発掘ニュース

No.150

2017.04.21

ドラマ

追悼 ペギー葉山さん 1ヶ月前に発掘取材を…

先日この世を去られたペギー葉山さん、亡くなられる1ヶ月ほど前の3月10日に発掘ビデオを提供いただいた際の写真です。お元気な姿で話をしてくださったペギーさん…。今回はその時にうかがったお話と、提供いただいた映像をご紹介いたします。

ペギー葉山さんが提供してくださった番組の一つは、ご本人が3年間司会を担当していた『歌はともだち』です。

この発掘ニュースで田中星児さんから提供された『歌はともだち』をご紹介しましたが、こちらはペギーさんが田中さんにバトンを渡す直前、1977年3月5日の放送です。

ゲストの千昌夫さんと“ふるさと”をテーマにトークをしたり、子供たちや客席の皆さんと歌あそびをしたり…

なかでも圧巻はペギーさんの「マイウェイ」の熱唱です。今から40年前のビデオ映像…その中には胸に響く彼女の歌声がしっかりと残されています。

『歌はともだち』では子供たちに向けて童謡や、外国の曲を日本語に訳した歌を数多く披露していたペギーさんですが、元々はジャズ・シンガー出身です。

「戦後の、焼け野原がまだ残るような時代に青春時代を過ごしていた時に、進駐軍のラジオ放送から流れてくる英語の曲に夢中になって、それがジャズとの出会いでしたのよ。今の新橋にあるホテルにアメリカ軍の将校クラブがあったんです。そこで歌えるチャンスを貰って毎晩出演していました。この間お亡くなりになった かまやつ ひろしさんのお父様(ティーブ・釜萢さん)もバックバンドとして演奏していました。

それまで敵味方だった者がジャズを通じて、音楽の楽しみを分かち合えていた時代でした。あと日曜日になると日比谷公園でジャズ・フェスをやるんです。外国人に交じって日本人も皆ジャズを楽しんでいましたのよ。」

ペギーさんが歌手になりたいと思ったきっかけは?
「外国人向けのラジオ放送を聞いているうちに、私もこんな曲を歌えるような歌手として一人前になりたいと決めました。戦後10年が私にとっての青春でした。アメリカ文化をどんどん吸収出来る時代でしたから…。」

芸名の由来は?
「当時、外国人の先生に英会話を習っていて、その時、先生に『ねぇ私が外国人だったらどんな名前が似合うかしら?』と聞いたら先生が、君は“ペギー”だねっておっしゃったの。でもペギーだけでは格好にならないので、御用邸があった“葉山”に目をつけて“ペギー葉山”っていう事にしたのよ。しかし当時の進駐軍の間では葉山は馴染みが薄くて軍港と米軍キャンプのある横須賀とか鎌倉が知れ渡っていたので“ペギー横須賀”とか“ペギー鎌倉”によく間違われましたのよ。」

ペギーさんの原点とも言えるジャズを特集した番組が、今回ご提供いただいたもう一つのお宝番組です。冒頭の写真で手に持っていたこちら…

『ひるのプレゼント』のビデオテープ、ラベルには“1973年”と書かれていますが1982年放送のものでした。
事務所に預けて保存していたものを、今回NHKにご提供くださいました。(ラベルはペギーさんの事務所の方が貼ったそうです。)

「あの歌このジャズ30年」というテーマで放送した5日間のうちの4日分が録画されていました。

歌手生活30年のペギー葉山さんを中心に、戦後のジャズのスタンダードナンバーを5日間で40曲!「焼け跡ジャズ」ともいえる戦後ラジオから流れてきた曲からはじまり、ダンス音楽や映画ソングなどペギーさんの魅力が詰まった一週間です。

「ひるのプレゼント」の想い出は?
「1週間を通して1つのテーマでショーを構成していましたの。その為にリハーサルが長くて深夜にまで及ぶんです、そこで出された深夜食のおむすびが美味しくて美味しくて、それが楽しみでしたのよ。ペギー葉山の体はNHKに育てられたようなものなんです。」

映像残しておく事の大切さとは?
「1つの流れの中に産まれた文化だと思うので、それを残しておくべきだと思います。歌手も文化によって生まれ進化してきたので、その文化はとても貴重だと思います。」

ペギーさんにとって歌とは?
「生きる力であり、希望です。どんなに今が苦しくても貧しくても、きっといい事があると思わせてくれるものが音楽。そしてその人の心に届くものが歌であると私は思います。今の時代は暗いニュースばかり、だから尚更、こんな時代にこそ人々に希望と力を与える歌がもっと世に出てきて欲しいと思いますね。」

穏やかな口調で語ってくださったペギー葉山さんの訃報は、プロジェクトのメンバー一同信じられませんでした…。ペギーさんの素晴らしい歌声を永遠にアーカイブスに残すべく力を尽くしてまいります。本当に、本当にありがとうございました。

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