災害が発生すると、避難所では密閉・密集・密接のいわゆる「3密状態」になることが心配されます。
9年前の東日本大震災では、ピーク時で3,000人が避難した福島県最大級の避難所でも、感染症拡大との闘いがありました。住民たちが避難生活に疲れて体力も落ちる中、劣悪な衛生状態の中でノロウイルスが急速にまん延していったのです。
感染拡大を防ぐには、密集している住民に別の場所に移ってもらう必要がありましたが、先行きの不安を抱える住民の理解を得るのは容易ではありませんでした。被災者と支援者の溝が埋まらない中で、患者は240人まで急増。さらなる感染拡大の危機は、どのように回避されたのでしょうか?避難所を守った人々の証言を通して見つめます。
※この記事は、番組「証言記録 第93回 感染症から巨大避難所を守れ」(2020年6月14日 NHK総合テレビ放送)を基に作成したものです。
「感染症から巨大避難所を守れ」
巨大避難所を襲った感染症
ノロウイルスとの闘い
- 衛生と消毒の徹底
- 密集状態の改善1:住民感情を理解する
- 密集状態の改善2:環境を整備する
新たな感染症の予防
- 住民名簿と地図を作成する
- つながり強化1:喫茶室を開設する
- つながり強化2:イベントを企画する
- つながり強化3:自治会をつくる
新型コロナ対策への教訓
巨大避難所を襲った感染症
「ビッグパレットふくしま」を目指す避難者たちの車両
2011年3月。震災発生から5日後、避難所となった福島県郡山市の「ビッグパレットふくしま」に、福島第一原発周辺の住民が続々と避難してきました。避難所として使えたホールの一部や通路はたちまち埋め尽くされ、トイレの戸から50センチも離れていないような場所にも毛布が敷かれる状況でした。
歩くところもないほど密集・密接した状況になった避難所
避難生活が2週間ほど過ぎた4月初旬、医療チームの恐れていた事態が発生します。避難者の1人が、感染性胃腸炎を発症したのです。原因は感染力の強いノロウイルスでした。患者の排泄物やおう吐物に多く含まれ、適切に処理をしなければ、乾燥して粉塵となり空気中を漂います。免疫力が落ちている高齢者や要介護者が感染すると、脱水症状から命に関わる場合もあり、また最悪の場合、医療崩壊も避けられません。
感染者を早期発見しようと、医療チームは住民の健康状態の聞き取りを始めますが、避難所には住民の名簿がなく、感染者の行動履歴や濃厚接触者の調査は難航。初めて感染が確認されてからわずか5日で80人に症状が現れ、医療チームは県の災害対策本部に応援を要請しました。
ノロウイルスとの闘い
4月11日、応援要請を受けて駆けつけたのが県職員の天野和彦(あまの・かずひこ)さんです。この時、感染者はすでに100人を超えていました。住民の居住スペースは食事も寝るのも同じ空間。人が密集しているためこまめな清掃ができません。食料が腐敗したり、寝床の毛布にはカビが生えたりすることもありました。この環境を改善するには、運営チームと医療チームの連携が必要だと天野さんは考えました。
福島県職員 天野和彦さん(当時)
「(住民のみなさんの)表情が本当に乏しく、笑顔が全くなくてですね。一体これはどうしてこういうことになるのだろうと。医療職だけでは難しいこと、町村の行政職員の方々だけでは難しいことを補完する。隙間を埋めていこうと。」(天野和彦さん)
衛生と消毒の徹底
県の保健所からも、保健師の古山綾子(ふるやま・あやこ)さんが支援に入りました。行われた対策は現在の新型コロナウイルス対策にも通じる部分があります。まず、感染源として最も警戒されたトイレに張り紙をして、手洗いとアルコール消毒を促しました。アルコール消毒液も、効果を最大限発揮させるには正しく使う必要があります。
「手が濡れた状態でアルコールを付けると、アルコール濃度が下がって消毒効果が落ちてしまうんですね。なのでペーパータオルを置いて、しっかりと手を拭いてから使ってくださいとお願いしました。」(古山綾子さん)
