発掘ニュース

No.300

2021.11.12

ドキュメンタリー/教養

幻の発掘映像!「海鷹丸 南極記」

1956(昭和31)年、初代の南極観測船「宗谷」が南極に向けて旅立ちました。「宗谷」にとって初めての長旅、不安を感じた政府は『随伴船』として、東京水産大学(現・東京海洋大学)「海鷹丸」を指名、同行させました。しかしその活躍や業績はほとんど知られていません…。この「海鷹丸」の記録映像が、東京海洋大学で見つかり番組発掘プロジェクトに寄せられました!

先日の『ひるまえほっと』(関東甲信越のみの放送)で、この幻の発掘映像をご紹介。いつも「発掘!お宝番組」のコーナーを担当してくれる松尾衣里子リポーターが取材しました。

こちらは、東京海洋大学海鷹丸Ⅳ世。全長93メートル、およそ1886トン、学生が漁業や海洋観測の技術などを学ぶための船です。水産や地球環境など各分野を担う人材を育成してきました。65年前に南極観測船「宗谷」に随伴したのは、この2代前、海鷹丸Ⅱ世です。

第一次南極観測に随伴した海鷹丸Ⅱ世の模型です。Ⅳ世よりひと回り小さい、全長およそ73メートル。「宗谷」への物資の補給や、海洋調査、いざというときの救助などの役割で同行しました。

「海鷹丸Ⅱ世の映像を何とか捜し出してほしい」
長い間、大学内に埋もれていた資料や記録が発見されるきかっけになったのは、当時学生として海鷹丸の船出を見送った春日功さんからの手紙でした。

映像を発見した馬場真紀子さんです。図書館の倉庫からフィルムとテープ、また大学内の艇庫からはコートや手袋などの極寒の地での任務をうかがえる品々も見つかりました。
「再生機がないために中身の確認ができず、置き場所も一定していなかったという状況です。南極航海という国家事業に参加したという歴史的な記録ですので、これからはきちんと保管していきたいです。」

さらに当時の記録も…

記録の中の乗組員名簿に名前がある人を探したところ、当時二等航海士だった柳川三郎さんと連絡を取ることができ、大学では柳川さんを招いて試写会を開くことになりました。

柳川さんは現在93歳、実に65年ぶりに当時の海鷹丸と映像でご対面です!

見つかった映像は21分間の記録映画。海鷹丸が宗谷に随伴した全行程182日間が、カラーで記録されています。この映像と柳川さんのお話しや資料から海鷹丸の活躍をひも解いていきましょう。

ナレーション「78名の乗組員が熊凝船長を中心にスクラムを組んで、南氷洋に宗谷を助け地味なかつ貴重な使命を果たしたのである。」

船長の右にいるのが柳川三郎さん、当時28歳。レーダーや星の位置などから船の位置を把握したり、最新の機器を使ったデータの計測などを担当しました。

こちらは、柳川さんが第一次南極観測のときにつけていた航海日誌です。水深と水温など海洋観測や気象観測などのデータを細かく記録。このデータをもとに船長が宗谷と相談し南極への航路を決める際などに役立てた重要な任務でした。

海鷹丸は、東京を出てから、台湾、シンガポール、南アフリカを経由して南極を目指します。
柳川さんが特に印象に残っているという港の映像もありました。南アフリカのケープタウンです。地元の人たちの大歓迎に驚いたといいます。

柳川さん「あの人たちが歌う四重奏のコーラスが、素晴らしく上手い。手を振り身振りを示しながら歌を歌っている。あれは忘れられないですね。」

ケープタウンを訪れたのは、年の瀬。船の上で餅つきも行って注目を集めていました。

実は、船での食事はかなり充実していて、実習で釣り上げたマグロなども並んだといいます。元日には、正装しておせち料理を!よく見ると、黒豆や鯛などが並んでいます。しかし船はこのとき暴風圏に入っていたため、皆さん揺れに耐えながら、神妙な面持ちでの食事でした。

