終戦はどのように決まった?

危機を前に政府と軍の会議は延々とつづいた

1945年(昭和20年)、アメリカ軍の空襲によって首都・東京は焦土となり、沖縄では上陸したアメリカ軍との間で激しい地上戦が展開されました。一般市民が戦闘に巻き込まれるようになり、犠牲が急拡大していきます。こうした状況の中でも、政府と軍は終戦を決断できず、8月には広島と長崎に原爆が投下され、ソビエト連邦の参戦という事態になりました。そして、昭和天皇に判断を仰ぐ「聖断」という形で終戦が決まったのです。すでに敗色が濃厚だった中で、なぜ決断に時間がかかったのでしょうか。

本音を言わない会議

政府と軍で、終戦に関する議論を主に行っていたのは、「最高戦争指導会議」のメンバーである総理大臣、外務大臣、陸軍大臣、海軍大臣、作戦を担う陸軍の参謀総長と海軍の軍令部総長の6人です。

陸軍の梅津参謀総長は、終戦の1年以上前に「この戦争をなるべく早く終結する必要がある」と部下に語っていました(外務省『終戦史録 上巻』)。ところが、1945年(昭和20年)6月、沖縄の日本軍が壊滅状態にある中でも、海軍は「空母の二分の一を撃沈せり」(実際に沈没させた空母はゼロ)、陸軍は「敵に決戦を求め得ると存じます」つまり、まだアメリカ軍と対決可能だ、と昭和天皇の前で報告し、日本本土を戦場とする「本土決戦」の準備を進めるとしました(防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 大本営陸軍部10』)。

こうした上層部の姿勢についてある海軍少将は「責任のある人が、自分の腹と違ったことを公式のところで発言」したと戦後に語っています(読売新聞社『昭和史の天皇』取材資料)。莫大な国費を投入し、何よりも国民の命を犠牲にして戦争を推進してきた政府や軍にとって、終戦はこれまでの国策を否定することを意味しました。誰もが「このままではまずい」と思いながらも、時間ばかりが過ぎていきました。

昭和天皇に告げた真相

一方で梅津参謀総長は、昭和天皇に本土決戦を行う戦力が事実上ないことを報告しました。大きなショックを受けた昭和天皇は最高戦争指導会議のメンバーを集め、戦争の終結に「努力せんことを望む」と述べたのです(木戸日記研究会編『木戸幸一日記 下』)。

会議から戻った鈴木首相は「今日は陛下からわれわれが言いたいけれどもいうことをはばかられることを率直にお示しがあって」と部下に語りました(外務省『終戦史録 上巻』)。

東京大空襲で焼け野原となった場所を視察する昭和天皇(1945年3月18日)(日本ニュース第248号)

のちに侵攻されるソビエト連邦に仲介を期待

政府と軍、そして昭和天皇が期待をかけたのが、日ソ中立条約を結んでいたソビエト連邦の仲介による終戦でした。ソビエト連邦は、日本が戦うアメリカ・イギリスと「連合国」を構成しドイツに勝利していましたが、米英とは必ずしも一枚岩ではないと見ていたのです。

しかし実際には、ソビエト連邦は秘密裡に米英と協定を結び、日本との戦争に参加することがすでに決まっていました。日露戦争で失った領土の回復や千島列島を獲得するという約束までしていたのです(1945年2月ヤルタ密約)。

日本からの打診に対して、ソビエト連邦は返事を引き延ばし、その間にも戦況は悪化していきました。

チャーチル首相(イギリス)、ルーズベルト大統領(アメリカ)、スターリン書記長(ソビエト連邦)によるヤルタ会談(1945年2月4日~2月11日)

延々とつづく会議

8月6日、アメリカは広島に原子爆弾を投下、死傷者十数万人という情報が入りました(関連記事「原爆が使用されたのはなぜ?どのような被害があった?」)。そして9日、長崎にも原爆が落とされ、ソビエト軍が日本の影響下にあった満州国に侵攻しました。

東郷外相は、これを機会に終戦を決めるべきという考えを昭和天皇に述べ、同意を得ました。そして、天皇制の維持(国体護持)のみを条件とする「ポツダム宣言」の受諾を主張しました。ポツダム宣言とは、米英と中国が発表した、日本に「無条件降伏」を求める声明です(のちにソビエト連邦も参加)。