また、患者が吐き出した物にはノロウイルスが大量に含まれるため、慎重に処理しなければいけません。
保健師 古山綾子さん
「直接触れないことと、すぐに遮へいすることが大事です。新聞紙とビニール袋を配って、まず吐いたものに新聞紙を被せて、そのあと近くの看護師や保健師に連絡してくださいとお話ししました。」(古山綾子さん)
密集状態の改善1:住民感情を理解する
次に、天野さんが住民の密集状態を改善すべく、居住スペースの区画整理に動き出します。最優先で取り組んだのは、感染症リスクの高いトイレの周辺にいた人たちでした。ところが、住民から予想外の反応が返ってきたのです。
「この場所(トイレの周辺)は不衛生なので移動してもらいたい、と相談しても『ここは俺の場所だ』と既得権を主張される方が多くて、移動してもらうのは困難でした」(天野和彦さん)
天野さんの提案が拒絶された背景には、支援を行う自治体と住民を隔てる根深い不信感がありました。災害対策本部には、住民のやり場のない不安からくる要望や苦情がたくさん寄せられていたのです。
ビッグパレットに駆けつけていた支援者の1人、新潟県の稲垣文彦(いながき・ふみひろ)さんが、この問題に共に取り組み始めます。2004年の中越地震で被災者を支援した経験から、住民と支援者の溝を埋めるには『住民の思いを受け止め、安心できる情報を伝えること』が大切だと考えていました。
新潟から支援に入っていた 稲垣文彦さん(当時)
「(避難者は)どこに行ったらよいかわからない中、寒い思いをしてやっと避難所にたどり着いたのです。ですから、そういった今までの感情をしっかり解きほぐした上で、避難所内で移動していただくという対応をしなければならないと思いました。」(稲垣文彦さん)
状態の改善2:環境を整備する
天野さんと稲垣さんは、移動先のホールに、プライバシーが確保され、床に寝ないで済むかさ上げした居住スペースを設置してから、住民との交渉を再開しました。
かさ上げ、間仕切りカーテンをつけた居住スペースを準備
「1人ずつ呼び掛けて、『こういう場所があるんですけど』とご覧いただいて。で、『ここだったらいいかね』ということで。引っ越しのお手伝いも含めて我々段取りをして。」(天野和彦さん)
トイレの近くにいた住民の移動が完了すると、周辺の住民たちも天野さんたちの提案を徐々に受け入れるようになり、避難所全体でいわゆる三密状態が改善されていったのです。結果、一時は240人まで増えていた感染者は急速に減り、ついにゼロになりました。
新たな感染症の予防
ノロウイルスによる避難所の危機は回避されました。しかし、いつ他の感染症が襲ってくるかわかりません。次の課題は予防です。
住民名簿と地図を作成する
天野さんたちは、住民が移動する時に、どこに誰がいるのかが分かる避難所内の名簿と地図を作りました。これがあれば新たな感染症が起きたときに、感染ルートを追うことができます。
誰が暮らしているのか分かるよう表札が付けられた
つながり強化1:喫茶室を開設する
さらに天野さんは、住民それぞれが主体的に予防に関わってもらう必要があると考えました。
「人と人との“つながり”というのが、いかなる場合においても非常に大事。人とつながることによって、例えば注意喚起ですよね。みんなで声を掛け合って、マスクをきちんとしようねとか、消毒もきちんとしようねって。そうしたことが感染症の対策にも大きくつながっていくと考えています。」(天野和彦さん)
しかし当時は、避難生活が長引く中で住民同士の交流はほとんどありませんでした。そこで、稲垣さんは中越地震の支援で成功した取り組みを提案します。それは、避難所内に喫茶室を作ることです。
「お茶飲みみたいなものがすごく大事。人のつながりを作ったり、会話をはずませたり。中越地震の時も避難所でも仮設住宅でもやって、すごくそこが盛り上がった。」(稲垣文彦さん)
早速、新潟から支援に入っていた北村育美さんが行動を起こしました。
