発掘ニュース

No.020

2014.08.22

情報番組

69年前の「空襲警報」、その担当アナウンサーが語る

8月9日(土)の早朝4時台『ラジオ深夜便』の人気コーナー「明日へのことば」で、戦時中の放送にたずさわったアナウンサー・山口岩夫さん(96)のインタビューを放送しました。この中で、貴重な発掘音声を放送することができました。

今回の「発掘ニュース」は番組のアンカーを務めた大阪放送局の住田功一アナウンサーが寄稿してくれました。

右側が住田アナウンサー、放送直前の準備風景です。

『ラジオ深夜便』は、ラジオ第1放送で夜11時20分(土日祝は11時10分)から放送が始まり、翌朝午前5時までという長丁場。お年寄りをはじめ、夜なかなか寝付けない皆さん、タクシーやトラックの運転手さんなどなど、幅広い皆さんに根強い人気の番組です。

この日は"関西発"の深夜便。戦時中の「空襲警報」の発掘音声が放送されたのは「明日へのことば」というコーナー。午前4時過ぎに始まりました。

「明日へのことば、戦時下で放送を続けた日々。
太平洋戦争の末期、日本各地の都市はアメリカ軍の空襲にさらされました。
ラジオからは連日のように「空襲警報」や「警戒警報」が伝えられました。
まずお聞きいただくのは、昭和20年2月、神戸が空襲を受けるその直前の大阪放送局の放送です。NHKのアーカイブスに登録されている貴重な当時の放送の録音です。」

という住田アナウンサーの言葉の後、ジリジリジリ…という雑音とともに、69年前ラジオから流れていた「空襲警報」が聞こえてきました。

『中部軍情報、14時40分現在、敵の第一梯団22機は、高野山付近を経て北に進んでおります。中部軍情報…』

今まさに米軍機が迫ってきている…その情報がラジオでこうして放送されていた。
録音状態が悪く聞き取りづらい部分もあるその音声は、逆に耳をそばだてて聞いている当時の人たちを想像させました。
このあと空襲が…現在から考えればその異常な事態を伝える言葉に、背筋が寒くなりました。

その「空襲警報」を自分の声で伝えたという元NHKアナウンサー山口岩夫さんに話を聞いた住田アナウンサー。山口さんは、自分の半生を記した"年表"を手にしながら当時を振り返ってくれたそうです。

ここからは住田アナウンサーの取材手記です。
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山口さんは、戦前の社団法人 日本放送協会に入局した、アナウンサーの大先輩です。大阪府枚方市にお元気で暮らしています。

 1940年(昭和15年)に採用された山口さんは、大阪局赴任後、パラオ局(当時、南太平洋のパラオに放送局がありました)などを経て、1944年(昭和19年)9月から再び大阪局へ。
 都市空襲が頻繁になり、陸軍の司令部詰めの勤務が多くなります。このころ、空襲警報が、各地の軍管区司令部に設置された放送室から送出されていたのです。

<山口さんの"自分史"年表。戦中・戦後の様子がつづられています>

 空襲警報のしくみはこうです。
 全国各地の防空監視哨で、双眼鏡や音により米軍機来襲を察知。連絡電話などで軍管区司令部に情報を集めます。
 近畿地区の場合、大阪城内の中部軍管区司令部で情報を受けます。
壁の大きな地図上に監視哨の捉えた航跡が豆ランプでともっていき、軍の担当官がどの地域が危ないか判断し警報を発令。
そのメモが放送室に待機するアナウンサーに渡され、「中部軍管区情報…」と読み上げる、というしくみでした。

 しかし、実際の空襲警報の音源は、NHKには残っていませんでした。
 東京・竹橋の東部軍管区司令部から放送されていた「東部軍管区情報」の "再現"の録音が残っているのですが、"現物"はなにしろ生放送。
 6月まで放送博物館に学芸員として勤務し、放送資料に詳しい磯﨑咲美さんによると、これらの放送は軍の管理のもので放送局のものではないというのが原則で、「さまざまな記録も、終戦時に廃棄されたはず」というのです。

ところが、去年、アーカイブスに、大阪局が放送した「中部軍管区情報」の音源が登録されていたのです。
 1945年(昭和20年)2月に、当時中学生だった溝口重夫さん(熊本市在住)が、兄・孝さん(故人)と一緒に、兵庫県の住吉村(いまの神戸市東灘区)の自宅で録音した放送史上貴重な音源です。
 神戸市が初めて本格的な空襲を受けた2月4日午後の、紀伊半島から大阪に向かう米軍機の動きや、警戒警報などが残されていて、「敵機は、神戸・明石方面にむかいつつあります」というアナウンスも明瞭です。
 神戸で録音していて怖くなかったですか、と溝口さんに聞くと、「2階の部屋で録音してたんですが、近所の警防団の人に見つからないか(こんな折に何をしているのかと叱られるのではないかと)、そっちのほうが心配でした」と話していました。

 ラジカセもない時代に、どのようにして、ラジオを録音したのか。
 溝口さんによると、アルマイト録音盤のカッティング装置にラジオ受信装置を内蔵した特注品だったそうです。

<アルマイト製の円盤にレコードのように溝を切って音を記録>

 お父様が軍用艦の部品を造る大きな工場を経営していたそうで、今で言うAV機器にも関心があったようです。

 実はこの音源は、1995年(平成7年)に大阪局に提供されましたが、阪神・淡路大震災の混乱で、正式な資料として登録されずにいました。溝口さんの熱心な働きかけで、2013年8月にアーカイブスに正式に登録されました。

 当時放送を担当していた山口さんにこの録音を聞いてもらうと、「けっこう細かく放送していましたね」と航跡をたどる内容に聞き入りながら、「でも実際の米軍機の動きより、いつも遅い情報だった」と、当時を振り返ります。
 1945年(昭和20年)6月29日の岡山空襲では、防空監視哨からの連絡が途絶えてしまい「敵機は瀬戸内海を旋回中」と伝えているうちに、対岸の香川県善通寺側から「岡山がやられている」と連絡が入り空襲に気付いた、という経験を話してくださいました。

 空襲警報、警戒警報は、当時「情報放送」と呼ばれていました。
 刻一刻、私たちの命を脅かすものの動きを伝えるという点では、台風の進路予想など、戦後の災害情報の仕組みの原型ともいえる放送です。

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この日の『ラジオ深夜便』は台風11号が西日本に接近するなかでの放送。「明日へのことば」のコーナーは、台風情報もはさんでの40分あまりでした。

東日本大震災のあと、放送の役割として"命を守る"ための情報を伝えることの重要性が注目されています。「空襲警報」や「警戒警報」はまさに"命を守る"ための放送。確かに住田アナウンサーが言う通り、現在の災害報道の原点なのかもしれません。

そして戦後69年の今年、心に響いたのは、兄2人を戦争で失ったという山口さんの最後の言葉でした。
「戦時中の放送員として精一杯やったつもりですから、戦争を否定する気持ちも無かったし、やり通したと思います。戦争に入ってしまうと、人間はやっぱり正当性を自分で持つようになるんですね。それが怖いと思うんです。…何か色々と戦争の意味とか大義名分っていうのを作るようですけど、戦争で解決するというのは愚かですね…。」

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