この記事は、明日をまもるナビ「関東大震災 自然災害伝承碑を歩く」(2023年4月9日 NHK総合テレビ放送)の内容をもとに制作しています。
知られざる被害を伝える自然災害伝承碑
今、大都市で大きな地震が起きた場合、より深刻な被害になると懸念されています。そうした地震に備えようと、100年前の震災を研究しているのが名古屋大学特任教授の地震学者・武村雅之さんです。当時の被害を伝える石碑の調査に20年前から取り組んでいます。
自然災害伝承碑とは、過去に起きた自然災害の被害を伝える石碑やモニュメントのことです。
「災害伝承碑は、市民が建てたものばかり。市民目線の情報が入っている、他にない非常に貴重な資料なのです」(武村さん)

神奈川・土砂災害の恐怖を伝える石碑
死者・行方不明者10万5000人。日本の歴史上、最悪の震災となった関東大震災。
震源域とされるのは相模湾です。震度7の大きな揺れが広い範囲で発生し、そのほとんどが神奈川県でした。
被災直後に撮影された鎌倉の映像が残されています。鶴岡八幡宮など、神社・仏閣が倒壊。重さ121トンの鎌倉の大仏が、30センチ前に動きました。


当時40万人が暮らしていた横浜でも、震度7の大きな揺れがあったと考えられています。当時の横浜市の面積は、(旧)東京市の半分以下でしたが、全壊した住宅数は東京を上回りました。横浜の中心部では火災も発生し、犠牲者は2万6000人を超えました。

小田原市根府川地区では、一瞬のうちに多くの命が奪われました。
2度にわたって起こった土砂災害によるものでした。
なぜ、大きな被害が出たのか?地震学者の武村さんが訪ねました。
最初に向かったのはJR根府川駅。相模湾を一望する風光明媚なこの駅の山側には、崖がそびえています。今では住宅が建ち並んでいるこの場所が、100年前は土砂災害の現場でした。

1回目の土砂災害では、地震の発生とともに崖が崩れて、駅を直撃しました。ほぼ同時に、根府川駅に入ってきた列車が駅もろとも土砂に飲み込まれ海へ転落。131人が犠牲になりました。

駅の構内に、当時の犠牲者をしのぶ石碑があります。関東大震災50年を機に建てられました。
二度目の土砂災害は「山津波」(土石流と考えられている)です。
集落から4キロほど離れた大洞山の一部が崩れ、山津波が発生。大量の土砂が根府川の集落に押し寄せ、289人の命を奪いました。

そのときの犠牲者をまつるのが岩泉寺です。境内から続く坂の途中に立つ、大きな石碑。被害に遭った犠牲者の供養塔で、遺族たちが震災の2年後に建てたものです。石碑の裏側には、犠牲者一人ひとりの名前が刻まれています。
山津波のすさまじさを今に伝える場所があります。お釈迦様をまつる釈迦堂です。
ご本尊を拝むには、3メートルほど地下に降りなければなりません。
この釈迦如来像が作られたのは、およそ400年前。当時は地震が頻発していて、世の中の安泰を祈るために建てられたと伝えられています。
ご本尊は、最初から地下にあったわけではありません。関東大震災の山津波で、地中に埋まってしまったのです。
「震災の前は、少し見上げるぐらいの高さにあったそうですが、山津波で埋没してしまった。その後掘り返してみたら、指の先まで全く傷ついたところがなかったので、より人々の信仰を集めるようになった」(武村さん)

釈迦堂の入口には、詳しい解説文が掲示されています。執筆したのは、地元の郷土史家、内田一正さんです。
内田さんは、10歳のときに関東大震災を体験。その後、農業に従事しながら、被害の実態を独自に調査し、詳細な記録を残しました。その記録は防災の研究者から高く評価されています。
内田さんは既に亡くなられていますが、子孫が今も根府川に住んでいます。
地元でホテルを経営する長男の昭光さんは、父・一正さんから受け継いだ関東大震災の記憶を、次の世代に伝える活動を続けています。

