からひっぱりだしてきたカードゲームあるよ、やろうとか。追っかけっこして遊んだり、宿題もないですし。ずーっと子どもたちと遊んでたので、正直楽しいところもありました。

宗像涼さん

宗像涼さん(23)

NPO職員/福島県富岡町
小6で被災、郡山市の避難所で約3か月生活

当時けっこう田舎の富岡町から、都会な郡山に行くとなると、見たことのない食べ物屋さんとか、高いビルとかそういうものに興味をもって。子どもたちで自転車で市内を爆走したりしてというのがあって。意外と子どもたちはかなり楽しんでいた記憶があるんですね。

『被災地からの声』アーカイブス

【2011年8月21日放送 岩手・大船渡(武田慎之介さん:取材当時8歳)】
慎之介さんの父・将司さんがガソリンスタンドの再建を目指していました。そのきっかけは、子どもたちが「スタンドが好き」だと言ってくれたからと語ってくれました。

武田さんと父・将司さん

【2015年5月28日放送 岩手・大槌町(芳賀希実さん:取材当時12歳)】
震災直後、地区の避難所で開かれていた子ども向けの民謡教室。ここで民謡を習い始めた芳賀希実さん(取材当時12歳)はコンテストに出場するまでに。

取材当時12歳の芳賀希実さん
取材当時12歳の芳賀希実さん

【座談会】避難生活で感じたこと

津田アナ
当時を振り返ってみてどうですか?

芳賀さん
まだこのときは楽しんで純粋に頑張ってたんだなと思いました。

芳賀希実さん

武田さん
子ども優先にしてもらってた部分が多いと思うので。だから、昔からおもちゃとかゲームとかいろいろ買ってもらいましたし。いつも帰ってきて子どもたちの「おかえり」の声がうれしかったって父は言ってくれて。新しい家のこともそうですし、いろんなことを子どもたちの知らない所で進めてくれてたんだなと、はい、あります。

武田慎之介さん

宗像さん
父親は優しくしてくれたのはあります。もともと優しいんですけど。それ以上に優しく接してくれたっていうのは結構ありますね。

宗像涼さん

渋谷さん
地震が発生してから一回も泣いてなかったんですね。泣いたら心配かけるんじゃないかなと思ったのもあるし。とりあえず周りに涙は見せないというのは自分のなかで、ちょっと決めていました。

渋谷美音子さん

芳賀さん
自宅再建にあたって、その土地のこととかけっこうお母さんが大変そうだったのは記憶にあって。震災のことは、自分から言うとか特にしなかった。聞かれた時しか答えないで、普通に生活しているみたいな。考えないようにしていたかどうかは分からないんですけど、あんまり口にしていなかったですね。

座談会の様子

宗像さん
私服で入学式だったんで。避難してきたっていうのが丸わかりっていう状態だったんですね。周りは誰も知らない人で、まず友だちは出来るか、学校に馴染めるかっていうのがまず不安だったです。あとはいじめられないかというのももちろんありましたけど。
とにかく、男子のグループに混ざってやんちゃしているというかたちで、バカになったというか。何て言うんだろうな、好かれるように努力したって言うんですかね。


座談会を受けて ゲストの感想は…

小山慶一郎さん
(子どもたちは)やっぱり親たち、大人たちに心配をかけないようにとか、迷惑かけないようにとかっていうことを考えて生活してたんだと思うと、この11年半でとても優しく育ったんでしょうね。
僕も(被災地で)出会ったお子さんで『お母さんが毎日泣くから僕は泣けない』って言ってる子がいました。『どうするの、いつ泣いてるの?』って言ったら、『僕は隠れて泣いてる』って。いや、(泣いても)いいんじゃないのって。みんなつらいんだから。そういう優しさを思い出しました。

津田アナ
私、11年半を通して思うのは、子どもというのは大人が思うよりも基本的に賢いですよ、どの子も。大人の空気を読んで自分をコントロールできますし、気づいていないのは大人の方かもしれませんよね。そういう子どもに対して、逆境をはねのけて頑張れとかね、前向きに生きろと大人が言っても、「言われなくても分かってるよ」というのが真実なんじゃないかなと感じています。

秋吉久美子さん
私は4月11日、3月11日から1か月後に母校の入学式が遅れてあったんです。その時にスピーチをしたんですけど、子どもたちの背中にいろんなものを背負わせたくなかったんですよ。「こういう時だから頑張りましょうね」とか、「あなたたちにかかってるのよ」とか言いたくなかったんですよ。今はとにかく入学したことを祝いあいましょうねということで、一人一人にピンクのバラを渡したんですね。

