この記事は、明日をまもるナビ「新潟県中越地震から18年 地震の教訓を今に」(2022年10月23日 NHK総合テレビ放送)の内容をもとに制作しています。
これだけは知っておきたい、中越地震から学ぶ教訓
▼精神的ストレスや疲労が重なる中、中越地震の死者68人中、52人が災害関連死だった。
▼エコノミークラス症候群で亡くなった7人全員が車中泊で避難生活を送っていた。
▼人口減少が進んでいく中で、旧山古志村には「過疎地の災害復興のロールモデル」になる可能性をもつ住民中心の取り組みが進んでいる。
中越地震とはどんな災害だった?
新潟県中越地震が発生したのは2004年10月23日午後5時56分。震源の深さ13キロメートル、マグニチュード6.8の直下型地震でした。
震度7を計測した最初の地震の後も、震度6クラスの強い揺れが発生。およそ1か月に渡り、震度5弱を超える揺れが断続的に起きました。
地震に見舞われた地域は日本でも有数の地すべり地帯といわれていたうえ、地震の前に大量の雨が降っていたことも重なって、土砂災害が多発しました。被害を受けた住宅は10万棟以上、崩壊した斜面は3700か所以上。損壊した道路は6000か所以上に及びました。


兵庫県立大学大学院の澤田雅浩准教授は、地震当時、新潟県長岡市の長岡造形大学に勤務し、地震後の調査や復旧復興の支援を続けてきました。
「この地震でさまざまな課題が浮き彫りになりました。それらは今の防災を考える上でも十分に通用するし、考えておかなくてはいけないことです」

道路寸断がもたらした集落の孤立
現在、中越地震の被災地には「中越メモリアル回廊」という4つの施設と3つの公園を結んだルートが設けられており、地震の被害やその後の復旧・復興がどう進んだかを知ることができます。長岡市内にある「長岡震災アーカイブセンターきおくみらい」では、写真パネルや映像などが展示されています。
きおくみらいの赤塚雅之さんに地震当時の話を聞きました。
「10月23日は土曜日。夕方5時56分は家にいる人が多い時間帯で、ふだんどおりの生活をしていた方々が災害に巻き込まれました」
地震によって山崩れや土砂崩れが非常に多くの場所で発生し、各地で集落をつなぐ道路が寸断、60以上の集落が孤立しました。
その一つが、旧川口町の木沢集落です。
木沢集落は、中越地震で最も大きな震度7を記録した場所で、すぐそばには震源地を保存した震央メモリアルパークも整備されています。
木沢集落で宿泊施設を営む星野靖さんによると、当時、住民たちは度重なる地震におびえ、建物のなかで過ごすことができなかったといいます。
「建物は危ないので、近くの広い道路(交差点)でみんな集まって避難した。持ってこられるだけの布団をかき集めて、食事は持ち寄った」(星野さん)
10月下旬の山は寒く、ブルーシートで風よけを作ったものの、ほとんど眠れなかったといいます。住民は火を起こして、励ましあって過ごしました。
地震から3日目、集落の人々は行動を起こしました。孤立状態を解消しようと、自分たちで重機を使って道路を直し始めたのです。その翌日には車が通れるようになりました。
木沢集落では中越地震を教訓に、防災倉庫に暖房器具や発電機などの防災用品を準備して、いつか来るかもしれない災害に備えています。

