発掘ニュース

No.169

2017.10.06

スポーツ

オリンピックを機に始まったスポーツ番組を発掘!

スポーツの秋!ということで今回の発掘番組はこちら…

『現代のスポーツ』直球勝負なタイトルですよね!しかも昔の番組感がにじみ出ています。それもそのはず、1965(昭和40)年から3年間にわたって放送した番組です。つまり今から52年前、スポーツを題材にした番組としてはパイオニアです!

発掘されたのは1967年4月2日放送の「オールは結ぶ」。そう、ボート競技です。慶應義塾大学のボート部に密着して、近づく早慶戦に向けての毎日をカメラが追います。

「伝統の早慶戦は36回を数える。現在、慶応クルーが負け越している。ここ3連敗している慶応クルーは、今年は絶対負けられない。それだけに毎日の練習は厳しかった。」

番組の主人公は、大学に入って初めてボートを漕いだ2年生のナガシマ君(音声のみで台本がないため漢字は分かりません)。
「まだボートの良さとかは全然分からないですね。だけども4年生や上級生が言うには、やっぱりやってるうちにボートの良さが分かってくると…僕としては分かってない。この練習を切り抜けようということだけですね。」

ボート部の練習は相当厳しいようです…。現役の部員のために一緒に練習に参加するOBたちの存在も大きく、1年に1回の早慶戦にかける意気込みはスゴイです。コーチは…

「ボート部は楽しむための部じゃない。みんなが一つの目的のもとに、苦しい練習を通じて、それぞれの持ち場で全体がまとまれば一つの価値ができるという考え方でいきたい。」

“楽しむための部じゃない”と言い切るところがスゴイですが、ナレーションでも…

「年は移り、人はかわる。しかしボートの魅力は変わらない。年にたった1回のレースのために、毎日の練習が続く。その厳しさからボートの魅力を見つけ出す。

ナガシマ君は、まだボートの魅力は分からないと言うが、厳しさは良く知っている。自分では気づかないが、早慶戦というレースの魅力に一歩一歩近づいている。」

コメントの一つ一つに、いろいろな意味で時代を感じますね。この映像は番組に出演していたボート部の方からの提供です、ありがとうございました。

この『現代のスポーツ』という番組について、1966年のNHK年鑑に制作方針などが書かれていました。

「(昭和)40年度は、東京オリンピックを契機に、スポーツに対する理解と関心が深くなり、いままでの見るスポーツから、みずから行うスポーツへの関心が高まってきた。この機会に、『現代のスポーツ』を新設して、現代におけるスポーツの形態を、あらゆる角度からとりあげて、スポーツと人間生活の結びつきや、正しいスポーツの普及、発展のための環境づくりを図った。おもなテーマは、国民のスポーツとして、家庭、職場、農村などで、どのような形でスポーツが行われているかを紹介する明るい番組から、スポーツをやりたくても場所がない、指導者がいない、という現状などをとりあげた。また、競技スポーツとしては、高度の技術、記録をめざして精進する姿をえがいて、スポーツの神髄、美しさを伝えることをはじめ、スポーツ界にあるいろいろの問題点を追求して、そのあり方を考える番組を制作した。」

3年間で放送されたのは計117本。そのなかでアーカイブスに残されているのは、今回発掘されたものを含めて4本です。ほかの3本のタイトルを見てみると…

「ある監督 ―大松博文の場合―」<1965年9月12日放送>
「国民体育大会」<1965年10月17日放送>
「スピードスケートの町 ~北海道豊頃町~」<1968年1月21日放送>

なかでも目を引いたのは「ある監督」です。東京オリンピック、女子バレーボールチームを金メダルに導いた大松(だいまつ)監督の、オリンピックから1年後を描いた番組で、当時のアマチュアスポーツの問題点に踏み込んだ一本でした。

番組は、東京オリンピックから半年がたち、既に監督をやめてバレーボールとは全く関係が無い仕事についている大松さんが、講演会で語るシーンを中心に進みます。

高校からバレーボールをはじめた大松さんは、大学時代に全日本で優勝を2回経験。6年間、中国の南方戦線で生死の境をくぐり抜けてきたのちに、昭和28年から日紡バレーボール部の監督になり、ほとんど無名に近い選手を鍛えて日本の4大タイトルを独占しました。