「ドーンと地震が来た後、歩けなかった。はいずって縁側まで行ったら、少し地震が落ち着いた。さあ、逃げなくちゃいけないと、自宅から数メートル上がって振り返ったら、土石流で家が全部流れてしまった。
『生死を分けるのはその5分間だよ』って。『5分間自分がどうするかっていうことはうんと大事なんだ』と。これは、口癖のように言ってましたね」
集落のおよそ8割が土砂に埋没。生き残った人々も食料が少なく、飢えに苦しんだそうです。
昭光さんは父・一正さんのこんな話を覚えています。
「(一正さんの)母親は『一緒に泥の中埋まっちゃえばよかった』って言ったらしいんですよ。父はその話をすると、うるうるとするんです。僕もちょっとうるっとして、頭に焼き付くほど覚えてるんですよね」
400人以上が犠牲になった根府川の土砂災害。地元に残る自然災害伝承碑が関東大震災の恐ろしさを、令和の今に伝えています。
内田一正さんの直筆の根府川の地図が今も残されています。みかん農家だった内田さんが調査を始めたのは、60歳を超えてからだそうです。

「内田さんがきちんと調べてくれたおかげで、どこが崩れてどういうふうに土砂が流れ下ったかを我々は知ることができます」(武村さん)
武村さんは、災害伝承の大切さをこう強調しています。
「過去の災害を知っているか知ってないかで相当違う。内田さんのお父さんがおっしゃっていた生死を分けるような5分間の行動は、過去の経験をきちんと踏まえていることで実行できるんじゃないか」
静岡・津波から命を救った過去の教訓
東京から100キロ離れた静岡県熱海市。この地が関東大震災で大きな被害に見舞われたことはあまり知られていません。
目の前に広がる相模湾。ふだんは穏やかな海が牙をむき、津波となって町を直撃し、多くの命を奪ったのです。
津波は、本震の揺れの5分後くらいに前後2回、高さ6メートルに達したそうです。熱海では77人が犠牲になりました。
地震学者の武村さんが訪ねたのは、熱海市内の温泉寺。境内には当時の被害を伝える慰霊碑「大震災万霊塔」があります。
この塔は、熱海のお寺と静岡県下のいくつかのお寺が一緒になって、亡くなった方の冥福を祈るために、震災の翌年に建てられたそうです。
その由緒が書かれた塔記には、次のような記録が残されています。
『大正12年9月1日午後昼時 突然に大震火災が起こって、天が崩れて地が裂けて 加うるに海嘯(かいしょう)・・・』
「海嘯」とは津波のこと。関東大震災の時の熱海の津波の被害が記されています。
近くの観光地、伊東地区でも被害は甚大でした。津波の高さは3メートルで、犠牲者は80人を超えました。

ところが、犠牲者を全く出さなかった地区がありました。熱海と伊東の間にある、現在の伊東市・宇佐美地区です。この地区の人々は、なぜ助かったのでしょうか?
武村さんは、この謎を解く鍵が宇佐美地区の行蓮寺(ぎょうれんじ)にあるといいます。
海岸のすぐ近くにある寺の境内には、高さ2メートルほどの石碑「万霊塔」(ばんれいとう)が立っています。
そこには「元禄十六年」の文字が刻まれています。江戸時代の石碑が、大正時代の関東大震災とどう結びつくのでしょうか?
武村さんの調査によると、この石碑は、220年前の江戸時代の元禄16年(1703年)に起こった「元禄地震」の犠牲者に対する慰霊碑です。当時の宇佐美の人々は、地震が来てすぐに高台に逃げなかったために、380名もの犠牲者を出したそうです。
「関東大震災の時は、おそらくその教訓が生かされて、地震の揺れを感じた時にすぐに高台に避難して、1人の犠牲者も出さなかったのです。まさに220年前の教訓が生きていた」(武村さん)
関東大震災の津波で80人以上の犠牲者が出た伊東地区にある佛現寺(ぶつげんじ)の境内には、江戸時代の地震と関東大震災の慰霊碑が並んで立っています。
震災の慰霊碑には「九月一日を忘れるな」と刻まれています。先人たちは安全な高台への避難を強く訴えているのです。
伊東市も、関東大震災の教訓を生かそうと、津波の浸水地点を示す標識をおよそ40年前に各所に設置しました。
しかし、標識をどこに設置したのか、記録がありません。武村さんは実際に歩いて、一つひとつ調査をしています。
今回の取材で確認できた津波の標識は、街路樹の植え込みの中や人目につかないところにひっそりと佇んでいました。

