この記事は、明日をまもるナビ「大震災から11年 被災地のいまを伝え続ける」(2022年3月13日 NHK総合テレビ放送)の内容をもとに制作しています。
震災の9日後から毎週放送
「被災地からの声」は、岩手、宮城、福島の津波の被災地、原発事故の影響を受けた自治体に、最少人数のスタッフで足を運び、出会った人たちを取材してきました。その数はのべ5000人を超えました。
番組開始から現在まで番組キャスターを務めているのは、仙台放送局の津田喜章アナウンサーです。
津田アナウンサー
私も宮城県石巻市にあった生まれ育った家を津波で失いました。自身の被災体験を胸に取材し、被災地の今を語り続けてきました。取材方法は番組開始から変わっていません。「今、いちばん伝えたいこと」を書いてもらい、その思いをじっくりと伺ってきました。
●2011年3月20日 被災地からの声 第1回放送

津田アナウンサー
私は生まれも育ちもずっと宮城県石巻市です。もう十日たちますけれども、十日たった今もこれが夢だったらいいのにという思いで毎日暮らしております。
取材は、震災直後の避難所で始まりました。
人々は突然の出来事に戸惑いながら、家族の安否を気遣っていました。
●2011年3月22日 宮城 名取
避難所に身を寄せる小野さん一家の悲痛な訴えです。
「小野昭を探しています。家族が名取一中で待ってます。早く帰ってきてください」
●2011年3月28日 岩手 宮古
「今まで何十年もかかって築き上げてきたと言いますか、それが一瞬にして無くなったということです。自信も何もないですけれども、頑張るんだという気持ちだけあります。自分の力で頑張ります」
●2011年4月28日 岩手 陸前高田
被災地の小学校では2週間遅れの入学式が開かれていました。実家の母親が行方不明のなかで、長男が1年生になった吉田勝実さん・悠晟くん親子です。
「震災に勝つ!!(入学できて)うれしいです」(悠晟くん)
「とにかくこの子たちが希望であり夢であると思うので、これから大変な思いをすると思いますけど、カバーしていければと思っています」(勝実さん)

●2011年4月6日 福島 二本松
一方、福島の人たちは、原発事故によって避難を強いられ、底知れぬ不安を抱えていました。
「前の状態に何とか戻すように頑張ってもらいたいと思います。今後いつ帰れるか、その目標に向かってこれから生活していきたいので、今後の生活のために、はっきりした答えが欲しいと思います」
2012~2017 仮設からの再出発
津田アナウンサー
私たちは取材で被災地の方々が一度見に来てくださいと呼びかけるのをよく聞きます。そこには復興の進み具合をイメージだけで想像しないで、実際に建物一つない更地を目で見て、どれだけ復興が遅いかを確認してほしいという強い思いがあります。
●2012年2月5日 岩手 大槌町
仮設住宅への入居が始まると、一人一人の暮らしぶりも取材するようになりました。

仮設住宅では強い寒波に見舞われ、水道の凍結が相次ぎました。床のマットをめくると、寒暖差による結露で床がぬれていました。津田アナウンサーが座るだけで衣服がぬれてしまいました。

●2012年12月6日 岩手 宮古
被災した店舗のために、各地に「仮設商店街」が建設されました。店主たちは再建の道を模索していました。
創業90年の商店を仮設商店街に開いた箱石文子さんが、不安な気持ちをぶつけました。
「どっちを向いていいのかわからない!!」

「足を踏み出そうとしても、気持ちまで仮設なんですよね。何をやっても落ち着かないんですよ。これから4年5年待って、下(元の場所)にお店出したときに、田老(地区)の人口がどのようになっているのかなという不安。お店で食べていけるのかな」
●2016年3月3日 岩手 大船渡
地域の伝統を大切に守り続ける人たちにも出会ってきました。
江戸時代から続く「浦浜念仏剣舞(けんばい)」。亡くなった人を踊りで弔います。津波で詰所が流され、道具や衣装のほとんどを失いました。
「道具や衣装は全損だったのですが、踊りが流されたわけではない。踊りは、みんなの心に残っているわけですから」(保存会の会長)
震災後、初めて踊ったのは亡くなった人の供養のためでした。
「(供養では)ここは、ばあちゃんの亡くなった所、ここは誰それが亡くなった所と、場所を確認しながら、香炉を持って焼香しながら、まわって歩いたことは生涯忘れられないシーンだと思います」(保存会の会長)

●2016年7月28日 岩手 大船渡
震災から5年後、仮設住宅からの退去が進んでいました。地区の公民館では、仮設住宅の「お別れ会」が開かれました。会を主催した仮設住宅の自治会長の鈴木健悦さん。さまざまな行事を通して、住民の結束は固まっていきました。
「被災して大変だったけど、地域の人たちが何も文句言わないでひとつの方向を向いて行動できたのは非常に貴重な経験だった」(鈴木さん)

「千年に一度を体験 何事にも負けず 明日に向って頑張ろう 越喜来精神で」
●2017年5月7日 宮城 石巻
震災から6年後。被災者向けの災害公営住宅で、内覧会が開かれていました。新居を見にきた舘山千鶴子さんは、1週間後、仮設から引っ越す予定です。
「感動してる。まさか、こんなになっているとは。きょうから住もうかな。布団敷いておくか」

