美輪明宏

美輪明宏美輪明宏

ラジオからテレビの時代へ

ラジオが唯一の娯楽の時代

 私は1935年生まれで、ちょうどラジオが始まった10年後に生まれたわけですけどね。その頃の日本はものすごく世界から遅れてましたし貧乏でした。ラジオはとても高価でしたから、普通のご家庭では手が出なかったんですね。その頃の一般の人は、ラジオで音楽を聞けるということは、もう最大の楽しみだったんですね。ラジオから流れて来るのは昔の流行歌で、もうとにかく日本語がきれいでした。霧島昇さんや藤山一郎さんもそう。淡谷のり子さんの若い頃なんて本当に惚れ惚れするような美しい声でしたしね。渡辺はま子さんも、みんなお上手でしたね。変に小細工をしないで譜面通りにお歌いになるのに、みなさん個性があって違うんですね。

1950年撮影 長崎の中学時代
1950年撮影 長崎の中学時代

ラジオに初めて出演した時のこと

 長崎の駅前にちょっと小高い丘があって、そこにNHKの建物が立ってましてね。放送局といったってNHKだけしかない時代ですからね。私は将来、絵描きになろうと思ってましたが、小学5年生の時に「僕の父さん」という映画で、ボーイソプラノ歌手の加賀美一郎さんの歌を聞いてから、方向転換して自分もボーイソプラノ歌手になろうと思ったんです。それでピアノと声楽を習って、中学に入った時に音楽の先生がNHK長崎局の放送合唱団のコーラスの指揮をしてらっしゃって、ソプラノの女性達のグループに入らないかと誘ってくださったんです。それでNHK放送合唱団のコーラスで、童謡の「お猿のかごや」などいくつか歌ったんですね、それが最初でした。

1949年撮影 長崎の中学時代
1949年撮影 長崎の中学時代

上京してテレビの実験放送に出演

 上京してから銀座7丁目に「銀巴里ぎんぱり」というライブハウスができまして、そこで専属歌手として歌ってました。銀巴里のお客様には著名な方が多かったんです。江戸川乱歩さん、岡本太郎さんとか、新人だと三島由紀夫さん、遠藤周作さん、吉行淳之介さんとか。その中にNHKの方もいらしてて、ファンになってくださった。それで、今度テレビの実験放送で歌ってくれないかって誘われて行ったんです。まだ内幸町にNHKの建物があった頃ですけど、テレビがどんなものか分からなくて。家にいながら家で映画も見られるような、ラジオが立体化して映像化したのが見られる機械ができたって、嘘でしょってみんな信じなかったんですよ。それが東京で初めてテレビに出演した時だったと思います。

1953年頃撮影 銀巴里の店内で
1953年頃撮影 銀巴里の店内で

ラジオの良さは「想像する力」

 やっぱりラジオの良さっていうのは、想像力ですね。言葉、音だけですからね、映像は自分で作らなきゃいけない。台所はこういう台所、ああいう台所、色々あります。そして住んでる人とか、どういう生活をしてきたのか、色々あるじゃありませんか。それを想像するのがラジオの良さですよね。想像の中で遊ぶには、やっぱりボキャブラリーが必要です。叙情的な情念とか情緒的なもの、例えば日本画でいうと、川合玉堂、横山大観、竹内栖鳳とか、素晴らしい日本画家の絵画みたいな、そういうほどよく格調の高いものがラジオの番組作りに投影されていくともう一度ラジオが華やかになるんじゃないかと思います。

1954年頃撮影 銀巴里にて
1954年頃撮影 銀巴里にて

出演番組の思い出

『夢であいましょう』

 末盛憲彦さんという優秀なディレクター兼プロデューサーがいらしてね、その方から出演のお話をいただきました。黒柳徹子さん、坂本九さん、渥美清さん、坂本スミ子さんら、大スターがそろって、コントや歌唱、踊りなどを披露するバラエティー番組で、何をやらされるか分からないんですが、面白い発想の番組でとても人気があったんですよ。
 番組では毎月1曲、永六輔さん作詞、中村八大さん作曲の「今月のうた」が作られていて、1963年12月は私が歌った「あいつのためのスキャットによる音頭」という曲だったんです。本番でいきなり譜面を渡されて初見で渋々録音をしたのを覚えています(笑)。曲調は日本のお祭りで歌うような感じでありながら、5/4拍子。3/4とか4/4拍子ならふつうに歌えるんですけど、5/4拍子って不自然でね。私も最初はブーブー文句を言っていましたが(笑)、日本の音頭とモダンな音楽がみごとにミックスされていたので、大乗り気で歌わせていただきました。それにしても当時の映像を今見返すと、なんて痩せててトゲトゲしいんだろうと、自分の姿を見て思います。ずいぶんと苦労して生きてたんだな〜という感じがします。

『夢であいましょう』(1963)出演時
『夢であいましょう』(1963)出演時

『NHK人間講座 人生・愛と美の法則』

 番組では8回にわたって私の人生経験や思想についてお話させていただきました。とにかく私は世の中に逆らって反逆の狼煙のろしをあげながらずっと来ましたでしょう。終戦後はパーマをかけているだけで「進駐軍の真似しやがって」と目をつけられましたし、髪を染める染料もなくてビールで髪を何度も洗って赤く染めるしかありませんでした。そんな時代に髪を紫に染め、紫づくめのお洋服を着て、銀座でフランス語の歌を歌いながら「銀巴里」の宣伝をしていたんですよ。そりゃあみんなバケモノ扱いでした。有名にはなれましたが、とにかく覚悟を決めて何でもやっていましたね。
 世の中で、小さいお子さんから老人まで悩みや苦しみ、心配事のない人はひとりもいないんですよね。ですから、そういう私の経験を参考になさって救われる方が何人いるかは分かりませんが、ひとりでもいらっしゃればそれでよし。私の話をすることで、少しでもお役に立てればと思います。

『NHK人間講座 人生・愛と美の法則』(2005)出演時
『NHK人間講座 人生・愛と美の法則』(2005)出演時

『大河ドラマ 義経』

 義経が若い頃に出会う武術の師・鬼一法眼きいちほうげん。吉野山の山奥で天狗様やカラスなどの精霊をうまく使いながら術を施す仙人の役です。宗教観や宇宙観のようなものを持ってる人でないと、この役は務まらないなと思いながらもお引き受けしたんですよ。お芝居でお経を唱えるシーンもあったのですが、幸い私は毎朝お家の仏壇でお経あげていますので、役に立ちました。本当に何が役に立つかわかりませんね。
 鬼一法眼は何百歳かわからないような不思議な存在のキャラクターなんですよ。この時代には人魚の肉を食べて長生きしたといわれる八百比丘尼やおびくにの伝説があったりして、昔の人には夢があったんですね。鬼一法眼は実在していたらしいですが、大河ドラマで描いたのは、さまざまな伝説がミックスされて無限の中をさまよっているような人物像。義経を助けて手本となり、導く役でしたので、やりがいがありました。

『大河ドラマ 義経』(2005)鬼一法眼 役
『大河ドラマ 義経』(2005)鬼一法眼 役

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