武村さんは、「標識を立てて示すことは、津波の注意喚起の意味では非常に良いこと」だと評価する一方で、このように人目につかない状態になった一因として、「1970年代からこの地域で続いた伊豆東方沖群発地震による観光業の落ち込みから、あまり地震のイメージを表現したくないという社会的な要求もあったのでは」と分析しています。
災害の教訓を伝える石碑の情報を知るために、国土地理院では自然災害伝承碑のデータベースをインターネット上で公開しています。
皆さんもぜひ検索してみてください。
【参考】
国土地理院「自然災害伝承碑」のホームページ
※NHKサイトを離れます
東京・下町の火災はなぜ広がったのか
100年前の関東大震災では、火災による甚大な被害が出ました。
全壊または焼失した家屋は32万棟以上で、死者・行方不明者10万5000人のうち、その9割が火災による犠牲でした。昼食の用意に使っていたかまどや七輪から相次いで出火し、街を一気に飲み込んでいきました。
当時どこで出火し、どのように火が広がっていったのかを記録した地図があります。

赤い丸が地震直後に出火した場所。矢印は火の広がり方を示しています。
出火場所は134か所にのぼりました。

なぜ火災で多くの人たちが命を失ったのか、研究が進められています。
都市防災が専門で、火災に詳しい埼玉大学特任准教授の西田幸夫(にしだ・ゆきお)さんは、残されたフィルム映像の中で、人々が避難せず火災を眺めている姿に注目しました。
「火災の延焼速度は、人の歩く速さより遅いですから、うまく火をかわせば助かるというつもりでいたのだと思います」(西田さん)

当時の記録を元に火災の広がり方を再現しました。地震発生から3時間、各地で発生した火災が、強い風にあおられて急速に広がっていきました。
火災が拡大した場所の一つ、浅草の映像を見ると、人々は火災を見ている余裕がなくなり、持てるかぎりの家財道具をたずさえて、避難を始めます。
やがて、それは大きな人の流れとなりました。大通りには大勢の人が押し寄せ、身動きさえ満足にできない状態になっていたことがわかりました。
「群集になって避難すると、その先、火災が発生していれば、避難方向が限られる。そこでうしろから人がどんどん来れば、そこで避難できなくなって、亡くなる可能性はあると思います」(西田さん)
各地の広場という広場は、すべて人で埋め尽くされました。その中に危機的な状況に陥っている広場がありました。三方から迫る火災に取り囲まれ、逃げ場のない状況になっていました。


この広場は東京ドームの1.5倍の広さがあり、4万人が逃げ込んでいました。
そして、この数時間後。この場所で、関東大震災の犠牲者の3割以上、3万8000人が命を落としました。大きな火災で発生する、『火災旋風』に襲われたのです。

これは、生き残った人々の証言をもとに描かれた当日の様子です。火や煙を巻き込んだ竜巻が人や家財道具を吹き飛ばす『火災旋風』と呼ばれる現象が発生し、多くの人の命を奪ったと専門家は考えています。

大きな火災が起きると、強い上昇気流が生まれます。そこに横風が吹き込むと、炎を回り込むように風が流れ、ぶつかるところで渦が生じます。これが次第に大きくなり、竜巻のような旋風が発生します。
この火災旋風は、広場を何度も襲い、一帯は火の海と化しました。
火災旋風によって拡大した被害によって、東京の市街地の4割以上が焼失しました。
武村さんは、100年前の東京の大火災の一つの大きな原因を、東京の都市計画がうまくいってなかったことだと見ています。
室町時代(1460年頃)の地形図を見ると、現在の隅田川の東側は全て湿地帯でした。江戸時代以降に、ここを埋め立てて人が住むようになりました。
明治維新になって町工場がたくさん建ち、人口が爆発的に増えていきました。ところが、その時にきちんとした都市計画が実行されていなかったのです。

野放しに住宅が建てられていった時に関東大震災が発生。軟弱地盤で多くの木造家屋が倒壊し、そこに火が回り、被害を拡大していきました。
さらに、関東大震災の後、東京の市街地はどんどん外側に広がっていき、周辺の区部には、無計画に作られた木造住宅密集地域が今もたくさん残っています。
このような地域に住む人たちに大切なのは、「近所とのつながりを作ること」と武村さんは言います。隣近所の人と一緒に町の防災を考えることで、災害時に助け合う態勢ができます。
関東大震災の伝承碑を調べてきた武村さんは、今年の関東大震災100年を機に考えてほしいことを、こう呼びかけています。
「100年前の人が、もう二度とあんな災害に遭いたくないという強い意志で東京を復興しました。どうしたら東京がみんなの住みやすい町になれるかを、もう一回考える。そういう機会に関東大震災100年を使っていただきたい」

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