2019年11月29日 (金)中尾彬 ふるさと千葉(木更津)を語りつくす! 前編


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 千葉県木更津市出身で「木更津PR大使」をつとめる中尾彬さんが「みちしる」の動画を見ながら、ふるさと千葉(木更津)の魅力を語りつくします。今回は「木更津の自然の恵み」「盤洲干潟」「東京湾アクアライン」について語ります。

<プロフィール>
1942年生まれ。1961年武蔵野美術大学油絵科入学。同年、日活第5期ニューフェイス合格。1963年パリに留学し帰国後、劇団「民芸」に入団。1964年日活映画「月曜日のユカ」でデビュー。1971年には劇団「民芸」を退団しフリーとなる。1983年、フランスの絵画展「ル・サロン」でグランプリを受賞。近年は、バラエティ番組に多数出演し、さらに活躍の場を広げている。

  

■木更津の自然の恵み

<2010年放送 「木更津 アクアわくわく市場 市場で味わう江戸前の味」>
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Q動画に出ていたバカガイは、やっぱりなじみのものですか?

中尾:はい。天ぷら屋で、かき揚げでバカガイの貝柱がないとだめなんです。身の方より柱の方が貴重なんです。江戸では、それをおそばに入れると「あられそば」というんです。それほど貴重なものなんですが、私たちはバカガイが採れすぎて、身の方は誰も食べなかったですね。貝柱ばっかり食べていました(笑)。

Qそんなに採れたんですか? 何歳くらいの時ですか?

中尾:小学校のとき。朝、アサリを掘りに行くわけですよ。当時は漁業権の問題とか関係なくて、誰が採りに行ってもいいわけですよ。掘ると出てくるのがアサリではなくバカガイばっかりなんですよね。「バカに採れるね」なんて言っていました(笑)

Q木更津の海ではほかにどんなものが採れていたんですか?

中尾:ワタリガニ、シャコ。シャコは一番獲れましたね。母に「何かおやつない?」と言うと「あきら、シャコゆだってるよ」って言って、布巾を取るとカゴにゆでてあるんですよ。おやつ代わりに食べていましたね。ワタリガニは甲羅を外して、ミソがありますから、そこにごはんを入れて。甲羅を器にしてごはんを食べていましたね。一番おいしかったのはね、あさりをむいたやつを串に刺して干すんですよ。それを天ぷらにしてもいいし、それをあぶってもいい。これがおいしかったですね。

Q中尾さんにとってのふるさとの味というのは何になりますか?

中尾:味。具体的にはやっぱりの光かな? 

Q日の光?

中尾:日の光を浴びた食べ物。海の物のも山の物も。

Qなるほど。山の物って、ちなみに木更津だったら何ですか。

中尾:落花生とか。あと、うちも畑やっていましたけど、何でも採れましたね。ネギから、トマト、キュウリ。サトウキビまでありましたからね。

Qサトウキビ! 南国のものだと思い込んでいました。

中尾:木更津でも食べてたって言ったらみんなびっくりする。かじっていましたね。木更津は山がないところですから。作物は全て太陽で育ったというふうな感じがしますね。

 

■盤洲(ばんず)干潟が遊び場

<2007年放送 「盤洲干潟 東京湾に残る自然の風景」>
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Q潮干狩りによく行かれたとおっしゃっていましたが、やっぱり盤洲干潟に?

中尾:潮干狩りというゲーム的な感覚じゃないね。日常だから。必ず丸いカゴと、いわゆるマンガといわれる熊手のようなものが、うちに5、6丁ありましたですね。レジャーではなかったです。晩ご飯のおかずを取りに行くみたいな感覚ですね。アサリの味噌汁って、今、外で食べるとアサリが10個くらいしか入っていないような味噌汁だけど、わが家のは、汁は少なくてアサリばっかり入っていた。だから、アサリの味噌煮みたいになっていた。これだけは今でも自慢できますね。
あと、一番覚えているのは野球ですね。潮が引いた干潟の広いところでずっと野球をやっていました。
夕方までずーっとやっていると、「あきら、ご飯だよ!」とお袋が呼びに来たりしてね。木更津の子どもにとっては盤洲干潟は、野球をする良いグラウンドになっていましたね。

Qご実家は海のすぐ近くだったんですね。

中尾:ええ。波の音が聞こえました。

あとは夜になるとイイダコを釣りに行く。日が落ちてから堤防でね。らっきょうを擬似餌にして引っ掛けて釣るんですよ。タコというのは習性で白いものとかに吸い付く。イイダコ釣りは今でも思い出しますね。

Q中尾さんにとって、ふるさとの原風景はやっぱり海?

中尾:海。そして夕日でしょうね。盤洲干潟越しに西に沈む。子どものころは、夕日がでかく見えたんだけど、最近行くと夕日が小さいんですよね。遊びもしたし、生活の糧を得ることもした。盤洲干潟は欠かせない場所でしたね。

 

 

■アクアラインが変えたもの

2014年放送 「東京湾アクアライン 千葉県と神奈川県を結ぶ海の道」>
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Q中尾さんが子どものころの木更津はどんな所だったんですか?

中尾:木更津はどちらかというと江戸の旦那衆の別荘地みたいなところ。だから、芸者がはやったんですよ。私がいた時には、300人くらいいましたからね。華やかでしたよ。木更津の街に降りると、あちこちから三味線の音が聴こえましたよ。映画館も5軒ありました。

Q花街があったんですね?

中尾:私たち高校生の時は、木更津には喫茶店がなかったんですよ。しょうがないから料亭に上がって、部活動やっていましたよ。バレー部の(笑)。

Qすごいですね。そういう意味では江戸のにぎわいもちゃんと移ってきてる。

中尾:どちらかというと、気の荒い、きっぷのいい、なんか口調も怒りっぽい口調だし、そういう街でしたね。木更津から竹芝桟橋、木更津から横浜の高島町、当時そこまで船が出ていたの。それで私は船に乗ってスケッチに高島まで行って、野毛山公園の動物園に絵を描きに行ったこともありますよ。だから同じ千葉県の町よりも、東京とか横浜とかのほうが身近な感じがしていましたね。

■アクアラインが出来て

中尾:早く橋が架かってくれないかなと思っていましたね。50年くらい前から橋を架けようという運動はありましたから。こっちは東京に行きたいじゃないですか。なにしろ対岸に見えるんだから。
 それでようやくアクアラインが出来て良かったなと思ったんだけど、今度は、木更津は単なるゴルフ客の通過点になっちゃったんです。みんな館山とかもっと南のほうに行っちゃうから。みんな困っていましたね。お客が来ると思っていたから。料金も片道4000円と高かったですし。それでも今は800円になって(2009年にETC普通車が800円に値下げされた)、木更津の人たち、横浜の中華街に行って、ごはんを食べて帰ってくるって話をよく聞くようになりましたね。便利になりましたよ。
 今やアクアライン、すごく混んでいますね。羽田に帰ると、東京の家に帰るより木更津の家のほうが近い気がしますね。

<「バカガイ」「盤洲干潟」「東京湾アクアライン」について熱く語ってくれた中尾さん。次回は「飾りようじ」「クモのけんか」について語ります。お楽しみに!>

投稿時間:11時00分


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