でもその一方で、なんかきれい事だなって。その数年後に、いわきの会という会で、ある方が近寄ってきて「秋吉さん、あなたの後輩が私の姪なんですけども、あの時のピンクのバラの花がものすごくうれしかったって言ってました」って言われた。それ聞いた時に、ああしたら悪いかなとか、こんなこと言ったら悪いかなと考えて何もしないよりは、何か言ってたたかれればたたかれるでいい、それで励まされる人たちもいる。だから形にしていくのが大事だなと。やって良かったんだと思えました。

『被災地からの声』アーカイブス

【2019年1月5日放送 宮城・山元町(渋谷美音子さん:当時15歳)】
山元町沿岸部にあった自宅が全壊になった渋谷さん一家。自宅を再建するにあたって、「学校を変わりたくない」と泣いたという美音子さんを尊重する形で、渋谷さん一家は被災した町に住み続ける決断をしたとお母さんが語ってくれました。

渋谷さんと家族


【座談会】子どもたちの内に秘めた本音

髙橋さん
本当に辛いことってなかなか人に話せないと思うんですね。はじめからみなさんって、みんなに震災の話ってできてましたか?

宗像さん
中学高校とか専門学校の時は被災者だってことは言ってたけど、詳しいことは友だちには言ってなかったので。
(避難先の)郡山での人生を歩みたかった。普通の学生で歩みたかったから、触れないようにしてたのと、言うとなんかいろいろ聞いてくるだろうなって思ってたんで。学生のうちは何も言わないようにしようって思ってました。

宗像さんの学生時代の写真

渋谷さん
話せって言われたら、たぶん震災翌日でも普通に話せると思うんですけど。ただ、被災したといって、「辛かったね」とか必ず同情の言葉とか励ましの言葉とか、そういうのは別に求めてないんだよなって思った結果、聞かれても軽めに答えるみたいな感じになっちゃうのかなあって思います。

座談会の様子

津田アナ
髙橋さんが(仕事として)役所の職員を選んだというのは震災の影響はあるんですか?

髙橋さん
そうですね。やっぱり避難所に居た時に、その市職員の方たちは、自分の家もまだ片付いていないであろう時に、みんなのために毛布運んできたり、ごはん持って来たりとか、いろいろやっててくださったので。
少しでもそうやってちょっとずつ、人のためになるような仕事が出来ればいいなと思いまして市役所を受けました。

座談会の様子

宗像さん
自分の人生がころっと変わってしまったのは感じています。自分の体験したこと、語り部を仕事にしていることを思うと、今振り返るととんでもない人生だなというのは、身に染みています。

芳賀さん
確かに悪かったこととしては、その家が無くなったとか、学校変わったとか、いろいろあるんですけど。
転校したから新しい友だちにもたくさん出会えたし、それこそ民謡にも出会えたし、自分にとってはそれも人生というか、悪いこともあり良かったこともありって。

渋谷さん
自分からしてみると、震災は別に全てではないんで。震災経験したから、どうだったとか、だからこそ今があるみたいな感じには全然捉えてなくて。
「被災したからこそ、今こういうことをやりたいんだ」という声を聞くと、自分の被災体験の意識が足りないのかなとか、そういう焦りは感じたりはしています。

小学校の授業で「震災を振り返って」という作文を書くっていう機会があって、震災について考えてたことを付箋に書き出そうとか、震災後で何か変わったことを書き出そうとか、被災したからと言って、そのほかはなにも変わらないのに、何をするべきなんだろう、何を求められているんだろうっていう思いはありました。

武田さん
同じように作文もあって、被災者としての悲しいコメント、そういうマイナスな部分、こういうことがあって寂しかったとか求められているのかなって。自分はずっと家族一緒に過ごす時間が長くて、みんなでわいわいしながら、クリスマスだったりいろんなイベントあるごとに盛り上がったり、毎日が楽しかったですね。

宗像さん
よく聞かれるのは、「原発の事故で苦しかったですよね」とか、「辛かったですよね」とか。確かに避難はしたけど、別に人生ぶっ壊されたとか、命失くしたとかでもないし。
新しい所で第二の人生を歩んでいくというのは僕はできていたので、そんなに原発事故でつらかったですかと言われると「普通」って答えることはあります。

座談会の様子


座談会を受けて ゲストが伝えたいこと

塚原アナ
5人それぞれの意見だったと思いますが、秋吉さんは?