暴風圏の中、海鷹丸から見た宗谷です。こんなに揺れていたんです。海鷹丸では1回の大波で食器全部が割れてしまうこともあったそうです。

すさまじい波が落ち着いた1月4日。柳川さんは、前方に初めて氷山を発見します。
この日の日誌には、氷山の高さや幅、発見時の時刻、海の様子などを詳細に記録しています。南極大陸は目前です。

1月10日、南極の周囲を固める氷の縁まで到着。海鷹丸は砕氷ができないため、最後の燃料補給のあと、ここにとどまり海の調査をしながら後方支援を続けます。

晴れた日は、毎日のようにヘリコプターを飛ばして氷の位置などを詳細に調査。宗谷が危険を回避できるようサポート。このヘリコプターは海鷹丸の船上で組立てて飛ばしました。

海鷹丸も氷に囲まれながら宗谷のために懸命にサポートを続けた結果、ついに1月29日「宗谷」は南極大陸に上陸することができました。

海鷹丸は、宗谷の隊員が南極大陸で基地を建設している間、周辺の海を調査。網で海底の生き物を捕獲したり、未知の南極海の貴重な資料を手に入れました。

厳しい南極の冬が近づき、氷の密度が増してきたことを確認した海鷹丸は、宗谷に脱出までの猶予がないことを知らせます。

2月15日、宗谷は南極大陸を離れることに。しかし、海鷹丸との合流を目前に宗谷は氷に閉ざされ、動けなくなってしまいます。

海鷹丸がヘリコプターで宗谷の状況を確認したときのことを柳川さんは記録していました。宗谷の周りの氷の様子が詳細に記されています。ダイナマイトで氷を爆破しようとしたことも描かれていました。一時は、宗谷の乗組員をヘリで救出し、海鷹丸に移すという計画もあったといいます。

海鷹丸も氷に阻まれ救助に向かえない中でも、宗谷のそばを離れず、周囲の船に助けを求め続けました。
柳川さん「必死でもって宗谷の近くにおったんですね。ブリザード、これはもう35メートルとか40メートルの風がビューっと吹いてくる。随伴船としての義務ですから、とことん踏ん張ってやろうということですよね。あのときは本当に大変でした。」

脱出のため必死に格闘すること2週間、海鷹丸の誘導で助けにきてくれたのがソ連のオビ号でした。
ナレーション「1万2000トンのどっしりとしたオビ号は、宗谷を閉じ込めているあの固い氷板を操舵も自由にジグザグに進んでいく。」
宗谷を助けたあと、さっそうと去っていくオビ号の姿が印象的だったといいます。
柳川さん「そのままごきげんようってことで、すーっと遠ざかって、見事なもんです。やはり海の友情っていうかね。それをひしひしと僕は感じましたね。」

さまざまな困難を乗り越えた海鷹丸は、昭和32年4月24日、無事任務を終え竹芝桟橋に帰ってきました。

「あのときのことが自分にも血となり肉となっているという自負を持っていますよね。」

柳川さんは、その後も教員として大学に残り、多くの学生たちを育ててきました。教え子の一人、林敏史さんは現在の海鷹丸Ⅳ世の船長です。林さんは、学生時代に恩師の柳川さんから南極の話を聞いて、夢を膨らませたといいます。
林船長「やっぱりすごく励まされ、胸が熱くなりました。こういう人たちが基礎になって自分がいるんだから、頑張っていかなきゃいけないんだなっていう気持ちになりました。」

東京水産大学(現・東京海洋大学)では、その後も何度も南極観測を行っていて、今回そうした映像もあわせて見つかりました。番組発掘プロジェクトに情報をお寄せいただき本当にありがとうございました。

映像の記録は、より説得力のある情報として次の世代に引き継がれていくことと思います。大学では、コロナが落ち着いたら、この映像を現役の学生たちに見せる会を開く予定だということです。

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