「支えてくれた皆様に感謝」
「終(つい)の住みかに移れるということがすごくうれしいので、皆さんに感謝したいです」
2018 時がたっても…
震災7年を前にした放送で、津田アナウンサーは時がたっても癒えない心の傷をかかえている人たちの存在を伝えました。
津田アナウンサー
「周囲から『いつまで震災を引きずっているんだ』と言われて傷ついた」というような人に数多くお会いします。亡くなった方や被害の大きさによって心が癒えるまでには著しい個人差があります。
●2018年4月28日 岩手 宮古
大切な人を亡くした悲しみが癒えない人たちもいました。
岩手・宮古市の佐々木雅子さん。地元紙の元新聞記者です。夫婦で勤めていた支局を津波が襲い、夫は目の前で流され、亡くなりました。
「今でも一人では行けない。ここで主人が流されたという気持ちがあるせいか、一人で行くのは…」

「朝は必ず来ます 毎日が夜ではない!」
「今これを乗り越えれば、どこか針穴から明るい光が入ってくる。そう思いながら、ひとつずつちょっとずつ、やってきました」
2020~ ふるさとは奪われたまま…
福島では、避難指示の解除が進む一方、10年近く経ってもふるさとに帰れない人たちもいました。
●2020年10月3日 福島 浪江町
帰還困難区域の元住民、馬場績さんの一時帰宅に同行しました。ここは放射線量が高いため、自由に立ち入りができません。
草に埋もれた家。
「元の姿がないです。あれから10年たつんだよね」
「地図上は浪江町津島って残っているけど、生活のすべてが奪われたという意味では、地図上からも消えちゃったと言っても過言ではないでしょう」

「原発事故がなければ…原発が憎い」
「あきらめろと言われてもあきらめられないね。俺は、最後まで頑張る」
●2021年11月6日 福島 双葉町~いわき
東京電力福島第一原発がある双葉町。全住民の避難が続いています。
双葉町出身の90歳の佐々木トメヨさんを訪ねました。いまは福島県内で息子と暮らしています。一緒に避難した夫は、故郷への帰還がかないませんでした。
「(夫は)『家には帰りたい帰りたい』って死ぬ1か月前ぐらいには『家に帰ることはできないのか』と語っていました。荷物をまとめて背負って、『お上(国)の言うことばかり聞いていられるか』と通らないことを言って…」
「双葉町に帰りたい気持ちは変わりません」
「私は帰りたい。帰って、あそこで旅立ちたいと思っています」
2022 「その後」を訪ねて
番組では、過去に取材した人を再び訪ね、皆さんの「その後」を伝え続けています。2022年2月、震災直後に出会って印象的だった人を訪ねました。
●2011年7月31日 宮城 気仙沼
村上文子さん(当時50歳)です。先が見えない中で、130日を越えた避難所での生活。焦燥感にかられるみんなの思いを代弁して、私たちに訴えてきた人です。

「東京の人たちはみんな『気仙沼は頑張っている』『復興してえらい』って言うけど、それは市民がえらいの。我慢して頑張って自分たちで何とかするってやっている人たちはいっぱいいる」
あれから11年―
津田アナウンサー「避難所のこととかはあまり思い出したくはないですか?」
村上さん「時々思い出して、笑い話みたいにはできますけど。映像とか見たときに、リアルに自分がその中に入っていると、怖いのかもしれないですね。同じことがまた起きるかもしれないじゃないですか」
村上さんは仮設住宅をへて、6年前に自宅を再建しました。
「仮設から出て復興住宅に入った方々も、いろんな事情で入っているわけで。そこにコロナが追いうちをかけて、コミュニケーションを取りづらい状況をつくっているのを見たり聞いたりしていると、自分で何ができるんだろうって、ずっと考えてますね」
3年前から村上さんは、知人たちと雑貨などを売る市場を開催。コロナ禍で延期することもありましたが、市内各所で10回以上開いてきました。
「家に閉じこもっている方を引っ張り出すひとつのきっかけになるんじゃないかなと考えて」
「元気に生きる!!」

●2011年11月6日 宮城 山元町
もう一人、会いたかった人がいます。震災前から知り合いだった宮城県山元町のイチゴ農家の菅野孝雄さん(当時65歳)。津波で自宅と農業用ハウスを失いました。

「『よく頑張ってるなぁ』と言われるんだけど。実際は頑張っているとか何とかではなく、気持ちというか、もがいて苦しんでいるというか。早く自分の土地でイチゴを作りたい」
あれから11年―
菅野さんは元の場所でイチゴ作りを再開していました。
「とにかく俺はイチゴを作らないと、あと何もできないんだ。イチゴさえ作れば食っていけるようになるんだって」

再建を支えたのはボランティア。のべ1000人が全国から駆けつけました。
「世の中の人に背中押してもらえた。そうでなければ11年で恐らくここまでこられなかった。形はできても精神面で立ち直れなかったんじゃないかな」

震災後、山元町のイチゴ農家は半減しました。
「自分は何とか食べていけるようになった。ただ、みんなも今まで同じかと言ったら、違う人もいるので、その人たちのことも今度は心配しないとダメだなって」
これからも「一番伝えたいこと」聞き続けていく
津田アナウンサー
ふるさとがガレキに埋め尽くされたあの日から11年。取材を続ける中で、もう「被災者」ではないと出演を断る人も増えました。一方で、「忘れてほしくない」と訴える人もいます。10年経ったからようやく話せるようになったという人もいます。
私たちは、これからも被災地に足を運び、皆さんの「一番伝えたいこと」を聞き続けていきます。
【番組サイト情報】
NHK仙台放送局「被災地からの声 つぎの一歩」