秋吉久美子さん
この次のステップの中で、語り部じゃないけど伝えていくこととか、それに意義を求める方、それから普通に生きていくことにこそ価値を置く方、一人一人みんな違うと思うんですよ。こうでなきゃいけないってことはない。そのとんでもないことを貴重な体験にして、そして次なることが起こった時にちゃんと向き合えるということが大事なことなんじゃないかな。

小山慶一郎さん
宗像さんがVTRでおっしゃってた「復興って何なんだ?」っていう言葉って、けっこう僕はテーマにしていて。復興ってどういう風になったことを言うんだろうってずっと考えてるんですよね。
町の「復旧」は見てきたんです。どんどん変わっていくし、町が戻っていく。じゃ復興してるってどういうことを言うんだろうって。津田さんにもお聞きしたいです。

津田アナ
これは完全に僕の感覚ですけども、震災の話を向けられて「そうだね。そんなこともあったね」って自然にふっと言えるくらいの感覚になった時が、皆さんね、それが復興した時なんじゃないかなと思うんですよ。そこに何の躊躇(ちゅうちょ)もなく、「ああそういうことあったよね」って言えるぐらいになった時が復興かなと。
だから、それはもっともっと本当に先のことだと自分の中では感じてますね。

塚原アナ
「被災地からの声」にならって、お二人にいま一番伝えたいことをスケッチブックにお書きいただきたいと思います。

小山慶一郎さん
僕が書いたのは、これです。
「自分ができる“伝える”を」
あんまり大きいことは言えないので、自分ができる範囲のことをやっていこうって思うんです。
僕は震災当時に1歳の男の子と出会ってるんですけど、その子が今大きくなって普通に会話できるようになったわけですね。その子のお母さんは旦那さんと娘さんが流されてしまって、今も行方不明なんですけど。当時のことは(男の子は)知らなくて。お母さんがどれだけ頑張って苦しい思いをしてきたかっていうのをずっと見てきたので、僕はその子に伝えてあげられるなって。さらに仕事の中でファンの方々に被災地で見てきたものを伝えられる。自分のできる範囲で伝えていけば広がっていくんじゃないかと思います。

秋吉久美子さん
私の場合は、
「輝いて、生きて」
一人一人、今言えること、今だから言えること、今言ってもまだ強がりであったりすること、いろいろあると思うんですね。この11年の中で、直接被災していない者たちにとっては、なかったことをいろいろ、味わってこられたと思うんです。
その中で偏見とか差別とか同情とかにさらされながら、自分であり続けようとしていると思うんです。11年たってこう思ったっていうのは、まだそれはプロセスの段階なのかもしれない。でも輝いて生きてほしいし、それを守っていくのが大人の義務で誠意かなと。

津田アナ
これは震災に限らないとは思うんですが、人間一番つらいのは誰も気づいてくれないとか、そういう状況だと思うんですね。でも、お二人の今の言葉は、私はあなた達のことをちゃんと見てますよと言ってくれている言葉だと思うので、大変うれしい言葉だったと思います。

最後に一つ付け加えたいんですが、今回参加を打診した人の中には、今も震災のことを話すのが辛いからって言って断った方もいらっしゃるんです。今後もそうした多様性を大事にした取材というのを続けなければいけないなと、改めて胸に刻みました。


若者たちが伝えたいこと

座談会を終えた若者たちに、「伝えたいこと」をスケッチブックに書いてもらいました。

●髙橋穂南さん「震災を忘れない」

髙橋穂南さん

●武田慎之介さん「感謝!地元に恩返しすっぞ!!」

武田慎之介さん

●芳賀希実さん「看護師になって地元に恩返し」

芳賀希実さん

●宗像涼さん
「県をこえたつながり 震災で変わった生き方に感謝とこれからの自分に頑張れ」

宗像涼さん

震災がなかったら今のような生き方はなかったと思いますし、震災に感謝するわけではなく、震災で変わった自分に感謝する、っていう意味で書きました。

●渋谷美音子さん「震災だけが人生ではない これまでの縁に感謝!」

渋谷美音子さん

震災もひとつの通過点というか、震災経験しただけのただの人間なので。それでもたくさんの縁に恵まれてここまで来たので、まずはその感謝とこれからも自分なりに頑張っていこうっていう決意を込めて、このメッセージにしました。

座談会参加者の集合写真