日本が国の力を総動員して、アメリカやイギリスなどの連合軍と戦ったこの戦争には、
数多くの少年・少女たちが巻き込まれました。
戦場に駆り出され、次々と命を落としていった20歳前の少年兵。
中学生や女子学生は兵器や航空機の工場などに動員され、厳しい労働を強いられました。
また、沖縄で行われた地上戦では、日本軍に協力した少年・少女が数多く亡くなりました。
夏の特集では、当時少年・少女だった人たちの番組や証言を集めました。
当時、若くして戦争にほんろうされ、苛酷な体験をした人たちの声に耳を傾けてみてください。
1. 戦場に駆り出された10代
太平洋戦争の最前線で戦ったのは、日本軍もアメリカなどの連合軍も若者が中心でした。戦争終盤、日本では兵役につかなければならない年齢が18歳まで引き下げられ、多くの10代が戦地に送られました。また、軍人になることを志願した少年も次々と戦地に赴きます。戦場には、10代の少年兵士が大勢いたのです。
ここでは、フィリピン・レイテ島の沖で撃沈された「戦艦武蔵」に乗り組んでいた少年兵や千島列島の占守島(しゅむしゅとう)でソ連軍と戦った少年戦車兵の証言を紹介しています。
また、16歳でアメリカ海兵隊に入り、沖縄戦で戦った米兵の証言も聞くことができます。
兵士となった少年たちは戦場で何を見たのでしょうか。
陸軍少年戦車兵
2. 厳しい労働を担った少年・少女
昭和19年、国の政策で中学生や女学校に通う生徒たちは、兵器などをつくる工場労働や農作業に動員されるようになりました。これは、戦争の状況が日本に不利になり、食糧や物資の不足が深刻になってきたからです。工場などで働く生徒たちは、朝から晩まで厳しい労働を強いられました。
ここでは、暴力によって管理されていた仕事の様子や動員先で起きた悲劇についての番組や証言を集めています。
女子挺身隊員となった女学校生たち
3. 沖縄戦で失われた命
太平洋戦争の終盤、沖縄では地上での激しい戦闘が行なわれ、住民が巻き込まれました。女子学生は「ひめゆり学徒隊」などに参加し、負傷した兵士の看護や食事の準備にあたりました。また、「鉄血勤皇隊」(てっけつきんのうたい)が結成され、14歳から17歳の男子生徒が伝令や弾薬の運搬などを行いました。こうした少年・少女の多くは日本軍とともに撤退し、戦死や集団自決(自殺)に追い込まれました。
ここでは、「ひめゆり学徒隊」「鉄血勤皇隊」として動員された当時の女子学生や中学生が、同級生の死や苛酷な戦争体験を語った証言や番組を紹介しています。
米軍に捕らわれた学徒兵
沖縄師範学校女子部の生徒たち
4. 満州開拓の"理想"を信じた少年たち
昭和13年、「満蒙開拓青少年義勇軍」(まんもうかいたくせいしょうねんぎゆうぐん)が創設されました。これは、国の政策で、満州(現・中国東北部)の開拓と警備を未成年の少年たちに担わせる目的でつくられました。「王道楽土を建設し、五族協和を実現する」というスローガンを信じて、8万6千人の少年たちが満州に送り込まれたのです。
しかし、昭和20年8月9日、ソ連軍が満州に侵攻し、少年たちの運命は暗転します。満州に渡った少年のうち、約2万人が命を落としました。
ここでは、義勇軍に参加した人たちが語る当時の生活や苛酷な逃避行などの番組や証言を紹介しています。
満蒙開拓青少年義勇軍の若者たち
5. 空襲・爆撃にさらされて
昭和19年6月からアメリカ軍の大型爆撃機・B29による空襲が始まりました。最初の標的は、九州の小倉にあった「陸軍造兵廠」(りくぐんぞうへいしょう)。陸軍の兵器や砲弾をつくる工場です。この空襲で、動員されていた若者が数多く犠牲になりました。
さらに、戦争末期になるとアメリカ艦船の砲撃や空母から出撃する航空機の爆撃で多数の市民が亡くなりました。
大分県の保戸島では、空母から飛び立った航空機が国民学校の校舎を攻撃、多くの子どもたちが死傷しました。
ここでは、激しい空襲や爆撃を体験した人たちの番組や証言を集めています。
大分・保戸島国民学校の子どもたち
6. 学童疎開、そして対馬丸の悲劇
空襲が激しくなると、東京からは20万人を超える学童が地方に集団疎開をしました。しかし、昭和20年3月10日、中学校や女学校を受験するため、東京に戻っていた国民学校6年生は東京大空襲に居合わせて、多くの人が焼死しました。
一方、戦場になることが予想された沖縄では、子どもやお年寄りを本土や台湾へ疎開させる動きが始まります。しかし、最初の疎開船「対馬丸」が、アメリカ潜水艦の攻撃を受けて沈没。これによって800人の子どもを含む1400人あまりの命が奪われたのです。
ここでは、精華国民学校の卒業生の集団疎開についての証言や対馬丸に乗船し、漂流の末生き残った人の番組や証言を紹介しています。
疎開に向かう学童たち
対馬丸とともに遭難した姉妹
7. 被爆した"2世"の若者たち
昭和20年8月6日、原子爆弾が投下され、広島市は壊滅的な被害を受けました。死者の数は約14万人に上ったのです。(昭和20年末まで)
実は戦前、広島県からは数多くの移民がアメリカに渡っていました。そして戦争当時、移民の子どもたちが数多く日本に留学していました。こうした移民"2世"の中に被爆した人がいたのです。彼らの中には、帰国後、後遺症に苦しんだり、差別を受けるなど苦難の道を歩んだ人がいます。
ここでは、被爆した移民"2世"の人たちの証言を紹介しています。
広島の女学校に通っていたころの据石和さん
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![]() 在米被爆者 |
![]() 在米被爆者 |
![]() 在米被爆者 |
![]() 在米被爆者 |
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![]() 原子爆弾 広島市の惨害 |