災害時に孤立する可能性がある集落は、全国では1万7000か所もあります。(内閣府調べ)
集落はその地理的な特性上、アクセスがなくなれば孤立します。都会であっても、ふだん使っている公共交通機関や道路が使えなくなれば「疑似孤立」することもあります。
教訓その1
「支援には時間がかかることもある。地域や自宅に備蓄を」
「自宅や職場で、身の回りのもので何とかできるような状況を心がけておくということが必要。多少孤立状態になったとしても生き延びられます」(澤田さん)
災害関連死をなくすために
中越地震の避難生活では改めて注目された問題がありました。地震による直接死ではなく、避難した後に何らかの原因で亡くなる「災害関連死」です。
被災した精神的ストレスや疲労が重なる中、中越地震の死者68人中、実に52人が災害関連死でした。
中でも注目されたのが肺塞栓症(はい・そくせんしょう)、いわゆるエコノミークラス症候群です。地元の医師の調査では7人が亡くなっています。その全員が車中泊で避難生活を送っていました。
狭い空間に長時間座り続けると、足の静脈にできた血栓が血流にのって、肺の動脈をふさぎ、呼吸困難や突然死を引き起こします。
中越地震で患者の診察に当たった新潟大学の榛沢和彦医師は、
「車中泊をしていると3割の方に血栓が見つかり、これは大変だと思った」と当時の状況を語っています。
避難所ではトイレに行く回数を減らそうと、水分摂取を控えてしまい、血液の濃度が上昇したことも、原因の一つとされています。
東日本大震災や熊本地震でも、避難所不足やプライバシーの確保などの理由で、車中泊を選ぶ人がいました。
榛沢医師は次のような安全対策をとるよう提案しています。
①水や食料を用意しておき車の中に持ち込む
②定期的に運動する
血液の循環を促し、血栓を予防します。
③弾性ストッキングを持ち込む
足のむくみを改善し、エコノミークラス症候群にも効果があるといわれています。
中越地震の3年後、2007年7月16日に起きた最大震度6強の新潟県中越沖地震では、この時の教訓が生きました。
医療関係者や保健師が避難所に赴いて、車中泊をしている人たちに水を飲ませたり、体操をさせたり、トイレに行くよう勧めたりしました。その結果、この地震ではエコノミークラス症候群で亡くなった方はいなかったと言われています。
教訓その2
「避難時の車中泊 エコノミークラス症候群に注意」
コロナ禍もあって、車中泊する人は増えています。自動車メーカーは、座席がフラットになる車を作ったり、緊急時の車中泊セットを販売したりしています。

●エコノミー症候群を予防するストレッチ
下半身のむくみを取って、エコノミークラス症候群を引き起こす血栓を予防するためのストレッチをご紹介します。
ポイント
呼吸を止めずに各16秒間行う ※痛みがある時は無理をしないでください
ももの裏側のストレッチ
まずひざを曲げずに、上体をゆっくりと前に倒してください。足全体のうしろが伸びます。
そけい(鼠径)部のストレッチ
両足を開いてしゃがみ、ひじでひざを左右に開きます。内ももを伸ばします。
その場足踏み
ひじを軽く曲げて、ひざをできるだけ高く上げます。
【参考】
エコノミークラス症候群対策!簡単ストレッチ「新しい避難生活 安心して過ごすには?」(2021年6月23日公開)より
●災害の経験から開発された防災用品
中越地震をきっかけに、避難生活の経験や被災者の声をいかして、地元企業が開発した新たな防災用品があります。
段ボール製更衣室
避難所で女性が着替える更衣室や授乳室が足りなかったという声を受けて、地元の製紙会社が作りました。透けて見えない小窓や天窓があって中は明るく、入り口のカーテンも閉めることができ、「使用中」の札もあります。

避難生活用のごはん
当初は食べごたえのある味付けの五目ご飯などを非常食として販売していた会社が、「繰り返し食べているうちに飽きてしまう」という声を受けて、あえて白いご飯を作ったそうです。付属の加熱剤で温めておいしく食べられる工夫がされています。


旧山古志村に見る住民が主役の復興
地震で全村避難を経験した旧山古志村を訪ねました。
「やまこし復興交流館おらたる」。ここでは旧山古志村の地震被害や、復興への道のりを見ることができます。
自然豊かな山古志には、地震前およそ2200人が暮らしていました。しかしその風景は、中越地震によって一変しました。