新潟から支援に入っていた 北村育美さん(当時)
「私が(喫茶室の)準備をしているところを、避難者の男性が無言で助けてくれて、コーヒーをその人がまずいれてくれたっていうのが最初でしたね。」(北村育美さん)
すぐに住民たちが集まってきて、喫茶室はわずか数日で、開店から片付けまで住民だけで行う運営に変わっていきました。
住民の憩いの場となった喫茶室
「喫茶という場を通して、役割を持って動き始めたというところですかね。ある人はもうポットのお湯がなくなったら、毎回取りに行くとか、ある人は洗い物をするとか、ある人は会話中心にみんなを楽しくさせるとか。」(北村育美さん)
つながり強化2:イベントを企画する
こうした中、ある住民から「草取りがしたい」という相談がありました。それが、住民の発案で住民が参加する初めてのイベント企画に発展します。当日になると……
開始時間の前から多くの住民が集まった
「用意している軍手はたぶん50枚ぐらいだったのですが、300人ぐらいの方が一斉に集まって、その光景を見てみんなで涙しました。終わった後に、汗をふきながらあるお父さんが『今日のお昼ご飯はおいしいぞ』って言っていてですね。」(稲垣文彦さん)
つながり強化3:自治会をつくる
お互いのつながりが確かめられた「草取り」イベントを機に、天野さんは新たな提案をします。それは、住民自らが避難所を改善していくために「区画ごとの自治会をつくる」こと。掃除当番や配膳係を住民同士で決め、自主的に活動することが交流につながり、居住空間を清潔に保ちながら互いの健康を見守ることができる。それが、感染症の予防に役立つと考えたのです。
初の住民集会に集まった人々
そして開かれた始めての住民集会。70人ほどが集まった話し合いでは、避難所の運営に厳しい声が飛びました。
「いらだち、やるせない気持ち、悲しみ、怒り、さまざま感情が入り混じった形で、どうにもぶつけようのない思いがその場で吐き出されたのだなと感じました。」(天野和彦さん)
2時間ほどの集会が終わろうとした時、最初に厳しい意見を出した男性が再び手を挙げました。
「『この避難所に来てから、話を聞いてくれる場が一度もなかった。今日はこうした場を作ってくれて本当にありがとうな』とおっしゃったんです。私はそれを聞いた時に、本当に涙がこぼれそうになった。」(天野和彦さん)
自治活動で発足した「おたがいさまFM」
手探りで始まった自治活動により、当番制で館内を清掃する活動がスタート。さらに、支援者と住民が連携したボランティアセンターや、住民の生の声を伝えるFMラジオ局の運営にまで発展していきました。住民同士が思いをぶつけ合い、つながることができたのです。
ビッグパレットが避難所の役割を終えたのは、避難が始まって169日後の8月31日。その間、再び感染症が発生することはありませんでした。
新型コロナ対策への教訓
あの日から9年。新型コロナウイルスへの対策を迫られる日々が続いています。巨大避難所を感染症から守った人々は、今の状況をどう見ているのでしょうか。
「災害は、今の社会のひずみや課題を顕在化させると言われています。(新型コロナも)ひとつの災害だと捉えると、これまで見て見ぬふりをしていた姿勢などが、ここで浮き彫りになってくるのでしょう。その問題に受け身になるのではなく、やれることに少しでも自主的に取り組んでいくという姿勢が、感染症予防になっていくのだと思います。」(稲垣文彦さん)
天野さんは、現在、福島大学の特任教授として、震災の教訓や災害時の対応を全国の自治体等に伝える活動を続けています。
「感染者やクラスターの報道が出るたびに、不安やモヤモヤとした感情を感染した方にぶつけてしまうことがありがちでしたよね。そうした感情を超えていけるのは、やっぱり私たちなんです。命を守るという一点で、人々が思いを通わせていく“つながり”です。きれい事のように聞こえるかもしれませんが、私は真実だと思っています。」(天野和彦さん)