日本が初めて参加した世界選手権ではコーチとして指導、平均身長180センチという当時のソ連チームに善戦して2位に。大松さんは、さらに打倒ソ連に向けて選手を鍛えなおします。

「ソ連が今、世界中で一番レベルが高い。だからといって、ソ連の真似をしてソ連以上の練習をしてもソ連と同じにはなれない。だからソ連のやらないことをやってこそ、ソ連より上に出ることができる。攻めることも守ることも、ソ連がやらないようなフォーメーションを組み、内容も新しいことを考え出してやらなければならない。」

しかし、当時の日本のアマチュアスポーツ界では…

「日本でアマチュアスポーツを続けるには、学校、実業団以外にはあまりその場がありません。会社が力を入れている実業団スポーツであっても、勤務が終わってからでなくては練習が出来ないのが実情です。いわゆるアマチュアの趣味の範囲でのスポーツなら、それで良いかもしれませんが、その競技の最高水準を目指しまた世界一をということになると、どうしても練習の量と質が問題になります。」

打倒ソビエト。いかにして体が大きく、体力や技術に優れたソ連に勝てるか?来る日も来る日も、夜中の1時ころまで練習は続いたといいます。

バレーボールでは守備こそ最大の武器だという大松監督が考え出したのが“回転レシーブ”。相手のどんな攻撃にも、少ない人数で広い範囲を守ることが出来ます。今までどこの国もやらなかった独創的なレシーブ方法でした。

しかし、日本のすべてのタイトルを独占した選手たちでも、完全にマスターするには6ヶ月かかりました。

昭和37年にモスクワで開かれた世界選手権で大松監督と選手たちの願いは叶います。
番組のナレーションでは…

「大松監督と6人の選手は、仕事、家庭、結婚など多くの犠牲を払って努力してきただけに、この優勝で現役の最後を飾るつもりでした。しかし、2年後の(オリンピック)東京大会が待っていたのです。」

「あの選手たちの年齢から言うと、馬力はあれから上に上がることはなく下がる一方だった。にもかかわらず、ここでやるならば支えなければならない。そして技術をグングンこれより上に上げていかなければいけない。ということを世間の人は誰も知らず、選手も自分の体のことは分からず、世間の人は、あの選手たちがやれば絶対金メダルが取れる、絶対に間違いないんだと、選手たちにやらせようとした。それを知っていたのは私だけだった。だから、今までの練習でも人間の生活じゃないといわれる、あの苦しい練習の2倍、3倍を続けなければ維持することは出来ないんだと思ったときに、一番かわいそうなのはあの選手たちだ。心の中で私は、もうこれ以上やらせてはいけない。もう酷だと、本当に悩んだ。というのがあの(昭和)37年から38年の初めの、私の本当の気持ちだった。」

更に新しい技をマスターするために、これまでにも増した厳しい練習をこなし、皆さんご存知の通り日本女子バレーボールチームは東京オリンピックで見事に金メダルを獲得しました。

オリンピックのあと、きっぱりと監督をやめてしまった大松さん。再就職先が決まった時に、もうバレーボールをやるつもりは無いと記者会見で語りました。

最後のナレーションでは、番組としてのメッセージが…

「オリンピック以後、色々と身の振り方が取りざたされてきただけに、大松さんが安定した職を得たことは喜ばしいことです。しかしアマチュアスポーツの指導者として世界一のチームを育てた人が、生活のためにスポーツをやめなければならないということは実に残念なことです。…私たちの社会は、優れたスポーツマンの持つ可能性を奪ってはならないはずです。」

大松さんがバレーボールから手を引いた本当の理由は番組を見る限り分かりませんが、当時の社会の中での日本のアマチュアスポーツを取り巻く環境がなんとなく伝わってきました。

東京オリンピックを機に始まったスポーツ番組『現代のスポーツ』。117本それぞれのメッセージを見てみたいですね。今後も発掘されますように!

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