しかし、陸相、参謀総長、軍令部総長は、①国体護持に加え、②日本占領は短期間・最小限、③日本の自主的武装解除、④戦争犯罪人の自主的処罰の4条件をつけた上での受諾を主張しました。受け入れられなければ本土決戦をする、というのです。議論は紛糾し、何時間経っても結論が出ませんでした。

昭和天皇による一度目の「聖断」

深夜に、昭和天皇が列席する御前会議が開かれましたが、ここでも議論は平行線でした。8月10日の午前2時ごろ、鈴木首相は「ご聖断を仰ぎたい」と、昭和天皇に発言を求めました。昭和天皇は「外務大臣案に同意する」として、1条件のみでの受諾を求めたのです(佐藤元英・黒沢文貴編『GHQ歴史課陳述録―終戦史資料 上』)。

日本は連合国側に「天皇の国家統治の大権を変更する」要求は含まれていないという了解のもとに、ポツダム宣言を受諾すると伝え、相手の出方を待つことになりました。

昭和天皇による二度目の「聖断」

8月12日に連合国側から答えが返ってきましたが、そこには国体護持を明示する言葉はありませんでした。天皇制についてはアメリカ政府内でも様々な意見があり、方針は定まっていなかったのです。

連合国側の回答をどう解釈するかをめぐって、議論は再び膠着状態となりました。14日、再び御前会議が開かれ、昭和天皇は涙を流しながら「このまま戦を継続しては国土も民族も国体も破滅し、ただ単に玉砕に終わるのみ(中略)どうか反対の者も朕の意見に同意してくれ」と受諾を促しました。戦争を継続すれば、国体の存続はかえって困難になるという考えを示したのです(鈴木多聞『「終戦」の政治史』)。

こうして、ポツダム宣言を受け入れることが決まりました。

混乱・自害・焼却

ポツダム宣言受諾を知った一部の将校たちは徹底抗戦を唱え、皇居の一部などを占拠。首相官邸も襲われましたが、こうした動きは軍の中にも広がらず、鎮圧されました。

強硬な主張をつづけた阿南陸相は、8月15日の朝、昭和天皇に対し「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル」という遺書をのこして自害しました。陸相を辞任して内閣を倒すことも可能でしたが、終戦に同意した上での死でした。

正午、昭和天皇が「終戦の詔書」を読み上げるラジオ放送=「玉音放送」が行われ、国民は突然、戦争の終結を知らされることになりました。

(参考:「玉音放送」の音声を聞く

国民に対し、政府や軍から詳しい戦況や終戦に至る経緯が説明されることはなく、「降伏」や「敗戦」という言葉も使われませんでした。そうした言葉は軍や国民を刺激するため「言葉の伝える印象を、心理的印象を和らげようというところから」終戦という言葉を使用したと外務省の担当者は証言しています(読売新聞社『昭和史の天皇』取材資料)。日本各地の軍の施設や行政機関では、連合国の責任追及を避けようと膨大な公文書が焼却されていきました。

戦艦ミズーリ艦上で降伏文書に調印する重光外相(1945年9月2日)

(参考:終戦を伝える当時のニュースを見る

つづく国民の苦難

降伏文書の調印は9月2日に行われました。ソビエト軍の攻撃は終戦後もつづき、満州や樺太、千島列島では、多くの人々が犠牲となりました。そして海外には陸海の将兵367万人と、民間人321万人が残されていました。

戦争が終わっても、人々は飢えに苦しみながら、家族の帰りを待ち続けました。こうした苦難は、日本が占領し戦場となったアジアの国々でもつづきました。

※原典の旧漢字や旧かな遣いを読みやすくあらためました。

参考資料

  • 『「終戦」の政治史 1943-1945』鈴木多聞 東京大学出版会
  • 『日本陸軍 戦争終結過程の研究』山本智之 芙蓉書房出版
  • 『終戦史』吉見直人 NHK出版
  • 『アジア・太平洋戦争』吉田裕 森茂樹 吉川弘文館

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