至るところで山が崩れて道路が塞がれ、集落ごとに孤立してしまいました。
「当時、情報を得る手段はラジオでしたが、すっと聞いていても山古志で何が起きているか情報が入ってこない」(おらたるの坂爪景子さん)
このままでは長い冬は越せないと判断。山古志村は全村避難を決断しました。
仮設住宅での暮らしは長い人で3年2か月にもなりました。
しかしその間も、人々は「帰ろう山古志へ」を合言葉に、村の復興について話しあってきました。
山古志の歴史や文化、暮らしを再生し、自分たちで担える、地に足の着いた復興を目指すことにしたのです。
旧山古志村の木籠集落は、地震で川がせき止められ24軒のうち14軒の家が水没しました。
木籠(こごも)メモリアルパークでは、水没した家を遺構として保存展示しています。

復興にあたり山古志が大切にしたのは、村の外の人とのつながり。遺構のそばにある郷見庵(さとみあん)では、住民手作りの野菜やお土産が売られていて、観光客との交流の場になっています。
野菜を売る人たちも「無我夢中でした。みんなで協力しあって、おかげでこんなに人が来るようになって…」と喜んでいます。
山古志の伝統文化でもあった牛の角突きも復活。観光の大きな柱となっています。
さらに新しい試みも生まれました。村の外の人々を呼び込むきっかけの一つとして、山古志村の元職員の青木勝さんがアルパカ牧場を13年前に開園しました。
「景観も歴史も全部含めて都会の人たちに開放することによって、新しい人材がどれだけの人数かわからないが、“可能性”が作れる。それが地方再生だと私は認識しています」(青木さん)

●地域にあった復興とは?
澤田さんは、旧山古志村の復旧復興について次のように分析しています。
1995年に起きた阪神淡路大震災は、被害を受けた神戸を復旧復興させるために日本全体に「がんばろう神戸」が受け入れられた地震でした。
一方、その9年後に起きた中越地震は、過疎が進んでいる地域を元通りに戻す意味があるのかという問題が投げかけられました。
旧山古志村のエリアには、かつてはおよそ2200人が暮らしていましたが、今ではおよそ800人です。
「離れてみて、自分たちの暮らしの良さ、かけがえのないものに気づいた人たちが戻り、自分たちでできることをやってみようじゃないかと、更なるチャレンジをして、とても面白い魅力が生まれてきた。これが山古志の今の状況だと思います」(澤田さん)
教訓その3
「主役は住民 その土地に合った復興を」
「災害で大きな被害を受けると、どうしても受け身のまま、被災者のままでいることが多いのですが、山古志の人たちは大好きな所に戻ったのだから、自分たちでまた豊かな暮らしを一から作っていこうじゃないかと色々な取り組みを続けてきました」
「過疎地における復興とか、これから人口減少が進んでいく社会で、地域づくりにどう取り組んでいったらいいのかというロールモデルになる可能性が旧山古志村にはあるように思います」(澤田さん)
地震の記憶と教訓を次世代へ
被災地では、地震の教訓を次の世代に語り継ぐ取り組みも行われています。
「おぢや震災ミュージアムそなえ館」は、小千谷市の被害をふりかえりながら、地域防災の担い手の育成や、全国の子供たちに日ごろの備えの大切さを伝えています。
地震を体感できる地震シミュレーターを設置。小千谷市で起きた震度6強の揺れを再現しています。立体映像の展示では、地震の揺れだけでなく匂いも体感することができます。
震災後の避難生活を再現した避難ゾーンでは、当時の被災者の苦労を学び、中越地震の記憶と教訓を次の世代に伝えています。
施設長の日岡求さんは、そなえ館の役割をこう説明しています。
「ここで体験したことを家族で話をしてもらうのが大事。というのも20歳以下の子どもたちは中越地震を体験していない。子どもが家族に伝えると、家族も当時のことを話してくれる」
教訓その4
「次世代に伝え続けることが防災」
澤田さんは、18年経った新潟中越地震を振り返る意味を、次のように話しています。
「経験された方が直接語って伝えていくことも大切です。被害とその後の取り組みを、自分がやらなければいけない「備え」に、上手にひもづけていくことが大切なのではないかと思います」
「あれだけの地震があったのに、みんなが元気よく立ち上がって、今に至っていることは、もしかすると自然災害への備えとしてはとてもいい教科書かもしれないと思っています。防災や地域づくりに関心のある方は、ぜひ足を運んでいただきたい」